第7話 沈黙

 少し、微睡んでいたようだ。

 木漏れ日が瞼をくすぐる。

 爽やかに戦ぐ風。

 草いきれ。

 真っ青な空にくっきりと切り抜いたような真っ白な雲が浮かび、静かに流れている。容赦なく降り注ぐ陽光は立派な桑の木の根元に色濃く影を作り、その中で両腕を枕にして一人寝転んでいる。そこは小高い丘の斜面になっていて、見下ろす先は青草の綺麗に刈り揃えられた平原で、馬が一頭、首を下ろして足元の新芽を熱心に食んでいる。人の背丈ほどの柵が放牧地をぐるりと囲み、その向こうにも見晴らしの良い緩やかな起伏がどこまでも続いている。

 ヒバリの囀り。

 馬の嘶き。

 虫の羽音。

 バッタかな。仰向けの身体を裏返し肘立てる。丈の低いイネ科の雑草の柔らかく尖った葉が頬を刺しこそばゆい。手の平ほどのショウリョウバッタが生い茂る草葉を掻き分けて逃げていく。逃げた先が今しがた寝転んでいた場所で、叢が頭の形に潰れた上に出てしまい慌てふためき右往左往している。その脇に紙箱が置いてあり、中には桑の若葉が山盛りに詰め込まれていた。そうだった。これを採りに来ていたんだ。ショウリョウバッタはチキチキと翅を鳴らしてどこかへと跳んでいき、桑葉の詰まった箱を引き寄せると隙間から縞々の長い触角が現れた。クワカミキリ。さっき見つけた奴を一緒に入れておいたのだった。箱から出ようとするのを捕まえ、手の上で遊ばせる。胡麻斑に化粧した黄褐色の胴体は親指ほどもあり、がっしりとした肢が力強く皮膚に食い込む。ギイギイと鳴く鋭い大顎、凛々しい顔付き。うっかり見惚れているとその隙に指の間から抜け出し逃亡を図る。そうはさせじと手首を返す。尚も引っ掻き咬み付き抵抗する。腹這いではどうも分が悪い。とうとう手から転げ落ち、叢の奥へと紛れてしまう。

「こら、待て…」

 追いかけようと膝立ちになった頭の上に生温い気配が降ってきた。振り仰ぐとそこに馬の面があり、ふんふんと鼻息を吹き掛けてくる。いつの間に居たんだろう。ここは柵の外のはずだけど。

「やあ。いい天気だね。君も涼みに来たのかい?」

 とりあえず挨拶をして鼻先に手を伸ばすと、馬は嫌そうに唇を捲りつれなくそっぽを向いてしまう。残念。嫌われてしまったか。馬はそのまま一歩二歩踏み出し、首を下げて紙箱の桑葉の匂いを嗅ぎ出した。

「こらこら。それは駄目だよ、お腹壊すから…」

 せっかく集めた桑葉を盗られまいと紙箱を取り上げる。

「そうなの?」

 出し抜けに今度はヒトの声が降ってきた。見上げる馬の背は逆光に包まれていて堪らず目を細める。ハンチング帽にぴったりとした乗馬服のシルエット。女性だ。鞍上からハードルを跨ぐようにひらりと舞い降りる。

「ごめんなさい、お邪魔してしまったかしら?この子がこっちに行きたいって言うものだから…」

 彼女は紙箱に執着する馬の首筋を撫でて落ち着かせると、手綱を手に提げ木陰に入ってくる。

 ぱっちりした大きな目。

 すっきりと高い鼻。

 細く尖った顎。

 薄っすら小麦色に焼けた肌と整った顔立ちが、乗馬服のスマートな出で立ちに良く似合っている。少し暑そうに化粧気のない唇を尖らせて息を吐き、ハンチングを取ると中で束ねていた長い亜麻色の髪が垂れさらりと風になびいた。

「…君は馬の言葉が分かるの?」

 普段は見知らぬヒトと言葉を交わしたりしないのだが、この時は何故か素直に話すことができた。それだけ彼女が魅力的だったのかもしれないし、単なる気紛れだったのかもしれない。でも確かにそれは運命の出会いであり、この時はそんな風には思いもしていなかったことも確かだ。

