第9話 復讐

 渡り廊下から延びる通路の先を見通して、黒羽悠太はぎょっとした。

 正面玄関から一繋がりのエレベーターホールは既に感染者たちで溢れかえっていた。つい十分ほど前まで使えていたエレベーターは動いておらず、どうやら各階で渋滞を起こしているらしく開かないドアの前からずらりと列ができている。外来の受付前に置かれたベンチの間を埋め玄関まで続くその列の端々には床に突っ伏し倒れている者、それでもなお這いずりもがく者、その下肢は千切れ落ち床に白い帯を曳いていて、最早ヒトの形を成していない塊の中で無数の蛆虫が蠢き泳ぎ、白銀の巨大で歪な繭があちこちに出来上がっている―――しかし悠太が恐ろしさを感じたのはそんな地獄さながらの光景ではなく、そのゾンビの群れが不気味に静かで、喚く者も暴れ出す者もなく、皆身動ぎもせずいつ来るかも知れないエレベーターをただ律義に待っていることだった。

 エレベータは使えそうにないが、階段で行くにしてもホールを抜けなければならない。レアが先頭に立ってゾンビたちの列にずかずかと踏み込んでいく。なるほど、割り込むくらいでは反応しないようだ。レアは刺激し過ぎないよう身を屈めて道を拓き、隙間を縫ってチェリーが続く。だがその後ろでアンに手を引かれる悠太の足取りは重い。知世子は青柳の手に堕ち、四階はさっき悠太が向かった時点で簡易ベッドやパイプ椅子のバリケードが幾重にも築かれていた。隔離患者たちの『知世子の胎児を護る』と言う意識が強く働いているのだろうが、この調子では既に外部からの侵入者と衝突が起きているかもしれない。そして四階から階上に向かうには必ずフロアを通り抜けなければならないのだ。この大人しい一階ならともかく、そんな中を無事に知世子の元まで辿り着けるとは到底思えない。ましてや連れ戻すだなんて…

「ごめんなさい…!あ、すいません…!」

 レアはヒトを除ける度、いちいち丁寧に謝っている。もちろんそれに応える者はなく、肘で除けられ足を踏まれても二基あるエレベーターのドアの前の連中は頭上で点滅し続ける3や4の数字を仰ぎ見たままで尚更気味が悪い。まるで朝の通勤通学時にごったがえす駅のホームで運行パネルを見上げる乗客だ。そんな風に思うと悠太の足は益々重くなる。要は普段の自分たちの行動だってここにいるゾンビと大差ないと言うことか…と、不意に前を行くチェリーの足が止まった。

「あなた、今押したでしょ?押したわよねえ、この私を!」

 中年の女の声。同時に鈍い音が響き先頭のレアが膝を突く。

「なんて子かしら、横入りするだなんて!こっちは朝から並んでいるのよ?まったく、なんて子かしら?この私を、押し退けようとするだなんて!」

 大仰に両腕を振り回す女の顔は人混みに隠れて見えず、くぐもって聞き取り辛いがその声に悠太は聞き覚えがあった。群衆の足元で膝立つレアの周りがざわつき始めた。

「レア!そんなのに構うことないわ!行きなさい!」

 チェリーの声に反応し辺りの連中が一斉にこちらを振り返る。レアは屈んだ脚で床を蹴り俄かに色めき出した群衆に長い腕を差し込み突っ込んでいく。襲い掛かる無数の腕を撥ね退けチェリーも走り出す。

「ごめんなさい…!」

 続こうとしたアンの前にさっきの中年の女が押し出されてきて、道を塞がれる形になりアンは謝りながら押し返す。

「なによ、あんたも!邪魔するんじゃないよ!私を、誰だと思って…!」

 押し返したアンの腕が女に掴まれる。悠太は反射的にその手を払い女を突き飛ばす。突き飛ばした女は圧し掛かってくる群衆に押し返され反対に悠太の足元にもんどりうって倒れ込む。転がる女の顔を見て、悠太は思わず声を上げた。

「あっ…!」

 それは伯母の龍子だった。見覚えのある顔にアンまで足を止めている。突き飛ばした衝撃かそれとも元からだったのか、鼻や口から白濁液を吐き出していて、尚も濁った眼でこちらを睨み上げてくる。

「ゆ…!」

 口を開こうとした龍子の顎が群衆の足に踏み付けられ嫌な音を立てて砕ける。それでも手を伸ばしたじろぐ悠太の足首を掴もうとするがもうひと足に頭蓋を踏まれ薄殻の鶏卵のように白濁した脳漿を撒き散らし、龍子は事切れた。

「あら、悠太じゃないの。何しているのこんなところで」

 唖然として足元を見下ろす悠太にまた知った声が降ってくる。首を仰ぎ戻すと、龍子の頭を潰した足は祖母ひさのものだった。丸々と肥えた腹を揺すり娘の残骸を踏みにじっている。…いや、ただ据わりの悪い足裏を均そうとしているだけだ。

「なんだいこれ、変なものを踏んだね…ん?龍子と同じ格好かい。それとも龍子なのかしら?まあいいわ、それより悠太。あなた、こんなところで何をしているの?家で、勉強していなきゃあ、駄目じゃないの…!」

 ひさが太い指を広げ老人とは思えない勢いで悠太に掴みかかり咄嗟に庇ったアンの腕が鷲掴まれる。四方からも伸びる腕。逃げ場がない。まずい…!悠太は群衆を掻い潜りアンの身体ごとひさに向かって突進する。二歩、三歩、それ以上進まなくなる。非力な自分が恨めしい。アンも両足で踏ん張るが押し切れない。まずいまずい、こんなところで…!持ち得る最後の力を込めた瞬間、不意に力が抜けひさの方から仰向けに倒れていった。

「あにやってんのよ、手間の掛かる!」

 チェリーがひさの襟首を掴んで引き倒し、レアが追い縋る腕を蹴り飛ばす。すぐ先で列が途切れていた。エレベーターホールを抜けたのだ。

「早く立って…くっ!あによ、このぉ!」

 押し返そうとするチェリーが捕まりレアが加勢しに走る。アンは床で鼻でも打ったのかうずくまって悶絶している。その下で大の字にのびていたひさがアンを押し退けむくりと起き上がる。

「ユウタ…あなた、なに、なにしているのこんなところで…!べ、べんきょうしていなきゃあダメじゃないの…!そんなんじゃあい、いしゃになれ、なれないゾ、あなた、あ、あなたはアタマがよわいんだから…!」

 罵るひさの顎から龍子と同じように白濁液が滴っている。今度は確実に悠太が押し倒したからだ。広げた指もてんでばらばらの方を向いている。こいつらの身体は豆腐のように柔らかくなっている。もう一押しすれば簡単に潰せる。悠太はひと声叫び立ち上がろうとするひさを組み伏せ馬乗りになる。アドレナリンが脳内に溢れ奇妙な興奮に包まれる。黒羽の伯母が死に、この一撃で祖母も死ぬ。悠太は両手を組みひさの頭に叩きつけるべく肩越しまで振り被る。なんて呆気ない、父を殺し母を苦しめ妹を追い詰めた元凶たちがあっさりと死に、しかも最後の止めを自分が下すことになろうとは、これで終わる、知世子も自分も、母も丸山もこれで解放される、丸山さんは大丈夫だろうか、あの人は強い人だ、きっと母さんの側にいてくれているに違いない、二人の笑顔が浮かぶ、くそっ…こんな時に…!悠太は組んだ手にもう一度力を込める、これは復讐だ、受けて当然の報いなんだ、ただ一振り、それで終わらせられるのに、それなのに、なんで…!悠太が躊躇ったのは時間にすればほんの一瞬だった。だがその一瞬の迷いの隙にひさは抑え込まれた股の下から曲がった拳を握り固め悠太の無防備な顎を殴りつけた。

「がっ…!」

 目の前が白く歪む。脳が揺さぶられ呼吸が詰まる。辛うじて保った意識で駄々っ子のように両手足を振り回すが視界が戻った時には胸の上にひさの巨体が圧し掛かり逆に組み伏せられていた。

「あんたたちはぁ、どうしていうことをきかないの…!くろはのおんいえはぁ、ゆいしょただしきこくしゅのかけい…!そうでなければひつようない…!ユウタぁ…!ぜんぶ、あんたのせいだよ、あんたの…!いしゃにもなれないようなやつはぁ、くろはのいえにはひつようない、ありませぇん…!」

 支離滅裂に飛ばす液が悠太の顔に降り掛かる。肺を潰され声が出せない。ひさの肉体も精神も限界を迎えているはずなのにその膂力は年齢の常識をも超えている。

「ちよこはぁ…!あの、あの、あのこはどこにいるのぉ…!あのこ、あのこだけ、だけがたよりなのよぉ、あのこがぁ…!りゅうこもぉ、しょうこもぉ、どうしていうことをを、くろはのおんいえのことおおお、ちよ、ちよこまで、あのこまでえええ、ゆる、ゆる、ゆるさないよ、おねがいよ、ちよこ、ち…!」

 喚きながらひさは傍にある観葉植物の植わった鉢を持ち上げ頭上に高々と掲げる。やめろ…!悠太の爪が胸を跨ぐ腿の皮膚を破り筋肉を裂いても止まらない、膝で何度も背を蹴りつけようがびくともしない、ひさの口角が怪しく歪み悠太は両腕で頭を庇う、

「やめっ……!」

 衝撃を覚悟した次の瞬間、胸の上の巨体がぐらりと揺れ肺に空気が流れ込む。白濁液が降ってくる。悠太は背筋を振り絞り胸を跳ね上げ身を捻って股の下から転がり出る。涙と白濁液が目に沁みる。擦り拭い薄目を開けると、床の上にはさっきの伯母と同じように頭の潰れた祖母が突っ伏し、観葉植物の鉢を両手に提げたアンがそれを見下ろしていた。

「あ、あ、あ……!」

 言葉にならない音を口から漏らし、アンは肩を揺らして息をしている。手に提げた陶器の鉢は底が粉々に砕け元の形の根っこがはみ出していた。

「ご、ごめ…!う、あ…わたし、そんなつもりじゃ…そんな…」

 悠太は駆け寄り、人事を失いそうなアンの頬を両手で挟み叩く。濁りのない潤んだ瞳が見詰めてくる。

「わたし、夢中で…悠太くんを助けようと、助けなきゃと…わたし…」

「しっかり、しっかりしてくれ先生…!あいつはもう死んでいた、ただのゾンビだ、気にすることなんてない、先生がやらなきゃ俺がやっていたんだ…大丈夫、大丈夫だ先生…先生が言ってくれたんじゃないか、いつでも味方だって…!」

 アンは挟まれ潰れた頬でうんうんと頷く。悠太はその柔らかな頬を、丸い肩を抱き寄せたくなるのを堪える。こんなところで催す劣情などきっと碌なものではない。代わりに潤み揺れるその瞳を見詰め返しぎこちなく微笑もうとすると、アンの目が見開き瞳孔が縮み上がる。その目は悠太の後ろを見ていて、問い質す間もなく悠太の背筋に悪寒が走る。

