第8話 災厄
小松千春は一週間ぶりに自宅のベッドで目を覚ました。時計を見ると七時を回っている。いつもならとっくに起きて、朝食も食べ終えている時間だ。
式典では知世子をエスコートした後大講堂から離れていたため隔離対象とはならなかったが、入院患者の移動や隔離者の検査や衛生管理や警察とマスコミの対応に駆り出され、結局ずっと病院から出られないでいた。隔離を免れた医師や看護師は軒並み同じ様な扱いを受けていて、仮眠室は常に満室で碌に寝ておらず、昨日の夜遅くにようやく帰宅指示が出たが帰り道の記憶がほとんどない。帰り着くなりシャワーも浴びずベッドに倒れ込み、どうやら着のままで眠ってしまったようだ。
起きなきゃ…気怠い身体を奮い立たせ、くしゃくしゃの髪を整え、くしゃくしゃのブラウスをラフなTシャツに着替える。今日は一日休みをもらえたので惰眠を続けたって構わないのだが、性格上そうもいかない。それに、この同じ屋根の下には小松も帰ってきているのだ。昨晩自分の部屋に入る前、二言三言言葉を交わした覚えがある。病院では一度も会わなかったが、小松も事故の対応に追われほとんど寝ていなかったらしい。とりあえずお互いに身体を休めようと、その場はそれぞれの部屋に別れたきりだ。流石に昨日は、小松は酔っていなかった。
式典の前日バスルームで殴打されたことも、その所為で不自然なメイクで人前に出なければならなかったことも千春はとっくに許していた。許すと言うより、そのことを考える暇がなかったと言うのが正しいか。何にせよ千春にとってそんな出来事は些末な過去の一部に成り下がっていて、今は如何に今日一日をストレスなく過ごすかに全精力が振り向けられていた。相手を傷付けないようにと思えばそれは案外容易く、自分が傷付かないようにと考え出すと、それは途端に難しくなる…
ドアを開けると、リビングにはコーヒーの良い香りが漂っていた。じゅうじゅうとフライパンで焼く音。ダイニングテーブルには色違いのランチョンマットが向かい合わせに敷かれ、その上に生野菜のサラダが盛られたグラスボウルとパン皿とマグカップとフォークが綺麗に並べられている。
「何…これ…?」
寝惚けた頭を振りながら思わず零す。結婚して以来、炊事は全て千春の担当で勝手に食事が出てきたことなど一度もない。どういう風の吹き回しだろう?もしかしてこの間の罪滅ぼしのつもりなのだろうか。
「おはよう、千春。早かったね。ちょっと待ってて、もう少しでできるから」
キッチンから小松が顔を覗かせ笑顔を作る。ごく自然な笑顔に千春は拍子抜かれ、言われるままにテーブルに着き、これまた用意してあった新聞を広げる。何だろう、この感じは。夜明けの寒さが残る冷え切ったキッチンで一人黙々とありきたりな朝食の準備をし、小松はよしんば起きてきたとしても手伝う素振りも見せずテレビの前に座り、会話もなく、食べ終わればまた別々の休日に戻っていくことを想像していたのに…この状況はどうだ?リビングは暖房で程良く温まり、小松は手際良く焼いたハムエッグやトーストをせっせとテーブルに運び、淀みなく会話を投げかけてくる。式典は災難だったね、体調は大丈夫かい?こっちも大変だったよ、玉子には何をかける?そうか、千春は醤油だったね、僕はドレッシングにしてみようかな、
「豆から挽いてみたんだ。口に合うといいけど」
そう笑ってサーバーからマグカップにコーヒーを注いでくれる。
「…美味しい」
「お、それは良かった。青柳からもらったんだよ。アメリカのお土産らしい。あいつ、いつ行ったんだろうな?まあどうでも良いか、美味しければ」
青柳の話題まで躊躇いなく口にする。つい先日までなら、彼の話が出る時は決まって喧嘩になっていたというのに…
「会ったの?あの人に…」
千春は式典以来、青柳に会えていなかった。白鳳教授のこととか知世子のこととか色々と問い質したいことがあるのだが、隔離病棟の四階は今も職員でさえ近付けなくなっている。小松は自分のカップにコーヒーを注ぎ、向かいの席に座るとさらに屈託のない笑顔を見せつける。
「なんだ、千春は会っていないのか?こんな時だってのに薄情だな、あいつも。まあ心配要らないさ。当日は流石にちょっと疲れているようだったけど、昨日会ったときはすっきりした顔をしていたよ。そう…まるで憑き物でも落ちたみたいだったな、うん。土曜の夜からどこかに行っていたようだし、何か良い兆候でもあったんだろう、きっと」
「どこかに…?病院から外に出ていたってこと?そんなはずないわ。だってあの人も隔離対象のはずでしょう?それに警察の捜査だって…」
「そうなのか?詳しいことは俺も知らないよ。まあ確かに、その関係で呼び出されていたのかもしれないな。今はもう戻って来て掛かりっきりになっているよ、あの子に」
「あの子…黒羽知世子さんね。何か言ってた?あの人…」
「いや?別に特別な話はしてないよ。俺もただ会いに行っただけだしね。どっちかと言うと青柳にと言うより、その知世子さんの方に、かな?はは。何か安心したよ、二人の顔が見られて。おっと、そんな仕事の話より今日はせっかく休みを貰えたんだ、食べ終えたら二人でどこか行かないか?」
小松は陽気に話しながらトーストもハムエッグもサラダももりもりと食べている。少しも箸が進まない千春は、その様子に薄っすら寒気を覚える。この人はこんな喋り方をする人だったか?今も暴力の埋め合わせのためではなく、純粋に自分と外出をしたがっているように見える。不自然だ。自然な会話を、提案を、笑顔をしてくる小松に、どこか不自然さを感じてしまう。だが決して悪い傾向ではない。千春は無理にでもそう自分に言い聞かせる。現に今、何年か振りの穏やかな食卓になっているじゃないか。これが本来あるべき姿なのだ。こうして小松は罪を忘れ、私は罰を忘れる。それで良いじゃないか。それ以上何を望むと言うの…千春は奮わない食欲のままに笑顔を作り、トーストを齧る。
「…そうね。たまには二人で、ね…。行きたいところはあるの?」
「そうだなぁ…最近ずっと忙しかったし、あんまり賑わしくない…ゆっくり落ち着けるような、見晴らしの良いところ…」
「見晴らし?じゃあ…辨天山でも登る?」
「お、いいねえ。ここらへんじゃあそこが一番高いもんな」
「ちょっと、冗談よ。わざわざ休みの日にまで病院に行く気?せっかく出られたのに」
他愛のない会話に何気なしに夫の顔に目を遣り、千春はトーストを齧る顎が止まる。ほんの冗談のつもりだったのに、小松は眉根を悲しげに下げ、あからさまに残念そうな表情をしていた。まさか本気で病院に行きたかったのだろうか…?だがその表情もすぐに元の屈託のない笑顔に戻り、またからからと笑い飛ばす。
「ははっ、それもそうだ。それじゃあ瀬関高原までドライブしようか。あそこは確か乗馬クラブもあったよね?君も久し振りに乗りたいんじゃない?」
「え…いいの?結構遠いよ?あんまり寝てないんじゃ…」
「なんの、大した距離じゃないよ。それになんでかな、身体の調子はすこぶる良くてね。ここ最近じゃあ一番元気かもしれないな。だから運転は任せて、君は寝ていていいから。よし、善は急げだ。さっさと片付けてしまおう」
小松はサラダを掻き込みハムエッグを平らげ、まだ湯気の立つコーヒーを呷る。千春にはゆっくりでいいよと言い、さらにバナナを房から毟り取る。
琴線をくすぐる提案。優しい心遣い。…やはり気のせいだ。ちゃんと考えてくれていたのだ。夫として、妻のことを。それ以上何を望むと言うのか。今日は信じて甘えよう。欲しいのは反省や懺悔などではなく、ただひと時の穏やかな日常なのだから…
小松は本当に美味しそうにバナナを頬張っている。幸せそうに垂れる目尻に、この人が酔って暴力を振るっていたことが信じられなくなってくる。千春はその不自然な違和感を振り払うように、真心の籠った朝食を食欲の湧かない胃袋に押し込んでいった。
「チェリーちゃん…ナッツ、見てない?」
始業前、チョコの席に座りぼんやりしていると、おせっかいトリオの一人が声を掛けてきた。手足のひょろ長いカラテ女。名前は…レア、だったっけ?興味もない人間の名前などいちいち覚えていない。まあ、この子には少しだけ興味がなくもないのだが…
「あ?ナッツ?…って、誰?」
「いつも私たちと一緒にいる、あなたと同じくらいの背のぽっちゃりした子」
レアもちゃんと心得ているのか、覚えていないことについては大して関心も示さず的確に特徴を伝えてくる。
「ああ…あのちっこいドワーフみたいなヤツね。あたしが知る訳ないでしょ。トイレでも行ってんじゃないの?」
「そうじゃなくて…どこにもいないの。教室までは一緒に来たんだけど…」
不安気に消え入りそうな声で、レアはきょろきょろと視線を巡らせる。だからなんであたしに訊くかね…つられてチェリーも首を回し、言葉が引っ込んだ。始業数分前にもかかわらず教室の中には生徒が疎らで半分もいない。全員遅刻か?いくら自由を貪りアナキストを気取った高校生どもと言えどいい度胸している。このあたしでさえちゃんと学校に来て、大人しく席に着いているって言うのに…
チェリーが病院を脱出してから二週間ほど経つ。結局人生で最も淋しいクリスマスと年末年始を一人で過ごし、やることもなくいい加減暇を持て余したチェリーは新学期が始まってから学校に来ていた。病院から追手が来るかとワクワクしていたが特にそんなこともなく、担任にはぎゃいぎゃいと色々聞かれたが面倒なので適当に誤魔化しておいた。チョコはともかく、ノッポやメガネもまだ病院から出られていないようだ。それ以外は何事もなく学校も街中もいつもの平凡な、それはそれでつまらない日常が続いている。…と思っていたのだが。
「あいつらなら屋上におんで。たぶんな」
答えたのは後ろの席の塩ラーメンだ。先週まで汚らしく下ろしていたドレッドヘアを今は元通り頭の上で髷に結っている。
「屋上…?コンスくん、本当?」
「ちょい待ち。あいつらって何よ?ここにいない奴等、みんな屋上にいるっての?つか、あんたはなんでそんなこと知ってんのよ?」
畳み掛けられてもコンスは目線を上げもせず、果たして読んでいるのかいないのか、サッカー選手の写真の並んだ雑誌を退屈そうに捲っている。
「おお。昨日、大会終わりで部活が休みで暇やったから、放課後なんとなしに屋上行ってみたんや。そしたら…おるわおるわ。二、三十人はおったかいな、クラスも学年も関係なしに大勢ぞろぞろ集まっとったで、文化祭の時みたいに。あいつも…ナッツもみんなと一緒に黄昏とったわ。なんや、いつもと雰囲気が違うさかい、声掛けられへんかった」
「はん?なにそれ…大勢で集まって、何してんのよ?」
「知らんがな。言うたやろ?黄昏とったって。フェンスに寄っかかって、何をするでもなく…みんな黙って同じ方を向いとったな。陽も半分沈んどって、星でも見よんのかいなと思うたけど、クソ寒いし気味悪いし、ワイはすぐ抜け出してしもたわ」