「いいえ?馬は喋らないもの。言葉なんて分かるはずないじゃない」

「でもこの子の言うことを聞いて、ここまで来たんだよね?」

「そう。言葉は分からないけど、気持ちは分かるの。毎日一緒にいるから、ね?今日はたまたま、この子の行きたいところに行こうと思って」

「…そういうものなの?」

「そういうものよ。それで?私の質問には答えてもらえないのかしら?」

「…何だっけ?」

「それを食べたら馬はお腹を壊すの?それって、桑の葉よね?」

 彼女は懐に抱え持つ紙箱を指差す。

「ああ…うん、そうだね。お腹を壊すって言うのとは少し違うね。下手をすると死んでしまうかもしれないし」

「え?」

 不穏な発言に彼女は大きな目を益々見開いて眉をせり上げる。

「桑の葉に含まれるアルカロイド、デオキシノジリマイシンはほとんどすべての生物が持つアルファグルコシダーゼの一つ、スクラーゼを阻害するんだ。スクラーゼは二糖類であるショ糖を単糖類のグルコースとフルクトースに分解するんだけど、ショ糖のままだと吸収もできなければ細胞内で肝心のエネルギーとして使うことができない。人間なら食後過血糖を抑制する程度で寧ろ健康食品なんかに使われるくらいだけど、昆虫や小動物では摂取しただけで死んでしまうんだ。馬だとどうなるかは知らないけど、きっとあまり良い影響はないと思うよ。ちなみにカイコガの幼虫が平気なのは、彼女たちは桑葉のアルカロイドで阻害されないショ糖の分解酵素を生成できるからで、他の生物にとっては猛毒の桑葉を独占するようにあんな極端な狭食性に進化したんだね。一説ではその酵素をコードする遺伝子は腸内細菌から水平伝播したと考えられて…」

 ふと目を上げると彼女は口元を隠してくすくすと笑っている。せっかく説明しているのに失礼なヒトだ…などとは思わず、何故か一緒になって笑ってしまった。

「ふふっ、ごめんなさい。あなた、いつもそんな話し方をするの?」

「ははっ、こっちこそごめん。聞いてくれそうな人だとつい、ね」

「じゃあ、私はあなたのお眼鏡に適ったって訳ね。嬉しいわ」

 言葉通りのはずもないだろうが、彼女は本当に嬉しそうににっこりと微笑む。コロコロと変わる表情が好ましい。ただ、彼女のことが気に入ったからと言って一緒に散歩しようだとか今晩の食事に誘うだとか、そんな気の利いた会話は一向に浮かんで来ず、馬の鬣を撫でる彼女の手を見ていることくらいしかできないのだった。