「悠太…?ユウくんでしょ…?」

 途轍もなく懐かしく、でも記憶に鮮明な柔らかな声。悠太はアンの表情で全てを悟る。振り返るのが恐ろしく、だがそうせずにはいられない。

「やっぱり…!良かった、無事だったのね…!」

 振り向いたそこには悠太の母、聖子が佇んでいた。


「それはそうと、ねえユウくん、チヨちゃん知らない?この病院にいるって聞いたんだけど、どこにも見当たらなくって…」

 悠太たちが引き金となったエレベーターホールの喧騒は、今や誰彼関係なしの暴動と化していた。スーツの女が白衣の医者を蹴倒しそれを看護師が踏みつけその背中から作業着の男が飛び掛かり皮膚が裂け骨が突き出て体液が飛び散り制服の学生同士は目が潰れ鼻が削げても一切怯むことなく殴り合っている。おかげでホール脇にぽっかりと空間が空いているが、レアとチェリーは巻き込まれたのか姿が見えない。そして今、悠太の目の前には母が居て、気ままに散歩でもしているかのような風情で悠然と歩み寄ってくる。悠太は咬み折る程に歯を食い縛り身構える。聖子は長い黒髪を清楚に流し、丈の長い純白のワンピースを着ていて、頬には薄く化粧まで乗せている。悠太がまだ幼い頃の、知世子が生まれ海で倒れるまでの、家族四人が幸せだった時代の母の姿だ。狂い乱れ落魄れた、父の死後の惨めな母の影は微塵も感じられない。しかしその脇に抱えているものは何だ、いつもの知世子の身代わりの人形かと思ったが違う、それは人間の頭だった、几帳面に整えられているはずの白髪は千々に乱れ、微かに開いた瞼の奥に光はなく、控え目に蓄えられた口髭は半分削げ落ち、首から下は無残に引き千切られ古切れとなった皮膚を垂らし乾きかけた白い体液がその先から雨垂れのように滴っている。

「……なんだ…それはっ…!母さん…!」

 軋む歯の奥から絞り出した悠太の掠れ声に、聖子の表情がぱっと明るく弾ける。

「あ、これ?やだ、丸山さんよ、知ってるでしょ?小さい頃あなた、この人にくっついて離れなかったんだから。お父さん嫉妬してたのよ?俺には懐かないくせに、本当のおじいちゃんと孫みたいだって。ふふ、冗談よ。…でも、この人には本当に感謝してるわ。いつでも私たちの…いえ、あなたと知世子の味方でいてくれた。お父さんが死んで、私がおかしくなって、お給金もまともにあげられなくなってみんな出て行ってしまってからも、この人だけは年寄りの道楽だなんて嘯いてくれて…」

「…母さん、記憶が…?」

 悠太は言いかけて続く言葉を呑み込む。ウイルスの影響かヤドリバチの仕業か、それとも目の当たりにした光景にショックを受けたからか、この母は以前の記憶を取り戻し整然とした思考ができている。しかし、だからと言って彼女が今、まともで健全な精神状態に至っている訳では決してない。聖子は脇に抱えていた丸山の頭部を無邪気に微笑みながら見詰め、徐に、恭しく、悠太に向かって差し出してくる。

「だからね、連れてきてあげたの、チヨちゃんがいる所まで。だってそうでしょう?丸山さんだってきっとチヨちゃんの成長した立派な姿、見たがっていると思うもの。重くって全部は持ってこられなかったけど…ね、ユウくん、あなたは知ってるんでしょう?教えてちょうだい、チヨちゃんは、どこにいるの…?」

 悠太は吐き気を催し後ずさる。混乱していた。頭の片隅で微かに期待していた。願っていた。母も自分と同じようにどこかで免疫を獲得しているのではないかと。微笑み細く垂れる眦の奥が濁っているかどうか、悠太は確かめることができない。突きつけられた現実を直視できず、悠太は怯み、後ずさる。

「あら?これお母さんじゃない。ユウくんがこんなにしちゃったの?いい気味ね、すっかりみすぼらしくなっちゃって。お母さん…あなたも姉さんも、結局一度も尊敬させてはもらえなかったわね…でもそんなこともうどうでもいいわ、だってお父さんは、慧太さんはもう死んでしまっているんですもの。ね?ユウくん、早く案内してちょうだい、怒ったりなんかしないから、私はね、あの子がいればそれでいいの、他に誰もいらない、そう、あの子さえいてくれれば…」

 聖子はひさの死骸を踏みにじり、丸山の頭を片手で掲げたままゆらりゆらりと亡霊のように歩み寄ってくる。悠太は逃げ出したかった。親さえ夫さえ、息子さえも要らないと言う目の前の女をぶん殴ってやりたかった。そして自分も消えてなくなりたかった。だが悠太には無理だった。悠太は世界の一切を憎むことも人の一切を恨むこともできない。いくら世間が憎くても周りの人間が疎ましくても、世界や自分の終わりを考える時、知世子や父や母や丸山やアンや青柳の姿が浮かんできてしまう。いくら目を背け耳を塞いでも、目の前にいるのは紛れもなくかつて大好きだった、母親なのだ…壁際に追いやられ動けないでいる悠太に尚も聖子は詰め寄り、二人の間にアンが両手を広げて割って入る。

「やめてください、お母さん!悠太くんも知らないんです!それに私たちは知世子さんを助けに…ぎゃっ!」

 聖子は眉一つ動かさず手にしている丸山の頭を振り回しアンを横様に殴りつけた。頭蓋が弾け白濁液が飛び散る。頭皮が剥け落ち眼窩が窪み水瓜のようにひしゃげ誰だか分からなくなった頭を不思議そうに見詰めると、聖子はそれをゴミのように放り捨てた。

「ごめんなさい、小倉先生。でもこれはウチの問題なので口を挟まないでもらえます?…さ、ユウくん、チヨちゃんはどこ?この病院にいるんでしょう?やっぱり青柳先生のところかしら?先生は今何階にお勤めされているの?別にユウくんは一緒に来なくっても構わないの。それだけ教えてくれたらあとは好きにしていいから。ね、ユウくん、知世子はどこ?あの子はどこにいるの…?」

 丸山の体液に塗れた手を聖子は優しく、艶めかしく悠太の肩に回す。悠太は動けない。アンを殴られた怒りよりも存在を否定された悔しさよりも、ただ純粋に目の前の狂った女への恐怖に全身が支配されている。回された手が喉元に掛かる。されるがままに壁に押し付けられ、そのままじわじわと締め上げられていく。

「ねえ、ユウくん…お母さん今ねえ、頭の中がとってもすっきりしているの…そうね、お父さんが出て行った日以来かしら?もう何年もなかったわ、こんな気分…ずっと死にたくて死にたくて仕方がなかったのに、もう一人の自分がそれを許してくれないの…そう、あなたが生まれて慧太さんも喜んでくれたし、私もそれでいいと思っていたのに…でも駄目だったわ、生まれた時から洗脳みたいに刷り込まれてきたんですもの、もう一人の私がどうしても女の子を望んでしまった…それ以来私の中でもう一人の私が、生きたがっている私の方がどんどん大きくなっていって、私自身は頭の中の片隅に追いやられていって、どうやって声を出したらいいかも分からなくなってしまって…ねえユウタ、どうして女の子で生まれてくれなかったの?そうすればもっと上手くやれていたはずなのに…あなたの所為よ、そう、何もかもあなたの所為…あなたが生まれていなければ知世子はあんなにならなかったし慧太さんも死なずに済んだ、きっとわたしも壊れずにいられたのに…でももういいわ、今はとっても気分が良いもの、だってあんなに死にたいと思っていたのに、世界の方から壊れてくれたんだもの…ね、ユウタ、あなたも早く楽になりたいでしょう?そう言えばもうすぐあの子の誕生日なのよ、一緒に祝福してあげましょう、あなたも連れて行ってあげる、一緒に行きましょう、あの子のところに…」

 喉を締め上げる指の爪が剥がれ皮膚を突き破り飛び出た骨が食い込んでくる、息ができない、悠太は半ば諦めそれでも本能は死に抗い聖子の腕を弱々しく掴む、傍からは悠太が自らそうさせているように見えたかもしれない、アンが何か叫びながら聖子の背中に縋りつく、鼻から鼻血が流れている、良かった、アンの血はまだ赤かった、だがそのアンの力も遥か及ばず悠太の足が床から持ち上がる、意識が遠退いていく、脳への血流が止まったのだろう、悠太は最後の意識を聖子の顔に注ぐ、……良かった。優しく垂れる母の眦の奥は確かに白く、濁っていた…

 ―――タンッ。

 くぐもった乾いた音が顎先で響き締め上げる手の力が緩んだ。こめかみがドクンと脈打ち血流が戻る。床に着いた足に力が入らず悠太は膝から崩れ落ち四つん這いになり喉を押さえて咳き込む。生きている…そう思うと同時に白いワンピースがどさりと倒れてきた。母だ。良く見ればワンピースは真っ白ではなく薄い花柄が描かれていた。丸山さんの体液を浴びて白く消えて見えたていたんだな…酸素の足りない脳で悠太は何故かそんなことを考え、床に伏せこちらを向く聖子の頭を見て我に返る。こめかみが大きく裂け髪と一緒に頭皮が捲れ上がっている。同じ側の眼瞼からは白濁液が涙のように流れ出し鼻梁を越え反対の頬まで伝っている。もう片方の目は驚いたように見開き口もだらしなく半分開いたままで、何が起きたか分からないような表情で事切れていた。

「チェ…チェリーちゃん…?」

 アンの声。何が起きたか分からないのは悠太もだ。見上げるとチェリーが片腕を伸ばし仁王立ちしている。腐った肉の匂いに交ざる花火のような、火薬の匂い。チェリーの手には黒光りする拳銃が握られていた。あれで撃ったのか。本物なのか、どうしてそんなものを持っているのかとかを考えるまで悠太の頭は回らない。とにかく聖子の頭に出来た傷の正体に納得がいった。銃で脳を打ち抜かれれば、感染者だろうとヒトは死ぬ。母は、死んだのだ。床に突いた手に生温いものが触る。聖子の頭から流れ出た体液が広がり、白い水溜まりを作っていた。その中で居場所を失くしたヤドリバチの幼虫が数匹、行き場を求めて身をくねらせ蠢いている。…哀れだな。何に向けてか、誰に向けてかそう思い、せめて瞼を閉じさせようと伸ばした手の先にスニーカーが踏み下ろされ母の顔は蛆虫ごとぐちゃぐちゃに潰され水溜まりが跳ね飛び眼鏡のレンズを白く染める。もう誰だか分からなくなった頭を呆然と見詰める悠太の額に、冷たいものが押し付けられた。

「行きたいなら早く立ちな。それともあんたも撃ってやろうか?」

 悠太は眼球だけを動かし、レンズの向こうに滲むおかしな髪色をした小さなヒトを見上げる。眉間に銃口を突きつけるチェリーの眼はしっかりと据わっていて、手の震えも動揺も後悔もなく、さっきまでと何ら変わりのない冷徹と激情で足手まといをさもなくば殺そうとしている。正しい。躊躇なく引かれた引き金。蛮行とも言える容赦ない追撃。ああ、全くもって正しいよ、お前は…悠太の眉間が頬が口角が険しく醜く歪む。怒りか怯えか、笑っているのか悠太自身にも分からない、分からないまま睨み上げ、悠太は突きつけられた銃身を握る。チェリーの眉根が僅かに動き、引き金に掛けた指に力が籠るのが伝わる。悠太は構わず立ち上がり、手首を捻って銃を奪い取る。引き金は、引かれなかった。チェリーは満足気に片頬を歪め、もう一丁の銃を胸元に構える。

「それはあんたが使いな。グロック26、クソ親父にもらったあたしの愛銃よ。もうチャンバーには入れてあるから何も考えなくても引けば撃てる。トリガーは半分戻すだけで連射できるわ。ただし弾は十発、マガジンの予備はないから考えて撃って。脳を狙うのよ、至近距離でね。じゃないと9ミリルガーは頭蓋骨で滑るから…」

 早口にレクチャーするチェリーの眉間に、今度は悠太が奪った銃を両手で構え、引き金に指を掛け狙いを定めている。

「悠太くん…!」

 アンの顔には乱暴に拭った鼻血の跡があちこち延びている。割って入ろうとするアンをチェリーは顔色も変えず片手で制する。

「…敵討ちって?いいよ、撃っても。あんたにそんな度胸があるんならね…!」

 チェリーが吐き捨てると同時に悠太は銃口をスライドさせチェリーの背後に迫っていた作業着の男の頭に向け引き金を引く。タムッ。思ったより軽い反動。狙いは外れ男の側頭部で跳弾し弾は在らぬ方へと消えていった。脳を揺さぶられた男は体液を噴き出し白目を剥きふらつきながら尚も両手を伸ばしてくる。悠太が引き金を戻しチェリーが振り向き様に自分の銃を構えるより早く横から飛んできた長い素脚が男の顔面を蹴り抜いた。スカートの裾が乱れるのも気にせず、レアは残心に構え男の動きが止まったことを確認する。