「でもあんたそれ、昨日の話でしょうが。なんで今日もいるって分かんのよ?」
「だからたぶん、やて。それに…なんやろなぁ、上手く言われへんけど…分かんねん、屋上でも行って、ぼうっとしたなる気持ち。年末にケッタイな事件もあったしやな…」
コンスは投げ遣りに雑誌を閉じ、窓の外へと目を向ける。空は晴れても曇ってもいないような、はっきりしない陰気な色をしている。
白鳳が怪死した大学病院の事件は未だ一向に進展を見せていなかった。生徒が三人も巻き込まれているというのに、学校でもこうして簡単に話が出るくらいで誰も取り立てて騒いだりはしていない。煩わしくないのは有難いが、流石のチェリーでさえ少し薄情に思えてくる。テレビやネットのニュースではそれこそ一秒一行も報じられておらず、あの悍ましい事件は既に世間から忘れ去られようとしていた。陰気な空と、世間の色と、チェリーは日本の冬が好きになれそうになかった。
「…分かった。ありがと、コンスくん」
真偽も知らずにレアが行こうとした時、ちょうど始業のベルが鳴り、担任が無駄に肥えた胸を揺らして教室に入って来た。
「おはよ…って、あれ、どうしたの?」
朝礼のファイルを抱え込んで早速狼狽えてくれる無能な担任に、寧ろ安心感を覚える。
「加藤くんに八木戸さんに…他の子たちは?病欠の連絡は受けてないけど…屋上?どうして?何かあったのかしら?そう言えば柏先生も朝礼に来てなかったな…」
「…呼んできます」
レアがいち早く小走りに駆け出す。彼女が教室のドアに手を掛けようとすると同時に向こうから開けられた。
「ナッツ…!」
ドアを開けたナッツを先頭に、驚くレアや担任に構わず後からぞろぞろと戻って来た連中は物も言わず銘々席に着いていく。
「ナッツ…えっと…大丈夫?」
何事もなかったかのように足りない手足でちょこんと腰掛けるナッツは、心配して側に寄るレアを不思議そうに見上げる。
「ん?なにが?」
「その…どこ行ってたの?探してたんだけど…」
「ああ。うん、屋上にね。ちょっと」
「やっぱりそうだったの?もしかして柏先生も?何かあったの?」
教壇から身を乗り出して尋ねる担任を、ナッツたちはカラカラと笑い飛ばす。
「あはは。どしたのアンちゃん?別に何でもないよ。そう言われればモッチーもいたっけな?うん、何でもないよ。なんか、行きたくなっただけっていうか…チョコたちどうしてるかなって見てたの、山の上の病院を。ただ、それだけ」
「あ…そう…他のみんなも?ま、まあ、それならいいんだけど…」
担任は首を捻りながら出欠を取り始め、レアも不承不承自分の席に戻る。いくら腑に落ちなくとも本人たちがそう言うのだから仕方がない。コンスも何も見なかったことにするようだ。そうしてまたいつもの日常が流れていく。だがチェリーは。
―――ふん…臭うわね。
担任の点呼におざなりに返事をしながら、微かに漂ってきたキナ臭いニオイに胸を昂らせ密かに頬を歪ませる。これはもう一度行かないといけないようだ。
あの白亜の山城に。
辨天山の麓に構えるカフェ『エルピス』では今日も閑古鳥が鳴いていた。
有名教授の変死事件が起きてからと言うもの、直後こそは警察や報道関係者が一服するのに賑わっていたが、年が明けた今では常連の医者や看護師たちの足が途絶えた店内は昼過ぎの書き入れ時にもかかわらずひっそりと静まり返っている。
「マスター、おかわり」
午後の仕込みにでもかかろうかとしていたマスターを、トレンチコートを羽織ったままでカウンターの丸椅子に腰掛けた初老の客が呼び止める。ここ最近、病院職員に替わって毎日来てくれるようになった新聞記者だ。いつも一緒にいる部下からはシマダさんと呼ばれていて、役職は部長らしい。今日は珍しく一人だ。
「かしこまりました。…今日はお一人なんですね。ナカセさんたちはお休みですか?」
マスターは差し出された空のカップを受け取り、コーヒーのお代わりを注ぐ。
「逆だよマスター。あいつら急に仕事熱心になっちまいやがってね、せっかく誘ってやっても飯さえ断りやがるんだ。まったくつれないよ」
部長は退屈そうに欠伸を噛み殺し、袖を捲って毛深い腕をぼりぼりと掻く。マスターはお代わりのカップをソーサーに置き、空の食器を片付ける。
「良いことじゃないですか、やる気のある部下がいるっていうのは。その様子じゃあ、上はまだお忙しいんですね」
「それも逆だよ、マスター。関係者の聞き取りも一通り済んだし、肝心の隔離者と接触できるのも当分先だから、後は病院からの定期発表をのんびり待っているだけさ。警察だって出入りの規制くらいしかやることないんじゃないか?静かなもんだよ。新しいネタがそうそう上がってくる訳じゃなし、正直俺一人でも十分なんだがね、誰も戻ろうとしないんだ、これが。本社から命令が出るまでは居させてくれってさ。確かにまだ原因もはっきりしていないし、病棟の方の隔離は続いているし…正義感、って奴なのかねぇ」
「そう言う部長殿も、毎日夜遅くまで頑張っているじゃないですか」
まあねえ、そう笑って今度は組んだ足の裾を捲りくるぶし辺りをぼりぼりと掻く。マスターはお冷をグラスに注ぎ足し、吸い殻の溜まった灰皿を取り換える。
「ああ、灰皿は…もういいや。近頃煙草が不味くって仕方ねえ」
見れば灰皿の中の煙草はどれもほとんど吸われないまま揉み消されていた。
「可笑しなもんですね、昨日も同じことをおっしゃっていたお客さんがいましたよ。お身体のためにも、これを機会に禁煙なさっては?」
「まあねえ。…この銘柄、部下の一人がいつも吸ってたヤツなんだけどさ、そいつはたまたまあの病院の事故に巻き込まれちまって、隔離されたまま未だに音信不通なんだ。実は死んだ白鳳って教授とそいつは大学の同期らしくてね、ライバル意識もあったんじゃないかな、ずっと追いかけていたんだよ。それがこんなことになっちまって…ヤツも悔しがっていると思うんだ。きっと病院内じゃ吸えやしないだろうから、ヤツの代わりにせめて俺が…なんてね、そんなガラじゃあねえか。…おっと、つい長話になっちまった。俺もキリキリ仕事に戻るとするかな。マスター、ご馳走さん」
シマダ部長は支払いの小銭とまだ残っている煙草の箱と、どこかの店の名前が入ったライターをカウンターに置き、ソフトハットを薄い髪に乗せ肥えた腹を揺らし、首筋をぼりぼりと掻きながら店を出て行った。最後の客を見送ったマスターは店内の照明を落とし、自身も外に出る。表では妻がプランターのパンジーやビオラに水をやっていた。
「お疲れさま。気を付けてな、やぶ蚊みたいなのがいるから」
「あら、あなたも刺されたんですか?こんな季節なのに、変ですねえ」
「最近は冬でも屋内がずっと温かいからね、蚊でも何でも一年中いるらしいよ」
夫婦は互いに顔を見合わせて仲良く襟元や手首を掻き、マスターは入り口の看板を『準備中』に替える。
「あら、もうお昼はお終いですか?」
「うん。どうせ午後はもうお客も来ないだろうし、早仕舞いしてしまおうかと思ってね。…どうだい?今日辺り」
マスターがエプロンの紐をほどきながら親指で背後を差すと、妻もジョウロを置いて立ち上がり薄雲の広がる空を見上げる。
「いいですねえ。ちょうど私も行きたいと思っていたところなんです。…可笑しなもんですね、ほら、皆さんもあんなに行きたがってる…」
見上げる先には平たい土地から気紛れに頭をもたげたように競り上がる山と、その頂上で白く鈍く光る建造物。二人の目にそれは禍々しく、それ以上に神々しく映り、うずうずと心惹かれて已まない。あそこに行きたい。行きたい。行かなくては。子供の頃旅行に行く前日に感じた興奮のように、未知なる世界への恐怖と好奇が胸の奥から溢れてくる。そして麓に目を遣るとバス停では人々が列を成し、交差点は頂上へ向かうマイカーやタクシーで渋滞が起きている。マスターとその妻は逸る気持ちを抑えつつ、二人連れ立ち山を登る準備をするために店の奥へと戻って行った。
ぎゅうぎゅう詰めのバスに揺られて三十分、ようやく辿り着いた病院前の停留所は呆れるほどの数の人間でごったがえしていた。
「なんなのよ、これぇ…」
大して広くもない外来用の駐車場に百人は詰め掛けているだろうか、一人毒吐き人混みを掻き分けていく。こんな時小さな身体は便利だが、頭が埋もれてしまって息苦しくてしょうがない。まるでカール・ヨハン通りのクリスマスマーケットだ。目的が分からない分こっちの方がカオスかもしれない。はっきり言って面倒臭いが、ここまで来て何も見ずに帰るのも癪に障る。ぶつぶつ言いつつも時折隙間を見つけて息継ぎをしながら、制服姿のチェリーはじわじわと混雑の先頭に向かって泳いでいく。
学校帰りにちょっと様子を見に行こうと麓のバス停に着いてまず驚いた。いつもなら数人待っているくらいが関の山なのに、今日は雨除けの屋根からはみ出るほど並んでいる。街中を巡回してくるバスは既にシートが全部埋まり立ち乗りまでいる始末。それでも無理矢理乗り込み乗降口のステップにまで追いやられると、今度は病院までの信号もない九十九の上り坂が渋滞している。こいつらは病院がまだ封鎖中なことを知らないのだろうか?十分とかからない道のりのはずなのに超満員のバスは亀の如くちっとも進まない。乗客の中にはスーツ姿のサラリーマンや買い物袋を両手に提げた主婦みたいなのまでいる。とても大学病院に通うような患者や関係者には見えない。野次馬に来てんじゃないわよ、まったく…自分のことはすっかり棚に上げ、おっさんたちの脂臭い匂いに塗れながらチェリーは益々訝しむ。こりゃあ、何かあるどころじゃないわね…
掻き分け掻き分け、何とか正面玄関前に張られた規制線の近くまで来た。病院に入れろと詰め寄る市民たちとそれを阻止する警察の間で怒号が飛び交い一触即発今にも暴動が起こらんばかりに緊張が高まっている…かと思いきや、意外にも静かで誰も騒ぎ立てたりしておらず、それどころか先頭のおっさんおばちゃんたちは警察と和やかに談笑していたりする。皆大人しくその場に立ち止まり、かと言って何をするでもなくただ一様に前の様子を窺っているだけだ。なるほど、朝に塩ラーメンが言っていたのはこの事か。まるで話題の新商品の売り出し解禁日にショップの前で並ぶ客だ。こいつらは開門を待っていると言う訳ではなさそうだが。何にせよ気味が悪いことには変わりない。これは何かあるどころじゃない。もう既に、起こっているのか。
動こうともしない連中に付き合っていても日が暮れるだけなので、チェリーは予定していた通りに行動を起こす。如何に緩んだ警備と言えど正面突破はまず無理だ。出来たらとっくに誰かがやっていよう。チェリーは張られた虎柄のロープに沿ってぐるりと迂回していく。規制線の端は外来者用の駐車場と職員用の駐車場を隔てる垣根に繋がっている。垣根はバス停のある駐車場入り口まで続いていて、二つの駐車場を跨ぐ道路には三角コーンが立てられそこにも警官の警備がいるが、流石にレッドロビンが隙間なく植えられた垣根まで見張っている奴はいない。チェリーは動かない人波に逆らい下流へと泳ぎながらなるべく葉の重なりの薄い箇所を探し、頃合いを見計らって頭から一息に突っ込んだ。鋭い枝が剥き出しの額を頬を抉る。構わず強引に押し抜け反対側の砂利道へと転がり出る。身体ごと振り返り耳をそばだてるが向こうの様子に特に変わりはなさそうだ。
