第6話 疫病

『―――消灯時間になりました。集合病室の皆様はお休み中の方のご迷惑となりませんよう、各自テーブルのライトはご消灯いただき、テレビをご覧になられる場合はイヤホンをご使用下さい。個室の患者様も音量を絞ってご観賞いただきますようお願いいたします。また、各病棟ナースセンターには痛み止め、睡眠薬等を常備しております。痛みや熱がある方、寝付けない方はご遠慮なくお申し付けください。次回の看護師巡回は明朝六時となります。夜間に緊急のご用件ございましたら、枕元のナースコールにてお呼び出し下さい。それでは消灯いたします。ごゆっくりお休みくださいませ―――』

 自動音声の放送が天井のスピーカーから流れ、一呼吸の後病室の電気が全て消え、間仕切りのカーテンに囲まれたベッドは真っ暗になる。居心地の悪い固いベッドの上で胡坐をかきニュースを見ていた丈の足りない病院衣姿の赤松は、舌打ちながら十四インチのテレビのジャックにイヤホンのプラグを差し込み枕元の小さな電灯を点ける。何がごゆっくりだ、こんな時間に眠れる訳ないだろうが…基本的に昼夜逆転の生活を送っている新聞記者にとって二十一時はまだ宵の口ですらない。睡眠薬に頼る気にもなれず、赤松はぶつぶつと文句を言いつつイヤホンを耳の穴に捻じ込み絞っていた音量を上げる。トップニュースの官房長官の不正疑惑に続き、ちょうどこの病院のが報じられているところだ。スタジオのニュースキャスターが現場を呼び出し、明かりの消えた正面玄関からカメラがパンして緊張した面持ちで原稿を持つレポーターを映し出す。

「はい、こちら、北員大学病院の本棟玄関前です。昨日、本病院の三十周年記念式典の記念講演中に北員大学教授が死亡した事故で、今日も病院はその対応に追われ、この時間になっても警察及び病院関係者が慌ただしく出入りする姿が見られています。死亡したのは北員大学薬学部の白鳳宗利教授で、昨日夕方四時頃、自らの講演中に突然嘔吐し倒れ、居合わせた医師らによってその場で死亡が確認されました。警察によりますと詳しい死因は調査中ですが、感染性の疾患に冒されていた可能性もあるとして、講演を聴講していた大学関係者や学生を含む二百人余りが本病院内に隔離され、検査あるいは治療を受けているもようです。先程、帰宅する病院関係者の方数名にお話を伺いましたが、白鳳教授の死因については目下調査中であると発言を控え、いつまで隔離が続くのかという質問に対しても、分からない、こちらが教えて欲しいくらいだと、いずれも困惑した様子で、現場では依然混乱が続いているものと思われます」

 無事原稿を読み終えたリポーターが肩を下ろして緊張を緩めるのが画面越しにでも分かる。気の抜けたリポーターの映像のままにスタジオから声が飛ぶ。

「タナカさん、隔離されている方の様子はそちらから確認できますでしょうか?」

「はい、対象となっている方々は入院病棟、あるいは式典の開かれた講堂のある別棟で隔離されているものと思われますが、現在は病院敷地内に警察による規制線が張られ、関係者以外は我々報道陣含めて立ち入り禁止となっており中の様子を窺うことはできません。病院側の発表ではこの隔離は念のためのものであり、今のところ重篤な症状を訴えている人はいないとのことで、病院内では比較的自由な行動が許されているものと思われます」

「感染性の疑いから隔離処置が行われているとのことですが、病原菌が漏れ出たり、外部に広まっているような恐れはないのでしょうか?」

「はい、これも病院及び警察からの発表によれば、そのような事実は確認されていない、隔離は初期対応から正しく機能しているため安心して欲しいとのことでした。ただ、白鳳教授は倒れる直前に奇声を発したり、無意味な言動を繰り返すなどの異常行動を取っていたという証言もあり、白鳳教授の不審な死因に関係者や近隣住民からは不安の声も上がっています。いずれにしろ安全が確認されるまで病院側には慎重な対応が求められるものと思われます。…以上、現場の北員大学病院前からでした」

 ありがとうございました、とキャスターが区切りを入れ、画面がスタジオに切り替わり次のニュースへと移る。何が自由な行動だ、煙草一本吸えやしないじゃないか…赤松は引き出しからガムのボトルを取り出し三粒ほど口に放り込む。噛み潰すとミントの香りが鼻を抜け、この瞬間だけは気が紛れるがどうせ五分も保ちはしない。テレビはクリスマス商戦のニュースを流している。ネット通販大手のアマゾンは首都圏を中心にクリスマスカラーのドローンによる配送を始めました、まさにサンタが空からプレゼントを届けてくれる粋なサービスがこの冬子供たちの人気を集めています…どうでもいいニュースに苛つきながら、赤松はもう味のしなくなってきたガムを奥歯ですり潰す。

 一体何なのだ、この弛緩した空気は。病院の連中はこの隔離病棟の巡回にディスポの手術衣だけで対応しているし、聞き込みに来た警察に至ってはマスクくらいしか着けていなかった。さっきのレポーターにしたって目と鼻の先で得体の知れない感染症が蔓延しているかもしれないというのにまるで遠い国の出来事のような扱いだ。白鳳のあの壮絶な死に様を見て聞いて恐ろしくならないのだろうか?自分が目撃したことは、事前に会っていたこと以外は警察に全て事細かに伝えたはずだが、テレビの報道を見る限り昨日の凄惨な場面は影を潜めている。どいつもこいつも危機感がなさすぎる。まさか箝口令でも敷かれているのか?ネットの反応はどうなっている…ズボンのポケットを探ろうとして、携帯を取り上げられていたことを思い出す。病院内では許可を得ない限り使用禁止なのだった。くそっ…!赤松は悪態を吐きもう一粒ガムを追加する。

 しかし白鳳のあの死に様はどうだ。以前にエボラ・ザイールに冒された患者の資料映像を見たことがあるが、あれはそれ以上の衝撃だった。赤松は階下の反対端、講堂内で最も離れた場所にいたが、白鳳が突然液体を吐き散らかし糸が切れた操り人形のように身体が崩れ落ちる様子が暗がりの中でもはっきりと見えた。フィロウイルスのそれと同じようにまさに〈炸裂〉し〈放血〉したのだが、噴き出たのは赤い血ではなく真っ白な体液だった。樹脂シートに包まれ運び出される前の遺体を確認したが、毛髪は抜け落ち眼球は片方は破れ片方は死んだ魚のように濁り顔面は倍ほどに膨らみあちこちが裂けそこからも白い体液が流れ出て固まりもせず、手足は骨がなくなったようにぐにゃぐにゃに歪み白く染まったスーツの中が原型を留めていたのかどうか想像もしたくない。恐らく講演が始まる前から白鳳の体内はあの白濁液で満たされていて、会場最上段で水風船が針で突かれたように弾けたのだ。とても人間の体内から産み出されたものとは思えないおぞましい真っ白な光景に、赤松は一種の神々しささえ覚えた。しかし…それにしても聴衆の大半が医療関係者だったとは言え、腐敗臭に気分が悪くなった者が数名いたくらいで会場内にそれ以上のパニックが起きなかったのは流石と言うべきか、それとも……テレビのニュースはスポーツコーナーに移っている。またイチローがヒットを打ったらしい。赤松は完全に味のしなくなったガムを包みもせずにゴミ箱に吐き出す。

 講堂はすぐさま封鎖され出入り禁止となり、控室を外部との唯一の接触点としてバイオハザード対策が取られた。直前まで熱狂していた聴衆は一転して静まり返り、全員が素直に病院側の指示に従い反発する者もいなかった。もちろん自分も含めて、だ。あの盛り上がりは何だったのだろう。白鳳の狂気にとしか思えない。何故かあの雰囲気の中では白鳳の演説が崇高なものに感じられ赤松も一緒になってやんやと手を打っていたのだが、今となっては奴が何を言っていたのか良く思い出せない。まるで花火大会の後のようだ。まあ思い出せないと言うことはきっと大した話はしていなかったのだろう。それより気になるのは病院の対応の早さだ。時代と規模が違うとはいえ、地下鉄サリンの時でさえ対策本部ができるまでに一時間、サリンだと判明し硫酸アトロピンやPAMによる正しい治療が開始されるまでに二時間を要したというのに、今回は白鳳の遺体が運び出され消毒用エタノールと次亜塩素酸による消毒がなされ参加者の診察と採血と細胞診が開始されるまでに三十分とかからなかった。しかもVIP、報道陣、一般参加者は検査の終わった順に本棟四階の病室に隔離場所を移された。二百人を超える隔離者全員が病室に入るはずはなく、病院関係者や学生を中心とした残りの百五十人は今晩も大講堂の床や椅子で過ごしていることを思えば、せめてベッドの上で寝られているのは有難いことなのだろうが…赤松は最早テレビの画面にも音声にも気を向けておらず、握った拳に顎を乗せ思案に暮れる。

 …やはり変だ。元々いた入院患者を一晩のうちにどこにやったと言うのだろうか?中には絶対安静の患者もいただろうに、今ではこのフロアは隔離患者のみで占められている。手際が良いとかのレベルではない。まるで始めから感染性の疾患、それもウイルスが原因だと分かっていたかのようだ。にもかかわらず迅速な対応とは裏腹に、白鳳の死因については未だ何も公表されていない。既に二十四時間以上経過しているのだ、例え本当に未知のウイルスなのだとしてもそれなりの情報が出ていなければおかしい。となれば何者かの手によって情報が操作されている可能性が高い。それが病院全体がそうしているのか警察や当局による規制なのか、あるいは個人の裁量によるものなのかは分からないが、少なくともこれは事故でも偶発的な発症でもない。これは人為的に引き起こされた有害事象―――つまり、バイオテロだ…胡坐をかく赤松の膝が苛々と揺れている。だがそれはニコチンの禁断症状ではなく、今は不思議と煙草を吸いたいと思わない。代わりにコーヒーが飲みたくなり、昼間に調達しておいた缶コーヒーを冷蔵庫から取り出す。あれほど毛嫌いしていたコーヒーもこれはこれで旨いものだ。赤松は白鳳が入れていた重曹が欲しくなったが流石にそれは手に入らないので、プルタブを開け甘苦い液体をそのまま啜る。

 もう一つ気になることがある。黒羽知世子の行方だ。白鳳の体液を全身に浴び、ショックで気を失った彼女の姿がいつの間にか会場から消えていた。白鳳が異様なまでに執心しわざわざ衆人の前にまで引きずり出したのだ、発表の途中であんなことになり結局DAMDSの真価は分からずじまいだが、彼女がこの事件の鍵を握っていることは間違いない。少なくとも白鳳の最期の様子は最も間近にいた彼女が一番良く知っているのだ…赤松の記者の血がまたぞろ騒ぎ出す。彼女に話を聞く必要がある。このまま病院や警察に任せては白鳳の死因もDAMDSの真相も闇の中だ。暴かなくてはいけない、白鳳が何をしようとしていたのかを、黒羽知世子を捜さなくては…彼女の行方を暗ましたのはもう一人の重要人物、主治医の青柳かと思ったのだが、彼はずっと白鳳の後始末や引率していた黒羽知世子のクラスメイト達の対応にかかりっきりで、赤松が病棟に移るまで会場から出た様子はなかった、そもそも彼自身が隔離対象であり、講堂の封じ込めを率先して主導していたのも彼だ、では一体誰が?…まあいい、どうせ彼女は最優先に隔離されるべき対象だ、このフロアのどこかに匿われているに違いない、捜せばすぐに見つかる、見つけなくては、彼女を護らなくては、それができるのは唯一この事件が生物兵器によるテロだと勘づいている自分以外にいない、そしてそれは白鳳に対する供養にもなるはずだ、俺はそう信じている…赤松は喉を鳴らしてコーヒーを飲み干しスチール缶をゴミ箱に投げ捨て居心地の悪いベッドから立ち上がる。袖も裾も丈の足りない病院衣を着替えたかったが、私服も没収されていることを思い出し諦める。いいさ、この格好のままの方が怪しまれずに済む…