「…たはっ。だから言ったでしょ、至近距離で撃てって…」

 悪態を吐きつつもチェリーは冷や汗を拭い肩を撫で下ろし、レアは深呼吸をして荒れた息を整えている。悠太は固く握った銃を見詰める。自分が、撃ったのか…まだ燻っている銃口は静かに熱く、手の震えが止まっていた。これで自分も後戻りはできない。…いや、逃げ場所なんてとっくにどこにもなかったのだ。これが、覚悟か。気付くのが少し、遅すぎたな…誰だか分からなくなった白いワンピースと傍に転がるヒトの頭を見下ろし、アンが袖に縋ってくる。悠太はコートを脱ぎ二人の遺体に掛けてやり、銃を脇に構え直してアンの腕を引く。

「階段はあの扉の向こうだ。普段は職員しか使わないからまだマシだろう。行くぞ」

 大股に踏み出す足にアンが付き従い、頷くレアと、チェリーも鼻を鳴らして後に続く。あと九発。とても足りるとは思えないが、行くしかない。悠太に残された知世子は、この上に居るのだから。


 悠太の読み通り、エレベーターホールの脇にある大きな鉄扉の奥で地下から繋がる病棟の階段に人気は少なかった。玄関からホールに押し寄せているのは外部の人間ばかりで、階上に向かう手段は受付横にある二階までしかない外来用の階段かエレベーターしか知らないのだ。実際何度か来たことのあるアンも知らなかったし、何よりここに倒れている遺体は皆白衣かナース服か病院衣を着ている。着ていると言ってもどれもぐちゃぐちゃに潰れていて服があるから辛うじてヒトだったと分かるくらいで、いくつかは既に繭化が始まっている。学校からここまで小一時間は経っただろうか、散々見せられてきた光景だが慣れるものではない。慣れたらお終いだと思いながら、アンは悠太に手を引かれるまま階段を登っていく。急に逞しく強くなってくれたのは頼もしいが、やむを得ないとは言え悠太がヒトに向けて銃の引き金を引くのはもう見たくなかった。この子は元来優しい子だ。母親の死を目の当たりにし、ただ気丈に冷静でいられるような子ではない。次にもし危機が訪れた時には身を挺してでも止めなければ。

 登るにつれて足の踏み場が増え、遺体や繭も疎らになってくる。そう言えばさっきから生きて動いている感染者を見ていない。ウイルスはより高所を、かつ知世子を目指しているはずなのに、感染者にとって階段の昇降はハードルが高いのだろうか?悠太の母や祖母が見せつけた相応しくないあの力なら階段など訳もなさそうなものだが…取り留めのない疑問に首を傾げていたアンは三階を過ぎた次の踊り場でふと気配を感じ足を止めた。同じ気配を感じたのか手を引く悠太も足を止め、後ろの二人が背後で行き詰まる。

「あによ、どうしたの?」

「え?あ、いや…何か、今動いた気が…」

 アンは曖昧に答えて首を巡らせる。すると踊り場の片隅で膝を抱えて座り込むナース服を着た女性の遺体が微かに動いた。…いや、息をしている!全員が同時に反応し、悠太はアンを背に庇い、レアが身構えチェリーが銃を突きつける。

「…ふん、脅かすんじゃないわよ。半死にの虫の息じゃないの。こんな奴に使うのはもったいないわ。ちゃっちゃと通り抜けて…」

「…ちょっと待って、この人…」

 アンは何かに気付き、悠太の手を外して女性に近寄り、膝の間に埋めた顔を下から覗き込む。

「あにしてんのよ?そんなのに構っている暇なんか…」

「…千春さん?やっぱり。小松千春さんですよね?」

 アンが口にした名前に全員聞き覚えがあった。去年秋の清香祭に青柳が連れて来た学生時代の友人…いや、元恋人だ。髪はぼさぼさに乱れ、化粧の落ちた顔はそれこそ死人のように青褪め、目の周りや顎に痣が浮かんでいるが間違いない。アンは慎重に近付き、頑なに膝を抱えぶるぶると震えている腕にそっと手を添えると、ようやく顔を上げた。

「う…あ…あなたたちは…確か…」

「そうです、学園祭でご一緒した、知世子さんの担任の小倉です。この子たちはクラスメイトで…あの、大丈夫…ですか…?」

 アンはそうと悟られないようちらちらと千春の瞳を窺おうとするが、睫毛の長い細めた瞼の中まではしっかり確認することができない。千春はアンの問い掛けに一度は頷き、直ぐに首を振って否定する。

「…すみません、少し…その、動揺してしまって…いや、あの、大丈夫です、放っておいてもらえますか、大丈夫ですんで…」

「何かあったんですか?私たちこれから知世子ちゃんのところまで行こうとしているんです、青柳先生もきっと一緒にいてくれていると思いますよ」

 青柳の名を聞き千春はピクンと肩を揺らす。抱えたジーンズの膝をぎゅと絞り、視点定まらぬ感じで小刻みに首を振っている。アンは、この人は感染していないと直感した。根拠も何もないが、とにかくそんな気がする。だとしたら…アンが食い下がろうとすると、千春の腕に添えた手が後ろから引かれた。悠太だった。

「先生…こいつの言う通りだ、顔見知りだからって構っている暇はないよ。この人も放っておいてと言っているんだし…」

 悠太は油断なく銃の引き金に指を掛けたまま耳元で小声で囁く。後ろの二人も警戒を解いていない。だがアンには確信めいたものがあった。この人の話し方や雰囲気には、何と言うか、迷いがある。今朝から目の当たりにしてきた感染者には感じられない、人間ぽさがある。だとしたら、こんなところに一人で置いておく訳にはいかない。

「大丈夫、多分この人感染してないわ。話し掛けても襲ってくる様子はないし、それに千春さんは私たちより青柳先生のこともこの病院のことも良く知っているのよ?とにかく放っておくなんて、そんな無責任なこと…」

 教師としての矜持なのだろうか、アンも少しムキになって小声で言い返していると、今度は反対の手をびっくりする程冷たい手で握られた。ぞわっと鳥肌が立ち振り返ると、青白い千春の顔がすぐ傍にあった。

「貴く…あ…青柳先生のところに行くんですか…?彼は無事なんですね…?やっぱりあの子も…知世子さんも、生きているんですね…?」

「は、はい、多分…あ、いや、大丈夫ですよ、絶対…出来ればこの病院の地理に明るい千春さんに一緒に来てもらえたら心強いんですけど…」

 言いながらアンは少し後悔していた。アンを見据え見開いた千春の瞳は確かに濁ってはいなかった。しかしこの凍てつくような冷たい手と抑揚のない震え声…感染はしていなくとも、この人は本当に生きているのだろうか…?

「……分かりました。あの人の居るところなら見当がつきます。それに知世子さんも一緒にいると思います、間違いなく。あの人、淋しがり屋だから…」

 青柳を語る唇には薄っすら笑みまで浮かべている。先に立って行こうとする千春を、いつの間にか追い越していたチェリーが阻む。使わないと言った銃を、彼女に向けてあからさまに突き付けていた。

「待ちな。勝手に話を進めんじゃないわよ。確かに感染はしていないようだけど、チョコとほとんど接点のないあんたがなんで平気でいられるの?返答次第じゃあ撃つわよ」

「ちょ、ちょっと…本物なの、それ…?まさかさっきのは銃声…?待って、私も何が何だか分からなくて…感染とか接点とか急に言われても…」

「カマトトぶってんじゃないわよ、青柳の関係者で無事でいる癖に分からないとは言わせないわよ。青柳に何かされてるんじゃないの?え?どうなのよ?」

「拝さん…!いくら何でも一方的過ぎよ、無抵抗の人にそんなの向けて…!ごめんなさい千春さん、私たちもはっきり理解できている訳じゃないんですが、この事態はここに居る悠太くんが…正確には彼のお父さんが知世子さんの遺伝子を元に作ったウイルスによって引き起こされているそうなんです、そのウイルスを媒介しているのがヤドリバチという蜂で、どうやらその蜂をこの町に放ったのが青柳先生なんじゃないかという話なんですが…そうですよね、そんなこといきなり言われても信じられないですよね…でも私たち四人はみんな知世子ちゃんの体液…つまり、あの子自身が持つワクチンを最近口にしていて、それで無事でいられているみたいなんです…」

 アンはチェリーが間違っても撃ったりしないよう二人の間に身体を捻じ込む。背に銃口が当たっているがチェリーは下ろそうとしない。この子、私越しでも撃ちかねないな…ごくりと唾を呑み頭一つ高い千春を見上げると、その唇はまた薄っすらと笑っていた。

「……そう…やっぱりそうだったんですね…あの人が…。薄々気付いてはいたんです、あの人が私の身体で何かしようとしていたことくらい。もう何年も前の話です、実験のことは何を訊いても答えてくれなかったけど、それでも私は好きだったから…あの人のためになるなら黙って受け入れようと思っていたのに…それなのに、あの人は来てくれなかった…ティアラが死んで、どうやって生きて行こうか迷っていた時に…新しい人生を探さなくちゃいけなかった時に…側にいてくれたのは小松だけだった…ただ無性に淋しくて…あんな人間だと分かっていれば…いえ、たとえそうでなくてもこんな道を選ぶべきじゃなかったのに……ごめんなさい、あなたたちには関係のない話ね。…いいわチェリーさん、いっそのこと撃ってちょうだい。どうせ私はもう生きている資格のない人間だもの」

「え、ちょ、ちょっと!何言ってるんですか、千春さん!だ、駄目よ、チェリーちゃん!撃たないで…!」

 肩甲骨に当たる銃口がぎりっと躙り、何故かアンがホールドアップした格好で慌てふためく。チェリーは呆れて溜め息を吐き、銃を小脇に戻す。

「撃ちゃしないわよ、あんたなんか。ま、自殺の手伝いをしてやる義理もないわね…あんたも被害者みたいだしね、色々と」

 チェリーの視線は千春の顔の痛々しい痣を指していた。気付いた千春が思い出したようにそれを擦る。どの痣も深く濃く皮膚に根付いていて、昨日今日できたものではなさそうだった。

「…被害者?…そうね、傍から見るとそう見えるのかもね…。でも安心して。私も立派な加害者よ。現に、ほら…」

 千春の指差す一つ下の踊り場には白衣を着た、一目逞しい身体をした男の遺体が転がっていて、その頭も手も他のと同じように蛆虫に集られている。チェリーはその浅黒い顔に見覚えがあり、小さく舌を打ち鳴らす。

「あんまりしつこかったから、ついここから突き落としてしまったの。あんなに簡単に死んでしまうなんて思いも…いえ、言い訳なんか無用ね。私は主人をこの手に掛けた…あなたたちと一緒に行く理由なんて、それで十分でしょう…?」

 アンは鳥肌が更に粟立つ。自らの業を語る千春の唇は、飽くことなく笑っていた。

「…ふん、せいぜい道案内でもしてくれればいいわ。別にあたしはあんたを信用した訳じゃないから。妙な動きをしたら、今度こそ撃つわよ」

「そうね、それでもいいけど…あなたみたいな子供にそんなものを持たせておくのもどうかしら?私が預かっておいてあげるわ。大丈夫よ、ハワイで一度撃ったことがあるの。その時はベレッタって言う銃だったけど」