…まずは良し。血の滲む頬を膨らませて大きく息を吐き、髪に服にスカートに引っかかった葉っぱや小枝を払い落とす。さて、ここからだが…チェリーは病院から抜け出た経路を逆向きに進もうとしている。砂利道を抜け渡り廊下まで戻り、運が良ければ鍵の開いた窓かドアから入れるかもしれない。後は何とでもなるだろう。しかし一つ問題は、抜け出た時は考え事をしながらチョコの存在を忘れるほど夢中で走っていたのでどこをどう通ったかさっぱり覚えていないことだ。これは方向感覚の欠如とかそういう取るに足らないウィークポイントの話なんかではない。断じてない。確か真っ直ぐ走って来たのだから、そのまま真っ直ぐ辿ればいいはずだ。いいはずだ。いいはず…
気が付けば目の前に壁がある。もちろん病棟の外壁のはずだ。しかし肝心の窓がない。あの時飛び出した渡り廊下は一体どこに…?首を捻って見渡しても辺りの光景には全く見覚えがない。まああの時は夜だった訳だし、知っている道でも反対方向から見ると景色が変わるって言うから仕方ない仕方ない…無意味な言い訳で自分自身を励ましていると、窓の代わりに同じ壁面の端にある勝手口が開き、中から段ボールの束を手に提げた白衣姿の看護師が出てきた。チャンス…!チェリーは植え込みに隠れながら足音を忍ばせる。看護師はゴミ捨て場にでも行ったようだ。その隙に勝手口のドアノブを捻る。開かない。鍵を閉めていきやがった。くそ、用心深いな。どうせすぐ戻って来るんだから開けとけよ…こうして闖入者を阻止できたのだから看護師の用心は非常に正しかった訳だがチェリーは理不尽に歯噛みする。しょうがない、待つか。こうなれば堂々と身を晒し患者を装って入ってやる。実際に数日前まで隔離されていたのだし、ノッポやメガネだってまだいるのだから問題ないだろう。兎に角まずはチョコの安否を確かめねば。新聞やネットのニュースは毎日チェックしているがまだ何の音沙汰もない。あの新聞記者に拉致されたままと言うことはなかろうが、果たしてここに戻って来ているのだろうか?いや、きっと戻っているはずだ。自分はともかく、彼女のことを青柳が放ってはおくまい。それさえ確認できればもう用はないのだが、今度はどうやって脱出しよう?青柳のIDカードは新聞記者に持ち逃げされてしまったし…まあ、何とかなるか。無計画に策を巡らせていると、案の定すぐに手ぶらの看護師が戻って来た。チェリーは早速眉根を垂らしきょろきょろと首を振って困っている迷子のフリをする。が、まだ経験の浅そうなもっさりとした田舎者の印象をした若い看護師はちらりとチェリーに目を遣り、明らかにこっちの存在を認めているはずなのに特に気に留める様子もなくドアノブに鍵を差し込んでいる。
「ち、ちょっと…!いや、その、あのぉ、ちょっと散歩してたら帰り道が分かんなくなっちゃってぇ…えっと、ここから入らせてもらってもいいですかぁ?」
無視を決め込もうとする看護師にそうはさせじと精一杯媚びてみる。
「……病棟の患者さんですか?」
露骨に嫌そうな顔をしてくるがここはガマンガマン…
「そうなんですぅ、あたしったら方向オンチでぇ、いっつも迷子になっちゃうんですぅ」
「…病室は?」
「う…えっとぉ…確か407号室…だったかな?」
ちっ、何だってそんなに用心深いのよ、覚えてないわよそんなの…
「407?四階は全て隔離されていますが?どうしてここまで来られたんですか?」
「あ、いや、307かな?207?あはは、あたしったら物覚えも悪くって…」
「207号室なんてありませんよ。病室が分からないと確認しようがないので」
「ちょちょ、待って待って!ちょっと忘れただけよ!行けば思い出すから!」
あっさりと行ってしまおうとする看護師をドアに手を掛けて何とか引き留める。ドアを閉められない看護師は半開きの目で鼻から溜め息を吐く。完全に疑われているがここまで来て引き下がれるか。
「…407号室ですね?お名前は?」
「え?…と…チヨコです、クロハチヨコ」
咄嗟の嘘が裏目に出た。看護師は途端に険しい顔つきになり語気を荒げだす。
「いい加減なこと言わないでください!またですか?あなたたちの魂胆なんて見え見えですよ、そうやって彼女に会いたいだとか、一目見たいとかいう人が後を絶たないんですから!知世子さんは絶対安静で面会謝絶なんです。お引き取り下さい!」
しまった、あいつはここじゃ有名過ぎたか。力任せに閉めようとするドアに足を突っ張ってなんとか堪える。
「ああ違った違った!じゃなくてそれは友達のことで、何だっけ、そう、シュウ!クリムラシュウですごめんなさい閉めないで、チョコとは高校の、清香学院のクラスメイトで、ホントに友達なんだってば!」
必死の弁解でようやく力が緩まり、お互いに肩で息をしている。よくメガネの名前が出てきたもんだ。でかした、あたしの火事場の馬鹿記憶力…看護師は疑りの目つきのまま、胸元から内線用のPHSを取り出しぼそぼそとどこかに連絡を取り始める。どうかメガネがちょうど病室に居ませんように…
「…あ、サトウです…四階の患者さんでクリムラさんという方が…はい…はい…いえ、制服を着ていまして…はい…迷ったと言っていますが…いえ…はい、分かりました…」
看護師が電話を切り胸ポケットに仕舞う。表情は怪訝なままだ。こりゃ、失敗か…?
「…クリムラさん。ここは別棟なので本棟の方に回って下さい。壁沿いを右に行けば渡り廊下に出るのでそこから入るように。鍵は開けておきますので。ですがいくら制限が緩くなったからって、あまりうろうろしないでください。まだ隔離自体は解除されてはいないんですからね?」
看護師はやれやれと肩を竦めて大仰に首を振る。別棟?式典の会場があったところか?あたしはいつの間にそんな所まで…さっさと厄介払いがしたいのか、看護師は懇切丁寧に経路を指差している。こうなれば無理してここから入るメリットはなさそうだ。チェリーは適当に礼を言い、そそくさと言われた通りに渡り廊下を目指す。当初の目的地はそこだったのだから結果オーライだ。しかも鍵まで開けてくれるなんて。これはもう行かざるを得まい。壁を右ね、壁を右…ん?ここは左にしか行けないぞ?まあいいか、右に行っていれば大丈夫だろう、そうそう、右に、右に…
「あーキミキミ。そこで何してるの?」
チェリーが何度目かの左折をした先で壁が途切れ広場に出た。目の前には見覚えのある光景が広がっていた。赤白の三角コーンが並ぶ間に虎柄のロープが渡され、その手前には制服の警官たち、向こう側には黒山の人だかり。背後には病院の正面玄関がある。…なるほど。これは流石のあたしでも反対から見たって分かる。どこをどう間違えたのか、ここはさっき一生懸命抜け出てきた外来用の駐車場だ。
「いかんよ、勝手に入っちゃあ。ん?頬を怪我しているのか。でもこの病院は今は無理だから麓の病院で診てもらいなさい。ほらほら、行った行った」
「あ、ちょっ、ちが、あたしは…!」
制服姿で足掻いてもちっとも説得力はなく、あっさりと元いた人だかりの中へ追い返されてしまう。陽はもう暮れかけていて、その人だかりも後ろの方から崩れ始めている。帰りのバスに乗り込んでいるのだ。チェリーは潮のように引いていく人波の中、流れに逆らい一人その場に立ち尽くす。
「こんなにコケにされたのは初めてよ…覚えてなさい…!」
まるで自分に非はないかのように丸きり悪役の台詞を零し、チェリーは唇を噛み締め侵入を拒絶された白亜の城を睨み上げる。収穫はあった。やっぱりチョコはここに戻って来ていた。それにあの看護師、奇妙なことを言っていた。マスコミや研究者が『会いたい』と言うのは分かる。だが『一目見たい』だと?いくらあの弾けた教授の発表が衝撃的だったからと言って、これじゃあまるで教祖か何かだ。そしてこの群衆。更には学校の連中の怪しげな行動…不意に耳元を甲高い羽音が通り過ぎ、反射的に叩き潰す。またか。最近季節外れの虫があちこちで湧いている気がする。チェリーも何か所か刺されたが、痛みも痒みもなく腫れもしないので特に気にしていなかった。手の平でひしゃげた蚊ほどの大きさの虫をまじまじと見る。…気色悪い。鳥肌が立ち、チェリーはすぐに両手を叩き合わせて形を失くした残骸を払い落とす。
「待ってなさい、チョコ。あたしが必ず…」
皆までは口にせず踵を返す。一体この町の住人に何が起きているのか。何故突然チョコを崇め始めたのか。果たして赤松や青柳は何をしているのか。そもそもチョコは救いを求めているのか。そんなことはどうでも良い。この町の人間がどうなろうが学校の連中がおかしくなろうが知ったことではない。腹黒い中年たちが何を企んでいようが関係ない。自分がすべきことは唯一つ。奇怪な気配を放つ病院と真冬の残光を背に、チェリーは人気も疎らになりつつある駐車場を今は一人、大股でずうずうしく歩いていく。
あの子は、あたしのもんだ。
すっかり夜も更け、消灯時間を迎えた廊下はひっそりと昏く、静まり返っている。
この四階の隔離病棟も随分と規制が緩和され、医師や看護師の付き添いがあれば自由に院内を移動できるようになっている。外出はまだ許可されていないが、便宜上隔離されているだけの元気な人々は鬱憤を晴らすためか、昼間の院内は連日学校の昼休みのような賑わいを見せていた。その喧騒も日暮れと共に引いていき、今は病室が自分の巣であるかのように皆大人しく籠っている。
…好い感じだ。
履き潰しゴムの摺り減ったスリッポンは歩を進めるごとにリノリウムの床に貼り付き悲しそうな音を立て、青柳は満足気に頬を緩める。一人目の検体はタイミングが悪く孵化前に駄目になってしまったが、二人目は良い仕事をしてくれた。大阪から苦労して回収した甲斐があったと言うものだ。二人は大学の同期で、対照的な人生を歩んできたと聞いた。それが今ではそれぞれの役目を終え、地下の霊安室で仲良く並んで乾涸びている。皮肉なものだ。もう処分しても構わないのだが、あの中のウイルスたちはまだ生きているし、第一そんな暇がない。それにどうせあそこもすぐに一杯になるのだ。暫くはモニュメントとしてでも晒しておけばいいか。
実験室に向かう階段のある角を、今日は左に折れる。東南に位置する特別個室のドアの前に立ち、見ると入り口のセキュリティランプが赤く点滅している。誰かが侵入した痕跡だ。この時間は故意と開けておくのだが、果たして今日はどんな獲物が捕まっていることやら…青柳はプレゼントの箱の心持ちでドアを開ける。
「―――ヤギ先生…!」