「…綺麗だね」

「え?」

「あ、いや、馬のことだよ。目も、毛並みも…名前は?」

「ティアラよ。美人でしょ?馬術を始めた時に出会って以来、ずっとこの子一筋なの。そう…いっそ私も馬になりたいくらい」

 そう言って彼女が首を抱くと、ティアラは馬体を返し二人の間に割り込んでくる。

「あら、もしかして妬いてるの?あなたのこと褒めてるのに」

「…お互いに言葉が分からないってのは本当みたいだね」

「でも心は通じ合っているの。ね?ティアラ」

 ティアラは早く行きたそうに彼女のうなじを鼻先で突く。彼女は分かった分かったと、鬣を掴み鐙に足を掛けネコのようにふわりと馬の背に舞い戻る。

「桑のことありがとう、気を付けるわ。もう少し話したかったけど、今日はこの子の言うこと聞かなきゃいけないから…」

 鞍の上で彼女は後ろ髪を引かれるように手綱を絞っている。自分の気持ちより相棒の馬の気持ちを優先させる彼女に、もう一度逢いたいと思った。

「僕なんかの話で良ければ、いくらでも。晴れていればいつもこの時間、ここに居るから」

「私たちは雨でも馬場に出ているわ。見掛けたら声を掛けてね」

 分かったと手を挙げ別れの挨拶をするが、ティアラは留まったまま行こうとしない。

「…おかしな人。馬の名前は聞いておいて、私には聞いてくれないの?どうやって声を掛けるつもりだったのかしら?」

 そう言われてようやく、自己紹介どころか名前も知らなかったことに気付く。気が利かないにも程がある。照れて頭を掻きながら、改めて彼女の丸い瞳を見詰め返す。

「医学部M3、小野研の青柳貴です。あなたは?」

 遥か晴れ渡る蒼空を背に浮かび、彼女は逆光眩しく満面に微笑んでくれた。

「鶴田千春。看護学部の二年です。それじゃ、また明日…!」

 まるで明日も晴れると信じて疑わないかのように、千春とティアラは緩い斜面を駆け下りていった。


 微睡みは続いている。

 ふわふわと覚束ない意識のままで、ざらつく頬に指を這わせる。

 顎。

 首筋。

 肩。

 撫でる指先に逐一反応し、無防備に投げ出された手足がぴくぴくと震える。二の腕。脇。乳房。柔らかな脂肪をごく軽く押し窪ませると、震えていた手足がぎゅっと縮こまる。その様子が愉しくて、膨らみを掌で包み込み揉み解す。パン生地を捏ねているみたいだ。頂点で固く尖る乳首を抓むと、吐息と共に微かな声が漏れる。閉じたままの瞼の裏で、瞳がくるくると忙しく動いているのが分かる。カルパスのようなその乳首に唇を寄せそっと含んでみる。味はしない。吐息は徐々に荒く強く、口の中の乳首も益々固く腫れてくる。

 あれ…何でこんなことをしているんだっけ。

 自分のしている行為の意味が良く分からなくなり、何も分泌しない乳首から唇を離し、身を起こして股の下のシーツの上に横たわる裸体をまじまじと見下ろす。呼吸は荒いままで、鎮まろうとしない。

 ああ、そうか。脱がなきゃ。

 自分だけ服を着ているのがおかしい気がして、シャツのボタンを外していく。外しながら自分が今何の為に何をしているのかを必死に考える。

 …ドライブ…隔離…デート…卵胞ホルモン…ホテルからの夜景…サンプル投与…キス…宿主と寄主と…ティアラと涙…水平伝播…

 …駄目だ。浮かんでくるのは取り留めのない事柄ばかりで、意識も記憶もぼんやりとしていてまともに考えることができない。諦めてシャツを脱ぎ捨てベルトに手を掛ける。荒げた呼吸を整えるためか、細く長く息を吐く。瞼が薄く開いている。その隙間で潤む瞳は今ズボンを下ろした股間辺りに向けられている。ここに何かあるのだろうか。また分からなくなる。

 何でこんなことをしているんだっけ…?

 腰の下着を掴んだまま考え込んでいると、そこに手が添えられた。いつの間にか起き上がっていた裸体が耳元で囁く。ダイジョウブ…。確かにそう言った気がしたが、何が大丈夫なのか分からない。混乱し躊躇う手から下着が剥ぎ取られ、ややも強引に腿から下げられていく。股の間に萎びた包皮を被った男性器が力なくぶら下がっている。男性器。…そうか。何となく分かってきた。性行為の経験はないが、少なくともこれがこんなに萎れていては使い物にならないことくらいは分かる。でもどうしたものか?これを膣内に挿入するのに必要な硬度を持たせなければならないのだが、力は籠められないし、そもそも陰茎には筋肉がない。今までどうしていたのか思い出そうとしていると、冷たい指がそれをしなやかに握ってきた。冷やっこくて余計に縮み上がる。ダイジョウブ…。もう一度同じことを囁き、もう片方の指が裸の胸を押す。思いの外強い力に、ころりと仰向けに転がってしまう。

 何でこんなことを…

 もう一度同じことを思い、股間に長い髪のさわさわとした感触が降りてくる。指は萎れたままのペニスをゆっくりと扱き始め、そこにか細く温い吐息が吹き掛けられた。


 どうして彼女は一緒に居てくれるのだろう?