 言葉巧みにぬらりと伸ばす千春の手を、チェリーは鼻であしらい撥ねつける。

「残念。これに関しちゃああたしの方が遥かに大人よ。知識も経験もね。欲しけりゃさっき童貞捨て損ねた奴のでも使えば?」

「そ、そうね…!悠太くん、そうしてもらいなさい、あなたがそんなもの持ってちゃいけないわ、そんな危ないもの…」

 アンはチェリーの冗談をしっかりと真に受け、悠太の銃を持つ手首を掴み千春に差し出す。千春に預けて本当に安全かどうか判断するまで思慮が回らない。とにかく、悠太に銃など持っていて欲しくなかっただけだ。悠太は戸惑いながらも素直に千春に銃を渡す。悠太にしても持っていて気持ちの良いものではなかったのだ。

「青柳先生は恐らく屋上にいる…屋上の扉は病院職員のカードがないと開かないわ。つまり私が一緒に行かなきゃ、結局はあの子のところまで辿り着けないってこと。それで文句はないかしら?…じゃあ、行きましょうか」

 千春は慣れた手付きで残弾を確認し弾倉を納める。アンは千春がまだ薄っすらと笑っているような気がして、握ったままの悠太の手をしばらく離せないでいた。


「どうする?チェリー…これじゃあ身動き取れない…」

 大きな鉄扉を細く開けた隙間から片目で覗き、レアがすぐ傍のチェリーに小声を零す。

 病棟階段の頂上、四階の踊り場で一行は寸時立ち往生していた。悠太が先に見てきた通り、階段とエレベーターのある中央廊下は北も南も折り畳みのストレッチャーとパイプ椅子が積み重ねられた人の背丈ほどの高さのバリケードが築かれていて容易には抜けられそうにない。しかも正面のガラス張りのナースステーションやその横に並ぶ診察室からは頻繁に医者や看護師が出入りしていて人気が絶えない。彼らは一体何をしているのだろう?一通りの観察では医者が三人、看護師が十人くらい、看護助手っぽい人が三、四人で、手ぶらだったり血圧計や点滴バッグの乗ったカートを押したりしながら行き場のないバリケードの間を歩哨のように巡回している。ここには患者や外部の人間の姿はないがバリケードの向こうにはいるのだろう、隙間から時折人影がうろついているのが見える。特に何をしているという訳でもなく、バリケードがなければ穏やかな病棟の日常に見えてくる。だが常に一人は廊下に出ているので無策に飛び出すのも躊躇われる。騒ぎが起きて取り囲まれたらそれこそ身動きが取れなくなってしまうだろう。

「だから言っただろう…もう人数の問題じゃない、こんなのどうやって抜けるんだ?」

「じれったいわね…待ってたってしょうがないわ、こうなりゃ強行突破よ。あたしが巡回を倒すから全員で一気にバリケードに張り付いて…」

「待って。こっちには武器が二丁しかないのよ?無闇に進もうとしたってジリ貧になるだけだわ」

 今にも飛び出そうと扉に掛けるチェリーの手を千春が抑える。

「あによ、じゃあ何か良い作戦でもあるっての?」

「刺激しなければ襲ってこないんでしょう?あの人たちを操っているのがバキュロウイルスなら…一つ考えがあるわ」

 千春は銃をナース服の内側に仕舞い、チェリーを下がらせ自身が扉に手を掛ける。

「青柳先生から聞いた話なんだけど、多角体ウイルスに感染したガやカイコの幼虫は昼行性、つまり明るい間に活動する傾向があるらしいの。ウイルスを広める鳥の活動時間に合わせているんだとか。ナースステーションの中にこの階の分電盤があるから、私が行ってブレーカーを落としてくるわ。非常灯が点くから完全な暗闇にはならないと思うけど、みんなはそれまでここで眼を閉じて暗さに慣らしておいて。暗くしてあの人たちの活動が鈍るかは賭けだけど…」

「やらないよりかマシだって?…そうね、あたしも夜になるとあいつらが帰っていくのは見たし、どっちにしろこれから殺す相手の顔を無駄に見ずに済むってことね…いいわ、乗ってあげる」

「え、でも千春さん一人であの中まで行くんですか?もし襲われたら…」

「大丈夫、ここの職員は大体みんな顔見知りだから。今のところ感染者同士で争っている様子はないし、部外者がいたらかえって怪しまれるわ。じゃあ電気が落ちたら南側のバリケードに向かって。静かにね。一人分の隙間が開けば十分だから。上手く抜けられたら右に折れて屋上への非常階段まで一気に走りましょう。万が一、電気が消える前に銃声が聞こえたら…フォローよろしくね」

「あによ、結局強行突破みたいなもんじゃないの…まあいいわ。五分経っても消えなかったらこっちも突っ込むから。それまでに済ませるのよ」

 分かったと頷き、千春はナース服の襟を整えて堂々と扉を開けて出ていった。アンはハラハラしながら扉の隙間から片目で覗く。千春は巡回の看護師に早速声を掛けられ立ち話を始めている。

「コラ、担任。あんたも目ぇ瞑っときなさい。ここは窓明かりも何もないから、本当に真っ暗になるわよ」

 どうして目を開けているのがバレたのか、振り返るとチェリーたちはしっかり目を閉じて備えていた。アンも扉を閉め大人しく目を瞑る。瞼の裏でこれまでの光景がチラチラとフラッシュバックし始め、アンは閉じた瞼に力を込める。

「……なあ、ブレーカーって、照明だけじゃなくて機器の電源も全部落ちるってことだよな…?もし入院患者で、人工呼吸器とかつけている患者がいたら…」

 沈黙に耐えかねたのか、悠太がぶつぶつと余計な心配を漏らす。

「何言ってんのよ、ヒトの頭撃っといて。うちらはもう全員ヒトゴロシなの、今更善い子ぶったって遅いわよ。この病院には無事な人間はもう一人もいない、そう思ってかからないとこっちがやられるわ。少しでも躊躇ったりしたら…」

「しっ、チェリー。時間が分からなくなる…」

 チェリーも矢鱈と饒舌になっていて、腕時計を耳に押し当てて時間を測っているレアに窘められる。皆に緊張が伝染している。発生源のアンは瞼の裏の幻像を打ち消そうと歯を軋らせる。一分、二分が酷く長く感じられる。電気はまだ消えない。分厚い鉄扉の向こうでは何が起きているか察することもできない。もう五分経ったんじゃないだろうか?レアからの合図はない。自分の鼓動だけが瞼に響き、辺りの気配が消えていく。みんな、そこに居るの…?急に不安が湧き上がってきて耐え切れず脈打つ瞼を薄く開く、暗い、開けたはずなのに何も見えない、みんな、どこ…!アンは思わず声を上げそうになり同時に強く袖を引かれた。

「行くよ、先生…!」

 階段の電気が消えていた。瞑っていた時間が短すぎて暗順応が追いつかない、何も見えない中を腕を引かれるままに千鳥足で進む、固いものに肩をぶつけた、扉か、廊下に出たのだ、タン、タン、短い破裂音が二回鼓膜を震わす、あのバカ、これじゃあ一緒のことじゃない、少し前方でチェリーが吐き捨てる、千春が撃ったのか、叫び出したくなるのを必死で堪え悠太について走っていく、ガシャン、すぐ横の足元で金属音が響いた、勢い余って悠太の背にぶつかる、音だけで何も見えない、ガシャンガシャン、バリケード…?ようやく思い至り肩を小突かれ数歩先に折り重なったパイプの山がほんのりオレンジに浮かび上がる、目の端に光源、非常灯、見えないはずだ、走りながらまた目を閉じてしまっていた、先生も早く…!もう一度小突かれ我に返り崩され始めているパイプに手を伸ばす、ガシャ、固い、ガチャガチャ、力の限り引いてもびくともしない、邪魔よバカ、チェリーの𠮟責、先生引いちゃ駄目、持ち上げるの、レアは上から順に次々にパイプ椅子を取り除いている、言われた通り持ち上げてみるとようやく一つが外れた、タン、また銃声、思わずパイプ椅子を放り出し頭を抱えてしまう、タン、少しおいてもう一度、ごめん、振り切れなかった、千春の声に汗が噴き出る、安堵か、それとも恐怖なのか、

「行って!後ろは抑えるから!」

 千春はもう憚ることなく叫んでいる、また袖を引かれた、悠太だ、バリケードの端、腰の高さに人一人通れるだけの隙間が開いていた、レアの仕事だ、また自分は何もできなかったなどと反省している暇もなく背中を押される、先生、早く!呼ばれる資格のない敬称に後ろめたさを感じながらバリケードの土台になっているストレッチャーに足を掛けると隙間の向こう側から突然手が飛び出し髪を鷲掴まれた、ぐぎぃ、力任せに引かれ首が捻じ曲がり喉からおかしな音が漏れる、痛い、苦しい、ついさっき自分が植木鉢で殴り捻じ曲がった悠太の祖母の顔が過ぎる、殺すとは、死とはこういうことか、痛い、怖い、怖い、こわい…!アンは髪を掴む手を掴み返す、いやだ、死にたくない、髪なんてどうなってもいい、死にたくない…!先生!気付いた悠太が隙間に身を乗り出し加勢する、綱引きだ、ぶちぶちと嫌な音を立て髪が抜けていく、曲がった首を立て直し溢れた涙と鼻水が頬を伝い千切れた髪の毛を指の間に束ねた指と相手の腕が暗闇の中に見えた、見えてしまった、ストレッチャーに掛けた足が外れ元の方へとずり落ちると同時にチェリーが隙間に腕を突っ込んだ、タンタンッ、続けざまに二発、そのままチェリーが隙間に飛び込んでいく、

「あたしが先に行く!レア!続いて!」

 チェリーの呼び声と共にレアも高い背丈を隙間に捻じ込む、制服、アンの髪の毛を引き千切っていった腕が着ていたのは、清香学院の制服だった、今確実にチェリーに撃たれたのは、清香学院の生徒だった、全身から汗が噴き出し肌着を濡らし纏わりつく冷気にアンは叫び出したかった、いや実際叫んでいた、安堵や恐怖なんかじゃない、呵責、悔悟、そして虚無、護らなければいけない対象を殺め、この身に堕ちるべきは神罰だ、悠太に背を押されアンは叫びながらレアに続く、もしかしたら自分もウイルスに冒されてしまっているんじゃないだろうか、いっそのことそうであって欲しい、しかしこの頭の中の迷いは一向に消えず、暗闇を畏れ銃声に怯える、バリケードの向こう側に雪崩落ち、少し先でまた銃声と閃光、もうやめて、腐肉に硝煙の匂いが混じる中を背を押されて走る、行く先に制服が倒れている、いくつも転がっている、非常灯のオレンジに照らされ白い血を流している、もういやだ、目を閉じようとしても今度は閉じられない、見ろということか、それが私への罰なのか、いくつ銃声を聞き、いくつ死体を数えたか覚えていない、もうたくさん、もうだめだ、角を折れその先にまたバリケード、レアが端から崩している、折り重なるパイプの網の目の向こうに清香の制服がちらついている、網の目の隙間、目の高さにチェリーが銃をもたげる、もう、だめよ…!