入室に真っ先に気付くのはいつもこの部屋の住人の知世子だ。侵入者は大抵知世子に夢中でこちらのことは気にも留めない。ベッドの枕元を挟んで座っている今日のゲストたちも知世子に言われてようやく顔を上げる。
「…ああ。青柳先生、こんばんは」
「お邪魔してます」
物憂げに、ともすれば面倒臭そうに挨拶する二人は知世子のクラスメイトの栗村さんと澤くんか。外れだな。まあこの院内にはもう当たりと呼べる人物は居なくなってしまったからしょうがない。青柳はがっかりした顔にならないよう努めて明るく応じる。
「やあ、二人ともこんばんは。いけないなあ、こんな時間に。もう消灯時間だよ?」
「あ…本当だ。すいません、つい話し込んでしまって」
「もう、トータの所為だよ?遅いから遠慮しておこうって言ったのに…でも、もうちょっとくらい良いですよね?ね、チョコ?」
栗村さんは青柳にではなく枕を背にして身を起こしている知世子の顔を覗き込み、その知世子は少し困ったようにあははと乾いた笑い声を立て青柳に助けを求める。
「はは、冗談だよ。病院暮らしも退屈だろうから、好きなだけ気晴らししてくれて構わないよ。でも知世子さんも少し疲れているようだから、ほどほどにね」
二人は不満そうに、だが素直に頷く。実際知世子の目の下には隈が浮き出ていて、心身ともに相当疲労しているようだ。バイタルのモニタリングは二十四時間常に怠っていないが、あまり無理をさせる訳にはいかない。
「ごめんねチョコ、気付かなくって。でも久し振りに会えたんだもん、あと十分だけ。トータなんてチョコのことが気になって気になって、会いたい会いたいって毎日うるさいんだから」
「なんだよ、シューだってずっと会いたがっていたじゃないか」
「そりゃあ私たちは親友だもの。心配して当然でしょ?トータのは愛よ、愛。もう好きだって告白しちゃえば?」
「おいおいやめろよ、先生の前で…うん、確かにチョコのことは好きなんだけどさ、告白だとか恋愛だとか、そう言うのとはちょっと違うんだよな。人として尊敬しているって言うか、なんかこう、支えてあげたくなるって言うか…」
「分かる、それ。…この際だから言っちゃうけどさ、私、トータのこと好きだったんだよね。だからチョコには嫉妬してたんだ。だって私がどんなに一生懸命トータの気を惹こうと頑張っても、チョコは何もしなくたって心配されるし構ってもらえるんだよ?神様は不公平だなんて思った時もあったなぁ。そんな自分が嫌で、逆に仲良くしようとしたりして…でも当たり前だったんだよね、チョコがみんなから好かれるのなんて。今になってようやく分かったよ。不公平だとか、ホントにバカみたい。だって、チョコがその神様だったんだから…」
すっかり心酔しうっとりと知世子を見詰める二人を、青柳は相好を崩しにこにこと見守っている。
「あ、心配しないでね。私が言うのもあれだけど、今はチョコ一筋だから。トータのことなんて今は何とも思ってないし」
「なんだよそれ、俺だってチョコに比べたらシューなんて目じゃないからな?」
「あー、ちょっとひどくない?せっかく告白してあげたのに。女心は傷付きやすいんだからね?…なんてね、ウソウソ。それより先生、チョコはいつまで入院してなきゃいけないんですか?」
「そうですよ、そろそろ僕たちに返してくださいよ。学校のみんなだって待っているんですから」
そう訴える間も二人は知世子のことしか見ていない。過剰の愛情を垂れ流され当てつけられ、当人はただただ顔を青くし困惑している。
「…すまないね。でもあんな目に遭ったんだ、分かるだろう?知世子さんの身体も心も、安定するまでもう少し待ってあげてくれないかな。…さ、そろそろ時間だ。二人とも巡回の看護師に見つかる前に戻っておくれ。でないと僕が怒られちゃうからね…」
後ろ髪を引かれる二人をなだめすかして知世子の病室から送り出し、自分たちの部屋へと戻って行くのを青柳は誰もいない仄暗い廊下の角から見届ける。
上出来だ。
彼女たちの中でしっかりと育っている。想定以上どころか最早僕でさえ収拾をつけることはできない。だがそれでいい。僕はただ最後の一押しをしただけで、あとは彼女の、そう、神の思召すままに…だ。
病室に戻るとベッドの上に知世子の姿はなく、備え付けのバスルームから苦しそうに嘔吐く音が聞こえてくる。可哀そうに。いまが一番辛い時期だろう。だがそれも僕の紡ぎ上げた遺伝子が彼女に届いた証拠だ。この苦しみを抜ければ彼女はマリアとなり、イエスはその生を得て世界に慈愛を振り撒くのだから。いや、もう既に、か…
「う…あ…せ、先生…」
口元を拭いながら出てきた知世子は青柳の胸に崩れるように身を預ける。
「先生…わたし、どうしちゃったんだろう…?みんな人が変わったみたいに…知らない人たちまでわたしのこと…怖い…怖いよ…みんな白鳳先生とか、あの記者の人みたいになっちゃうの…?嫌だよ、そんなの…怖いよ、先生…」
よもやこれほど早く知世子の方に徴候が現れるとは予測していなかった。胎盤形成までには二か月はかかると思っていたのに。だがそれも悪くはない。潜伏期間は三週間。月が欠け再び満ちるまで、美しい時間も残り僅か。彼女の中のイエスはきっと、いち早く祝福を受けたくて急いでいるのだろう。あと少し。もう本当に、あと少しだ。
「先生…先生は大丈夫だよね…?わたし、いつまでもここにいるから…お願い、先生も、どこにも行かないで…!」
知世子はほとんど泣きながらか細い腕で弱々しく縋り付き、青柳はその小さな身体をそっと抱き寄せる。
「ああ…どこにも行かない、行けやしないさ。僕はこの仔の、父親なんだから…」
知世子がぶるっと身を震わす。喜んでいるのか、それとも嘆いているのか。どっちだって構わない。そう。彼女が望もうと望むまいと彼女はマリアになるし、僕は父になる。ヨセフは貞操を守った。そして守れなかった僕は、神の父になるのだ。
時節は大寒。分厚く重たい冬雲に星々は元より満ちた月さえ覆い隠され、空調が切れ差し込む光のない渡り廊下は凍える冷気に満ちている。時計の針が頂点を過ぎた頃、その片端の扉が微かに軋みを立てゆっくりと開けられる。僅かに開いた隙間から黒縁の眼鏡と、それに掛かる長い前髪が覗き出る。レンズの奥では黒い瞳が左に右に行ったり来たり、随分と慎重に、随分と時間をかけて何度も往復する。
―――誰もいない…か。
ようやく確認を終えた瞳を神経質に瞬かせ、黒羽悠太は隙間から身を捩り出し微かな音さえ気にしながら扉を閉める。可笑しなのは挙動だけでなく、その格好もだった。羽織ったパーカーのフードを目深に被り、鼻柱から喉元までぴったりと広げたマスクを二枚重ねにし、両手には診察や実験で使う青色のラテックス製の手袋を着けている。生身の肌が見えているのは目の周りくらいで、そこも眼鏡と前髪でカバーされている。これだけしたって無駄かもしれない…悠太はそう思いながら三十メートルほどの廊下を足音を立てぬよう時間をかけて病棟に向かって歩いていく。袖口やズボンの裾から侵入されたら気付きようがない。産卵管は薄い布など簡単に突き通してしまう。
悠太はこの一ヶ月、ただびくびくと一人怯えて過ごしていた。白鳳の発症当時、控室にいた悠太はそのままなし崩しに大講堂に隔離され、病院関係者でもないのに隔離者への配膳配給や衛生管理―――要は雑用をさせられていた。直接的な指図は隔離担当の医師や看護師から受けていたが、良く考えればそれも青柳が裏から手を回していたに違いない。別棟の隔離者はあらかた整理され、順に病棟や他の部屋に移されたりしているが、それでも大講堂には若手や学生がまだ百人近く残っている。プライバシーも何もない空間に何のアナウンスもなく一ヶ月も幽閉軟禁され、普通なら反発やら暴動やら起きそうなものだが、彼らは大人しく病院の指示に従っているどころか進んで掃除や洗濯や身の回りの仕事を見つけ出してきては規律と治安の維持に努めている。全員朝は七時の始業のチャイムで起き規則正しくレトルトの食事を摂り、夜は消灯時間にきっちりと眠る。まるで志願兵の宿舎だ。それが悠太には恐ろしくて堪らない。彼らはもう自らの意思では動いていない。操られていることにさえ気付いていない。いや、その行動自体が彼らの意思そのものなのだ。恐ろしい。彼らは本当の意味で働き
渡り廊下の半ばでふと立ち止まる。窓が一枚、開け放しになっている。寒いはずだ。まさかあの時から開いたままではなかろうが、悠太はここから出て行くのを目撃した三人の影を思い出す。あの新聞記者が落としていったサンプルチューブは間違いなくDAMDSウイルスのサンプルだった。どうやって突き止めてどうやって手に入れたか知らないが、フリーザーのラックからは確かに二本が失われていた。あの晩それを見つけた時、悠太は犯した罪の重さに慄いた。
父の遺したレシピを再現するのは難しくなかった。知世子のDNAから抜き出したシンチシン合成コードは簡単にバキュロウイルスに組み込まれ、ウイルスはヒトへの感染性を獲得した。白鳳と赤松が身をもって呈した通りだ。だが元々悠太は実際に使うつもりなど毛頭なかった。父の最期を見てそんな気になろうはずがない。白鳳だって青柳のレポートからその恐ろしさは存分に知っていたはずだ。増殖させるためのバイオリアクターなど必要ない。完成さえしていればそれだけで抑止力になる。核兵器と一緒だ。その可能性を示すことでせいぜい警告に使うつもりだった。しかし白鳳はメールを無視し、ナトリとの契約を進めてしまった。どうやら白鳳は悠太のことなど少しも信用していなかったらしい。自業自得だ。知世子を私物化しようとした報いだ。そう言い聞かせ、結局悠太は青柳の提案に乗った。どうせ多角体は特殊な状況下で直接摂取しない限り二次感染は起こさない。赤松が感染したのは不幸な事故だ。あんなタイミングでプロトンポンプ阻害薬など飲む奴が悪い。それにきっとあいつも害にしかならない人間だったのだ。だから良かったんだ、これで…そう思おうとしていた。たとえ自分が犯人だとバレようが逮捕されようが構わない。妹さえ、知世子さえ護れたらそれでいい。ただそれだけだったのに…
ブン。
フード越しに羽音が聞こえ悠太は咄嗟に身を捩り自分の頭を狂ったように叩く。両手で執拗に何度も振り払い、しかしその死骸や痕跡はどこにもなかった。気のせいだったか。あるいはとうとう幻聴まで聞こえだしたのか…