 微睡みの中で、そんな疑問が脳裏に浮かんでは消える。

 出会ってから暫くの間、二人の逢瀬は決まって牧場の畔の桑の木の下だった。他に行く宛てもなかったし、会話の内容も馬や天気や取り組んでいる研究のことくらいで、少なくとも自分にとってはそれで十分だった。どうやら彼女は人気者らしく、たまに学内で見掛けると常に周りにヒト集りができていて、その中に割って入る勇気などとてもなかった。反対に彼女が自分を見つけた時はそのヒト混みを掻き分け笑って駆け寄って来てくれるのだが、常に独りの自分にとってその行為は有難くも迷惑で、挨拶もそこそこに逃げ出してしまうのだった。

 彼女は馬を、正しく言えばティアラを心底愛していた。競技のためと言うより、ティアラと一緒に居たいがために馬術をやっているようだった。自分は馬に乗ることはなかったが、あれだけヒトに好かれているのに馬にしか興味を示さない彼女のことが好ましくて、彼女と会って過ごす時間を待ち遠しく思ったりもした。

 やがて研究室から大学病院の医局に移り、彼女も同じ病院の看護師として働き始めた。お互いに忙しく牧場でのデートはめっきりと減っていったが、二人の関係は特に変わりはしなかった。彼女はティアラに会えない日が続くのが不満らしく、昼休みに捕まっては愚痴を聞いたりしていた。そんな当たり前の日々の中で、当たり前の一つの疑問が、時々泡のように脳裏に浮かんでくる。

 どうして彼女は一緒に居てくれるのだろう?

 自分には目的がある。しかし彼女が自分なんかと一緒に居て、他愛もない話をしたりワンコインのランチを食べたりお茶を飲んだりしてくれる理由がいまいち良く分からない。それとなく聞いてみたりもしたが、その度に上手にはぐらかされてしまう。ある日、いつものように麓のカフェで昼食をとっていると、いつになく真剣な声音で相談された。あのね、昨日、小松さんからこれを渡されたの。小松は同期で入局した外科医で、数少ない友人の一人であり、彼女が鞄から取り出したのはケースに入った指輪だった。縁がないので詳しくはないが、それは複雑にカットされたダイヤモンドの、とても高価そうな指輪だった。あいつ、薄給のくせに良くこんなの買えたなぁ。そう言うと彼女はケースの蓋を閉め鞄に戻してしまう。着けないの?私にはティアラがいるから。指輪とティアラにどんな関係があるのか知らないが、その話はそれきりだった。ただその日以来彼女と会う機会は減り、会っても彼女の態度は素っ気なくなり、少し焦りを感じ始めた。それでも月日は無為に流れていき、目的は形を成さぬまま、宙ぶらりんで漂っていた。


 滑らかな心地よいシーツの感触に、微睡みはまた一段と深くなる。

 仰向けの股の間で毛玉が上下に揺れている。萎れたペニスを口に咥え、包皮から剥き出された亀頭を粘つく舌が不器用に舐め回す。しなやかな指が陰茎の根元を絞り、時折頬を窄めてきゅうきゅうと吸い上げる。咥え、舐め、扱き、吸われ、ペニスはそれでも反応を示さない。これじゃあ駄目だ。これじゃあ目的を果たせないし、何より一生懸命な彼女に申し訳ない。少なからぬ焦りに目を瞑る。前にも一度、こんな風にした気がする。あの時は上手くいったんだっけ。覚えていない。まあいい。とにかく醜い現実に目を瞑り、美しい夢を思い出すんだ…