 四人部屋の病室を出ると、廊下は所々非常灯が点いていて案外明るかった。フロアの地図は昼間に散策し頭に入れてある。東西に長く弧を描いて伸びる廊下は膨らんだ口の字のように一周ぐるりと繋がっていて、その外周に沿って病室が並んでいる。北の並びは集合病室、南は個室になっていて、通常ならスウィートルームよろしく追加料金を要求される特別看護室もある。南北を結ぶ通路が梯子状に三本あり、二本はそれぞれ共通のトイレやシャワー室、リネン室や待合室につながっていて、中央の広い通路には各科の受付窓口と診療室、それにナースステーションがある。下の階につながる階段とエレベーターもここだ。現在隔離者は白鳳の発症当時、比較的離れた席にいた者、つまりはVIPや報道関係者が西側に、間近だった一般参加者は曝露された可能性が高いとして東側にまとめられ、東西の隔離者同士が接触しないよう中央通路を境に看護師の見張りが立てられ二次的な区分が設けられていた。赤松の病室は北西の端にあり、黒羽知世子の部屋は当然東側だろう。そして恐らくは個室に違いない…赤松は南東方面に狙いを定めて歩き出す。難関は見張りの看護師とナースステーションだ。巡回に鉢合わせたとしてもトイレだ何だと誤魔化せば良いが、東西を区切る見張りに捕まったら部屋に戻されてしまう。昼間はとても抜ける隙間はなかった。もし消灯後も真面目に見張りが立っていたなら一旦出直すしかない。そうなればナースコールで誘き出すか、さもなければ非常ベルでも押してその隙に…作戦を練りつつゆっくり進んでいると、廊下の先にこちらに向かってくる人影が現れた。巡回か?赤松は通路を右に折れ、トイレの入り口で様子を見ながらやり過ごす。ペタペタとリノリウムの床を鳴らす音。…おかしい。看護師が履いているのは確かゴム底のスリッポンだ。もっとグラスを磨くような甲高い音で、こんな安っぽい音はしないはず…探偵紛いのプロファイリングに気分が高揚してくる。足音が忙しなく近付いてくる、この歩幅、そう言えば人影は子供ほどに小さかった気がする、もしかして…思い切って顔を覗かせると、見覚えのある顔が通路を横切った。やっぱり…!赤松はトイレの陰から躍り出て通り過ぎようとする桃髪の少女の肘を絡め取り通路に引っ張り込んだ。

「ぎぃやっ!な、なに?なによあんた!いきなりなにすんの…!」

 騒ぎ立てる口を押さえ赤松は人差し指を立てて顔を寄せる。静かにしろ。口に出さずとも意思は通じ、怪訝そうな顔ながら大人しくなる。ほほう…賢い子じゃないか。

「確か…チェリーちゃん、だったかな?こんなところで何している?」

 赤松が声を殺して尋ねると、チェリーは口を覆っている手を振り払い、ぶかぶかの病院衣の襟を整える。フリーサイズの病院衣は彼女にとっては大きすぎるようで、ズボンの裾をだらしなく引き摺っている。

「あんた…なんとか新聞のなんとかって記者じゃない。あんたこそ何してんのよ、こんなところで」

 覚えているのかいないのか。ともかく、前に会ったことがあることだけは認識してくれたようだ。

「五光新聞の赤松だ。それより、君らは高レベル隔離区画の方にいるんじゃないのか?特に君は直に白鳳や黒羽知世子と接触していた気がするが…」

「は?何言ってんの?だからこっち側にいるんじゃ…」

 チェリーは首を巡らせ辺りを見渡し、どうやら見覚えのない場所に自分がいることに気付いたらしい。

「……え…っと。もしかして、ここって…西側?」

 赤松が大きく頷くと、チェリーは顔を赤らめ取り繕うように腕を組んで背を向ける。

「わ、分かってたわよ、当り前じゃない、そんなこと!別に迷ったとか、そんなんじゃなくて、ほ、ほら、あれよ、散歩よ、散歩!そう、こんな早い時間に寝られやしないじゃない?だから、暇潰しに散歩してたの!こっちはどうなってるのかなーって…」

「いや、君が迷ったのはいいとして…関所はどうした?見張りは居なかったのか?」

「だから迷ったんじゃ…ん?そう言えば、ここまで誰にも会ってないわね…」

 これは僥倖。しかも格好の囮まで手に入った。上手くすれば余計な策を弄さずに済みそうだ…赤松は目一杯の猫撫で声でまずはこいつから口説くことにした。

「そうかい…実は俺もこんな時間には寝られないタチでね、散歩でもしようかと思っていたところなのさ。ここで会ったのも何かの縁だ…どうだい、一緒に夜の病棟でも巡ってみないか?」

「…ふん。口説く相手間違えてんじゃないの?あんたがデートしたい姫はスウィートルームで手厚く匿われているわよ。もっとも誰も会えやしないけどね」

 …なるほど。このデコイ、なかなかに厄介そうだ。

「理解が早いのは助かるよ…だが会えないとはどういう意味だ?」

「とっくに何度も試したからよ。ビリッと来なくて良かったわ」

 チェリーはポケットからプラスチックケースに入った顔写真付きのカードを出し自慢げに突き出す。赤松はそれを手に取り内心仰天する。青柳のIDカードだ。一体どこで…?片眉をひそめて訝る赤松に、チェリーはケースのストラップを油断なく指に絡める。

「ちょっと借りてるだけよ。大分延滞してるかもしれないけどね。…あげないわよ、言っとくけど。ま、チョコの病室はこれじゃ開かなかったけどね」

「病室は…?他にカードが必要な部屋があるのか?」

「この上の階にある青柳の実験室なら開いたわよ、これで。あ、でもあたしは二度と行かないからね、あんなとこ。…それよりあんた、この病院から出る方法知らない?退屈で死にそうだし、チョコにも会えないんじゃこんなとこいる意味ないわ。クリスマスをこんな辛気臭い格好で過ごすのなんてまっぴらごめんよ。あんただってそうでしょ?ノッポもメガネも乗り気じゃないし、この青瓢箪はアテになんないし…どう?今度はあたしが口説く番。協力してよ。あたしが知ってるあの子の情報は教えてあげるからさ」

 IDカードを互いに引き合いながら赤松は思考を巡らせる。こいつの持っている情報など大したことはあるまい。病院を脱走するのは賛成だがまだ尚早だ。せっかくこの事件の核心近くにいるのに何の情報も得ずに逃げ出すのは記者としての沽券に関わる。それにやはり彼女を放ってはおけない。とは言えこいつの言う通り彼女本人に接触するには今のセキュリティでは無理そうだ。それならば…

「…よし、こうしよう。明日のこの時間、もう一度ここで落ち合おう。それまでに君はこの病院から脱出する手段を、俺は知世子さんの病室に侵入する手段を探す。彼女をここに置いておくのは得策じゃないからな。双方が揃えばそのまま決行し、どちらか一方でも欠けていたらまた一日延期だ。クリスマスまではあと三日ある、何とかなるだろう。脱出方法は俺たちが連れて来られた講堂との連絡経路を当たればいい。彼女の部屋の鍵は恐らく看護師が専用のカードを持っているはずだ。それを失敬するか、上手い事こいつとすり替えるかして…」

 赤松が奪おうとするのをチェリーは指に絡めたストラップで頑なに固辞し、青柳のIDカードが綱引きのように二人の間で揺れている。

「ちょっと…!渡さないって言ったでしょ!大体チョコの病室はあっち側にあるんだからあたしが持ってた方が効率が良いじゃない!担当が逆よ、逆!」

「いいや、どうせこれでは開かないんだろう?ならどっちでも同じじゃないか。それに俺は君が行きたくないと言う上の階の、その青柳先生の実験室ってのにも行ってみたいんだ。何なら今から一緒に行くか?」

「なっ…やめてよ!絶対行かないわよ、あたしは!うう、思い出すだけでおぞましい…!」

「おっと、いいのかい?そんな大声を出していると…」

 赤松の耳にはキュッキュと床を磨く甲高い足音が聞こえていた。チェリーも感付くがストラップは意固地に離そうとしない。

「君は本当に賢しいな。だが…詰めが甘い」

 赤松はにやりと笑い、ストラップとカードケースを繋ぐ脱着パーツの爪を押し外す。その拍子に力を籠めて引っ張っていたチェリーは主を失ったストラップもろともよろけて仰け反った。

「あっ…!ちょっ…!」

「オガミさん、またあなたですか!まったく…あなたはあっちの部屋なんですから勝手に出歩かないでください!」

 どうやら常習犯だったらしいチェリーは、駆け寄ってきたガタイの良い巡回の看護師に首根っこを掴まれ抵抗空しく引き摺られていった。

「赤松さんも、もう消灯時間ですから部屋に戻ってお休みください。くれぐれも東側には行かないようにお願いしますね」

「ああ、そうさせてもらうよ…じゃあおやすみ。期待しているよ、チェリーちゃん…」

 二人の姿が廊下の向こうに消えていくのを確認し、赤松は手にあるIDカードをしみじみと眺める。囮としては相当に優秀だったな、あの小娘…赤松は踵を返し、部屋とは反対側の廊下に出て東へと向かう。上に向かう階段は南東角の一箇所しかないのだ。安っぽい足音が立たないよう慎重に歩を進め、中央通路に差し掛かる。ナースステーションから明かりが漏れているが見張りの姿はない。赤松は出来る限り速やかに、静かに、気配を消してその三叉路を横切る。動きはない。そのまま歩みを緩めず一気に東側の区域を通り抜け、もう一本の南北通路に一旦身を潜める。ここまで来ればあと少し。唇を尖らせ息を吐く。不思議だ。いつもならここで煙草の一本でも欲しくなるだろうに、今は全くそんな気がしてこない。アドレナリンが全身隈なく行き渡り口の中にまで溢れているような気分だ。…悪くない。これを機会に禁煙でもしてみるか…あまり悠長にしているとさっきの巡回が来るかも知れない。赤松は三つ四つ呼吸してから再び通路に戻る。右手に並ぶ個室の扉を横目に最後のワンブロックを進み、南東の角、緑色の非常口の標識が灯る扉の前で足を止めた。視線はその左手、東端に面した一際大きな部屋のドアに注がれている。…ここか。ドアノブの下に緑色のLEDが灯ったカード差し込み口がある。この奥に黒羽知世子が居るのか…そう思うと赤松は心臓が高鳴り血管が脈打ち、呼吸が浅く乱れてきた。何だこの昂りは。顔が火照り頭が逆上せ背中に汗まで滲んでくる、脳裏に彼女の容姿が浮かぶ、応接室で縮こまり目を白黒させていた、聴衆の面前で泣き出しそうになっていた、弾けた白鳳に白濁液を浴びせられていたその姿はどれも赤松の脳内で神々しく輝いていた、赤松は手に持つケースからIDカードを抜き取る、艶やかな黒髪もくりくりとした丸い瞳も柔らかそうな頬も赤黒く縮れた瘢痕も杖を握る小さな手もひょこひょこと跳ねる不自由な脚も、彼女を構成する全ての要素が愛おしく、護ってやらねばと使命感のようなものが肚の底から湧きあがってくる、カードを持つ指先が震えている、本当にどうしたと言うのか、これではまるで…そこまで思い至って赤松はかぶりを振り、差し込みそうになっていたIDカードを慌てて引っ込める。まるで恋…だと?馬鹿な、何を考えているんだ俺は…左右を見渡し人気のないことを確認し、ホッと胸を撫で下ろす。ほとんど思春期の中高生のような浮ついた所作に情けなくなる。まさか。事件の核心を目の前にして興奮を抑え切れないでいるだけだ。それに二十年来の友人が目の前であんな死に方をしたのがつい昨日のことなのだ、心乱れない方がおかしい…遠くでドアの開く音がした。囮を病室に押し込めた看護師が出てきたようだ。愚図愚図していられない。赤松は開かないドアを名残惜しそうに指先で触れてから、階段に続く重い鉄扉を押し開けた。待っていろ、この事件の真相を暴き、きっと助けに来てやるからな…

 階上で実験室はすぐに見つかり、小娘の言っていた通りドアは青柳のIDカードであっさりと開いた。暗いな…電灯のスイッチを探ろうとして思い直す。万一誰かが来たら逃げ場がなくなりそうだ。赤松は作業性よりもリスク回避を採り、窓明かりさえない暗闇の中を手探りで進む。入ってすぐの壁際に目を凝らすと、リアルタイムPCRだろうか、サーマルサイクラーや光学検出器といった中型の卓上装置の白い筐体がぼんやりと見える。中にはパイロシーケンサーらしきものもある。実物を見るのは初めてだが、白鳳に関する論文や資料を調べている時に良く目にした機械だ。青柳も遺伝子工学やウイルスの解析を行っていたことは間違いないようだ。これはいよいよだな…手元にせめてスマホの明かりでもないことが悔やまれるが、大概の見当はつく。赤松はまだ暗順応していない瞳を部屋の端から順に巡らせる。…あった。ちょうど部屋の反対側にホログラムのように赤く浮かぶデジタル表示が三つ。そのうちのマイナス80℃の表示に向かって、赤松は暗闇を手で掻き泳ぐように実験室を横断していく。