あのヤドリバチはヒフバエのようにヒトの皮下に卵を産み付ける。卵はDAMDSウイルスの多角体に冒された体内で孵化し、幼虫は養分を吸って成長する。卵や幼虫に対する宿主の免疫は母蜂から同時に投与されたポリドナウイルスで抑制され、結果バキュロウイルスをベースにしたDAMDSウイルスも活性化し幼虫たちに取り込まれる。昆虫ウイルスキャリアの完成だ。幼虫は三週間で成長し皮膚を破って蛹となり、そして羽化する。全て赤松の身体で証明された。羽化した何百匹ものハチたちは新たな宿主を求めて飛び立っていき、今やヤドリバチの成体は病院内のあらゆる箇所に潜んでいる。院内だけじゃない、一匹の行動半径が2、3キロ程度だとしても、毎日あれだけの人数が山を登りここを訪れ、また下りているのだ。衣服の影に、バスの隅に、鞄の中に紛れ込み、恐らくは既に麓の市街にまで生息範囲を広げていることだろう。最早この町を焼き尽くしでもしない限り駆除は不可能だ。それだけじゃない。あのウイルスは明らかに宿主を操っている。できるだけ高所へと宿主を移動させ、さらには知世子を求めるような動きさえ見せている。嘗て青柳の青写真通りなのか。できっこない。仮に技術的に可能だとしても、青柳がそれを実行に移すはずがない…そう思い込んでいた。白鳳が悠太を信じていなかったように、悠太もまた青柳を見くびっていたのかもしれない。だが現実にヤドリバチは解き放たれ、DAMDSウイルスは媒介されてしまった。自分が刺されたかどうかは分からないが、まだ兆候は現れていない。いないと思うが、そうなっていたとしても自覚することさえできないのだ。恐ろしい。恐怖で頭がどうにかなりそうだ。そしてその発端を自分が生み出したと言う事実が、殊更に悠太の心を苛んでいく。
…逃げよう。悠太は開いたままの窓に手を掛ける。イブの夜にあの三人が逃げていったように、自分も全部放り出してどこか遠くへ逃げてしまおう。この町がどうなろうと知ったことか。そもそも俺はこの大学の人間からずっと迫害されてきたんだ。病院の連中だって誰一人父さんを守ってくれなかったじゃないか。因果応報。当然の報い。今度はお前らが苦しむ番だ…悠太は窓枠に掛けた手に力を籠める。だが、その身体は一向に持ち上がる気配はない。逡巡するラテックスの手袋の下で、行き場のない水分がじんわりと皮膚を湿らせる。…逃げてどうする?もし感染していたらどこに逃げようが無駄だ。よしんば感染していなくてもたった一人、拠り所もない世界でどうやって生きていくのか?それに…悠太は開け放たれていた窓を静かに閉め、凍てつく外気を遮断する。
それに、俺が逃げたら誰が知世子を護るんだ…
どうしてあのまま逃げ延びてくれなかった?お前が居たら、俺はどこにも行けやしないじゃないか…フードに覆われた頭を弱々しく振り、悠太は渡り廊下を病棟へと向かう。残された時間は幾許も無い。間に合わないと知っていながら、それでも悠太は一縷の望みに縋るため、矛盾と葛藤を抱えたまま病棟の階段を、その最上階へと向かっていく。白鳳の遺した、最後の課題に取り組むために。
夜明け前。八木戸奈津はベッドの上でむくりと身を起こす。枕元の時計を見ると今日もぴったり六時だ。朝はあまり得意ではなくいつも不機嫌に起こされていたのに最近は自然にぱっちりと目が覚める。目覚まし時計なんか要らなくなった。頭の上で手を組み一つ伸びをしカーテンを開ける。東の空はもう白んでいてもいい時間だが今日も朝から灰色の分厚い冬雲に覆い隠されている。そんな天気とは裏腹にすっきりした気分で部屋を出て洗面所で顔を洗い歯を磨いていると父親も起きてきて隣で髭を剃り始める。おはよう。おはよう。ウザがっていた父親とも普通に挨拶を交わすようになった。いや、そもそもこれが普通なのか。トイレを済ませてリビングに行くと食卓は大皿一杯の煮物や唐揚げ、焼き鮭に玉子焼き、みそ汁に納豆、漬物や味付け海苔なんかの小鉢で溢れている。もっと早起きした母が張り切ったようだ。おはよう。おはよう。同じ体形をした母と挨拶を交わし丼一杯にご飯をよそい席に着き早速もりもりと平らげていく。味はともかくお腹一杯になるのは良いことだ。ちょっと前までシューと一緒にダイエットダイエットと励んでいたのが馬鹿らしく思えてくる。今は食欲を満たすのが愉しくてしょうがない。後から来た父と母も会話もそこそこに箸を進め大皿のおかずも丼のご飯も見る見るそれぞれの胃の中に消えていく。中学生の弟は部活の朝練に行ったらしい。この寒い中ご苦労なことだ。気が付くと小一時間は食べ続けていたか。そろそろ準備をしないと。ごちそうさま。一足先に食卓を立ち自分の部屋に戻って制服に着替える。スカートのファスナーを上げようとしてホックが閉まらない。む。流石に食べ過ぎたか。まあいいや。閉まらないホックはそのままに手櫛で髪を梳きコートを羽織る。七時半。そろそろレアが呼びに来る時間だが呼び鈴が鳴るのを待っていられない。何せこっちは早く学校に行きたくてしょうがないのだ。学校の屋上に行って空を見上げないと落ち着かない。ああ、早く行きたい。行かなくては。考え出したら居ても立ってもいられなくなりまだ朝ご飯を食べている両親を横目に玄関に向かう。父は口元からなにやら汁をだらだらと垂れ流していたが気にしない。どうせ髭を深剃りでもし過ぎたのだろう。靴を履き玄関を開け一息深く吸い込むと朝の冷たい空気が肺の隅々にまで満ちてくる。清々しい。学校まで歩いて十分ばかり。でも今日はずんずんとどこまでも歩いて行けそうだ。ナッツ、ナッツ、後ろから呼ぶ声に振り返るとレアが小走りに追い駆けてくる。ナッツ、待ってナッツ、息を切らせている。空手をやっていたくせにだらしがない。シューにくっついてオケ部になんて入るからだ。ねえ、何かおかしくない?何が?ここら辺の様子、だって人も全然いないしいつものバスも走っていないみたい。気のせいでしょ。構わずずんずん歩く背中をレアが突つく。うちの親も変な感じだったし、ナッツは大丈夫なの?鞄は?持って行かないの?リボンもしてないよ?いつも無口なレアがごちゃごちゃとうるさい。おかしな子だ。私は何も変じゃない。寧ろ調子はすこぶる良い。変なのはあんたの方じゃないの?適当にあしらいながら学校に着くと生徒たちがぞろぞろと校門をくぐっている。ほら。いつも通りじゃない。靴を履き替え脇目も振らず階段を登る。目指すはもちろん屋上だ。そのためにわざわざ来たようなものだ。スチールのドアを開けると屋上はたくさんの生徒と教師でごったがえしていた。ここも人が増えたな。まるでちょっとしたライブ会場だ。コンスがいた。あいつも来てたのか。まあいいや。お互いに声はかけずに人混みを掻き分けいつもの定位置に向かう。モッチーやオハギさんの姿も見える。さっきまでついて来ていたはずのレアはいつの間にかいなくなっていた。気にせず北東のフェンスの際に辿り着く。やっぱりここが一番良い。辨天山。そのてっぺんまで良く見える。白く鈍くそびえる大学病院。あそこにチョコがいる。そう思うとまた居ても立ってもいられなくなってきた。私、こんなところに居ていいのかな?周りの人たちも何だかそわそわしている。そうだ、何もこんなところから見上げていなくたって、あそこにだって行けるんだ、行けるんだったら行けばいいんじゃないかな、側に立つコンスと目が合う、行こうや、そう言って頷く、ああ。やっぱりこいつはいい奴だ、言わずとも私の気持ちが伝わっている、よし、行こう、頷き返し戻ろうとするとちょうどチャイムが鳴った、それが合図かのように他の人たちもぞろぞろと階段へと戻っていく、なんだ、みんな同じ気持ちだったのか、少し嬉しくなり隣を見ると、表情は変わらないがやっぱりコンスも嬉しそうに見えた。
「―――八木戸さん!蜂須くんまで…どうしちゃったの?何が起きてるの?」
教室の前を通りかかると、アンちゃんが駆け寄ってきた。目に涙を溜めて袖に縋り付いてくるが何のことだか分からない。首を傾げて教室を見渡すと、中に居るのはレアとチェリーだけだった。まあたまにはこんな日もあるだろう。何より私自身がここに居ることに違和感を持っているのだから。
「どうしてこんなことに…こんなんじゃ授業にならないよ…うう…職員室も誰もいないし…私、どうしたらいいの…?」
「アンちゃん、そんなんナッツにゆうてもしゃあないやろ。それより、こんなけんしかおうへんのやったら、今日は休講ちゃいますのん?アンちゃんも今日くらい帰って休んだらええやん。ほなわいら、行かせてもらいますわ」
さすがコンス。私が見込んだだけはあっていいこと言う。…あれ?私、こいつのこと好きだったんだっけ?まあいいや。なおも喚き縋るアンちゃんを振り解き教室を出て行こうとすると、扉の前でチェリーが立ちはだかる。
「……どいてくれない?」
「どこに行くつもりよ」
同じくらいの背丈のチェリーが鼻を衝き合わせてくる。その後ろでレアが今にも倒れそうな青い顔をして寄り添っている。なによ、あんたいつからそっち派になったの?
「……どこだっていいでしょ?あんたには関係ないよ」
「関係あるからこんな面倒臭いことしてんのよ。あんたたち…チョコに手ぇ出したらただじゃおかないよ」
どぎつい髪色を逆立て目を吊り上げ咬み付かんばかりに凄んでくる。あまりに真剣な怖い顔に、ナッツは吹き出して笑う。
「手を出す?ただじゃおかない?ふはっ、何言ってんの?これまでチョコを護ってきたのは私たちなんだけど?あんたに何の権利があるってのよ?ちょっと仲良くしてもらったからって調子に乗んないで。これからみんなでそのチョコに会いに行くの。いいからさっさとどきなさいよ」
「あんたたち…やっぱり行かせる訳にはいかないないね…!」
そう吐き捨て襟元に伸ばしてきた手を横からコンスが絡め取り、男の力で問答無用に組み伏せる。さすがコンス。頼りになる。私が気に入った男なだけある。…あれ?私、こいつのこと好きなんだっけ?まあいいや。軋みを上げそうなほど後ろ手に締め上げられ、流石のチェリーも今回は反撃できない。
「すまんなあ、チビジャリ転校生。結局お前はワイらには馴染みぃへんかったんや。ほんま、冗談は髪の色だけにしとき。…ほな行くで、ナッツ」
歯噛み呻くチェリーを床に投げ捨て、その女を踏み越えてコンスが教室を出て行く。無様に床に転がるそれを一瞥し、ナッツも後についていく。
「ナッツ…!」
知った声に目を向ければレアが心配そうにそれを抱き起こしている。ふうん。あんたいつからそっち側になったの?シューだったらこの裏切り者って怒り狂いそうだ。シュー。シューって誰だっけ?もう随分と長いこと会っていない気がする、まあいいか、そんなことより今はチョコだ、チョコに会いに行かなきゃ、チョコに会って…どうするんだっけ?まあいいや、考えるのも億劫だ、今はあのラーメンの縮れ麺みたいな髪の男について行けばいいんだ、あれ、あいつって…誰だっけ?まあいいや、今は…
「おい、担任!いつまでメソメソしてんのよ!」
他に誰もいなくなった教室で、レアに手を引かれ立ち上がったチェリーがアン先生に歩み寄る。床にへたり込んでうな垂れるアン先生はチェリーに見下ろされ罵られても顔を上げられないでいる。
「ううう…でも誰も私の言うことなんか聞いてくれないし…八木戸さんや蜂須くんまで…うう…私もうどうしていいのか…」
「ああもう鬱陶しいわね!ほら、さっさと立って!行くわよ!」