「やめなさい、拝さん!もう撃たないで!」

 指の掛かった引き金の先にアンは両手を広げて立ち塞がった。チェリーの眉が歪む。

「どきな、ポンコツ。邪魔すんならあんたから撃つわよ」

 チェリーは本気だ。胸元を向いた銃口がじりじりと競り上がってくる。だがアンは怯まない。恐らくこれが、教師としての最後の仕事になるだろう。アンはその銃口に手を差し伸べる。この子にもう、ヒトを撃たせてはいけない。

「銃を渡しなさい。どうしても撃たなきゃいけないのなら…私が撃つわ」

 その言葉にチェリーの眉根がふっと緩む。同時に吊り上げた唇から含み笑いがくっくと漏れる。

「撃つって?あんたが?自分の生徒を?笑わせんじゃないわよ、平手打つのも精一杯のあんたがそんなことできる訳ないじゃない?この銃はあたしのよ、渡さないわ。あんたが感染していない証拠なんてないんだから。そうね、ひと思いに撃ってあげようか?その方があんたにとってはいいかもね」

 口元の笑いが消え、蒼い瞳と銃口が重なる。それでもアンは手を差し伸べ、教師としての責任を果たそうとする。たった三ヶ月。レアやチョコたちにしたって二年足らずの付き合いでしかない。それでもこの子たちは私の生徒だ。生命を、人生を賭けるのにそれ以上の理由なんて必要ない。この子は撃たない。撃てない。そう信じることが、教師である自分に出来る最後の務めだ。

「お前…!やめろ!」

 悠太が飛び掛かろうとした瞬間、碧い瞳が非常灯をぎろりと映し銃声が響いた。

「ぐっ…!」

 呻きを上げたのはチェリーだった。薬莢の弾む甲高い音がして、チェリーの手から銃がゴトリと落ちる。

「そうよね。感染していない証拠なんてどこにもないわよね…あなただって」

「あんたぁ…よくもっ…!」

 右肩を押さえ跪いたチェリーが鬼の形相で振り返る。そこには硝煙の燻る銃口を向けた千春が立っていた。

「こっちにまで作っていたのね…良かったわ、あなたたちに先に行ってもらって。私一人じゃあどうしようもなかったもの、こんな大層なバリケード。ありがとうね、特にそっちの背の高い…レアちゃんだっけ?あなた一人でそこまで崩してくれたのね、ご苦労さま。もう十分だから、後はここでゆっくり休んでいて」

 レアはパイプ椅子を手に呆然と、銃を突き出したまま一歩一歩近付いてくる千春を見ている。何が起きたのか、千春が何を言っているのか、アンには分からない。

「ち…はる…さん…?あなたが…撃って…?」

「私も困っていたの、あの人のところに行かなきゃいけないのに、みんなして邪魔するんですもの。…あの人の邪魔は誰にもさせないわ。あなたたちだって、あの子にだって私は容赦しない…そう、あの子には死んでもらわないといけないの」

 あの子?知世子ちゃんのこと?この人は最初からそのつもりで…?

「小松を突き落とした時…小松の首が折れる音を聞いた時、ようやく気付いたの。何があろうとあの日あの時、私はあの人を選ぶべきだった…そうしなきゃいけなかったのに、怖がっていたのね…あの人は何も与えてくれない、あの人の期待に応えてあげられない…そんな迷いがあって、私はあの人を恨み、遠ざけてしまった…でももう迷わないわ。あの子はあの人を不自由にしかしない。あの子があの人を幸せにできるはずないもの。だってあの子はまだ高校生なのよ?しかもおかしな家系とおかしな病気持ちの。そんな子に私が負けるって言うの?有り得ない。そんなこと許されないわ。あの人を幸せにできるのは私だけよ。それでも私を選んでくれないなら…望み通りあの人も一緒に、殺してやるわ」

 非常灯の下でも千春の瞳は鳶色に透き通ったままだ。この人、狂ってる…混乱したアンの足元でチェリーが落とした銃に飛びつく。が千春が目聡く発砲し、弾かれた銃は回転しながらレアが除けたパイプ椅子の山まで滑っていった。唇を噛むチェリーの肩口は血で真っ赤に染まり、指先からぽたぽたと垂れ床の上に血痕を増やしていく。

「安心して。あなたたち全員を撃つだけの弾は残ってないから。でも余計な動きはしないでね。自分の生徒や友達が撃たれるのは見たくないでしょう?…けどやっぱりあなただけは動けなくしておいた方が良いかしら?至近距離で頭を狙う…確かそうだったわよね?チェリーちゃん…」

 銃痕の刻まれた床に手を膝を突き打ち伏せるチェリーの頭頂に銃口を下ろし、千春は勝ち誇ったように頬を歪める。チェリーはその冷たく狂った笑いを燃えるような蒼い瞳で睨み上げる。この子はまだ、諦めてない…!千春が引き金に指を掛け、アンは考えるより先に身体が動いていた。

「―――拝さん!」

 左手を振り上げようとしたチェリーを横からアンが身体ごと突き飛ばし引き金が引かれたと思った瞬間千春の背後から飛び掛かった悠太が銃身を両手で握り込む、突き飛ばされたチェリーはパイプ椅子を構えるレアの元まで床を転がっていった、逃げて…!上手く声が出ない、仕方なく肩越しに追い払うようなジェスチャーを見せる、先生、先生、レアたちが叫んでいる、伝わったか確認する余裕がない、目の前で銃を奪おうとする悠太と抵抗する千春が揉み合っているのだ、加勢したいが足が動いてくれない、下半身がぐっしょりと濡れたように重たく冷たく、もしかして恐怖のあまり漏らしてしまったんじゃなかろうか、こんなところを生徒たちやましてや悠太に見られでもしたら教師としての威厳が、いやヒトとして恥ずかしい、アンはなるべく何でもないかのように痺れた足を引き摺り揉み合う二人に近付いていく、悠太が頭で顎を突き上げ怯んだ千春から銃を奪い取る、さすが男の子、しっかり強いところも見せてくれるじゃない、これなら私じゃなくたって惚れちゃうよ、悠太は奪った銃をたたらを踏む千春の喉元に突きつける、ああ、駄目、駄目だよ悠太くん…!声が出ない、そんなことしちゃ駄目、あなたはそんなことを…!止める間もなく悠太は引き金を引き千春の後頭部が弾け、噴水のように血が噴き出した、

「があっ…!どうじで…!」

 血の混じった泡を口から吐き出し千春の絶叫が廊下に響き渡る。ああ…どうして…アンはショックで眩暈を起こし、痺れた膝を床に突く。

「先生っ…!」

 悠太が駆け寄ってくる。千春は仰向けに崩れ落ち、血と共にごぼごぼと声にならない声を吐いている。

「どう…して…どう…してあ…なたは…きて…くれなかっ…たの…わ…たし…まって…いたのに…どう…し…」

 千春の断末魔を聞きながら、アンは眩暈が治まらない。そのまま倒れそうになるのを悠太が支えてくれる。先生、先生っ…!悠太は真っ青な顔をして呼び続けている。あんまり見ないで悠太くん、今ちょっと、恥ずかしいから…さり気なく下腹部を隠そうとした手がぬるっとした温かいものに触る。ほら、やっぱり…自分の失態に視線を下ろし、アンは自分の手が真っ赤に染まっているのを見た。…なんだ、血か。ほっとした瞬間、アンの意識は加速度的に落ちていった。

「先生っ…!くそっ…!なんで…こんな…!」

 悠太はアンの脇を抱え引き摺っていく。床に血の跡が展びる。バリケードの側にレアもチェリーも姿はなかった。そっか。ちゃんと、伝わったんだね…アンはそれを見届け、急に重くなった瞼を閉じる。

「先生っ…!目を開けて…!起きてくれ…!先生っ…!」

 執拗に頬を叩かれている。そう…寝てちゃ…駄目だね…私が…ねてちゃあ…薄っすらと開いた瞼の向こうで悠太の顔がぼやけている。頭の下が柔らかい。いつの間にかベッドに寝かせてくれていた。白い天井。波打った無地のカーテン。病室か。アンは乾いた唇を震える舌で舐める。生温い、鉄の味がした。

「あ…ありがと…ゆ…うた…くん…。す…ごく…らくに…なった…よ…」

 精一杯強がって見せて、悠太はぼろぼろと泣いている。その泣き顔に、アンはもうすぐ死ぬのだなと実感する。怖くはない。痛みもない。愛する生徒たちを護れた誇りと、一抹の淋しさがあるだけだ。

「アン先生っ…!」

「ゆうたくん…いってあげて…いなづまさんと…おがみさんも…いってくれたから…ちよこちゃんを…まもってあげられるのは…もう…おにいちゃんしか…いないのよ…しっかり…してね…おとこのこ…でしょ…?ほら…ないて…ないで…」

 言葉が自然と紡がれていく。もう悠太の声も聞こえない。次に目を閉じたらこの愛しい教え子の顔が見られなくなると思うと、淋しさは募っていく。アンはその淋しさを埋めたくて、斑に赤く染まった手を悠太に伸ばす。その頬に触れ、髪を梳き、弱々しく引き寄せると、泣き顔の悠太は素直に応じ、二人は唇を重ねる。

「なか…ないで…ゆう…た…くん…ね…ほら…わら…って…おね…が…」

 瞼を閉じるより先に視界が薄れていく。光。その向こうで顔をくしゃくしゃにして笑っている悠太が見え、安心して目を閉じる。初めて見た笑顔。うん。その笑顔なら、きっと大丈夫。アンは濡れた唇をもう一度舐める。

 今度はほんの少し、甘いリンゴの味がした。


 アン先生が撃たれた。

 バリケードから抜き取ったパイプ椅子を手に提げていたレアは、足元に転がってきたチェリーの襟を掴んで引き寄せ銃を拾い上げる。一階で一発、階段横のバリケードで二発、ここまでの通路で六発、残弾はあと一発ある。揉み合う二人に向けて構えようとして、立ち上がったチェリーにその腕を銃ごと押さえられる。白い体液ではなく赤い血で塗れたチェリーの手にレアは本能的に怯え、握られた銃をそのまま彼女に預けてしまう。

「行くよ、レア。屋上への階段はすぐそこにある。青柳がどう出るかは分からないけど、殴り倒してでもチョコを確保するわよ」

「…え、でも…!」

 顎でバリケードの向こう側を指すチェリーにレアは躊躇う。まだ立っているとはいえ明らかに重傷を負ったアン先生を見放して行ってしまって良いものか…?

「迷うなレア、らしくもない。あいつらがどうなろうと先にチョコまで辿り着けばこっちの勝ちよ。あの女の言った通りなのは癪だけど、確かに暗闇で感染者の動きは鈍った。陽が落ちるまで隠れていればそれまでに奴らは弾けるか、少なくともここからはいなくなるわ。青柳からカードを奪って実験室の奥のカイコ部屋でやり過ごせばいい。あそこは青柳のカードじゃないと開かないから」

 チェリーは制服のリボンを抜き取ると撃たれた傷口を片手と口で器用に結びながら口早に指示を出す。確かにチェリーの言う通り、ここにバリケードがあってその向こうで清香の生徒がうろついていると言うことは感染者はまだ屋上には向かっていないのだろう。ならばこの階の電気が回復するまでが勝負だ。とは言えレアはチェリーのように簡単にはドライな感情に切り替えることができない。それに…

「チェリーは?その怪我でどうするの?」

 アン先生だけじゃない、レアにとってチェリーもその身を案じるべき仲間だ。だが状況がどうであれチェリーは道中の生徒たちを撃ち、アン先生に銃を向けた。一体この子をどこまで信用していいのか…

「大丈夫よ、こんなくらい。邪魔だったら見捨てればいい。逆でもそうするからね。…いい?いくら動きが鈍ったと言っても上に行こうとすれば奴らはきっと阻止してくる。あたしはあんたをいくらでも囮にするし盾にする。あんたよりチョコの方が大事だからね。あんたもそうすればいい。でもこの銃はもう当てにしちゃあ駄目よ。頼れるのはあんたのカラテだけだから。それと…これはあんたが持ってな。確率的にはあんたの方が先に着くだろうからね」

 チェリーは銃をコートの内ポケットに挿し納め、いつの間に奪ったのか千春のIDカードを掌に押し付けてくる。その時濁った銃声と、濁った千春の呻きが響いた。千春は仰向けに倒れていき、背中まで真っ赤な血で染めたアン先生が跪くのを見てレアはもう一度覚悟を決める。

「…分かった。行こう、チェリー。後ろはお願い…!」

 言い残してバリケードに開けた隙間に飛び込む。チェリーはちゃんと自分を信頼してくれていた。こんな時なのにその言葉だけで胸が踊る。ちょっとでも疑った自分が恥ずかしい。千春の呻きと悠太の叫びと、チェリーの声が背中から届く。

「気を付けな!その先は確か、あたしたちが隔離されていた部屋…」

「―――レア。あなた一体誰と話をしているの?」

 前の暗闇からも声。と同時にバリケードの向こうに出した腕を掴まれ異様な力で引き摺り降ろされた。レアは受け身を取って床に転がり体を捻って掴まれた引手を切る。この声、まさか…!膝立ちのレアは本能的に後ろに飛び退き、鼻先を風が切っていった。