 もし青柳が白鳳のにウイルスを使ったのならこの実験室にその証拠が残っているかもしれない。日記や実験ノートがあればそれに越したことはないが、そんな都合良く見つかるはずもないし、見つけたとしてもこの暗闇では解読は無理だ。となれば現物を探すのが手っ取り早いのだが…何度か実験台に腰をぶつけながら超低温フリーザーの前に辿り着き、上開きの把手に手を掛ける。ファンの回る機械音がまるで獣の唸り声だ。ウイルス株の結晶を収めておくならまずこの中だろう。もっとも足がつくようなものは既に隠滅している可能性が高い。だが今は状況証拠さえ得られればそれで良い。何せ彼には十分過ぎるほどの動機があるのだからな。これは決して勘なんかじゃない。俺自身が積み上げてきた知識と経験と、白鳳が与えてくれた情報とに裏付けされた、確かな仮説だ…重く貼り付く棺桶のような蓋をゆっくりと持ち上げると、庫内灯が点き隙間から眩いほどに光が漏れる。びっしりと霜が降りた庫内には樹脂製のサンプルラックが隙間なく詰め込まれている。赤松は金属部分に触れないようにその中の一つを取り上げ、ケースに書かれている文字に庫内灯を当てる。

『28TJ13‐24 ERKKO+NF5 20/12/19』

 透明なカバーの中にはサンプルチューブが二列に十二本、整然と並んでいる。日付からすると前日まで実験していたのだろうか。その下に置かれたケースに目を移す。

『28TJ01‐06 BLK 20/12/18』

『28TJ07‐12 ERKKO+NF5 20/12/18』

 赤松は冷気の溜まる庫内に頭を突っ込み積まれたラックを順番に拾い上げていく。17、16、15…なるほど、こいつは分かり易い。これならもしかしたら…十個ほど確認したところで突然フリーザーが甲高い警告音を鳴らし始めた。ピーッ、ピーッと部屋中に響き渡る電子音に赤松は慌てて蓋を閉める。うっかりしていた。超低温だと庫内の温度がすぐに上がってしまう。危ない危ない…再び開けようと把手を握ると、今度は蓋がびくともしない。しまった…!中の空気が急冷され気圧差で貼り付いてしまったか。こうなると数分待たねば開けられない。赤松は舌打つ心を努めて落ち着かせる。焦るな、この程度なら階下にまでは聞こえていないはずだ、それに大体目星はついた、ロットや略号の意味はともかく青柳は毎日欠かさず何かしらのサンプルを作製している、ならばイレギュラーな行動をした日が分かるはずだ、もしそれがあの日なら…逸る気持ちで力を掛けていた把手ががくんと持ち上がり、石棺の蓋のパッキンがペリペリと剥がれていく。急ごう。霜に触れ皮膚が剥ぎ取られそうになるのも構わずラックをまとめて持ち上げる。12/2、1、11/30、29………あった。

『20/11/26』

 十一月二十六日のラック。もしこれがなければ白鳳に呼び出されたあの日、青柳は実験などしていられない状況にあったことの証明になり得たのだが…赤松は唇を噛み曇ったケースを掌で拭う。その途端、噛んだ唇がにやりと持ち上がった。

「ビンゴ…!」

 思わず声が出た。ラックに立てられているサンプルチューブの数は八本。これまでどれも十二本きっちりと埋まっていたのに、このラックだけ不自然に片列の四本が抜き取られている。念のためその下のものも確認するがそんなラックは他にない。ケースにロットが書かれていないのもこれだけだ。仮説が確信に変わる。これだ…!悦に浸りそのラックを目の高さに掲げると、またフリーザーが耳障りな音を鳴らし始めた。赤松はケースを開けチューブを二本抜き取り病院衣のポケットに捻じ込む。急いでラックを元通りに戻しフリーザーの蓋を閉めると警告音は鳴り止み、実験室は再び闇に閉ざされた。

「クッ…クッ…クッ…」

 実験室に気味の悪い音が響く。啼いているのは赤松の喉だ。フリーザーの蓋に腰掛け、拳を口蓋に当て笑いを堪えられないでいる。何とあっけない。これ程簡単に見つけられるとは。几帳面さが仇になったな。あのカマトト、良識人ぶっておきながら素知らぬ顔でとんでもない凶行を働いていたのか…気が済むまで笑い飛ばしようやく啼き止んだ赤松はフリーザーから腰を上げ、暗闇の中元来た道を戻って行く。あとはこのサンプルを国立感染症センターの知り合いに送ればこの事件は解決だ。本来なら密封して冷凍すべきだろうが今は事態が事態だ。それに新種のウイルスかどうかはともかく、こいつには少なくとも感染性はない。黒羽知世子も青柳自身も間近で曝露しているのだ、もしヒト間で感染する可能性があるならそんなヘマはしないだろう。奴自身が隔離に参加しているのは捜査を遅らせるための時間稼ぎか疑惑を向けられないようにするためのポーズか、あるいは潜伏期間の間は念のため様子を見るつもりなのかもしれない。いずれにしろこいつは体内に直接注入されないと効果を発揮しないような代物なのだろう…ガッ。また実験台に腰をぶつけてしまった。庫内灯の光を見続けていたので瞳孔がなかなか開いてくれない。暫し立ち止まって痛みを癒し赤松は再び暗闇を歩き出す。しかし日付からすれば確かに白鳳たちと面談したあの日だ。もしかしてあの時交わしたコーヒーのカップに、本当にいたのでは…?そう考えると背筋が寒くなるがそれはあり得ない。青柳も含めて自分も黒羽知世子もチェリーも…ん?もう一人いたか…まあいい、とにかくあの応接室にいた全員が白鳳の飲んだものと同じコーヒーとミルクと砂糖を口にしている。それに青柳に決定的な動機が発生したのはまさにあの時なのだ。青柳はあの時白鳳が宣言した黒羽知世子の政治利用を許せず剰え彼女を衆人に晒そうとする画策を断罪するためその場は同意したように見せかけあの日のうちにこのサンプルを作り凶行に及んだ…そう考えるのが自然だろう。つまりこのウイルスはあらかじめ用意されていたと言うことか。白鳳も相当な恨みを買っていたようだな…ガンッ、またぶつけた、拍子に実験台の上で何かが落ちる音がした、ええい、くそっ…毒吐き台の上の闇を両手でまさぐる、青柳もここへは自由に来られるのだ、誰かが立ち入った痕跡が見つかりでもしたら病院からの脱出が難しくなる…それにしてもこれだけの人数を巻き込んだのは計算の上だったのか?青柳の立場からすれば知世子が明るみに出る前に事を済ませたかっただろうに、潜伏期間が予想以上に長かったのだろうか?もし講演の日を狙っていたとしたら…そんなことが可能なのか?いや、今の技術なら…まさぐっていた手に何かが当たった、軽い、網目状に小さな隙間が空いている、プラスチック製のざるのようなものだ、もしくは水槽か何かの蓋か…その時、赤松の手首にチクッと痛みが走った、なんだ?擦ってみるが特に何ともない、気のせいか…気を取り直してプラスチックの蓋の主を探す、まあ青柳の目的や手段の追及は二の次だ、まずはこの証拠を動かぬものにすることだ、そのためにはここから早急に脱出しなくては、囮の小娘はきっと上手くやってくれるだろう、見ていろ白鳳、お前の無念は俺が晴らしてやる、待っていてくれ知世子さん、貴女は俺が必ず…今度は反対の手の甲に痛みが走る、と同時に耳元でプンッと虫の羽音がした、蚊か?こんな時期に…赤松が刺された手を振ると指先が実験台の上の何かに当たり弾みでカタンと揺れ動く、それが何かを考える間もなくそこからジャッと熱した油に水を垂らしたような音が湧いたかと思うと身の毛のよだつ羽虫の音が頭の周りを取り巻く、なんだ…反射的に振り回した両手にまた痛み、今度は何か所もだ、なんだこいつら…!正体不明の攻撃に赤松は闇雲に自分の手首に掌を叩きつける、ぐじゃり、潰れた感触、手首を鼻先まで持ってくる、良く見えない、ヤブ蚊…?いや、ハエか…?小さすぎて分からない、ハチ…?まさか、こんな小さなハチがいるのか…?右足首に刺痛、丈の短い病院衣からはみ出ている部分が狙われている、首筋、こいつらっ…!立て続けに刺され赤松は簡単に取り乱し両腕を出鱈目に振り回し叩き潰そうとする、ぐちゃり、頬、手首、ぐちゃり、頭皮、手首、足首、顎、ぐちゃり、首筋、頭、顔、顔、顔に無数の蟲が群がっている、きりがない、ようやく順応してきた瞳孔が霞んでいる、霞んでいるのは目じゃない、赤松の顔を、頭部を、全身を羽蟲が覆い尽くしている、襟首から、背中に悪寒、袖、脇、腿、服の隙間から侵入し始めた、何十、いや何百と肌の上を這いずる感触に耐えられない、赤松は病院衣を引き千切るように剥ぎ取る、剥ぎ取り床に転がる、それでも攻撃が止むことはない、剥き出た肌に群がり集り蟲たちは容赦なく刺し続ける、意識が薄れていく、プン、プン、プン、プン、羽音しか聞こえなくなっていた赤松の耳が次に聴いたのは、自らの咆哮だった。

「う、うおああああっ…!」

 実験室に響き渡ったその叫びも階下までは届かない。蠢く闇は叫ぶために開かれたその口腔までをも侵蝕し、赤松は蹂躙された。


 キュッキュッキュッ…またこの音だ。角から覗き込んでいた首を引っ込め、通路の奥のトイレの陰に身を潜める。もう何度目か。最初は面白がっていたがこう頻繁だと息を殺すのにも飽き、便座の上で胡坐をかいて凝った肩をぐるぐる回す。案の定、近付いてきた足音はせっせと通り過ぎ、同じテンポで遠ざかっていく。足音が聞こえなくなったのを確認し、トイレから出て再び通路から首を伸ばして長い廊下の左右を振り返る。そのピンクの髪は入院患者用に使い回されるナプキンで覆われ、端を鼻の下で結んでいる。漫画で読んだ日本のスパイ・スタイルだ。

「……遅い…!」

 チェリーは口の中で呟き、腕を組んで通路の壁に背をもたれる。もう九時はとっくに回っている。このあたしがちゃんと時間通りに来てやってるってのにあの胡散臭い三文記者、遅刻するとはいい度胸してんじゃない…組んだ腕を指でトントン叩きながら奥歯を噛み、放っておいて一人で行ってしまいたくなる衝動をどうにか抑え込む。

 約束通り脱出経路は調べてきた。講堂に忘れ物をしたと嘘を吐いていつもの看護師に案内させたら何のことはない、一階の裏口は誰のIDカードでも開くし、別棟とを繋ぐ渡り廊下のドアや窓には内側からの簡単な鍵しか掛かっていなかった。つまり出ようと思えばいつでも出られた訳だ。問題はそこまでの道順をちっとも覚えていないことだが、それは赤松が何とかしてくれるだろう。それよりもチョコだ。赤松の言う通り、チョコをこのままにしておくのは得策じゃない。推し進めていた白鳳がいなくなりアメリカ行きは反故になるだろうが、この病院に任せておいたらあの子がどんな扱いを受けるか分かったもんじゃない。青柳とは病棟に移ってから会えていないし、そもそもあの青瓢箪は頼りにならん。となればこんなところからは一緒に連れ出してしまうのが一番だ。まったく、手間の掛かる。だが他でもない母様の頼みなのだ、こんなところで捨ておけるものか…チェリーは両手を上げ大きく伸びをし、無機質な天井の遥か向こうに思いを馳せる。もうすぐクリスマス。オスロはもうすっかり雪化粧の頃だろう。

 チェリーの母はこの国のこの町で生まれ、高校を卒業するまでここで暮らしていた。…らしい。と言うのはそんな話はこっちに来る直前に初めて聞かされたからだ。寧ろそれを聞いてしまったからこそ、こんな辺鄙な国の辺鄙な町まで来る羽目になったのだが。それまでチェリーは母の出身が日本であることも自分に日本人の血が流れていることも知らなかったし、『チェリー』が本名だと思い込んでいた。良く考えればひどい親だ。それもこれもネイビーのヴァイスアドミラルだか何だか知らないが、年中家に寄り付かず母様も自分もほったらかしにして方々で遊び歩いているクソ親父の所為なのだが今はそんなことはどうでも良い。アングロサクソンとモンゴロイドのハーフである母様が排他的閉鎖社会のお手本のようなこの糞田舎で生きるには相当の苦労があったようだ。チェリーが憧れる綺麗な金髪も碧い瞳も、アジアの脳足りんの餓鬼どもにとっては好奇の的でしかなく、詳しくは話されなかったが時に心無く揶揄われたりしたこともあったらしい。要はイジメだ。自分が来てみてそんな事情が良く理解できた。塩ラーメンも爽やかノッポも天パメガネも周りで傍観している連中も、本人たちには悪気も自覚もないのがタチが悪い。自分は覚悟と使命を持って来たのだからまだ良いが、可哀そうな母様は寂しく孤独だったことだろう、世間に独り反抗し品行は乱れ非行に走り、それはそれは荒んだ青春を送っていたと自分で言っていた。そんな母様を空虚で堕落した日常からまともな人生へと連れ戻してくれたのがショウコ・クロハ…つまりはチョコの母親だったそうだ。頑固で気短な母様をどう説き伏せたのか、それも仔細までは語ってくれなかったが、チョコのおせっかいで嘘のつけない性格がどこから来ているかは合点がいく気がする。そんなショウコとも親交途絶えて幾星霜、嘗て唯一人心を許した親友とその娘の危機を母様が風の噂で聞きつけたのが半年前のことだった。母様は長きに亘る自らの不明を恥じ、どうにか力になろうと手を尽くしたが如何せんそこは遥か北欧の地、できることはあまりに少ない、電話は取り次がれず他に手段もなく、叶うものならこの身で飛んで行ってやりたいが自分にもこの地で築き上げた生活と仕事がある、それを放棄して日本に行くことはそれこそショウコに対する裏切りになる…思い悩んだ母様の前に、買い立てのスマホを弄る可愛い一人娘の姿があった。そこで母様は閃いたらしい。そうだ。こいつに行かせりゃいいじゃん。