痺れを切らしたチェリーに襟首を掴んで引き上げられ、アン先生はようやく涙で曇った眼鏡で呆けたように仰ぎ見る。
「緊急時ってどうするんだっけ…?とにかく今の状況を教頭先生たちに報告して今後の対応を相談しないと…」
「はっ、呆れた。こりゃあもう駄目教師どころかただの白痴ね。職員室でもどこでも行ってみれば?今頃もぬけの殻よ。あんた自分でそう言ってたじゃない。相談する相手なんていやしないわよ」
チェリーは肩を竦めてアン先生を放り出し、チョコの机に掛けてある予備の杖を掴み取ると折り畳みを伸ばして二、三度振り回す。
「……チェリー、私も行く」
代わりに手を引きアン先生を立ち上がらせ、レアはじっとチェリーに視線を向ける。チェリーは振り回していた腕を止め、杖の先と強い眼差しを突き返してくる。
「…いいの?最悪、幼馴染みの悲惨な最期を見ることになるわよ?」
その言葉にレアはぐっと唇を噛み、それでもしっかりと頷き、背中まである長い髪を後頭部で一つに纏める。
「行くよ、そのためにも…!」
「あんた…やっぱりいいわね。気に入った」
覚悟を込めたレアの返答に、チェリーは口の片端をにやりと歪める。そんな二人のやり取りにアン先生がよろよろと割って入る。
「行くって…どこへ…?あなたたち、何するつもりなの…?」
教師としての最後のプライドで辛うじて立っているアン先生の肩を、レアはそっと支えてやる。先生は一緒に来ない方が良いかもしれない。この人は携わった生徒に対し、誰一人分け隔てなく心を砕いてしまうから…レアはそう思って聞いていたが、やはりチェリーは容赦がなかった。
「あんたまだ分かってないの?それだけ鈍感だと逆に羨ましいわ。いいからあんたは黙って車を出しな。あたしたちを病院まで連れてってくれりゃあそれでいいから。ええい、道が分かってペダルに足が届きゃああたしが運転するのに…」
「病院…?北員大学の…?なんで…?」
「なんでもクソもないわよ、まったく…煩わしいから一言で理解しなさい」
チェリーは椅子に掛けていたコートの裾を翻し、少し長めの袖に腕を通す。レアには見覚えのある、それはチョコのコートだった。
「卵が孵化したのよ」
「―――ひどい…」
無口なレアでさえ思わず口を衝いてしまう。清香学院から北員大学病院のある辨天山の麓まで5キロほどの道中、窓外に目にしたのはこの世のものとは思えない、そんな安直な表現しか許されないような悲惨な光景だった。
まず目についたのは事故に遭い乗り捨てられた車たちだった。一台二台ではない、ドアが歪みボンネットが潰れ、歩道に乗り上げ車道を塞ぎ、単独のものもあれば何台もが絡む多重の事故もあり、病院へ向かうにつれてどんどん増えていく。その中には座席にうな垂れハンドルに寄り掛かり動かない人影が見えた。ひび割れたフロントガラスに頭から突っ込み開かないドアからどうにか出ようともがき挟まれた車両の隙間からはみ出た手足がぴくぴくと震え車外に投げ出された幼い子供の身体が後続に轢かれ蛙のようにひしゃげていた。とても直視に耐えない。それでもなお正気を保ち窓の外に目を向けさせるのは、どの事故現場にも一滴も赤い血は流れておらず、代わりに真っ白な体液がフロントガラスを黒塗りの車体を灰色のアスファルトを染めていたからだ。その光景は車のガラスに映ったモノクロ映画のように切り取られ、遺体も重体の怪我人もまるで古びたセルロイドの人形のようで現実感が遠のいていく。始めは騒ぎ立てていた運転席のアン先生もものの五分でレアと同じ境地に陥り、今は瞬きも忘れ乾いた目からだらしなく涙を流し、歯を食いしばり犬のように息を荒げている。何よりその虚無感を煽るのは目の前で起きているそんな状況を意にも介さず歩き続ける人々の群れだ。登校時には誰もいなかった通りに一人二人と姿を現し、次第に列を成し群れとなりレアたちの向かう同じ方へのろのろと進んでいる。チェリーの話では小さなハチから感染したウイルスに操られているのだと言う。元々そのウイルスはガの幼虫を背の高い木の梢へと登らせ身を晒し、挙句どろどろに溶かしてしまうものらしい。それがこうして宿主を彼らの知る最も手近で最も高い場所、すなわち辨天山の頂上を目指して進ませているのだと。…俄かには信じがたい。だが実際に家の屋根や電柱に登ろうとしている人たちがいて、気の早いものはその上で一足先に憐れに溶け崩れ、既に一塊の繭になっていたりした。繭。それもまたハチによって植え付けられた、いやそれこそが正にハチたちの目的であり、宿主を病院のチョコの下へと導く原動力になっているのか。彼らには記憶も知覚もはっきりとした意識も残っていて、ただ意思だけがウイルスによってコントロールされているらしい。現に彼らは律義に歩道を歩き信号を守り、不用意に互いに干渉することを避けている。チェリーはウイルスに感染したガの幼虫はゾンビになるのだと言った。彼らの表情は虚ろで皆一様に青白く、瞳を白く濁らせ気怠そうに手足を動かすその姿はまるきりホラー映画のゾンビそのものだ。
「う…も、もう無理だよ…これ以上行けない…」
事故車を避け遺体を跨ぎそれでも何とか進んでいたアン先生の車は、ようやく辿り着いた辨天山の麓の交差点で行くも戻るもできなくなった。何十台もの車やバスが折り重なってぶつかり潰れ、頂上の病院へと続く上り坂では横転したトラックが完全に道を塞いでいた。あちこちでクラクションが鳴り、膨れ上がった人々の群れはとうとう歩道から溢れ立ち往生している車の隙間を黒く白く埋めている。進まない列に苛立った若い男の人が強引に割り込もうとして殴られ白い鼻血を噴き出している。ボンネットを乗り越えようとした老婆が足を滑らせ頭から落ち群衆の足元に見えなくなった。体力の少ない子供や老人は坂の早々で力尽き倒れ、ドロドロに半壊した少年の鼻孔や口や眼窩から何百と言う白い蛆虫が這い出している。その親だろうか、中年の女性が引く手には肩から先がついていない。彼女が踏み付けた白い塊は既に繭になっていて踏まれ蹴られる度にびくびくと気味悪く蠢いている。地獄。レアは冷や汗を流し目を背けアン先生は口元を押さえ今にも気絶しそうだ。チェリーでさえ奥歯を折れそうなほど噛み鳴らし、この地獄をただ睨み付けている。どうすることもできない。組織が崩壊し蛆虫が這い回る肉体を救うことはどう考えても無理だ。あとは筋肉が溶解し心臓が動きを止めるまでこの人々は、いやヒトだったものたちはただひたすらウイルスに使役され続け、ただひたすら高見に頂くチョコを目指して坂道を一心に這い進んでいくだけなのだ。
「ね、ねえ、本当に行くの?警察とかに任せた方が……ひぃっ!」
通りすがりに突然フロントガラスを叩きつけられアン先生が驚いて身を跳ねる。ガラスにはくっきりと白い手形がついている。
「分かんない奴ね。誰に頼るって?…ほら」
助手席のチェリーが親指で差す先で制服の警官が群衆に交じって歩いていた。この町の防災保安などとっくに機能していないと言うことか。近隣から応援を呼ぶにしても手段もなければそんな時間もない。こうしている間にもゾンビの群れは病院に達しているかもしれないのだ。
「まずいわね、急がないと…仕方ない、突っ切るわよ。レア、チョコがいつも使ってた山道は分かる?よし、じゃあ案内して。…あんたは?別に来なくたっていいのよ?」
「えっ?い、行くよ?行きます!こんなところに一人で置いて行かれたら…きゃあっ!」
この車にも取り囲んだ人たちが圧し掛かってきて車体が揺れる。人の数は益々増えてきている。ぐずぐずしていたら車から出られなくなってしまう。
「…ふん。言っとくけどあんたに構ってらんないからね。自分の身は自分で守りな。それと…」
チェリーがアン先生の襟首を掴みぐいっと顔を引き寄せる。涙に濡れた瞳はまだ綺麗に透き通っている。
「妙な動き見せたらあんただって容赦しないから。…行くよ!」
チェリーに促されレアは後部座席から飛び出し人の群れを縫って走っていく。すぐ後ろにチェリーが、アン先生も泣きながらついて来ている。そうなのだ。レアの胸の内に黒い雲のような感情が立ち込める。アン先生やチェリーが感染していない保証などどこにもない。ナッツやコンスたちはこの群衆の中のどこかにいる。自分の家族だっているかもしれない。そして今から向かう先の病院にはトータと、そしてシューがいるのだ。もし彼女に出会って、もし彼女が白い血を流していたら?胸の黒雲が喉元までせり上がって来て息ができなくなる。…分からない。だが今は行くしかない。行って見届けるしかないのだ。たとえどこにも救いがないとしても。レアは切れてきた息を大きく吐き黒雲を追い出し無心で走る。そう、たとえ自分の瞳が濁っていたとしても、だ。
小さな神社の脇から山道に入ると流石に人波はここまで押し寄せてはいなかった。地元の人間でもこんな登山道を知っているのは一部の物好きだけなのだろう。後は頂上まで分岐はなく一本道で、いくらチェリーでも迷いようがない。そのチェリーを先頭に三人は小走りに駆け上がっていく。運動不足のアン先生はここでも泣きそうだ。地力があるはずのレアでもきつい。それをチェリーは速度を落とすことなく、九十九折の急坂も小さな身体でひょいひょいと登っていく。一体どうやって鍛えたのだろうか。ついていくのもやっとだが、こんなところで遅れる訳には行かない。チェリーがそうであるように、自分にだって賭ける思いがある。アン先生も同じ気持ちなのだろう、ぜいぜいと肩で息をしながらも必死についてきてくれている。
見晴らしの良い中腹の展望台まで来た。谷側の視界が開け街中を見下ろせるが今は景色に耽っている暇はない。と、東屋を過ぎたところでチェリーの速度が落ちた。見ると前方に二人、同じように上を目指して歩いている男女がいた。この先は道が狭く、二人横並びでいるため素通りはできそうにない。この人たちは…どっちだろうか?チェリーもそれで迷っているのだろう、少し離れて歩調を合わせ様子を窺っている。
「ハア、ハア…ど、どうしたの?待ってくれなくても、私なら、だ、大丈夫だから…」
息も切れ切れに追いついてきたアン先生の声に前の二人が後ろを振り返る。見覚えのある顔。店のロゴの入ったエプロンを着けた、確か麓のカフェのマスター夫妻だ。そしてちらりと見えた二人の瞳は、白く濁っていた。
「別にあんたを待ってた訳じゃないんだけど…ま、手間が省けたわ」
言うが早いかチェリーは大股で前に追いつき、手にしたチョコの杖を二人の間に差し込み脇腹を押し退け強引に突っ切ろうとする。その拍子に女性の方がバランスを崩し整備の行き届いていない道の端の切り立った崖に足を踏み外した。
「ああっ…!」
弱々しい声を残し転げ落ちそうになった手がチェリーのコートの袖を掴む。不意にかかった体重に諸共よろめき、チェリーは咄嗟に杖でその腕を殴り付け弾き飛ばす。ぐじゃり。鈍い音がして肘があらぬ方向へ折れ曲がる。
「チェリーちゃん…!」