「さすが。この暗闇なのに、僕の下手糞な型じゃあ掠りもしないね」

 壁を背に振り仰ぐと両拳を中段に構える、レアよりも背の高い制服姿の男子。その影からやはり清香のスカートを履いた女生徒が現れる。こちら側でうろついていた制服は他の誰でもない、シューとトータだった。肩で息をし身構えるのも忘れ、動揺を隠せないレアにシューはゆっくりと歩み寄ってくる。

「当り前じゃない、トータ。レアは全国大会にも出たことのある段持ちよ。ちょっと齧ったことのあるだけのあなたとは格が違うんだから。…で?私の質問にも答えてくれる?レア、今誰と話していたの?もしかしてあの転校生も来ているの?ナッツやコンスは?一緒じゃないの?」

 矢継ぎ早に問い詰めてくる時のシューは怒っている。小さい頃から一緒にいるレアには良く分かる。だがしかし、今の彼女に果たして感情は存在しているのだろうか?一縷の望み、いや祈りは抱いていたものの、非常灯に照らされたシューの瞳はここからでも白く濁っているのが分かってしまう。

「ねえレア…聞いてる?いつから転校生と喋るようになったの?言ったでしょ、あの子はチョコに悪い影響しかないって。なのに普段は無口なあんたが愉しそうに喋ってるとか、それどころかあんな子の言うこと聞いたりして…有り得ないんだけど?それに電気を切ったのもあんたたちの仕業?こう暗くっちゃあ動き難いじゃない。チョコをちゃんと護らなくちゃいけないのに…そう、あんたたちみたいのからね!」

 声を張り上げるや否やシューはパイプ椅子を振り上げレアは咄嗟に横に転がりパイプ椅子が元いた床を打ち派手に音を立て起き上がった顔の前で十字に構えた腕をトータの拳が殴りつける。

「シュー、君は下がっていろ。電気はナースコールで連絡したからすぐに元に戻るよ。…レア、考え直してくれないか?チョコはみんなのものだ。どうせチェリーに誑かされているんだろうけど、彼女を独り占めにして良いなんてことが許される訳がない。ましてやここから連れ出そうだなんて…なあレア、ここで僕らと一緒に戦ってくれ。僕らは元々クラスメイトじゃないか。君とは戦いたくないんだ。チョコが一番大事なのは君だって同じだろう?それができなければ…せめてここから出て行ってくれ…!」

 トータはボクサーのように小さくステップを踏み、その度に濁った瞳がオレンジの灯りの中で白く筋を引く。殴られた腕が痺れている。とんでもない力。他の感染者と同様に制御を掛けるリミッターが外れているようだ。殴ったトータの拳の方が破れ、そこから白い体液が滴っている。

「…シュー、トータ、聞いて。私たちはチョコを助けようとしているの。こんなことになったのも全部おかしなウイルスの所為。みんなも、あなたたちもそのウイルスに操られているんだよ。それを治して、これ以上広げないようにするにはチョコが持っているワクチンが必要なの。私やチェリーが感染していないのがその証拠。だからお願い、チョコのところまで…」

「知っているよ、そんなことはぁ!」

 皆まで言わせず殴り掛かり蹴り上げる拳を足をレアは手刀で受け流す。駄目だ。やはり説得など聞く耳も持ってくれない。

「おかしいのは君らの方だ!治してどうする?こんな素晴らしい世界を!そのためにチョコの身体を使うだって?全く狂ってる!操られているのは君だ、レア!ワクチンが必要なのは君の方だ!」

 連撃、連撃、息もつかずに叫びながら殴ってくる。一撃は重いが大振り過ぎて隙だらけだ。単調な打ち終わりに基本のカウンターを合わせるのも難しくない。だが動き続けるトータの向こうに霞むシューの影。レアは反撃できない。殴り返せばきっと、熟れ過ぎた果実のようなトータの顎は簡単に砕けてしまう。シューが見ている前でそんなことはできない。救いたい相手と戦わなければならない矛盾に、レアは心が挫けそうになる。

「ここから!始まるんだ!青柳先生はそう言った!チョコを戴く!誰の命も平等な世界!彼女は太陽だ!何故それを!君は感じない!」

 殴る度にトータの拳が歪になっていく。レアはなるべく強く受けないように捌きながらも階段への扉とは逆に追い詰められていく。中段蹴りをいなし半身を引いた足がバリケードに当たる。振り回した勢いでトータが背を向け大きく体勢を崩す。今だ…!トータと壁の隙間を無理矢理縫おうとバリケードに突いた足に力を込める。が、後ろから制服の襟を引かれその動きを止められた。首だけで振り向いたレアの目に映ったのはバリケードから伸びた腕と、非常灯に映えるピンク色の髪。

「チェ…!」

 バリケードの隙間に身を潜め様子を窺っていたチェリーが、レアの襟首を掴みニタリと頬を歪めていた。体勢を戻したトータの拳が飛んで来る、廻し受けで逸らせ皮一枚で頬を掠める、掠めただけで火傷したように熱い、いや本当に火傷したかもしれない、一瞬気が逸れた隙に逸らせた腕をトータに掴まれた、しまった…!レアより頭一つ高いクールな顔が眼前に迫る、

「どいてな!あんたたちは!」

 チェリーがレアの背を思い切り突き飛ばし、レアの頭がトータの顎を打ち二人はもんどり打って床に倒れる、チェリーはバリケードから飛び出し二人の背を踏み越えて階段の扉に向かって走る、盾に囮か、良く分かった、レアはわざとトータに圧し掛かり立ち上がるのを遅らせる、行って、チェリー、あなたが行けば私はそれで…!

「どこに隠れているかと思ったら。…行かせないよ!」

 行く手にシューが立ちはだかりパイプ椅子を振り回す、チェリーは直前でブレーキをかけ立ち止まり、パイプ椅子を振り抜いた反対脇に素早く進路を変え再び走る、

「このっ、ちょろちょろと!」

 苦し紛れにシューが突き出した肘にもさっきまでのチェリーなら難なく対応していたことだろう、軽やかに加速し掻い潜る、が、シューのその肘が撃たれた肩にまともにぶつかりチェリーは顔をしかめバランスを崩す、その一瞬が命運を分けた、骨まで響く痛みに耐え右腕を垂らし階段に向かって尚も走り遂に扉に手が掛かりドアノブを回したチェリーの左腕にパイプ椅子が叩きつけられた。

「―――があっ!」

 鈍い音と呻き声。チェリーは扉に寄り掛かりそれでもドアノブは離さないでいたが、その時天井の電灯が明滅し眩いばかりに光が注ぐ。とうとうこのフロアの電源が回復してしまった。

「ナイスタイミング。やっぱり明るい方が良いわ。あんたのそんな表情、なかなか見ることできないもんねぇ…行かせないって言ったでしょ!」

 憤懣やる方なく醜く睨み返すチェリーに、シューは容赦なくパイプ椅子を叩きつける。

「チェリー…!」

「残念だったね、レア。まさか君がスクリーンを仕掛けるとは思わなかったけど…これでチェックメイトだ」

 殴打されるチェリーに思わず身を起こしてしまい、腹這いになっていたトータの背が跳ね上がり鳩尾を抉る。息が一瞬詰まり半身を翻したトータの追撃に気付けなかった。拳の裏で顎を打ち抜かれ脳が揺れる、明るくなった廊下がまた暗闇に沈む、数瞬だったのか何分も経ったのか、意識が戻った時にはチェリーは床に横たわり、血溜まりの上で動かなくなっていた。

「チェリー!」

 身体が動かない。後ろから両肩を羽交い絞めにされている。トータの腕は長く太く、とても太刀打ちできない。

「レア…本当にどうしちゃったの?この子のことがそんなに心配?自業自得じゃない、急に転校してきたかと思ったら我が侭三昧に私たちのクラスを引っ掻き回して、先生にも生意気な態度、挙句にチョコまで一人占めして…さっきだってあんたを盾にして自分だけ逃げようとしたのよ?だから私が成敗してあげたのに。あんたは昔っからそう。やればできるのに、自分だけじゃ何一つ決められないんだから…でももう安心なさい。これからは私がちゃんと指示してあげる。これまでと同じように…」

 シューがだらりと提げ持つパイプ椅子から血が滴っている。その下でチェリーの血の海はじわじわと広がっている。尋常ではない量。殴打だけではこれ程になるまい。恐らく千春に撃たれた銃創が太い動脈を傷付けていたのだ。我が侭なんかじゃない。チェリーは他の何よりも、自分の身さえ顧みず、ただチョコだけを救おうとしている…!

「シュー、違う…!これは私自身の意思…!誰の指示でも命令でもない…!シューを、みんなを助けるためにチョコが必要なの…!お願い、シュー…!」

「いいえ、違わないわレア。チョコは私たちのモノよ。あんたの意志なんて必要ない。あんたは私の言うことを聞いていればいいの。ねえレア、私たちそれでずっとやってきたじゃない、何が不満なの?それなのにいつまでも我が侭を言うんじゃあ、引っ叩いてでも分からせてあげるしかないわね…!」

 シューは椅子を引き摺り、ゆっくりとレアに近付いてくる。濁った目尻から、口の端から、白い体液が溢れ出し始めている。もう手遅れなのだろうか?だがレアの中で諦めるという選択肢が浮かんでこない。

「私ならいくらでも殴って…!でももう他に誰も傷付けないで…!シュー、あなたはそんな人じゃない…!チョコを殺したりなんか、絶対にしないで…!お願い…!」

「…は?チョコを…殺す…?え…レア、あんた、何言って…」

「シュー!後ろだ!」

 頬を引き攣らせ戸惑っていたシューは突然のトータの警告に身体ごと振り向く。床に広がった血溜まりの上でチェリーが起き上がり、シューに向けて銃を構えていた。シューは反射的にパイプ椅子を抱えて身を庇う。だがチェリーは両瞼とも腫れ上がり果たしてちゃんと見えているのか、ピンクの髪は赤毛に変わり、制服も半分自らの血に塗れ、血溜まりに突いた肘は力なく震え、大きく肩を上下させて息をするたびにヒューヒューとどこかから漏れているような音を立てそれでも伸ばした右腕の先の銃口は当てもなくがくがくと揺れていて、あれでは当たりっこない。そしてチェリーは低く呻くと、その銃をポロリと落としてしまう。

「…はっ。びっくりさせないでよ、まったく。大人しく死んでいればいいのに…良いの持ってんじゃない。でも引き金を引く力もないんじゃあしょうがないわね。代わりに私が撃ってあげるわ。どうするんだっけ?留学行ってた時に見せてもらったことはあるのよね…そうそう、確か、なるべく至近距離で撃つのよね?」

 シューはパイプ椅子を投げ捨て血の海に落ちた銃を拾い、今にも倒れそうに足元で傅くチェリーの眉間に突きつける。頼るなと自らが言った銃で窮地に追い込まれ、チェリーは動けない。

「じゃあね、間抜けな転校生さん。あんたにチョコはもったいないわ」

「シュー!やめて!チェリー…!」

 レアの叫びにもシューは躊躇いなく引き金を引く。

 ―――カチン。

「…え?何、これ?…弾切れ?」

 遊底がスライドしたまま銃身が剥き出しになっている銃をシューは不思議そうに眺めている。それを見上げ、チェリーの腫れた瞼が青褪めた頬が破れた唇がニヤリと笑う。

「ありがとう…まんまと…引っ掛かってくれて…間抜けはあんたよ…優等生さん!」

 チェリーが吼え血飛沫を撒き散らして躍りかかる。ラグビーのタックルのようにシューの胴に抱きつき背中から押し倒し抗う間もなく組み伏せる。銃弾は発射されなかった。不発ではない。数え間違いでもない。弾は最初から九発しか装填されていなかったのだ。チェリーは当然知っていた。知っていたから故意と落として奪わせ、知っていたからレアには頼るなと言ったのだ。つまり…ああ、そうか。レアの中で僅かに残っていた氷塊が溶けていく。つまり、チェリーがアン先生に銃を向けた時、弾は既に空だった…!