 歪みない二十面体。

 幾何学模様。

 夥しい数の粒子が規則正しく並んでいる。

 美しくもおぞましい電顕画像を瞼の裏に描くと、心臓がどきりと脈を打つ。ヌクレオポリヘドロウイルス。角砂糖のような多角体の結晶。その真っ白な匣はアルカリ性の消化液にのみ溶け、包埋されたウイルス粒子を解き放つ。シグマウイルス。ライフルの弾丸に似たそれに感染したショウジョウバエは二酸化炭素で簡単に死ぬ。科を同じくするラブドウイルスの一種は咬傷部から侵入し神経節を日に十ミリずつ遡り脳神経に到達した時点でヒトは水に怯え簡単に死ぬ。T4ファージ。言わずもがなの惑星探査機は大腸菌の細胞膜に着陸しスパイクを打ち込んでDNAを注入し、終いには跡形もなく溶かしてしまう。巨大なポックスウイルスはヒト社会で根絶しても昆虫界では当然に猛威を振るっている。更に巨大なミミウイルス。ヒトデのようなスターゲート。スプートニクはそのミミウイルスに感染するウイルスだ。パンドラウイルス。ピトウイルス。蓮の実のような開口部は見るものに怖気を催させる。美しい。単純にそう思う。シンプルなピコルナウイルス。杖のような紐のようなフィロウイルス。レトロウイルスたちのエンベロープは最早芸術品だ。見惚れてしまう。見ているだけで胸が高鳴り、興奮する。ウイルスの生活環は性行為そのものだ。出会いは全くの偶然。だが誰でも良いと言う訳ではない。乞い求めるも二人の間には数々の障害が立ちはだかる。抗体、T細胞、マクロファージは恋路を邪魔するライバルや貞操やコンプレックスだ。中にはその障害そのものに興味を示す変わり者だっているだろう。免疫に拒絶され世俗に妨害を受けても、あの手この手で万難を排し二人はようやく接触する。ヘマグルチニンがシアル酸に結合し互いの口に吸い着けば二人はもう離れられない。身体を寄せ合いクラスリンに覆われた穴は深く落ち窪み、抱き合い縺れ、愛撫の果てに強固に聳えた異物はとうとう膜を突き破り、融合する。エンドサイトーシス。自ら挿入しているように見えてその実、丸ごと咥え呑み込まれているに相違ない。嬌声。苦痛と喜悦が入り混じる。陶酔は深く内部へと侵入していき、リソソームから分泌される愛液に塗れカプシドを脱ぎ捨てる。その動きは益々激しく、昂り悶え、喘ぎ震え、最奥にて遂に吐き放つ。絶頂。放たれた無数のDNAは粘液の海を泳ぎ切り、核へと到達するだろう。二つの遺伝子はそこで一つとなり、息衝いた生はやがて来るべき時を待ち、新たな匣の中で静かに伏せ潜むのだ…

 

 微睡みから覚めると、彼女はベッドサイドに腰掛け服を着ていた。

「あ…起こしちゃった?」

 昨日と同じシャツのボタンを閉め終えると、うなじに手を添え襟元に仕舞われていた長い髪を引き出し、肩を落として一つ溜め息を吐く。その仕草に酷く違和感を覚える。垂れた髪はまだ重く湿り、シャツの背に鬱陶しく貼り付いている。

「うん…いや、大丈夫。…僕も起きないと」

 言いつつも起き上がるのが億劫で、ただシーツの中で彼女の方へと身を捩る。その様子に彼女はまだいいよと首を振りながら立ち上がる。腰から下はまだ下着一枚で、床に投げてあったジーンズを拾い上げ足を通していく。タイトなジーンズを引き上げるのに手間取り、膝を曲げたり伸ばしたりするたびに薄いパンツの布に皺が寄ったり伸びたりする。違和感の正体に気が付き、直視に耐え兼ね向こうの窓に焦点をずらす。カーテンはようやく白み始めた頃で、まだ朝が早いことを知らせていた。