アン先生が非難と危惧の混じった声音を上げるがチェリーは見向きもせず尚も伸びてくるもう片方の手を冷たく見下ろし、振り戻した杖の先を女の顎に叩きつけた。
「チェ…リー…ちゃん…?」
白い飛沫が飛び散る。アン先生の声が戸惑いに変わる。チェリーは徐に片足を上げ、砕けた顎からだらだらと白濁液を垂らしながら背中からゆっくり崖へと倒れていく女の胸を追い討ちに踏み抜き、彼女は勢いそのまま枯れ木の茂る崖下へと落ちていった。アン先生と共にレアも言葉を失う。容赦しないとはこう言うことか。何もしなければ道連れに崖下へと落ちていたかもしれない。ウイルスに満たされた肉体はどのみち助からなかっただろう。チェリーは正しい。少なくとも間違ってはいない。反論すら許さない冷徹。だが彼女はまだヒトの姿をしていて、まだ生きていた。この先、自分の身を守らなければならなくなった時、果たしてチェリーのように振る舞うことができるのだろうか?そうしなければならないのだろうか?チェリーが早く来いと手招いている。躊躇うレアの横をアン先生が怖い顔で通り過ぎる。アン先生は怒っていた。当然だ。アン先生は教師なのだ。チェリーの担任として彼女を正さなくてはいけない。だがどうやって?間違っていないチェリーをどうやって、何と言って正せばいいのか?息を切らして歩み寄りアン先生は平手を振り上げる。チェリーは堂々と胸を張り待ち構える。その頬を、いきなり別の方角から伸びてきた拳が打ち抜いた。不意を突かれ膝から崩れるチェリーの胸倉をその拳が鷲掴む。
「君ぃ…あまりに失礼じゃあないか…挨拶もなく無理矢理追い抜こうとするだなんて…私たちだって急いでいるんだよ…」
マスターに吊るし上げられチェリーは浮いた足をばたつかせる。振り上げようとした杖を目敏く奪い取られ投げ捨てられる。
「挨拶はねぇ…山登りの基本的なマナーだよ…すれ違う時は『こんにちは』、追い越す時には『お先に』だ…学校で習わなかったのか?…困るねぇ、先生…それぐらいはしっかり教育しておいてくれないと…そんなんじゃあろくな若者が育たないよ…」
片腕で軽々とチェリーを掲げ的外れな抗議を続ける。落ちていった妻のことはまったく気にしていない。意識も常識も残っているのに、理性だけが奪い去られてしまっている。そしてこの力。コートの襟が喰い込み息が詰まり、チェリーの顔色がみるみる青く変わっていく。まずい。アン先生は手を振り上げた格好で固まり竦んでしまっている。まずい。声も出せずもがくチェリーの喉ががはっと最後の息を漏らし抵抗していた両腕が足がちからを失いだらりと垂れる。まずい…!そこから先は身体が勝手に動いていた。一呼吸。レアはバネのように縮めた脹脛で地面を蹴りつけ一気に距離を詰め伸ばした腕を地面に掠め掬い上げたチョコの杖を肩の裏まで振り被りチェリーの首を吊る腕に目掛けて思い切り叩きつけた。ばきん。折れる音。振り抜いた手が痺れる。地面を叩いた折り畳みの杖が蝶番のロックから真っ二つに割れていた。飛沫が液がその上に降り注ぐ。残心。体勢を直し掛け受けに構えるとチェリーは膝を着いて咳き込みマスターはあっさりと千切れた腕を袖口からぶら下げそこから白濁液をだくだくと流しながら無表情でこちらを見ていた。濁った瞳。その縁から白い涙を流し無表情で掴みかかって来るのを廻し受け逸らせた流れで蹴り上げた左足がしなやかにしなり無防備な側頭部を蹴り抜いた。ばきん。折れる音。蹴り抜いた足が、レアの意識が痺れる。打たれた額の皮膚が頭蓋がこめかみから真っ二つに割れていた。飛沫が液が噴き出し視界を白く染める。マスターの肉体は力なく崩れ、先に行った妻を追って崖下へと落ちていった。
「い…稲妻…さん…」
残心も忘れ、レアは音のしなくなった見通しの利かない谷底をただ茫然と眺めていた。痺れた爪先から震えが昇ってくる。やってしまった。震えが内臓を締め上げ冷たい汗がどっと溢れる。取り返しのつかないことをしてしまった。目の前が暗くなり震える肩を両手で抱えてうずくまる。死。自分はたった今、人を殺してしまったかもしれない、いや、あの傷でこの高さ、助かりはしまい、でも仕方なかった、あのままだったらチェリーはきっと絞め殺されていた、自分やアン先生だって危なかった、それに彼はもう死んでいたも同然だったのだ、遅かれ早かれ皮膚が溶け体液が弾け蛆虫たちに蝕まれていたはずだ、そうだ、自分は屍体を蹴り飛ばしただけだ、そうしなきゃこちらがやられていた、これは必然の行動だったんだ、どうしようもなかった、間違っていない、自分は間違って…だがこの感覚はどうだ?足首に残る感触、あの白く染まる光景、神経に刻まれ網膜に灼きつき二度と忘れることはできそうにない、犯した罪の重さと今頃込み上がる恐怖に震えが止まらない、何てことを、自分はとんでもないことをしてしまった、ごめんなさい、ごめんなさい…!と、うな垂れる頭を上からぐしゃりと撫でられ、すぼめた脇にその手が差し込まれた。震える肩を引き上げ支え、チェリーが何か言っている。
「…ありがとう。助かった」
レアの透き通った瞳が揺れる。この子の口からお礼の言葉が出るなんて思いもしなかった。この子はぶれない。迷いもしない。だから強くいられるのだ。この子はその瞬間まで自分が死ぬことなど考えもしないのだろう。どうしたらそんな風になれるのだろうか。羨ましくもあり、怖くも思う。でも行かなくては。この震える手足を抱えて、それでも進まなくてはいけない。立ち止まったらそれで終わりなんだ。動け、私の足…!折れそうに震え続けるレアの前に、丸眼鏡の奥をぐちゃぐちゃに濡らしたアン先生が立っていた。
「あなたたち…!」
挙げた平手が今度は躊躇うことなく振り下ろされ、二人の頬が乾いた音を立てた。驚くレアと毅然と胸を張るチェリーを、アン先生が抱き寄せる。
「…バカ…!あなたたちに何かあったら…どうするの…!」
アン先生は生徒たちに憚らず泣く。チェリーの頭を胸に抱えレアの襟元に顔を埋め泣いてくれる。優しい正直な叱咤に、気付けばレアの震えは止まっていた。
「……ちょっと!いつまで泣いてんのよ!こんなところで油売ってる時間なんてないんだから、ほら行くよ!無駄にでかい乳を当てつけんじゃないわよ、まったく…」
泣きじゃくるアン先生を突き放し、チェリーは叩かれた頬を照れたように歪める。そうだ。行かなきゃ。もう後戻りなどできはしないのだ。どちらにしても地獄だと言うのなら、進むしかないじゃないか。レアは震えの止まった、まだ痺れの残る足を踏み出し、手にしたままだった折れたチョコの杖をチェリーに渡す。チェリーは寸時それを眺め、折れた先から二人が落ちていった崖の端の地面に突き立てそのまま山道へと踵を返す。いいの?と聞くと、もっと良いの持っているから、と今度は反対の頬を不敵に歪める。
「ここから先はもっと酷いよ…覚悟はいい?」
自分に言い聞かせるようにチェリーが言い放ち、アン先生が後を追って走り出す。まるで墓標のように立てられたチョコの杖に一つ手を合わせ、レアも頂上を目指して山道を駆け登っていった。
案の定、病院の正面玄関は無法地帯と化していた。
警察が設けていた三角コーンとロープの規制線は跡形もなく踏み散らされ、正規のルートを登り切った感染者たちが病院内に入ろうと続々と押し寄せていた。風除けの大きなガラス戸は無残に割れ落ち枠だけになった自動ドアが虚しく開閉を繰り返し、その下で何人も折り重なって倒れている上を理性を失った人々が確かな意思を持って踏み越えていく。その中には制服を着た警官もいれば白衣を羽織った医者もいた。スーツ姿のサラリーマンもいればエプロンを着けた主婦もいたが、やはり子供や老人はほとんどいない。より頑健な肉体だけがより目的地に近付くことができると言うことか。清香学院の制服も何人か通り過ぎていく。寧ろ学生がこの集団の大部分を占めている。より頑健な肉体とはつまり、十代後半の若者のことなのだ。レアたち三人は正面玄関は諦め、参列者を横切りチェリーが先日侵入に失敗した裏口へと向かう。小枝に塗れ切り傷を作りながら垣根を抜け関係者駐車場の砂利道をひた走り、流石に今度は迷うことなく渡り廊下に辿り着いた。非常口も窓も鍵は締まっていたがもう遠慮など必要ない、手頃なブロックを叩きつけて窓ガラスを割り開ける。
「―――悠太くん?」
まんまと侵入した渡り廊下で鉢合わせたのはチョコの兄、黒羽悠太だった。何日も洗っていないようなぼさぼさの髪に丈が余り気味のダッフルコートを羽織り、ちょうど病棟のドアから出てきたところだ。元担任教師の声に目を見開いて驚いている。
「え?ア…お、小倉先生…?な、なんで、こんなところに…?」
駆け寄ってくる元教え子にアン先生は頬を緩めるが、レアとチェリーは半身を引いて油断なく身構える。瞳は濁っていないようだが…
「悠太くんこそこんなところで…あ、そっか、知世子ちゃんがいるんだもんね。無事で良かった…知世子ちゃんは?だいじょ…え、あ?ちょ、ちょっと、悠太くん?」
悠太は答えもせずアンの手を取り割れた窓へと引っ張っていく。このまま逃げ出すつもりだったのか。アンはチェリーとレアに振り向きつつたたらを踏んで引き留める。
「ど、どうしたの?知世子ちゃんもまだここに居るんでしょ?私たちあの子を助けに来たんだよ。外は酷いことになってるし、警察も機能してないみたいだし…他から応援が来るまでは何とか私たちで知世子ちゃんを…」
「もう遅い、もう手遅れなんだ…!」
悠太は吐き捨て尚もアンの手を強引に引こうとし、アンはどうしていいか分からず首をきょろきょろさせている。その二人の間にチェリーが手を伸ばし悠太の襟首を鷲掴む。突然の狼藉に悠太の足が止まる。
「手遅れってどういうことよ…!あんた、まさかチョコを…!」
「…違う。あいつは生きてる、生きているからこんなことになっているんだ。でももう無理だ、助けになんか行けやしない」
「はん、そんなの行ってみなきゃ分かんないじゃないの」
「行ったさ。だから言ってるんだ。ここの四階はもう奴らの巣になっている。あそこを抜けることなんて不可能だ。お前らもここへ来るまでに見て来ただろう?」
「巣…?は、まるで本当のハチみたいな言い草ね。問題ないわよ、あいつら、こっちからちょっかい出さない限り襲って来たりしないから。それに襲われたとしても倒せばいいだけの話でしょ?そんなのここまでに実証済みよ」
「…分かってないな。どうして奴らがこの病院に集まってくると思っているんだ?」
悠太は足りない背丈で締め上げるチェリーの小さな手を簡単に振り払う。ニヒルに歪むその頬にレアはふと思い返し、分からなくなる。どうして…?感染者はウイルスに操られ高所を目指し、チョコを襲い殺そうとしている。単純にそう思い込んでいたが、その行為に意味や目的などあるのだろうか?それにもう一つ、レアにもハチに刺された記憶があった。チェリーとアン先生もそうだと言っていた。なのにどうしてここに居る四人は発症していないのだろうか?