「くっ…!このっ、放せっ…!無駄よ、こんな悪足掻き…!」

 チェリーに絡みつかれ床の上をのたうつシューの目から鼻から体液が流れ出ている。白い。チェリーの返り血に塗れ、顔を伝う白い筋がまるで歌舞伎役者の隈取のようで、その怒りに憑りつかれた表情はもう、レアの知っているシューではなかった。

「言った…でしょ…あたしたちのうち…誰かがチョコに辿り着けば…勝ちだって…!頼んだわよ…クソ兄貴…!」

「なっ…!」

 シューとトータが同時にチェリーの視線に振り返る。肩を締め上げるトータの腕の力が緩んだ、この瞬間を待っていた、レアは後ろに向かって床を蹴りトータを背中から身体ごとバリケードに叩きつける、ぐうっ、肺の押し潰されるくぐもった音、さらに首を跳ね上げ後頭部を鼻面に見舞う、

「がアッ!」

 レアはトータの両腕を払い除け、そのまま身を翻して首元に足刀を叩き込む、上段廻し蹴り、流石に綺麗にヒットはしなかった、が、トータはよろけバリケードに寄り掛かる、その眼前に隙間から身を乗り出した悠太が銃口を突きつける、

「動くな!これには弾はまだ残っているぞ!」

 これがチェリーの最後の策。チョコに辿り着くのはチェリーでも自分でもなくていい、寧ろ悠太こそがその役に相応しい。アン先生が撃たれ、悠太が千春を撃った時から言わずとも自明だった。悠太がすぐに立ち直るかは賭けだったが、チェリーは信じていた。復讐を遂げるべきは他でもない、兄である悠太の役目なのだ。

「…悠太さん…!あんたもかっ!」

 焦点定まらぬトータの瞳がぐるりと白目を剥く。まずい。トータの理性が途切れた。悠太の銃も千春を撃った時点で残り一発だった。銃声は聞こえなかったから本当に残っているはずだが、屋上で何があるか分からないのにここで使い果たす訳にはいかない。悠太もそれが分かっていて抑止に留めているのだ。だがウイルスに脳を委ね理性を失くしたトータにもう脅しは効かない。トータが動き出すより早く、レアは腰溜めにしていた左の正拳を一閃、獣じみた唸りを上げる顎に放つ。

「がギッ…!」

 骨が砕ける感触が伝わり、粘つく白濁液が撒き散らされる、やってしまった、シューの見ている前で、トータを…

「ぎィ…ガああああ!」

 一瞬の後悔に止まった引手を掴まれトータの拳の一撃をまともに食らう、衝撃に引手の袖は切れレアは廊下の反対まで吹き飛ばされる、意識はある、打ち所は悪くなかった、だがトータの拳の皮膚から突き出た骨がこめかみを額を切り裂き流れ出た血が視界を滲ませる、滲む向こうでトータはバリケードの最下段に置かれたストレッチャーを強引に引き抜こうとしている、とんでもない力、制御の外れた膂力が暴走している、バリケードの上に乗ったままだった悠太が転がり落ちる、咆哮、とうとう積み重ねたパイプ椅子ごとストレッチャーを抜き取りバリケードは瓦解し鉄パイプの山となりもう一度咆哮、2メートルはあるストレッチャーをプラスチックバットのように振り回し片膝を立て体勢を直した悠太を薙いだ。

―――悠太さん…!

 声が出ない。急に辺りの光景がぼやけ音が消え動きがゆっくりに見え出した。危機。圧倒的な危機に瀕しアドレナリンが脳内に溢れ必要な視覚情報以外を脳が排除し一瞬の変化でさえ見逃さぬようシナプスの伝達速度が増大し瞼は瞬きを止めている。悠太は左肩から弾き飛ばされ。立てた膝が腰が浮き。横面を床で強かに打ち。黒縁の眼鏡の弦が折れ。レンズが割れ。上半身と下半身が別々になったように捻じれ。一度二度床を転がり。転がる手から銃のグリップが離れ。滑り落ち。身体は壁際で止まり。床を滑ってきた銃はレアの足元に止まる。デジャブ。さっきも同じ場面があった気がする。悠太はピクリとも動かず。意識がないようだ。殴られた左腕が不自然に背中側に回っていて。どうやら折れているらしい。その悠太を見下ろし。トータは頭上に高く高くストレッチャーを掲げる。叩きつける気だ。そうなれば悠太も無事では済むまい。何を言っているんだ。もう無事ではないのだ。とにかく。助けないと。動こうとして。自分の動きも緩慢に感じる。足が。腕が遅く。重い。いや。感じるだけじゃない。本当に動けていないのか。殴られたダメージが確実にレアを蝕んでいた。

「―――悠太さん!」

 今度は声が出た、と同時に耳に音が戻る。レアの声に反応するように悠太が低く呻きトータの獣の咆哮がビリビリと空気を震わす。諦めちゃ駄目だ…!レアは動かない腕に鞭打ち足元の銃を拾い上げトータに向けて構えたその時、叫び声が止みトータの口から泡の混じった白濁液が大量に吐き出された。

「ああっ…トータ…!」

 思わずその名を呼んでいた。端正な顔は見る間に崩れ目から耳から鼻から口からあらゆる穴から液を噴き出し、バスケで鍛えた腕も足も重量物を支える力は既になく、すらりと高い背は胴体から仰け反り伐採された大木のようにゆっくりと倒れていき、自ら掲げたストレッチャーの下敷きになった。もう限界だったのだ。圧し潰されたトータはストレッチャーの下で形を失い見る影もなく、だくだくと溢れ出る体液の中で蛆虫たちが蠢いている。レアは標的を失くした銃を呆然と構えたまま、チェリーとシューに振り返る。

「行かせない…!あの子は…私のモノよ…!」

 シューは力尽きたチェリーの首に腕を回してぶら下げ階段に続く扉を後ろ手に開けようとしていた。

「動くんじゃないよ…!こいつがどうなってもいいの…?誰にも渡さない…!あの子は弱くて…可哀そうな子…護ってあげなきゃ…あの子のことを分かってあげられるのは…私だけ…!あのコをマモれるのは…ワタシだけ…!あのコは…ワタシのモノだ…!」

 シューも限界を迎えていた。セットに時間のかかる癖っ毛は老婆のように白く染まり、外したがっていた眼鏡の奥から流れ伝う体液が白い涙の跡になっている。真面目で一途な瞳はもうレアを見てくれていない。呼び慣れた名を呼んでみてもその耳には届かない。物心ついた頃から一緒にいた。彼女の隣に居るのが日常だった。やがてナッツが加わり、トータやコンスやクラスの皆が加わり、チョコが加わった。それでも彼女との関係は変わることなく、レアがまず一番に考えるのはシューのことだった。口うるさく叱られることも心地良かったし、時に喧嘩もしたが次の日には普通に話していた。離れることなど考えたこともなかった。見栄っ張りで、おせっかいで、責任感が強くて、プライドが高くて、何より優しくて、可愛い親友だった。

それが今、終わる。

 レアはチェリーを盾にチョコを殺しに向かおうとしているシューに銃口を向けた。

「はっ…!ウてるもんならウってみなさいよ…!アンタにそんな度胸ありはしないわ…!ワタシやコイツの言うことを聞いてるだけのアンタに…!ねえ、レア…!」

 名を呼ばれ、レアの頬を透き通った涙が伝う。血と涙で滲んだ瞳は、たった一人の親友を捉えて離さない。階段への扉は開け放たれたがシューは進むことができずにいた。チェリーが捕らえられた自らの身体ごと扉に押しつけ、動きを封じていた。

「撃ちな…レア…それであんたは…赦される…あんたの覚悟は…あたしが見届けてあげるわ……早く…!あたしももう…幾らももたない…!」

「くっ…このっ…放せっ…!ねえ…本気なの…?ヤめなさい…レア…!ワタシのいうことがキけないの…!おネガい、ヤめて…!ウたないで…!」

 シューの命乞いを耳にレアは何故か、みんなで作り上げたシェークスピアの舞台を思い出していた。トータのライサンダーはやっぱり格好良かった。レアが蹴り飛ばしたコンスのオベロンも、ナッツのパックのアドリブも面白かった。みんなで選んだ音楽。小遣いを出し合って作った衣装と舞台装置。夜遅くまで悩んだ脚本。楽しかった。願わくばもう一度、シューの描いたティターニアを演じたかった。最期に浮かんだシューとの思い出が楽しいもので良かったと、レアは声を上げて泣いていた。

「母様…ごめんね…あの人は…救えなかった…でも…約束は…ちゃんと…守ったよ…チェリーは…ちゃんと…あの子のことを…好きに…」

 呼吸の止まったチェリーの囁く声は余りに小さく、それは劈く銃声に簡単に掻き消されてしまい、レアまで届くことはなかった。


「―――やっぱり君が来たんだね。ようこそ。歓迎するよ」

 真冬の寒風吹き荒ぶ屋上でチョコは車椅子に乗せられ、それを押す青柳と二人、麓の街並みを見下ろしていた。混乱と破滅の極みにあるであろう街の喧騒もここまでは聞こえてこない。いつもと同じ、淋しい小田舎の風景が広がっているだけだ。

「…レアちゃん…お兄ちゃん…」

 空には灰色掛かった薄雲が流れ、雲間から時折太陽が姿を覗かせ周りの雲を虹の七色に染めている。真冬とは言え陽射しは眩しく強く、その下でチョコはいつもの麦わら帽も被らず、寒そうな病院衣から出た素肌を晒している。

「チョコ…!」

 レアは左腕の折れた悠太に肩を貸し、屋上の入り口に立っていた。悠太は肋骨も折れているようで、息をする度に顔をしかめ小さく呻いている。レアにしても心身共に疲れ果てていたが無理にでも担いでここまで連れて来た。バリケードが崩された今、階下に残しておくのも危険だったし、この場には絶対に悠太が必要だと思ったからだ。二人の姿を認めた青柳が、チョコの車椅子を押しこちらに振り向く。

「おや。あの子はどうしたんだい?チェリーさんだったか…彼女が真っ先に来るものと思っていたんだけどね。まさかDAMDSの子達に捕まってしまったのかい?それともDAMDSそのものになってしまったのかな?」

「………」

 レアは進むことも戻ることもできず、ただ黙って二人に向けた視線を泳がせる。…どうすれば良い?事情を話してチョコをチェリーの言っていた安全な場所に匿うか?馬鹿な。一番事情を知っている人に何を話すと言うのだ。ではやはり力尽くでもチョコを奪い取るのか?しかしまるで家族のように寒空の下で身を寄せ合い陽射しの中に佇む二人を見て、レアには一体それをどうやって引き裂いて良いのか、想像ができない。

「そうか…涙液中の粒子濃度はそこまで高くないのかもしれないね。それはそれで一つの知見だ。それに比べて稲妻さん、君は怪我こそしているが調子は良いんじゃないか?唾液中への移行率が高いのはラブドウイルスと同じ…僕の見立て通りだ。…待てよ、しかしそうなると、もっと効率良く抗原を摂り入れたはずの小倉先生の姿が見えないのは…」

 悠太が小倉先生という言葉にピクリと反応する。ひび割れたレンズ越しに、首を傾げている青柳を睨む。

「…ふざけるなっ!お前の所為でアン先生はっ…!」

 声を絞り出し支えられているレアの肩を痛いほどに握る。息も絶え絶えに、立っているのもやっとだろう。それでも悠太は人の生と死を無機質な考察に貶めようとする青柳に向けて、有らん限りの怒りを滾らせる。