「ごめんね、もう行かなきゃ…」

 身支度を終えた彼女はバッグを肩に担ぎ、消え入りそうな声で呟く。言葉とは裏腹に名残惜しそうに佇んだままだ。

「馬房に行くの?」

 そう聞くと彼女は弱々しく頷き、また一つ息を吐く。

「あんまり良くないの。もう永くないかもしれないから…」

「そっか…僕も行こうか?」

 心にもないことを口走り、少し後悔する。案の定、彼女はゆっくりと首を横に振り、こちらに振り返る。

「大丈夫、あなたは休んでいて。それに…」

 薄明の中でも彼女の曇った瞳がはっきりと見えてしまい、どちらからともなくまた視線を除ける。

「一緒に居ると、また甘えてしまいそうだから…」

 声が少し、震えている。泣いているのかもしれない。面倒だな。片隅で思う。甘えるの意味も分からないし、こんな時に何を言えば良いかも分からない。

 ティアラが死ぬ。

 馬の三十歳は人間でいえば八十歳を超えるそうだ。競技引退後も千春は毎日のように会いに行き、晩年まで手厚く世話をしてあげていた。競走馬や競技馬のほとんどが殺処分される現状からすれば大往生だと言えよう。千春もそんなことは十分に理解していたし、覚悟もしているはずだ。しかしいよいよティアラの容体が末期を迎え、夜遅くに尋ねて来た千春は独りの部屋に帰ることを拒み、初めて一晩を共にした。彼女の我が侭に付き合った形ではあったが、ちょうど手応えのあるサンプルが出来上がったところだったのでこちらとしても都合は良かった。

「じゃあ…行くね。病院の許可は貰っているから、暫くは戻ってこないと思う。その間にしっかり考えておくから…ちゃんと前を向かないとね。だから、貴方も…」

 続く言葉を言い淀み、千春はまだ寝たままでいる枕元を見下ろしてくる。動かない唇に千春は黙って微笑むと、そのまま夜の明け切らぬ部屋から出て行った。その微笑みは物欲しそうでもあり、淋しそうでもあった。

 だから貴方も、私との将来のことをちゃんと考えてね。

 千春はそう言いたかったのだろうか。…面倒だな。さっきと同じことを口の中で呟き、もぞもぞと寝返って天井を向く。後で小松に連絡しておこう。千春が戻ってきたら慰めてやってくれと。そんな大それた役目、自分には相応しくない。それよりも…目を瞑っても眠れそうにないので、シーツを押し退けてのそのそと起き上がる。

 それよりもまた、失敗だ。

 下着一枚の格好でキッチンへと向かう。経口が駄目なら性接触でと意気込んだにも拘らず、膣内への挿入どころか射精にも至らなかった。精液に触れていないオーラルセックスでの感染などとても期待できない。情けない。肩を落とし項垂れながら、電気ケトルで湯を沸かす。千春には気にしないでと慰められ、剰え謝られもしたが、プライドは深く傷ついた。サンプル投与の失敗なんて、配属し立ての学生以下だ。

 もう潮時だろうか…。

 マグカップにインスタントコーヒーの顆粒を入れながら嘆く。これはと思う配列からウイルス粒子の単離には成功しても、そこから先が進まない。ウマで確認できてもヒトで立証できなければ何の意味もない。これでは千春にどんどんワクチンを与えているのも同然だ。いくら手軽とは言え、このまま彼女の厚意に甘え続けていても埒が明かない。まあ、彼女だけが生き残る世界というのも悪くないかもしれないが…

 ケトルから電子音が鳴り響く。湯が沸いた。マグカップに注ぎながらふと玄関の姿見に目を遣ると、半裸の自分の姿が映っている。

 とても醜い、ヒトの躰が映っている。

 飛び出た頭蓋。

 持て余した脳髄。

 貧弱な四肢。

 を知った時から、いや、もっとずっと前からこの違和感は纏わりついて離れない。何と複雑で、何と間抜けな姿か。汚く色付いた剥き出しの皮膚。疎らに生した粗末な体毛。刈り揃えるのも煩わしい。歪に並んだ歯牙は見ているだけで身の毛が弥立つ。筋肉。骨。皮袋の中には無駄な器官が詰まっている。ガス交換をするだけの呼吸器。カロリーを吸収するだけの消化管。死ぬまで動き続ける循環器。生殖器。進化の果てがこの醜い姿だとしたら、神は嘆き悲しんでいることだろう。そして自分までもがこの姿をしていることに我慢がならない。湯気の立つカップに砂糖を投げ入れる。スプーンで四杯。甘くないコーヒーなど旨くない。