「は…?あいつらの狙いはチョコでしょうが。あいつら自身がそう言ってたんだから間違いないわよ」
「確かに奴らの目的は知世子だ。だが別に危害を加えようとしている訳じゃない。逆だ。奴らはあいつを護ろうとしているんだ。お前も白鳳の最期は見ただろう?あの新聞記者もそうだったらしい。原理は分からん。あいつがフェロモンでも出しているのかも知れないし、遺伝子レベルで記憶から操作されているのかも知れん。とにかく奴らにとって知世子に近付こうとする者は誰であろうと全て敵だ。四階の病棟患者だけでも五十人はいるんだぞ?たった四人で敵うものか。捕まって嬲り殺されるだけだ」
「だから尻尾を巻いて逃げ出そうっての?良いご身分ね。別にいいわよ、あんたじゃ戦力になりそうにないし。妹も家族もこの町の人間も全部捨てて、ハチもウイルスもフェロモンも届かない所まで逃げればいいわ。…でも」
チェリーは足を鳴らして一歩踏み出し、段々と及び腰になっている悠太にぐいっと顔を寄せる。
「ワクチンの在り処だけは吐いていってもらうわよ」
「……!」
悠太の顔が途端に青褪める。
「ワクチン…?そんなのがあるの?まさか…?」
アン先生の視線は言を発したチェリーではなく、青褪め俯く悠太に注がれている。
「当り前でしょ。あんたか青柳かは知らないけど、ウイルスを作った奴がワクチンを用意しておかない訳ないじゃない。少なくとも在り処くらいは知っているはずよ。さ、どこにあるの?青柳の部屋?あの実験室?まさか今持ってるってんじゃないでしょうね?」
チェリーはまた一歩にじり寄り、アン先生に期待と呵責の目を向けられ、目を逸らせたまま悠太は回らぬ舌を吃音らせる。
「も、持ってなんかない…!そ、そもそもお、俺は間に合わなかった、き、気付けなかったんだ…!きょ、教授、し、白鳳教授でさえと、父さんのノートをみ、見ていたのに…そんな、そんなことがあり、有り得るなんて…!」
不審に手を振り回す悠太にチェリーは片眉をひそめ、アン先生がその両肩を押さえなだめる。
「落ち着いて、悠太くん…どういうことか教えて?ゆっくりでいいから…」
間延びした口調はいつもの通りだが、眼鏡の奥では有無を言わせぬ鋭い眼が潤み睨む。聞き分けのない生徒と、それを叱りつける教師に戻っている。悠長にしている暇はないとチェリーは口から泡を飛ばすが、悠太はやがて観念し、先生の言う通りにゆっくりと語り始めた。
ウイルスを作ったのは悠太であること。ウイルスにはチョコの遺伝子が組み込まれていること。べースとなるウイルスにはやはりバキュロウイルスが使われていること。それは元々悠太の父親が生み出し、彼にレシピを記したノートを遺していたこと。ヒト同士では感染しないはずだったが、今はヤドリバチにより媒介されていること。悠太は感情を込めずただ事実だけを淡々と簡潔に述べていく。父親はそのウイルスに冒されて死んだこと。白鳳教授にチョコとノートのことを教えたこと。白鳳教授はDAMDS研究を装い悠太にウイルスとワクチンの製造を命じていたこと。結局白鳳教授は私欲に走り、悠太がミルクポットに毒を盛り、赤松という新聞記者がその巻き添えを食ったこと。ウイルスを媒介しているヤドリバチはその人から羽化したものであること。そしてそれらの全ては、チョコの主治医である青柳先生が企てたものであると言うこと……
「……先生が何を考えているのかは俺にも分からない。白鳥教授は抗癌ウイルスの開発にはワクチンが絶対に必要だと考えていた。発現が制限されない知世子のDAMDS遺伝子を使いこなせば必要なウイルスどころか、理論上ありとあらゆる病原体に対するワクチンを手に入れることができる。知世子の異常に高い血中抗体値や補体量はその可能性を如実に示していた。だから教授はワクチンの開発を俺に命じ、ナトリと契約しようとしていたんだ…でも青柳先生は違う。あの人はウイルスをコントロールしようだなんて考えていない。あの人ただ破滅を望んでいるだけだ。ただDAMDSウイルスを世界に蔓延させることだけが目的なんだ。あのヤドリバチを作り出したのもそのためだ…あの人に父さんのノートのことは言わなかったのに…どうしてシンチシン合成遺伝子のことまで知っていたんだ?…いや、それもこれも全部あの人の掌の上だったのか…!」
冷静を堅持していた悠太も青柳先生の話になると頭を抱えて呻き出し、アン先生がそっと肩に手を回し励ます。ありがとう、よく話してくれたね。だがチェリーはもちろんそんな悲話美談で終わらせる気など毛頭ない。それはレアも同じだ。過去が虚しく過ぎようと大事なのは現在と未来だ。チェリーは再び悠太の胸倉を掴み、未だ明かされていないその二点を問い質す。
「この地獄があんたが望んだ姿じゃないってことは信じるわ。落ち込むのも勝手。この半人前と手に手を取って逃げ出したってあたしは文句はない…でもあと二つ!吐いてもらうまではこの手は離さないわよ。ウイルス感染者はチョコを護ろうとしているってのは確かなの?それならあんたが逃げる必要はないし、あたしたちが行く意味もないじゃない?それともう一つ!あんたワクチンは間に合わなかったとか言ってたけど、本当にそうなの?このウイルスを止める手立ては、もう本当にないの?」
凄むチェリーの手は震え、支えるアン先生の手も震えている。悠太は聞こえるほどにぎしっと奥歯を噛み鳴らし、震える唇を開く。
「……俺もおかしいとは思っていた、DAMDSウイルスの潜伏期間は三週間…多角体が人間の体内を埋め尽くせば中から勝手に炸裂し溶解する。それにハチに刺された時期、つまり感染した時期もバラバラなはずなのに、奴らは一か月以上たった今日、一斉に行動を始めた…まるで何かを待っていたみたいに…」
「待っていた…?何を…?」
レアの声も震えている。先を聞くのが恐ろしく、だが聞かない訳にはいかない。
「あんたさっき…シンチシンとか言ってたわね…それって確か、あの講演で聞いた…」
「そうだ、DAMDSウイルスには知世子のシンチシン合成に関わる遺伝子が組み込まれている。シンチシンとは胎盤の合胞体を形成するタンパクで、その遺伝子自体は元々ウイルスからもたらされたものだ。…ここからは俺の想像でしかないが、奴らが護ろうとしているのは、恐らく知世子自身じゃない。あいつが感染者を惹き寄せる何かを発しているのなら、それは知世子からじゃなく、あいつの中から胎盤を通じて出されている…」
「胎盤…?まさか…あの子、妊娠しているってこと…?」
「想像だと言った。仮説ですらない。だがそんな機会は幾らでもあった。否定する根拠だってないんだ。そして今日、胎盤が完成して母体と繋がり、胎児の生命としての意識が芽生えたのだとしたら…」
「相手は?…って聞くまでもないか……いや、それより…それが本当なら感染者が護ろうとしているのはその子供ってこと…?くっ!あんた、それじゃあ…!」
チェリーが矢庭に締め上げる力を増し、悠太は抵抗することなく目を背け頷く。
「…そうだ。だから手遅れだと言ったんだ…知世子はもう…」
「こんなところで言い争ったってしょうがないでしょ、二人とも…どういうこと?知世子ちゃんは護られているんじゃないの?」
アン先生が割って入り、チェリーは悠太の襟首を投げ捨てる。二人とも真っ青だ。レアにも悪い予感が伝わってくる。女王蜂が働き蜂を惹きつけるように、チョコの胎児が感染者を呼び寄せているのだとしたら…母体であるチョコ自身は、一体…?
「…担任。あんた、去年の年末にチョコを家に泊めてたでしょ。その時、同じ箸を使ったり一緒にシャワーを浴びたりキスしたりしなかった?」
「キ…!し、してないよ、そんなこと!…え?どういう意味…?」
「いいから真面目に思い出して。あの子の体液を口にしなかったかってこと」
「体液…?……あ、そう言えば…知世子ちゃん、リンゴ剥いてる時に包丁で指を切って…傷口を私が舐めてあげたっけ…」
「やっぱりね。レア、あんたも覚えがあるでしょ?それがあたしたちだけ無事でいられている理由よ。あの子がウイルスを作ったって言うのなら、そのワクチンもあの子自身が持っているのよ」
「……!」
確かに清香祭の日、チョコの箸をレアは咥えていた。でも、たったそれだけで…?
「全部仮定の話だ。でももし本当にそうなら、ウイルスにとってそんな母体は邪魔なだけだ。知世子の胎児に近付く者も、そして知世子自身も、奴らにとっては排除すべき対象でしかないとしたら……感染者の行動が治まっていないことから知世子が生きているのは間違いない。もしかして青柳先生と一緒にいるのか?だとすれば知世子をここから連れ出すことなんて不可能だ。何より青柳先生がそれを望んでいない…」
「…はっ、だからどうだっての!青瓢箪が邪魔するんなら奪い取るだけよ!あたしは行くわよ、たとえ一人だって…!」
「な…馬鹿な…!死ぬぞ、本当に…!」
チェリーはたじろぐ悠太の首に掛かっているIDカードをストラップから毟り取り、青い顔のまま病棟のドアへと向かう。荒げる声は自分に向けてのものなのだろう、その背中は悲壮感に満ちている。
レアは一つ大きく息を吐く。状況は絶望的だ。昨日まで普通に流れていた日常は信じられない程あっけなく潰えた。逃げ出したい。投げ出したい。どうとでもなれ。フィルム越しのようだった現実感がそんなどす黒い感情となって蘇ってくる。だがレアは長い脚を踏み出して前を行く小さな背中に追いつく。チェリーは束の間歩を止め、勇敢で愚かなクラスメイトを横目で鋭く仰ぎ見る。そこにもう言葉はない。レアも小さく頷くだけだ。
「待って!あなたたちだけだなんて…駄目よそんなの!私も…私たちも行くから!」
二人の背にアン先生の声が飛ぶ。が、駆け出そうとする手を悠太が引き留める。
「だ…駄目だよ先生!せっかく発症せずに済んでいるのに、生きて会えたのに…!もう無理だよ、できっこない、僕らのワクチンだっていつまで保つか…」
「だからこそ今行かなきゃ、悠太くん…!ウイルスを止められるのは知世子ちゃんのワクチンだけなんでしょう?それにこのウイルスを作ったのは悠太くんじゃないの?じゃあ最後まで責任持たないと…!」
「…ふ、そう……僕がDAMDSウイルスを復元したんだ…せっかく父さんが封印していたのに、それを解いたのは僕さ…でもそうするしかなかったんだ、僕には力もない、知恵もない、僕には父さんの遺してくれたノートしかなかったんだ、他に何ができたって言うんだ?そうでもしなきゃあいつは体良く身売りされていたかもしれなかったんだぞ?教授にはちゃんと警告したのに、青柳先生にだって…それがこんなことに…こんなことになるなんて思わなかったんだ!…いや、それに…それに僕は、僕はこうなればいいと思っていた…そうさ、こんな世界、滅んでしまえばいいとずっと願っていたんだ、いい気味さ、僕を苛めた奴らも、知世子を苛めた奴らも、父さんを、母さんを殺した連中が、どうなろうと知ったことか!でも先生は、先生だけは…!」
ぱちん。
悠太の頬が乾いた音を立てる。叩かれた頬を押さえて驚き目を剥く悠太の反対の頬にもう一度平手が飛ぶ。ばちん。鈍い音。ばちん。ばちん。反射的に避ける手の上からでもアン先生は容赦なく何度も平手を浴びせる。
「見損なったわ、悠太くん…!それで逃げるつもりだったの…?意気地なし…!先生は、あなたをそんな風に教育した覚えはないわ…ないんだから…!」
アン先生は叩きながらまた泣いている。チェリーはやれやれと首を振りながらも足を止めて待っている。泣いてくれることも叩いてくれることも、してくれる人なんて滅多にいないのだ。そしてその後、優しく抱き締めてくれることも。
「バカね…!一人で悩んで苦しんで…!言ったじゃない、先生はずっと味方だって…!でも大丈夫、きっとまだ大丈夫だよ…だって私たちまだ生きてるんだから…知世子ちゃんだって、まだ生きてるんだから…!あんなに大事に思っていたじゃない…?あんなにやさしくしてあげてたじゃない…?あなたが行ってあげないでどうするの…!」
まだ躊躇っている悠太の手を引き、アン先生が二人に追いつく。レアは薄く微笑み、チェリーはその見た目に良く似合う欧米人のジェスチャーで大仰に肩を竦める。
「はっ!どいつもこいつもバカばっかりね。気は済んだ?じゃあ行くわよ、手間の掛かる困った女王様を救いにね…!」
覚悟できているかなんて分からない。でもこの手は既に汚れてしまった。もし救いがあるとすれば、それはチョコを護り抜くことだけだ。今はそれだけ考えていよう―――ね、きっとあなたもそうするでしょう?シュー。あの子を守ってあげられるのは、私たちだけなんだから―――チェリーが悠太のIDカードをドアに差し込み、シグナルがレッドに変わる。四人の騎士たちはまた一歩勇敢な足を踏み出し、女王が待つ魔物の巣食う白亜の城へと乗り込んでいった。
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