 …良く考えなくてもひどい親だ。まあ自分としては畏怖…じゃなかった、敬愛する母様の頼みなら断る理由などなく、ハイスクールには一人も…じゃなくて、別れを惜しむような友人はいないし、母様と離れて暮らすのはせいせい…じゃない、見聞を広める良い修練の機会だと信じて喜んで来させていただいた。…と言うことにしておこう。母様曰く「こんなこともあろうかと」叩き込まれたマルチな語学も遺憾なく発揮できるというものだ。なんと慈愛に溢れる差配であるか。そのおかげで世話の焼けるチョコと出会えたし、ムカつくクラスメイトとも知り合えたし、おまけにこんな面倒臭い事件に巻き込まれ人生で最もつまらないクリスマスを迎えようとしている訳だ。…オスロに帰ってやろうかしら。万事楽観主義のチェリーも若干ナーバスになっている。何はともあれこんなグロッグもキャラメルアーモンドもクッキーもないような所、チョコを連れてとっとと出て行ってやる…とは言え流石に看護師のIDカードを掠め取る隙などなく、下手に出て頼んでみても面会さえ許されなかった。かくなる上は赤松の首尾に期待するしかないのだが…

「……遅い!」

 今度ははっきりと声に出し、通路から突き出した怪しい頬冠りを右左に振る。何してんのよあの木偶の坊、さてはしくじったか?まさかここまできて怖気づいたんじゃないでしょうね…非常灯が頼りなく灯る廊下に赤松が来る気配はない。仕方がない、今日は諦めるか…自分の部屋に戻ろうと通路を振り返った鼻先に、暗がりの中で音も気配もなく佇む人影があった。

「わあっ!…び、びっくりした…。あによあんた、居るんなら言いなさいよ…!」

 思わず出た大きな声に自ら口を手で塞ぐ。暗闇に輪郭を滲ませぼんやりと立つ赤松の姿は完全にゴーストだ。詰られても返事一つピクリともしない。

「ま、まあいいわ…で?どうだったのよ、そっちの首尾は?こっちはちゃんと見つけてきたわよ、脱出ルート。一階の渡り廊下にさえ出ちゃえば後は何とでもなるわ。そこまでだったらあんたでも行けるでしょう?それよりチョコの部屋よ。入れそうなの?あの子がいなきゃ意味ないんだからね。まさかあんた、あんだけ大口叩いといてできませんでしたとか言わないでしょうね?あたしからカードまで盗っておい…て…」

 赤松の影がゆらりと揺れ、早口に捲し立てていた舌が止まる。闇の中に浮かび揺らめく二つの白い、鬼火のような目玉に背筋が凍る。昨日までとはあからさまに雰囲気が違う。こいつ…本当に木偶の坊の三文記者か…?そんな訝しみを見抜いたように影は揺れながら二歩三歩足を引き摺り歩み出て、チェリーに向かって片手を差し出す。

「…ふ…ふ…もちろんだとも…準備は万端…問題はないさ……さあ行こう…君も一緒に…来るか…?」

 その顔は輪郭さえも闇に溶け細部まで見えないが、きっと何の感情も表していないだろうとチェリーは思った。不信がさらに増す。だが、行けると言うのに断る理由もない。

「…ふん。当たり前でしょ…じゃあ、とっとと行くわよ」

 差し出された手に背を向け歩き出そうとした後ろから物も言わずに赤松が追い抜き、通路を東に向かって速足で進んでいく。チェリーの足では小走りでないと追いつけない。病室前の回廊はそれなりに明るいはずなのに、すぐ前を歩く赤松の背は闇との境界がはっきりせず、黒い陽炎みたいにぼやけている。まるで赤松自身から闇そのものが湧き出ているかのようだ。赤松はナースステーションも巡回の看護師もまるで気にせず同じテンポで歩いていく。代わりにチェリーが辺りを気にしながら必死について行かなければならない。なんなのよ、一体…?いつもと違う立場に調子が狂う。そう言えばスリッパの安っぽい音が自分のしか聞こえてこない。前を行く男の足元を見ると、赤松は靴下も履かず素足のままで無機質に冷たい廊下を歩いていた。

 回廊の最奥を左に折れ、チョコの眠る部屋の前で赤松が立ち止まる。切れた息を整えながらドアを見ると、カードキーのライトが赤色に点滅している。今日の昼までは確か緑色のままだったはずだが…赤松が微塵も躊躇うことなくそのドアノブを押し下げると、僅か軋む音と共にドアが開く。どうやったのかは知らないが、準備万端とはその通りだったか。やるじゃない…チェリーたちの四人部屋よりも一回り大きなチョコの個室は他の部屋と同じように電灯が消され通路よりも仄暗く、真ん中に一枚の長大なアコーディオンカーテンが引かれ手前と奥が仕切られている。専用のトイレ、バスルーム、キッチンまであり、クローゼットやラグジュアリーなソファー、メイキャップ用の鏡台も据え付けられている。なるほど、スウィートルームね…余りの待遇の違いに、分かってはいたが腹が立つ。こっちは十把一からげに纏められてるってのに、あの子にゃあもったいないわ…足を止めて呆れるチェリーを余所に、赤松は真っ直ぐ部屋を横切りこれまた躊躇いなくカーテンを開け放つ。仕切りの向こうにはキングサイズの多機能ベッドが一台、その隅っこで分厚くも軽そうなキルトに包まれ一人の少女が眠っている。窓に下ろされたブラインドの隙間から射し込む月明かりが一筋その顔に掛かり、赤黒い瘢痕を晒している。

「チョコ…」

 チェリーはその名を呟き、ベッドサイドで見下ろす赤松の脇に足早に寄る。規則通り律義に眠るチョコの顔は心無しか青褪め、それでも三日前に比べれば幾らか生気は戻っているようだ。さてと…隣を見上げると、無言で立つ赤松の鬼火の目玉がチェリーに向けられている。まあ…そうなるわな。

「チョコ、起きなさい、チョコ…」

 キルトの上からか細い肩を揺さぶると、チョコはすんなりと瞼を開けた。

「……チェリーちゃん…?」

 寝付いたばかりなのだろう、予期せぬ闖入者にチョコは脳の覚醒が追い付かず、半開きの瞼を擦りながらベッドから身を起こす。

「あれ…なにしてるの…?ここ、わたしの部屋…だよね…?あれ…?どうして…」

「寝惚けてんじゃないわよ。ほら行くわよ、さっさと起きて準備して」

「行くって…どこへ?…ぷっ、チェリーちゃん、なにその格好?」

「雰囲気よ、雰囲気!これからあんたの脱出作戦を敢行するんだから。そこの非常用階段から降りて一階の裏口から渡り廊下に出て、後は夜陰に紛れて駐車場まで走ればそれで作戦完遂よ。簡単でしょ?さ、四十秒で支度しな…って、いつまで笑ってんのよ!」

「だって…!その冠り方だとドロボウみたい…あっ…!」

 ようやく目が覚めたのか、チョコはチェリーの隣に立つ影に気付きキルトの下の手足を縮こませる。どうやら夢でも冗談でもないと理解したようだ。チェリーと赤松を交互に見比べ、はだけた病院衣の胸元を両手で絞る。

「え…本当に…?でも…暫くは面会謝絶で、年明けまでは退院できないだろうって看護師さんが…それに警察の人もまだ聞きたいことがあるとかって…」

「バカね、どこまでお人好しなのよあんたは。そんなのに付き合ってたらあんたの人格ごとこの辛気臭い箱の中に一生閉じ込められちゃうわよ。それでもいいの?」

「で、でも…勝手に出て行ったらみんなに迷惑が…」

「またでもでも。たとえあんたがそれで良くっても、あたしはあんたを解放してやれって指令を受けてんの。あんたの都合とか心情なんか知ったこっちゃないわ。大人しく言うこと聞きなさい」

「う……」

 いつもの強引な押しにチョコの琴線が緩む。ちょろいもんね。チェリーは赤松に向けてこっそりと親指を立てる。もう一息。あとは優しい言葉をかけて安心させてやれば…と、ベッドから足を下ろそうとしていたチョコの動きが止まり、再びシーツを胸元に手繰り寄せ潜ってしまう。むむ。今日に限ってしぶといわね。

「チョコ…もうあんたは自由なのよ。苦行を強いる白鳳もいなくなったしアメリカ行きもなくなった。あんた一人で抱え込むなんてこと、もうしなくていいんだから。それでもここが良いってんなら好きにしな。でも、籠の中で見守られながらただ羽搏くだけの自由より、敵も危険も一杯だけどどこまでも飛んでいける自由を、あたしなら選ぶわ…」

 どこかで聞いたような台詞を余韻を含めてキメてみた。いいこと言ってやったぜ…が、それでもチョコは動かず、月明かりを背に前髪の翳を渋る目元に落としている。

「でも…やっぱり今日は…」

「はん?ちょっと、恥かかせんじゃないわよ…!優柔不断なやっちゃね。はっきりしなさい、行くの?行かないの?」

「でも…ヤギ先生…青柳先生に聞かないと…」

 これだ。いかに確執があろうと結局この子はあの男を拠り所にしてしまう。あいつはもう頼りになるどころか味方かどうかも怪しいってのに。こうなると厄介だ。それこそこっちのなんて汲んではくれなくなる。どうしたものか…こめかみに指を当て逡巡するチェリーの脇に、存在を消していた影が腰を下ろす。赤松は俯くチョコの視線のさらに下から三白眼の鬼火を注ぐ。ほう…あんたが説得するっての?お手並み拝見ね。

「知世子さん、覚えていますか?先月、白鳳への取材の折りにご一緒した五光新聞の赤松です。突然の話で驚かれるのも無理はない。それにあんなことがあったのがつい三日前だ、心中お察しします。ですが彼女の言う通り、あなたはこんな所に居るべきじゃない。ここは危険だ、あなたも標的にされている可能性がある」

「標…的?どういうことですか…?」

 赤松の不穏な発言にチョコの顔に脅えが宿る。さっきまでの不気味な雰囲気が慇懃な言葉遣いで覆い隠されている。こいつ…何を言い出すんだ?