 いっそ脱ぎ捨ててしまいたい。常々そう思いながら、それを成し遂げた純粋な生命に憧れ、一つになりたいと乞い願い続けているにも拘らず、その可能性を手にしているにも拘らず、未だ唯の一人も叶えることができていない。

 …情けない。

 別のポッドから重曹の粉末をひと掬いコーヒーに入れる。酸っぱいコーヒーだけは苦手なのだ。スプーンでぐちゃぐちゃに掻き混ぜ、シンクの端に歩み寄る。ワンルームには不釣り合いに大きな冷蔵庫。その足元の冷凍室を引き出す。熱いコーヒーなんか飲んでいられない。氷を一片取り出そうとしてその手が止まる。冷凍室の中にはもちろん冷凍食品やアイスなんかは入っておらず、青色のサンプルラックでみっちりと埋まっている。整然と並ぶケースの群を掻き分け、奥底に大事に隠した一つのラックを取り出す。ステンレスのシンク台にそのラックを置き、温度差で曇ったカバーを開ける。ただ『K・K』とイニシャルだけが記されたそのラックには一本だけサンプルチューブが立っている。そのチューブをそっと抓み上げ、目の高さに掲げる。

 先輩、やっぱり僕には無理でした…。

 それは黒羽家を追われ、大学病院からも去って行った黒羽慧太が遺した、たった一本の名もなきプロトタイプだ。チューブの底にはほんの僅か、涙一滴ほども残っていない。先輩はこれでヒトの殻を脱ぎ捨てることができたのに、自分にはそれが叶わない。先輩はただ戯れに作っただけだと言っていた。研究者としての矜持だとも。そして彼はレシピもデータも記録も、何も残さず旅立ってしまった。ただ一冊のノートだけを息子に託して。遂に再現することのできなかった僕にそれを覗き見る権利はない。そんな大それた役目は僕には相応しくない。パンドラの匣を開けるのは、然るべき人間にだけ許された神聖な行為なのだ。彼ならきっと叶えてくれる。僕はそれを黙して待つことにしよう。僕に残されたのは従順な蚕たちと、彼女だけだ…

 掲げたチューブの底でじわりと溶け始めている。あらゆる災厄と希望を湛えた、堅牢なピトスだ。蓋を開けチューブを傾けると、ゆっくりと白濁液が伝っていく。縁に届き、涙の形をした小さな雫を作る。一呼吸。やがて雫の根元はぷつりと切れ、湯気の立つカップに落ち、あっという間に溶けていった。


 余韻は長く深く、ただひりつく痛みと寝息だけを遺している。

 瞼を開けると、隣の枕に無防備な寝顔がある。寝息は急かすように浅く早く、しっとりと湿った前髪が額に貼り付いている。

 青白い肌。

 痩せこけた頬。

 瘢痕。

 ほんの数日前から随分と印象が変わったように見える。十は歳を重ねたようで、もう少女の面立ちではない。それがつい今しがたの行為によるものなのか、単に初めて間近で見る寝顔がそう見えるだけなのかは分からない。だがその姿かたちに、ただ醜いとだけ、そう思う。

 もう少し、もう少しだ…。

 指先で抓んだ一本のチューブに呟き、暫しくるくると遊ばせる。脱ぎ散らかされていた病院衣のポケットから回収した、DAMDSウイルス入りのチューブだ。白く濁った美しい匣は、彼の手によって開けられた。あとはイエスの誕生を待つのみだ。醜くも純朴なマリアの寝顔を、起こさないようにそっと抱き寄せる。その向こうに静かに浮かぶ銀の繭。美しい時間は短い方が良い。誰かがそんなことを言っていたな。

 もう少し、もう少しだよ…。

 そうなるように願い、また暫し、瞼を閉じることにした。

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