「実は…白鳳がああなったのは事故なんかじゃない、誰かに致死性のウイルスを人為的に投与された…つまりは殺されたんです。白鳳と青柳先生が抗がんウイルスの研究をされていたのはご存知ですね?詳しく話している時間はありませんが、青柳先生の実験室からウイルスサンプルが持ち出された証拠を見つけました。恐らくそのサンプルは遺伝子を改変された新型のウイルスであり、何者かがそれを白鳳殺害に使用した…私はそう推察しています。そして白鳳に恨みを抱く人間は幾らでもいる。前任の教授や学会員、都築製薬の役員社員、それに五年前、この病院を中心に行われた治験で犠牲になった被害者の家族とその関係者…上の実験室に出入り出来るとなれば、殺害を実行したのは間違いなくこの病院の人間でしょう。犯人はまだ近くに居て、この機に乗じて事情を知る知世子さんの口を塞ごうとしている可能性は高い…」

「こ、殺され…?そんな…まさか…!」

 チョコの顔色がみるみる三日前と同じ土気色になっていく。チェリーは横目でぎろりと、ただし無言で赤松を睨み付ける。白鳳の死が人為的であろうことくらいチェリーも勘付いていた。警察にしても疑いがあるから聞き取りを引き延ばしているのだ。だが今ここでそれを言うか?チョコはきっと今、自分と同じ懸念を抱いている。すなわちその犯人が青柳ではないかということだ。もちろんチョコは信じないだろうし、増々態度を硬化させるに決まっている。この木偶の坊、どう落とし前つけるつもりよ…?チェリーの冷たい視線の先で、赤松は胸元で固く握られているチョコの手に、自らの手を伸ばして添える。

「…ですが安心してください、知世子さん。これは青柳先生の望みでもあるんです。彼は自身が捜査対象になることを想定してあなたの避難を我々に依頼した…彼が動けば疑いが深まるが、幸い我々との繋がりを知る者はほとんどいない。それに状況から見てこのウイルスに感染性はない…だから安心して、一緒に来てください、私と一緒に…」

 こいつ…とんだゴシップ三文記者だったか。青柳とは話どころかその姿さえ見ていないと言うのに。それは赤松もチョコも同じはず。平然と虚実定まらぬことを言い、それでもそれを聞いて月影に沈んでいたチョコの頬に僅か色味が戻る。実験室で何を見つけたかはともかく、青柳を疑いつつも利用しようって言うのね…いいわ。チェリーはチョコの手から赤松の手を剥ぎ取り、睨み付けていた視線をチョコの揺れる瞳に戻す。その方便、乗ってやろうじゃない。

「…涙ぐましいじゃないの。あの優柔不断の青瓢箪が自分を盾にしてあんたを守ろうとしてんのよ。あんたもその男気に応えてやんないと。大丈夫よ、あいつだって腐ってもウイルスのプロフェッショナルなんでしょ?あたしたちに感付かれるような頓馬な犯人なんかに負けやしないわよ。ちょっとは信じてあげなさい。…さ、行くわよ。愚図愚図してたらまた巡回に怪しまれるわ」

 チョコはおどおど迷いながらも頷き、包まっていたキルトを足元に寄せる。まずはこれで良し。何はともあれここから連れ出すのが先決だ。この子がいなきゃ、あたしがこの町にいる意味なんてないんだから…チェリーは赤松をアコーディオンカーテンの外に蹴り出し、クローゼットからすっかり消毒され糊まで利いたブラウスとスカートとコートと、常備の杖と鍔広の帽子を取ってやる。チェリーはこの寒空に病院衣のままだが仕方ない。脱出したらすぐに帰って着替えよう。チョコは暫くうちで匿うか…閉じたカーテンをくぐると、チョコは窓際に佇みブラインドを少しだけ開けていた。横縞の月明かりに照らされ、彼女のシルエットは妙に艶めかしく、チェリーはごくりと唾を飲む。彼女はチェリーに背を向け、ゆっくりと病院衣を脱いでいく。華奢な肩幅。そこにはらりと落ちる柔らかな髪。見え隠れするうなじ。肌着をたくし上げる。骨ばった背中に、薄い皮膚の下に透けるあばら。瘢痕も浮き出た血管も今は陰に消えている。恥ずかしそうに片腕で胸を隠しながら振り返り、ベッドの上に置かれた着替えを取ると、また窓へと向き直る。チェリーは枯れてきた唇を濡れた舌で湿らせる。ブラジャーを着ける仕草。ブラウスを羽織り、痩せた尻を突き出して粗末なズボンを脱ぐ。皺の寄れた色気のない下着が露わになる。擦り合わせるには隙間が広すぎる太腿。そこから下はベッドに隠れて見えない。するりと上げられるスカートにチェリーは見惚れている。腰のチャックを閉め、ブラウスのボタンを襟首から留め、裾をスカートに捻じ込み、ベルトを掛け、コートを背負う、彼女の挙動一つ一つにチェリーは見惚れている。下腹が疼く。ああ、そうだ。チェリーはくっきりと実感する。母様の命令だけじゃない。木の上で待ち伏せていたあの時から、母様と同じように、あたしはこの子が好きなんだ…

「―――チェリーちゃん…?着替えたよ…?」

 肘を突かれ我に返る。帽子を脇に抱えて腰を屈め、間近で覗き込む不安げな眉に瞳に頭の先まで一瞬で火照り、チェリーは慌てて視線を逸らし声を裏返してはぐらかす。

「えっ!あ、そ、そう!もう、いつまで待たせんのよ、四十秒って言ったでしょ…!ま、まあいいわ、ほら、早く行くわよ…!」

 視線を逸らしたまま投げ出したチェリーの手を、チョコの冷たい手が握る。大丈夫よ、チョコ。青瓢箪も三文記者も兄貴も必要ない。あんたはあたしが守ってあげる。

 ――明かりのない非常階段をチョコは手摺を頼りに一歩一歩、揺らぐ決意を鎮めながら息を殺して降りていく。チェリーはもちろん、隙あらば逃げ出しかねないその手を握ったまま放さないでいる。先頭の赤松はそんな二人に歩調を合わせようともせず、踊り場で立ち止まっては急かすように振り返り、暗がりに鬼火の目玉を二つ浮かばせる。まともに見えたのは説得しているときだけで、病室を出てからは再び口を閉ざし異様な気配を身に纏い、後姿は怪しげに闇を産み出している。こいつ…本当に信用していいのか…?渡り廊下から出たら外来者用駐車場まで一気に駆け抜け赤松の車に乗り込み、頃合いを見て病院職員を装い敷地内から脱出する…そんな手はずになってはいるが、チェリーはもう一つの可能性にあえて目を瞑っている。チョコがいつも登って来る山道は正面玄関に繋がっているため使えない。警察の規制線を迂回するにはそれしか方法がないのだ…踊り場に追いつくと赤松は鬼火を消して闇に姿を溶かし、ひたひたと素足を鳴らしてまた勝手に進んでいく。あいつ、裸足のまま砂利道を走る気かしら?…まあいい。万が一、、うちにさえ辿り着ければなんとかなる。それまではそんな疑念はおくびにも出さないことだ…踊り場を回った先で鬼火がまた揺れている。さらに下方に小さな緑のランプ。やっと着いたか。チェリーは息の上がってきたチョコを支え、最後のステップを音を立てぬよう慎重に急ぐ。

「ここはあのカードで開くはずよ。…ちゃんと持って来てんでしょうね?」

 青柳のIDカードは車で抜け出る際、病院関係者を装うのにも使える重要アイテムだ。獲物を盗られたようで癪に障るが、今は赤松に持たせておくしかない。赤松は病院衣のポケットを探りカードケースを取り出す。同時に何かが落ちた音がした。小さなものだ。ポケットからだろうか?本人は気付いていないようで、カードを差し込みドアを開けている。まあこいつのために探すのも億劫だし、こんな暗がりでは見つかりっこないな…チェリーは気にせずチョコの手を引き、赤松に続いて渡り廊下へと出る。

 古びた窓ガラスに満月が冴えている。道理で明るいはずだ。空調の覚束ない渡り廊下は分かり易く寒く、ぶかぶかの病院衣の隙間から冷気が容赦なく入り込んでくる。ぶるっとひと震えして気合を入れると、握っている手がもぞもぞと動く。横を見るとチョコがコートを脱いでいて、それをチェリーの肩に掛けてくれた。ここから駐車場まで何分もかかるまい。だがチェリーは彼女の厚意を有難く頂戴し、唇だけでありがとうと呟き微笑みかけようとして頬が固まった。微笑み返すチョコの向こう、渡り廊下の反対端に、月明かりを避けて立つ黒い人影があった。見つかった…!赤松は既に窓を開けそこから外に出ている。チェリーは咄嗟に掛けてもらったコートを翻し、きょとんとしているチョコの腰を抱えて窓枠へと持ち上げる。

「きゃっ!チェ、チェリーちゃん?」

 思わず声を上げるチョコに構わず尻を突き飛ばし外に放り出す。その勢いのまま自分も窓枠に飛び上がり足を掛け躍り出る視界の端で影の目元だけがただぎらりと光る。チェリーは植え込みに着地し身を屈め止まることなく一直線に走り出す、走りながら今の光景を網膜で反芻する、あのみすぼらしい風貌、瓶底眼鏡、見間違いようがない、チョコの兄貴だ、安物のスリッパでは走り難い、確実に気付かれた、気付かれたはずなのに、奴は追って来なかった、動きもしなかった、チョコのコートが邪魔だ、見逃された?何故だ?妹のことはどうでも良いのか?それとも感染性がないことを知っている?そう言えばあいつも事情を知る一人で、ウイルスの専門家だったな、砂利道を駆ける、スリッパに石が入ってくる、もう一つの可能性、あの時あの場に居たのも、まさか点ではなく…線?垣根に頭から突っ込む、鋭い枝が腕を頬を切る、分からん、それより今は逃げることだ、そう見えただけで奴が報せないとは限らない、着いた、駐車場、報せる?誰に?何を?くそっ、考えがまとまらない、とにかくこの子を安全な場所に…チェリーは立ち止まり、荒げた息のまま、空の右手に目を落とす。

「あっ……」

 腰を伸ばしてぐるりと辺りを見回す。背の高い街灯が二つ三つ、足元の白線を淋しく照らしている。数台残っている車はどれも死んだように静まり返っている。車だけじゃない。枯れ落ちた木々も白い肌の病棟も看板も電線も、何もかもまるで息をしていない。そう言えば車種を聞いてなかった。コートの裾を、風が吹き抜け翻す。

「だから、意味ないんだってば…!」

 チェリーは一人、星の見えない天を仰いで吠える。ぽっかりと浮かぶ黄色い満月だけが生きていて、蒼い瞳の小娘をただ照らしていた。


 車は出口のランプを降りETCのゲートを折りそうな勢いで潜り抜ける。一般道に入ってもスピードは一向に落ちる気配がない。その後部座席の隅で知世子は震えながら込み上げる胃液に耐えていた。病院で訳が分からないまま押し込まれた車の中にチェリーの姿はなく、彼女一人を乗せたまま赤松は口も利かずに時々唸り声を上げながら運転を続けている。チェリーはどうしたのか、どこへ連れていくのか、何を聞いても答えてくれず、酔いと恐怖で何度も喉を鳴らしては嘔吐くチョコを顧みようともしない。

 またタイヤが跳ね、胃袋がぐうっと縮み上がる。片手で口元を押さえもう一方の手と両足を座席に突っ張り、閉じた瞼に涙を滲ませて懸命に堪える。もう二時間はこうしているだろうか。やっと波が去り、這うようにしてリアウィンドウに額をつけ、涙目を薄く開け流れる景色を追う。深夜にもかかわらず光が溢れている。見たことのない場所。ビル街に挟まれた四車線の道路を猛スピードで飛ばしている。ここ、どこ…?呟いた瞬間、急ブレーキに身体が浮き上がり横ざまに振られ肩を強かに打ちつける。

「あぐうっ…!」

 痛みでまた喉が鳴り口の端から涎が糸を引く。無茶な車線変更に抜き去った車から派手にクラクションを鳴らされている。もう嫌だ…!止めて…!顎先まで伝う汁を拭う余裕もなく、知世子は背を丸め座席の隅に身体を押し付ける。また急制動。ブレーキとステアリングが軋む。今度は左折。慣性に負け反対側のドアまで転がる。青だか赤だか信号もお構いなしだ。フロントガラス越し、居並ぶ高層ビル群の隙間に聳え立つ、一際高く積み木のように入り組んだ形をしたタワー。車はその銀の楼閣に向かい吸い寄せられていく。タイヤが滑る、また転がる、なんで?わたし何かした?どうしてこんな目に?…もう何も考えられない、お願い、もう止めて、何でもしますから、どこへでも行きますから、とにかく一刻も早くこの苦しみから解放されるよう祈る、涙と涎に塗れ両手で頭を抱え丸まって祈る、祈っていると、いつの間にか揺れが治まっていた。

「……う…ううっ…」

 恐る恐る、抱えていた両手の隙間から頭をもたげる。エンジンも止まっている。窓から入る光はか細く薄暗い。と、足の側のドアが開けられた。反射的に膝を抱え込み頭の方へ後ずさる。開いたドアの外には病院衣の赤松が立っていて、何も言わず照明の陰に白目を爛々と光らせている。

「な…なに…?…どこですか、ここ…?」

 赤松は答えず、代わりにのそりと車内に入って来る。知世子はびくりと身を強張らせて息を呑む。赤松は背もたれに手を突き、シートに膝を乗せ、じわりとにじり寄って来る。怖い。その眼に、半開きの口に、緩慢な動作に本能的な恐怖を覚え、脳裏に三日前の光景がフラッシュバックする。スポットライト。真っ白に塗れたスーツ。濡れた手の感触。耳に残る嬌声喚声。恍惚に歪む笑い顔。溶け落ちる肉塊。赤松が手を伸べて来る。背中のドアノブを探るがロックが開かない。戦慄く知世子の唇から叫びにならない声が漏れる。

「い…いやぁっ…!」

 閉じた両目の端からぽろぽろと涙が零れ落ちる。…が、縮込ませた腕にも折り畳んだ足にも、いつまで経っても触れられる気配がない。潤んだ瞼を恐々開けると、赤松は差し伸べた手を宙に浮かせ、所在なさげに指先を曲げたり伸ばしたりしている。何をしたいんだろう…?黒目と白目が落ち着きなく入れ替わり、それに合わせて首もうろうろと揺れている。脂ぎった髪が掻き毟ったように乱れ、眉が情けなく垂れている。あれ…?もしかして…困ってる…?相変わらず何も喋らないが、知世子に危害を加える気がないことは何となく伝わってくる。そっか…この人…。どうしてそう思うのか、知世子自身理解できない。だが知世子は行き場なく彷徨っている赤松の手に指先で触れてみる。その手は一度びくりと小さく跳ね、あたかも隙間に落ちた探し物を探り当てたかのように何度も触れ返してくる。この人…わたしを守ろうとしてくれているんだ…。握られた手を引かれるまま、知世子はシートを這い車から降りる。頼りない照明の下で赤松の頬は奇妙に歪み、知世子にはそれがはにかんでいるように見えた。

 踵の低いパンプスの不調和な踏み音が、高級そうな車が隙間なく並ぶ駄々広い無機質な空間に響く。どうやらホテルか何かの地下駐車場のようだ。赤松に脇を支えられ、知世子は打ちっぱなしのコンクリートの上を当ても知らず歩く。杖も帽子もどこかに落としてきてしまった。赤松は無理にではなく、時折よろける知世子を庇いつつ、しかし確かな力を籠め迷いなく導いている。安心した訳ではない。寧ろ恐怖心はさらに募っていく。だがここで逃げ出す勇気も気力も理由も、今の知世子には一片も湧いてこない。エレベーターホールの前に着いた。赤松は知世子の腕を離し、ホールの入り口に立つ警備員に一人で近付いていく。制帽の下に見える口元が俄かに引き締まる。当然だ。丈の足りない病院衣にしかも素足の、見るからに怪しい格好の男が歩くのもままならない少女を連れているのだ。腰の警棒に手を添え気色ばむ警備員に、赤松は無造作に近寄り二、三言声を掛け、手に持ったカードか何かを見せる。すると警備員は驚いた表情になり、肩のインカムに顎を寄せ何やらやり取りし始めた。知世子はその様子を茫然と眺めながら、杖も突かず自力で立ち続けている自分に不思議な違和感を覚えていた。何だろう、この感覚…やがて通信を終えた警備員は姿勢を正し、赤松に向かって敬礼すると一歩下がりホールへの道を開けた。赤松が手招いている。交渉は済んだようだ。もやもやとした不思議な感覚は続いている。力の入れ方を知らない右足。それが今なら意のままになりそうな気がして、知世子は左足から踏み出す。続いて右足。更にもう一歩…やっぱり変だ。掴まることもなく両足でぶれずに真っ直ぐ歩けている。何かの弾みで急に良くなったのか?と言うより、歩けなかった時の感覚を思い出せない。足なんて最初から悪くなかったのではないか、そんな気さえ起きてくる。喜んで良いものなのだろうか?しかしこの姿を見て、ヤギ先生はきっと褒めてはくれないだろうな…そんなことを思いながら知世子は敬礼を続ける警備員の前を過ぎ、シンプルで近未来的なデザインのエレベーターホールに入る。赤松は既にボタンを押しエレベーターを呼んでいて、何もない空中を虚ろに見上げている。標識はR3。ここは地下三階か。知世子が横に並ぶと、赤松がまた小脇に手を回し支えようとしてくれる。もう必要ない気もしたが、その触れ方にさり気ない優しさを感じ、知世子はされるがまま受け入れることにした。四基並んだ一つのランプが点滅し、エレベーターの到着を知らせる。チャイムが鳴り、扉が開く。と同時に力任せに腕を引かれ基内に連れ込まれる。

「あっ…痛っ…!」

 強引な挙動に顔を歪めるが赤松は見向きもしない。握られている二の腕に痕が付きそうだ。エレベーターは音もなく上昇し、すぐにまたチャイムが鳴る。19階。開いた扉から引きずり出され、正面の別のエレベーターに押し込まれる。突如の豹変に恐怖心がぶり返し右足に覚束なさが蘇る。へたり込みそうになる知世子の脇を荷物のように抱え、赤松はずらりと並んだボタンのうち、一番上の55階を押す。相当なスピードで上昇が始まり、重力、そして浮遊感。基内が暗転し天井から光の粒が降って来る。星の海の中を進むような演出と気圧の変化と、得体の知れない感覚と恐怖にまた気分が悪くなる。

「ううっ…」

 拳の甲を口元に当て堪えていると、ぎこちない手付きで背中を擦られた。見ると赤松は情けなく眉根を垂らしていて、おろおろと心配そうに顔を覗き込んでくる。もう訳が分からない。混乱する知世子の頭を赤松は尚も腫れ物に触るように撫でる。まるで初めて子をあやす父親だ。この人は一体わたしをどうしたいんだろう…?分からないのは自分自身にまとわり続けているもやもやとした生温い感覚もだ。どこに行くのか、何をされるのかも分からないこの状況で、確かに恐ろしくて堪らないはずなのに、心の奥底の、いや実際の身体の中心核の辺りに、これまでに感じたことのない穏やかな親近感のようなものが芽生え始めている。母や悠太に対するものとも、チェリーやシューたちに感じるものとも、青柳に抱いている感情とも違う。このほとんど面識のない正気を失った乱暴な男でさえ自分はただ寛容に受け入れ、ただ赦しを与えようとしているのか…

 光の雨が止み、基内に明かりが戻る。知世子は引かれるまま素直に従い、赤松が開ける扉の奥へと進む。その部屋は病院の個室より遥かに広く、壁際に居並ぶ豪奢な調度、十人は座れようかというソファー、その上を埋める黄金色のクッション、生花の飾られたリビングテーブル、天井からはシャンデリアが下がり、パンプスの靴底がまるきり沈み込む絨毯には薔薇の柄があしらわれている。何より圧巻は一面ガラス張りの向こう、眼下に広がる光の海だ。55階から遠望する壮大な夜景は他に比する喩えを知らぬほどの絶勝で、現実感を失わせる。しかし赤松はそのどれにも見向きもせず、知世子の腕を引き従え大股でリビングを抜け隣の部屋への扉を開ける。寝室だ。キングサイズのベッドが二台、長大な一枚窓から射し込む銀色の月光に照らされ、ぼんやりと白む摩天楼の夜空に繋がっている。赤松は知世子を手前のベッドに突き飛ばし扉に鍵を掛ける。内鍵は知世子が逃げ出さないようにではなく、外からの干渉を断ったのだ。恐怖が慈愛の心を凌駕する、知世子は柔らかなシーツの上でパンプスのまま捲れたスカートを直すこともできず歯を鳴らし震えている、振り向いた赤松の眼から正気の色が消えている、ああ、同じだ、赤松は白目を剥き唸り声を上げている、三日前と同じだ、剥き出した歯の間から唸り声を漏らしながらベッドに近付いてくる、あの惨状をまた目にしなくてはならないのか、二度と見たくないと思っていたのに、だが知世子の眼は閉じてくれない、瞼が麻痺し首の筋肉が硬直して視線を外せない、赤松がベッドに手を掛ける、その部分のシーツがずぶりと沈む、赤松は笑っている、薄っすらと笑っている、この人はもうすぐ弾ける、白鳳教授も同じようにして弾けてしまった、ベッドの上を這い寄る赤松に知世子は何もできない、何もしてやれない、声すら上げられない、震える膝の間に手が置かれがちがちと打ち鳴らす歯に剥き出しの歯と唸り声が寄って来る、知世子は直感する、殺される、この人はもう死んでいて、ウイルスの操る屍にわたしは殺されるんだ、赤松の手が首元を撫でる、撫でる手が襟のボタンに掛かる、もう片方の手が胸に触れる、触れたかと思うとブラウスが左右に引き裂かれボタンが弾け飛ぶ、ひぃっ…!意思のない悲鳴が漏れベッドに倒れ込む、尚も尋常でない力が執拗にブラウスを肌着を剥ぎ取り貧弱な胸が瘢痕と静脈の浮き出た腹が露わになる、露わになった胸に雫が落ちる、剥きだした歯から涎が溢れ滴っている、腰の下着が掴まれる、スカートはいつの間にかなくなっていた、唸っている、最早人のそれではない、獣の声で唸っている、犯される、だが動けない、動けない、されるがままにずり下ろされる下着がぐっしょりと濡れている、濡れた下着が腿に脹脛に貼り付く感触が気持ち悪い、汚い、汚らわしい、自分は何て汚らしい人間なんだ、自分でも触れたことのない性器が糸を引いているのを想像し胃液が逆流する、咽る、咽る口が押えられる、強くなく、弱くなく、この人はまだ、私を護ろうとしているのか、いや、口を押える手が首筋から肩、背中へと回っていく、顎が胸骨の上に乗り、無精髭の頬を撫でつける、護ろうとなんかしていない、甘えているのだ、母親に甘える子供だ、乳房の間で頬擦りする頭を撫でてやる、何故そんなことをしているのか分からない、分からないでその子の頭を抱き締める、お前も怖かったんだね、すると安心したように頬を緩めて身を起こす、何も着ていなかった、浅黒い裸体が月光の中に屹立している、侵される、屹立した下半身を目にしてまた咽る、冒される、もう口を押えてはくれない、代わりに喉元へと伸びてきた両手に知世子は目を閉じる、殺される、閉じてくれなかった瞼を血が滲むほどに瞑る、ころされる―――

「―――ぐぅぅうごああああっ…!」

 次の瞬間、獣の咆哮が寝室に轟いた。耳を劈く唸り声に意識を取り戻し、知世子は赤松の下から抜け出して隣のベッドへ這い逃げる。赤松は両手で顔を掻き毟り呻きを上げて苦しんでいる。頭をシーツに埋めたかと思うと海老反りに仰け反り、白い唾を吐き散らかすとまた背を丸めてうずくまる。爪を立て掻き毟る彼の顔からは白い血が流れている。白鳳と同じだ。だが何かが違う。呻き声は次第に掠れ、藻掻く手足も弱々しく、うつ伏せのまま膝を抱えて丸くなり、そして動かなくなった。…いや、まだ動いている。丸まった赤松の背中の皮膚の下で何かがもぞもぞと動いている。強烈な既視感が脳裏を過ぎる。実験室。ガラスケース。横たわる芋虫。その皮膚を食い破り湧き出る無数の蛆虫たち…今まさにその光景が赤松の身体で再現されようとしている。丸まった背の、頂上辺りの皮膚が不格好に盛り上がる。その塊は一際大きくうねり、黄色の肌が果物の皮を剥くように音もなく白く変わっていく。その隣でもう一つ、剥き出た白い塊がうねっている。その隣でも、またその周りでも、背中だけではない、腕や肩や首や腿や脛や尻や脇腹や頭皮からも蛆虫が次々と現れ赤松の全身を覆っていく。隔離された寝室は何万何千というちっぽけな蛆虫の群れがみちみちぐちゃぐちゃと蠢く音で満たされている。蛆虫たちの姿に霧がかかり暈やけていく。糸を吐き始めたのだ。すっかり赤松の体表を埋め尽くした蛆虫たちは寄り添いながら互いの糸を紡ぎ合い、それはほんの十分、いや五分のことだったか、やがて丸まった赤松の身体は一つの巨大な繭と化した。

 知世子は逃げ出すことも忘れ濁った眼を見開きその一部始終を見続けていた。夢を見ているようだった。本当に夢なのかもしれない。自分が生きているのか死んでいるのかも良く分からない。ただ月光は大きな窓から飽きもせず煌々と降り注いでいて、隣のベッドの上で静かに沈む巨大な繭を銀色に染めている。

 ―――綺麗だな。

 知世子は呟き、銀の繭に向かって手を伸ばす。ここからじゃ届きっこない。そう思ったが、予想外にも届いてしまった。きっと夢だからだ。指先で触れた繭はカイコの時のそれよりも柔らかく儚く、比喩ではなく本当の雲を掴むように何の感触も残らない。知世子は思い切って掌を押し込んでみる。繭の衣は何の抵抗もなく手首まで埋もれ、中にある生温い塊に触れてしまった。触れた途端にその塊がびくんと跳ね、知世子は慌てて手を引っ込める。押し込んだ部分が歪に凹んだ繭は暫くびくびくと悶え、また大人しくなる。

 ―――面白い。

 知世子は好奇に瞳を輝かせ、何度も繭を押し窪ませる。その度に中の生き物は悪戯に励む手を撥ね退けようと身をくねらせる。これはハチの子たちを護ろうとしているんだっけ。何と健気な。さっきまでは縁もゆかりもないわたしを、今は自らを食い荒らした蛆虫たちの蛹を護っている。不思議な命の営み。彼は生きていて、死んでいる。自分と同じだ。この銀色に艶めく柔らかな揺り籠の中で、彼はどんな夢を見ているのだろう。せめてこんな理不尽で切ない夢なんかじゃなく、穏やかで優しい夢でありますように。知世子はそう祈りながら、無数の命と一個の屍を包む清らかな繭をいつまでも撫で続けた。


 ふと気付くと、知世子はベッドの上に横になり天井を見上げていた。酷く体がだるい。頭がのぼせてぼうっとしている。熱でもあるのだろうか。額に手をやろうとして、上手く動かせないことに気付く。頭だけじゃなく身体全体が熱を帯びているようだ。あんな怖い夢を見たのだ、具合が悪くなっても仕方ない。麻痺した腕をシーツからなんとかにじり出すと、指先まで包帯がぐるぐると巻かれていて曲げることもできない。ふうふうと息を乱しながらもう片方の腕を出すと、やっぱりぐるぐる巻きにされている。良く見ればその腕はやけに小さく、子供の手みたいだ。

 ―――あ、そっか。

 知世子は軋む首を左右に振り向ける。吊り下げられたプラスチックバッグ。そこから伸びるチューブは腕の包帯の下に繋がっている。緑色の波線が流れる機械。鉄枠が檻のようなベッド。重々しいボンベ。薄っぺらなカーテンと、その向こうの淋しい風景。煤けた天井。ここは病院だ。入院していた頃に戻っている。これだけ包帯が巻かれていると言うことは海水浴のすぐ後だろうか。となると今は四歳のわたしか。何も覚えていないと思っていたのに、こんなにくっきりとした夢を見るなんて。辛い思い出を深層心理の奥底に追いやっていたのか、それとも繰り返し聞かされた話から記憶を捏造したのか。何にしろここは夢の中で、痛みや息苦しさが曖昧なのは助かる。

「―――ないんですか?あの子は―――」

 遠くで話し声がする。

「まだ―――危険な状態―――無理です―――全身の30パーセントが三度の―――感染症の危険が―――」

 病室に人影はなく、どうやら扉の外で話しているようだ。会話まで脳裏に刻まれていたのだろうか。幼い知世子は声の方に首を向け、耳を澄ましてみる。

「―――そんな、それじゃああの子の火傷の痕は一生治らないってことですか?右足も?お腹の血管も?」

「そればかりは何とも…お嬢さんの遺伝子はまだ分からないことが多すぎるんです。手は尽くしているんですが…」

 お母さんの声だ。相手の医者であろう人たちの声は聴いたことがない。何人かで母を励まして…と言うより、なだめすかしているような感じだ。

「大丈夫ですよ、小野先生はその道の権威ですし、――君も頑張っていますから。それに何より黒羽先生ご自身がついていらっしゃるじゃないですか、奥様もあまりご自分を責めないで下さい…」

 お父さんのことだ。知世子はちょっと嬉しくなったが、母は扉の向こうで啜り泣いている。

「お願いします、どうか、どうか助けてあげてください、やっと…やっと授かった子なんです、あの子は身体が弱くて、ただでさえ辛い思いをさせているのに、その上こんな…ああ、神様、私が注意しなくちゃいけなかったのに、ごめんなさい、私が悪いんです、海を見せてあげたいだなんて、私の我が侭で、ごめんなさい―――」

 泣きながら何度も何度も謝っている。母の泣き声を聞くとどうしようもなく居たたまれない気持ちになる。泣かないで、お母さん、海に行きたいって言ったのはわたしだよ、我が侭を言ったのはわたし、お母さんは何も悪くない、わたし今も元気に生きているから、だから謝らないで、泣かないで、お母さん―――

「―――やはりソルブジンの影響ですか?」

 突然部屋の中に人の気配が現れた。気が付くと場面が転回したみたいに部屋の中が薄暗くなっている。シーツの上の腕は小さいままだが包帯はしておらず、袖から覗く手首には見慣れた瘢痕がついている。酸素や点滴のチューブは取れているが、カーテンも景色も天井も同じ病室だ。相変わらず身体を動かことができないので誰が話しているのかは見られない。でもこの声、どこかで聞いたことのあるような、ないような…

「ああ、都築は頑なに否定しているが、それ以外に考えられん」

 ひそひそ声でもこれは分かる。お父さんの声だ。聞けなくなって久しいが、その低く凛々しい響きは忘れるものではない。知世子はまたちょっと嬉しくなる。

「キナクリン染色領域に組み込まれてY染色体を持つ精子の99パーセントを不活化させるのは確かだが、どうやら残りの1パーセントが悪さをしたらしい。核酸の四分の一はチミジンなんだから異常精子が出て来ても不思議じゃあないが、まさか受精能力を持ったまま催奇形性まで示すなんて…」

「日本では着床前診断も精子のマイクロソートもできませんからね、都築も産み分けの新薬には期待していたんでしょう。…しかし妙です。仮に先輩のY染色体に異常があったとしても、知世子ちゃんの染色体はすべてX、彼女は完全に女の子です。その1パーセントの染色体がキメラにでもなっていたんでしょうか?」

「…分からん。だがいずれにしてもこんな薬剤を上市させる訳にはいかない。小野先生の肝煎りだと言うので信用したんだが…都築には即刻の開発中止を申し入れるよ」

「もっと解せないのはメチル化の方です。僕が調べた限りではイレイザーが昂進している訳でもなく、メチルトランスフェラーゼにしてもデノボもメンテも通常レベルで存在しています。つまりシトシンのメチル基が別の置換基、ヒドロキシメチル基やフォルミル基やカルボキシル基に変換されて見掛け上なくなっているのではなくて、DNAの修飾自体が起きていない可能性が高い。それなのに何故彼女には過剰発現がほとんど起きないんでしょうか?MBDの働きも分かりませんし、転写因子やプロモーターはどうやって配列を識別しているんでしょう?やはりヒストン修飾がカバーしているのか、しかし…」

 何の話をしているんだろう。専門用語ばかりで内容はさっぱりだが、二人とも自分のことを心配してくれているのは分かる。それだけで十分だ。

「……すまない、僕の方はそこまで手が回らなくて…峠は越えたとは言え、抗体も補体量も低値のままだ、まだ油断はできない。今は知世子の治療に専念しないと…」

「ええ、もちろんです。彼女に何かあったら元も子もないですからね。遺伝子解析の方は…僕に任せてください」

「ああ、頼んだよ。…まったく情けないな、僕は。自分の娘のことだと言うのに、みんなに頼ってしまって…」

「何言ってるんですか。先輩や聖子さんだからみんな頑張っているんですよ。少なくとも僕は先輩の役に立てるのが嬉しいんです。それに僕には彼女が性差や種差を越えた特別な、その……あ、いえ、何でもないです。とにかく今は知世子ちゃんの回復を―――」

 ―――この声…誰だっけ?

 知世子は思い出そうと目を瞑っている。小野先生はお父さんの先生だから違うし、同じ小児科の猪俣先生とも違う…この間久し振りに会ったリハビリの小松先生はもっと厳つい声だった気がするし、インターンの鹿谷さんや蝶野さんとはこの頃にはまだ会っていないはず…丸山さんにしては若いし、まさかお兄ちゃん…な訳ないし―――

 ―――瞼の裏が明るい。もう朝かな…?目を開けるとそこはまだ病院で、窓の外では大粒の雪がしんしんと降っていて桟にまで真っ白に積もっている。だから明るく感じたのか。ガラス越しに降りてくる冷気がシーツから出た顔や腕を痛いくらいに刺す。擦り合わそうとして、腕がさっきより長くなっていることに気が付いた。生々しく赤茶けていた瘢痕も元通りに黒ずんでいる。身体はちゃんと動くようになった代わりに、何だか胸が重苦しい。…覚えている、この感じ。そうか。今のわたしは十歳の、ちょうどあの頃なのか。お父さんがこの世を去って、悲しいと言うより、心にぽっかりと空いた穴がもう塞がることはないと知った絶望感―――散々味わったあの苦しみを、夢の中でもまだ感じろと言うのか…知世子は大きく溜め息を吐き、横になっているのが辛くなって身を起こす。と、病室の片隅のパイプ椅子に制服姿の悠太が座っていた。

 ―――お兄ちゃん…?

 悠太は俯いたまま膝の上の本に目を落としていて呼び掛けには反応しない。果たしてちゃんと声を出せたのかどうかも怪しく、こちらの存在自体が認識されていないらしい。脇目も振らず読み耽る悠太の邪魔をしちゃいけないと、知世子はそっと見守ることにした。読んでいる本の表紙には大学名と学部が書かれている。大学受験用の参考書だ。そう言えばここが静かで集中できるからと、しょっちゅうわたしの病室に来てはずっと受験勉強していたな。お見舞いだとは決して言わなかったが、父も母も来られなくなった病室に悠太が束の間でも居てくれるだけで、知世子は十分嬉しかった。

「―――調子はどうだい?」

 ノックと共に白衣の先生が入って来て、知世子にではなく悠太に声をかける。この人も今の自分を認識していないようだ。その目元にはモザイクのように霞がかかり、知世子は誰だか思い出せない。さっきお父さんと会話していた人と同じ声に聞こえるけど…

「あ…――先生…ちょ、調子は、ま、まあまあ…こ、この前のちょ、直前模試では判定はぜ、全部Aで…セ、センターも悪くなかったから、な、なんとか…」

 緊張した時の吃音り癖が出ているが、顔を上げた悠太は頬を緩ませ嬉しそうだ。名前の聞こえなかった医者もその顔を見下ろして微笑んでいる。

「あ…で、あの、こ、この問題…」

 教えてもらおうと悠太が参考書を差し出す。医者は微笑んだまま受け取り、開いたページの問題をちらりと読んで手首を返す。それは何気ない仕草だったが、表紙を見た医者は動きを止め、暫し眺めてからページを閉じてしまった。

「…悠太。これは何だい?」

「…う?…か、過去問です、けど…」

「そうじゃない。どうして医学部の問題なんか勉強しているのかと聞いているんだ」

 医者の口元は笑ったままだが、有無を言わさぬ強い口調に悠太は口籠り、知世子は胸の重苦しさが増す。

 ―――あれ…?どうして…?

 医者は参考書を小脇に抱え、怯える悠太の肩に手を置く。

「悠太…医学部なんて受けちゃいけない。何度も言っただろう?いつまで黒羽家の連中の言い成りになるつもりだ?慧太先輩…君のお父さんみたいになってもいいのか?」

「で、でも…お、俺は、本当にい、医者になりたい…なりたいんです、――先生みたいな、り、立派な医者になって…」

 悠太が一瞬、ちらりとこちらを見た気がした。

「…ち、知世子を、妹を、た、助けたい…治してやりたいんです…」

 その言葉に知世子の息苦しさがはっきりと安らぐ。本当だったんだ、アン先生の言ってたこと…例えこれが願望から見ているただの夢だとしても、今はただ悠太の全てを信じて瞳を潤ませる。しかし医者は床に膝を突いて悠太の顔を覗き込み、尚も責め立てるように掴んだ肩を揺らす。

「まだそんなことを言っているのか…いいか、悠太が医者になっていくら頑張ったところで知世子さんは絶対に治らない。そもそも彼女は病気ではないんだ。それは何度も話しただろう?あの子の存在は現在の医学で理解できる範疇を超えてしまっている。これから君が…僕たちが考えなくちゃいけないのはあの子の治療法なんかじゃない。彼女を、彼女の遺伝子を、どうあげるかなんだ」

「え…う…で、でも…せめてか、顔の傷だけでも…あれじゃああんまりに…と、父さんはきっと治る…治すって、――先生ならきっと、絶対、治してくれるって…」

 悠太の言う医者の名前がどうしても聞き取れない。意地になる悠太に医者は大袈裟に首を振り、立ち上がると背を向けてゆっくり歩き出す。

「悠太…僕なんかを目指しちゃいけない、僕はそんな人間じゃないよ…さっき知世子さんは治らないと言ったね。現状ではそれは紛れもない事実だ。もう少し正確に言おう。彼女の身体は治らないし、治してはいけない。たとえこの先、彼女の遺伝子の解析と技術が進展してDNAの非メチル化状態を通常に戻すような方法が発見されたとしても、僕がそれを彼女に処方することはない。彼女にはあのDNAを持ったまま生き続けてもらわないといけないんだ…」

 医者は部屋の端まで歩き、そのまま壁に向かって話している。知世子の胸がまた重苦しさを増す。それも今までになく強烈で混沌とした奴だ。誰かも同じことを言っていた、その医者の一言一言が鈍器のように胸を撃ち抉る。

「最初に僕が見つけたのは幸運だった…知世子さんはエピジェネティクスの、いわば宝の山だ。悠太も僕が書いた慧太先輩への報告書を読んで少しは理解したんじゃないのか?症例だけでも書ける論文は二十は下らないし、彼女の遺伝子コードの断片一つあればベンチャー企業の一つや二つは作れてしまう、肝臓でも何でも組織を取って来て培養したセルラインを市場に出せば相場の十倍は値が付くだろう。先輩もその可能性については否定しなかったしね。だがそんな世俗の邪欲など愚の極み…せっかく聖子さんが生み慧太先輩が育て僕が見つけた至宝をそんな風に汚してはいけない…分かるだろう?僕らは彼女が生まれてきた意味を考えなくちゃあいけない…彼女の存在は、遺伝子は、生命は、もっと崇高な目的に使用されるべきなんだ…」

 語りながら医者が振り向く。目元に掛かっていた霞が晴れていて、そこには見知った顔があった。メタルフレームの細眼鏡に切れ長の目、意志の強そうな怒り眉に整髪料の利いた髪、うず高い鼻にニヒルに曲がった薄い唇…いつの間にか服装も白衣からスーツに変わっている。その目の端から口の端から漏れ出た液体が頬に線を引き首筋を垂れ、スーツを襟元から白く汚していく。

「復習をしよう…エンドジェナスレトロウイルス…ヒトを始めとする真核生物のDNAにはウイルス由来とされるゲノム配列が普遍的に存在している…例えば免疫細胞…一つのB細胞からは一種類の抗体しか作られないにもかかわらず人体は実に多様な外来因子に免疫反応を示す…これは何万何千の外来因子一つ一つに対応する特異的なB細胞が都度作られるからだ…B細胞の抗体可変部ドメインをコードする遺伝子は骨髄中の造血幹細胞から分化する過程で複数の反復配列を有するV、D、J各領域から一つずつランダムに選ばれ個体ごとに少しずつ配列が異なっている…V領域に50組、D領域に30組、J領域に6組の反復配列があるとして、H鎖L鎖の可変部の組み合わせを考えればそれだけで10の6乗通り、更にN領域や三次元構造も加味すれば10の8乗を優に越え、一説ではヒトが作り出せる抗体の種類は一千億を越えるとも言われている…VDJリコンビネーション…B細胞は分化の過程で自ら遺伝子組み換えを行っているのだ…それはトランスポゾンがDNA配列を切り出し転移する過程と全く同じ…つまりヒトが持つ獲得免疫の多様性の根幹を内因性ウイルス様配列が担っているんだよ…面白いと思わないか…かつて取り込んだレトロウイルスがヒトの生命を護っている…ウイルスはただ同胞を護るために他の如何なる侵犯も許さず、それどころか己をも滅ぼしかねないシステムを宿主にもたらしたのだ…利己的な遺伝子…ドーキンスにより広められたその言葉は全く正しい…ただしセルフィッシュなのは遺伝子ではない、ウイルスなのだ…」

 白鳳の顔をした躯は口を開く度に白濁液を溢れされ、それでも明瞭な声で語り続ける。病室から悠太の姿が消えている。いや、辺りの風景が滲んだ水彩画のようにぼやけ、最早ここが病室かどうかさえ分からない。その中で白鳳は独りスポットライトを浴び、その言葉は誰に向けられているのか、白く濁った瞳はどこを向いているのか…

「ヒトはどこからきてどこに行くのか…三十一億塩基対あるヒトゲノムのうち人体を構成するのに必要な領域はたった1.5パーセントなのに対して内因性ウイルス様配列はLTRトランスポゾンやDNAトランスポゾンのような直接的な転移因子だけでも12パーセント、LINEやSINEのような反復配列も含めれば実に45パーセントに及ぶ…ヒトだけじゃない、この世界に生きるあらゆる生物を今ある形に進化させてきたのはウイルスと名付けられた生命単位なのだ…ウイルスがヒトを作ったのならその逆もまた真…トランスポゾンがカプシドを持たないウイルスだと言うのなら持たせてやれば良い…彼女ならそれができる…ヒトをヒトたらしめる為に身を潜めたウイルスたちを、白日の下へ顕現させてやることができる…僕は知りたい…ヒトの来し方を、その行く末を見てみたい、ただそれだけなんだ…それなのに…」

 虚空を見ていた白鳳の眼球がぎょろりと裏返り、水風船のようにパチンと弾け膿の塊をどろりと吐き出す。落ち窪み虚無を湛えた眼窩が次第に広がっていき、捲れ上がる皮膚の下から芋虫が脱皮するように濡れそぼった新たな個体が現れる。その顔にはやっぱりモザイクが掛かっていて、知らない声で囁きかける。今度ははっきりと、知世子に向かって囁きかけて来る。

「それなのに慧太先輩は分かってくれないんだ、彼女を治そうとするんだ…分かるよ?苦労してやっとできた娘だ、大事にしたい気持ちは分かる、でも先輩だってそのために彼女を作ったんじゃないのか?望み通り彼女はマリアとして生まれた、それに元々彼女の遺伝子からあのサンプルを作ったのは先輩自身じゃないか、僕はそれにほんの少し手を加えただけさ…それなのにみすみす無駄にしてしまうなんて…本当に、残念だよ…」

 知世子はこの夢の終わりを、押し潰されそうな重苦しい胸の痛みの正体を直感する。覚えていなかったんじゃない。信じたくない記憶を忘殺し、父の死の記憶と刷り替えていただけだ。インプリンティング。それもわたしの中に巣食うウイルスとやらの仕業なのだろうか?それなら彼らに感謝すべきなのかもしれない…のっぺらぼうの躯は全身が真っ白に染まっている。…いや違う。白衣姿に戻っているだけだ。医者は両手をポケットに突っ込み、宙を踏むような覚束ない足取りでベッドに向かってくる。

「どうした…悠太…そんなに怯えなくてもいいじゃあないか…僕は何もしていないよ…そう、何もしていない…先輩は自ら飲んだんだ…あれだって試しに作ってみただけさ…そう、ほんの戯れにね…バキュロを使うアイデアは秀逸だった…胃内pHをちょっと調整するだけで簡単に活性化してくれるからね……でも失敗だったよ…多角体は作られたけど、二次感染はしないしヴィプフェル行動も起こさなかった…やっぱりバキュロでは免疫に負けてしまうらしい……先輩は全部捨てたんだ、これから得られるはずの名声も栄誉も自分の人生も、彼女の将来も全部…あのサンプルのデータも何も残っていない、今となっては水の泡さ…先輩は今、独りで過ごしているはずだよ…最期の美しい時間を…一体、僕に何ができる?…そう、何もできやしない…ただ神の、彼女の御心のままに、さ……なんだ、信じられないのかい?…それでもいいさ…すぐに分かるよ、君になら……そうだ、受験の話だったね…医学部なんかよりずっと良い所がある…この大学には薬学部があるのは知っているかい?そこに白鳳という助教の先生がいるんだ…元々遺伝子工学が専門の先生なんだけど、最近になってウイルスを使った遺伝子治療に興味を持たれているそうだ…どうだい、お誂え向きだろう?…彼の下で学べばきっとスペシャリストになれる…必要な機器も資金も揃っている…作るんだあれを、もう一度…今度は完璧にね…いいか?先輩をこんな目に合わせ聖子さんを追い詰めたのは黒羽の人間だ…それに君を蔑ろにする学校の連中…悔しいだろう?僕は悔しい…何も知らないくせに彼女を蔑み傷付ける奴等を僕は許さない…君がやるんだ…先輩の、みんなの仇を討つんだ…君たちの世界を変えるんだ…もちろん僕も手伝うよ…そうさ、僕はいつだって、君たちの味方さ…」

 のっぺらぼうの口が顔の端まで裂け妖しく笑う。ポケットから出した手を知世子の喉元へと伸ばしてきて、細長い指が華奢な首に巻き付いていく。知世子は身動ぎ一つせずそれを受け入れる。恐怖だとか諦めだとか、そんな陳腐な感情は一片も湧いてこず、ただその指のぬめぬめとした冷たい感触に、知世子は気持ち悪いと思ってしまった。蛞蝓の指が喉を締め上げていき、裂け広がった蛙の口から、先の割れた蛇の舌が出入りしている。

 ―――気持ち悪い。

 薄れていく意識の中で、知世子はただそれだけを思っていた。


「―――こさん、知世子さん!」

 肩を揺さぶられ意識が戻る。聞いたことのある声。この声は…

「…ヤギ…先生…?」

 薄く開けた瞼の向こうに見知った人の顔が見える。ぼさぼさの髪。垂れた眉。垂れた目尻。こけた頬に無精髭。

「知世子さん…!大丈夫か?怪我は?苦しくないか?」

 まだ夢なのかな…?それとも…夢と現の狭間で漂う知世子の眼前に青白い顔がさらに寄せられ、半開きの視界を埋め尽くす。それは紛れもなくいつもの想い慕う青柳先生の顔であり、眉と目尻は心配そうに益々垂れ、優しい声は気丈を装い震えている。

「頭部…顔面…外傷はなし、瞳孔反応…異常なし、呼吸も正常、首…脈は…触れる……心拍60、これも大丈夫…肩、腕、どこも痛くはないかい?胸も…」

 青柳は上から順に知世子の身体に触れて診ていき、胸元に差し掛かったところで手を止めた。知世子も段々と自分が今どんな状態だったかを思い出す。仰向けに潰れた胸。汚い疵痕。窪んだ臍から放射状に浮き出た血管も露わで、その下も一糸纏わぬまま綺麗にメイキングされたベッドの上に手足を投げ出して横たわっていた。あまりの格好に流石の青柳も目を逸らせ、手探りで手近なフットカバーを掛けてくれる。

「と、とりあえずバイタルに問題はないようだね、良かった…あ、いや、それよりも…その、だ、大丈夫かい?…男に拉致されて、その、こんな乱暴まで受けて…っ!」

「ヤギ先生…!」

 知世子はフットカバーを跳ね除け、しどろもどろに泳いでいる青柳の首に両腕を回してしがみつく。

「先生、先生…!大丈夫、わたし何もされてない、されてないから…!」

 まるで悪いことでもしたかのように、貞操の危機を恥じ隠す。青柳は瞬間驚き眉間をひそめ、やがて胸に顔を埋めて泣きじゃくる知世子の背に腕を回し返し抱き寄せる。

「そうか…何もされていないんだね…大丈夫、彼は報いを受けたんだ…上手いこと白鳳先生のカードを使ってくれて良かったよ、お陰でどこにいるかすぐに突き止められたから…あべのハルカスか…彼はちゃんと、彼の知っている最も高い所まで登ったんだね…そうか、何もされなかったか…大丈夫、もうこれで終わりだよ…これで、全部…」

 青柳は同じ台詞を繰り返しながら優しく知世子の背を擦る。その声は努めて静かに、感情を抑えるように、自分に言い聞かせるように…

「大丈夫だよ、知世子さん…もう何も見なくていい、何も聞かなくていいんだ…そう、これは夢さ…何もかも全部、悪い夢だったんだ…パックも唄ってくれたじゃないか……『うっかり今は眠ってしまい』…『すっかり夢を見ていたのだと』……もう大丈夫…これからは僕がずっと傍にいてあげるから…」

 調子外れな唄に知世子は自分がようやく現実に戻ってきたのだと悟る。嗚咽が止み、押し当てていたシャツから顔を上げ、濡れた瞳を隣のベッドに向ける。すると青柳が背中に回していた腕をさり気なく上げ、その視線を遮る。何も見なくていい。青柳はそう言ってくれるが、細い腕では隠し切れないベッドの上には眠る前と同じ、巨大な繭が転がっているのが見える。窓から射し込む月光は白みがかり、朝が近いことを知らせている。銀色だった繭は光が褪せ、白く淡く淀んでいる。中の宿主はまだ生きているのだろうか。絹糸に包まれた蛹たちはいつ羽化するのだろう。青柳に抱かれこの繭玉のことを考えていると、身体の真ん中辺りにもやもやとした感覚が蘇ってくる。生温い親近感。家族とも友人とも恋愛とも違う。青柳の手が裸の背筋を、脇腹を撫でる。痩せた乳房の先端で小さな乳首が堅く尖り、寄せ合わせたシャツの布地に擦れ、吐息が漏れる。

「知世子さん…?」

 蕩ける瞼に気付き青柳が訝るが、知世子の思考はまた無限の夢に溶けていく。何も見なくていい。何も聞かなくていい。何も考えなくていい。何も思わなくていい。斑に遺る痕も浮き出た血管も動かない脚も、貧弱な胸もか弱い腕も足りない背丈も、汚い顔も汚い身体も汚い心も、もう彼女を絆しはしない。慈愛。ただ慈しみ、愛おしむ本能の赴くまま、身体の真ん中から湧き上がる熱に身を任せ、知世子はその瞳を、唇を、シーツを濡らし、愛しく戦慄く唇を求め、貪った。

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