「…そうか。それは残念だ。あの人は良き理解者たり得たのに…。でも悠太、誤解しちゃあいけない。今ここで起きている事象が僕の所為とか、ましてや君の所為だとか、そう考えること自体が烏滸がましいことなんだ。全ては彼女たちの赴くままに…僕らはただその先鞭をつけるのにほんの少し助力しただけさ。そう…親鳥が殻を突いて雛の孵化を促すようにね」

「僕ら…だと?一緒に…するな!」

「違うのかい?」

「違う!俺は二次感染しないと分かっていたから使ったんだ、あんたのしていることは無茶苦茶だ、ただの無差別テロだ、無関係な人まで…何人殺すつもりだ…!」

「不思議なことを言うね、悠太…目的があったらヒトを殺しても許されるのかい?」

「なっ…!何を…」

「大勢殺すのはいけないが、一人や二人なら問題ないとでも言うのかい?君ははっきりと意志を持ってプロトタイプをミルクピッチャーに入れた。白鳳先生がコーヒーにミルクと重曹を入れると知った上でだ。もちろん僕も知っていて止めなかった。その時点で僕と君は同罪だ。赤松さんについては不幸な事故だった。だが結果的に知世子さんもDAMDSも護ることができたじゃないか。君にとってはそれで十分だろう?その後のことは付与的な必然さ。僕がポリドナウイルスの改変に成功していたことも、赤松さんがそのヤドリバチに襲われたことも。例え僕が彼を回収しなかったとしても、舞台がこの町じゃない何処かになっただけだよ。それよりも目の届くところで見守れて良かっただろう?」

「………」

 悠太は応えられず俯いたまま、青柳はまた遠く空を眺めている。二人の間に挟まれたチョコは眉根を垂らし、とろりとした眼を半分閉じている。

「でもね、悠太…僕は君がここに来たことの方が不思議だよ。全ての責は僕に預けて、君は逃げおおせてくれれば良かったのに…どうして戻って来たんだい?僕は君にも自由になって欲しかったんだ。せっかく教授もいなくなって、黒羽の家のしがらみも解け、君を蔑ろにしてきた学校や街のニンゲンたちにもこうして復讐を遂げられたというのに…これじゃあ甲斐がないじゃないか」

「……うるさい…」

 悠太は俯いたまま小さく零すだけで、その呻きは肩を担ぐレアにさえ届かない。

「悠太、君が言っていたんだぞ?この嘘だらけの世界を変えるんだって。そう…世界が君を受け入れないんじゃない。この世界が生きるに相応しいかを、君が決めるんだ。気に入らなければ変えればいい。知世子さんだってこんな欺瞞に満ちた世の中にはうんざりしていたんだ。僕だってそうさ。これ以上君たちが傷付くのを見過ごすことはできない。だからいっそのこと、僕らを取り巻くニンゲンの社会は一度浄化すべきだったんだ。そう…だからこれでいいんだよ、きっと…」

 …何を言っている?怪我と疲労で意識の覚束ないレアには青柳の言っていることがまるで理解できない。この人は本当にこの兄妹の為だけにウイルスをばら撒いたのか?それなら何故チョコを隠そうともせず陽の下に晒し続けている?何故自分たちを呼び寄せておいて悠太には逃げろと言う?チョコはうんざりなどしていなかった。悠太だって必死に生きようとしていた。世界が壊れて傷付くのはこの二人の方だ。それなのに何故平然と達観していられる?この人はまだ真実を語っていない。この人は一体、誰の味方なんだ…?

「…みんな見てごらん、あの感染者たちの動き。両腕を広げて前に突き出して、ふらふらと酔っ払いみたいだろう?ほら、彼なんか典型的だ。あれはウイルスが深部小脳核の小脳活樹アルバヴァイティで増殖を繰り返して大量の封入体を作っていて、多系統萎縮症やマチャド・ジョセフのような小脳変性症に似た運動機能の失調が起きる。眼球や首が小刻みに震えるのでバランスを取ろうとしてあんな歩き方になるんだ。まるでB級映画のゾンビそのものだよ。まさかDAMDSでこんな病態を示すなんて、慧太先輩だって予想していなかっただろうよ。…お、また攻撃行動だ。ウイルスは大脳辺縁系、特に海馬や扁桃体にも侵入して宿主の記憶固定能と恐怖心を取り除き、極めて情動的、暴力的に行動するようになる。君たちも体験しただろう?それだけじゃない、DAMDS感染者は明らかにイエスを目指して集って来ている…ああ、イエスというのは知世子さんのお腹の中にいる胎児の仮の名前さ。それにはヤドリバチから移されたポリドナウイルスが一役買っていると推測しているんだけど…そうだね、最初から順を追って説明しようか。まあ病態や状況からの仮説にすぎないからそう思って聞いてくれ。まずキャリアとなったヤドリバチから卵と一緒に変異ポリドナウイルスとDAMDSウイルスの多角体がヒトに伝播される。今悠太が言った通り、多角体のポリヘドリンはpH10以上でないと溶解しないのでそのままでは感染能を持たない。ヒトの体内でそれ程の強アルカリ条件になるのは十二指腸のファーター乳頭近辺くらいだが、それも胃液ですぐに中和されてしまう。重曹やプロトンポンプ阻害剤で感染を引き起こせたのはその為だ。一方昆虫の、特に膜翅目や鱗翅目の幼虫の腸管内のpHは10から11で多角体は簡単に溶解する。そもそもの感染経路だね。卵から孵化したハチの幼虫が一緒に産み付けられた多角体を食し裸になったDAMDSウイルスのDNAが排出されてようやくヒトに感染できるようになる。もちろんそのままでは免疫反応ですぐにやられてしまうから、ポリドナウイルスで細胞性免疫を抑制させる必要があった訳さ。ただいくら変異体でも昆虫にはない液性免疫までは制御できないからワクチンは有効だ。君たちが感染しないでいられるのはそのおかげだよ。だから感染者の液性免疫が機能し始めるまでにDAMDSウイルスが上手く増殖できるかが勝負だったんだけど、どうやら杞憂に終わったみたいだね。統計的にもワクチンを接種されていない感染者はほぼ全員が発症しているようだ。ここまでは僕も想定していた。だがさっきも言った運動失調や暴力的な病態、それにある種の走性については慧太先輩やティアラでも見られなかった全く新しい知見でとても興味深い。より高所を指向するヴィプフェル行動は負の重力走性だと言えるが、これは走ウイルス性とでも言うべきなんだろうね、彼らは明らかにDAMDSウイルス濃度の高い方へと引き寄せられている。この指向性はヒトが本来持つ母性や父性に基づくものだと僕は考えている。知世子さんの脳内でオキシトシンとバソプレシンの分泌が亢進しているのは確認できているから、恐らく感染者でも同じことが起きているだろう。詳しく調べないと確かなことは言えないけど、変異ポリドナウイルスがそれらの分解酵素を阻害しているか、もしくは受容体の数を増やしているんじゃないかと思うんだ。もしそうならこれはすごいことだよ、普段は拮抗的に働くホルモン同士が同時に、しかも大量に存在しているんだ、彼らは不安に苛まれながら幸福感に満ちていることになる。慈愛に溢れつつ尚攻撃することを止めないんだ。ヒトの持つ感情の極致だね。そして彼らの行き着く先はここ、知世子さんの胎内にいるイエスに相違ない。この仔はDAMDSウイルスそのものと言っても良い存在だからね…」

 青柳は遠く空を仰ぎ、一体誰に向けて語っているのか。チョコは熱に浮かされ、悠太はうな垂れたままだ。レアは目が霞み耳は水が詰まったように遠く、身体ごと持っていかれそうな寒風に身体は朧気に震えている。それでもぼやけた頭の片隅で、何となく分かった気がした。この人は誰の味方でもない。この人が求めているのは兄妹を蔑ろにしてきた人々への復讐でも世界の破滅でもない。この人にあるのはウイルスへの興味だけだ。ただ純粋に自身の知的欲求を満たしたいだけなのだ。千春もチョコもチョコに宿した子もそのための道具やデータでしかなく、この人が誰かを愛することは決してない。悠太が痛いほどに肩を握っている。そこから伝わるのは怒りだ。紛うことない、やり場のない怒り。悠太も自分も青柳も、既に生きていること自体が罪であり、罰なのだ…

「それは…何のつもりだい?」

 ぼやけた頭の片隅で取り留めもなくそう思った時、レアはまだ片手に未練がましくぶら下げていた銃を青柳に向けていた。

「そうか、チェリーさんの…それで、誰を撃つつもりなんだい?稲妻さん。その銃口は僕に向いているのかな?それとも知世子さんかい?まさかお腹の子だけを撃つなんてことはできないだろうからね」

 伸ばした腕の先に頼りなく握る空の銃は、悲しくなる程軽く感じる。

「レア…ちゃん…そんなの…危ないよ…?お願い…やめて…?ヤギ先生を撃ったりしたら…わたし…わたし…」

 虚しく銃を掲げるレアに、チョコが車椅子から立ち上がる。杖も突かず、両足でしっかりと、腕を広げて小さな身体で青柳を庇おうとしている。もしかして足が治っているのだろうか?これもウイルスの影響か?陽を浴びても平気でいられるのはその所為か…そんなことはもう、どうでもいい。

「ああ…これは良いね。DAMDSウイルスを不活化し抗原を取り出せるのは今のところ知世子さんの体液からだけだ。君たちはワクチンによる救済を夢見ているんだろう?知世子さんを撃てばその機会は永遠に失われる。その距離で僕だけを撃てるかな?よしんば撃てたとしても、僕が死ねば知世子さんも生き続けようとはしないよ。さあ、銃を下ろすんだ、稲妻さん。一緒に眺めようじゃないか。この素晴らしい、終わりの風景を…」

 何のためにこんなことをしているのか。何の犠牲でチェリーは、アン先生は、シューやトータたちは死んだのか。こいつの言う通り、今ここで青柳を撃てたとしてもチョコはここから身を投げ自ら命を絶つだろう。レアの体内からはもうチョコを取り戻す気力も体力も失せていた。できることならこの銃で自分のこめかみを撃ち抜いてしまいたいが最早それすら叶わない。ああ、もう、どうでもいい。レアの心に虚無が蔓延る。途端に銃を持つ腕が重くなり、銃口が段々と謝るように傾いでいく。

「……諦めるな…!」

 耳元で声がした。半分閉じた横目を向けると、悠太はうな垂れたまま、だが眼光鋭くまっすぐ前を睨み付けている。

「どういうつもりだ、悠太…?」

 気が付くと下がりかけていた腕がまた上がり、銃口は青柳に向いている。悠太が折れた腕を添え、レアの手を支えてくれていた。レアは困惑する。本当にどういうつもりだろう?この銃の弾が尽きていることは悠太も知っているはずだ。諦めるなって、一体何を…

「無駄だと言っただろう?もう少し…もう少しなんだ、ほら、みんな続々と上がってきている、バリケードはもうないんだろう?ここに来るのも時間の問題さ、もうすぐマリアが天に召され、イエスが誕生する、そして僕は神の父となる、君たちはマリアに選ばれ、ここでそれを見届ける権利を得たんだ、悠太、君にはそれを語り継いでもらわなくちゃあいけない、そう約束しただろう?もう少し、もう少しで知世子さんと僕と、君の生まれた意味が、証が生まれるんだ、さあ、その銃を下ろせ、これ以上僕らを困らせるんじゃ…」

 安全なチョコの背後で身振りを交え教祖のように垂れていた説法が急に止まる。虚空を彷徨い誰をも見ようとしていなかった青柳の視線が胸元に落ち、いつの間にかチョコが振り向いていた。

「やめて…お兄ちゃん…お願い…レアちゃん…その銃を…下ろして…!そうでないと…わたし…どうして…?わたし…!」

 取り乱し叫ぶチョコの戦慄く両手がスローモーションのようにゆっくりと伸び、見下ろす青柳の喉元に絡みつく。

「知世子…さん?何を…ぐぅっ、かっ…」

 締め上げられ息が詰まる音。青柳は両腕を掴み返し拒むがチョコは締め上げる手を緩めない。

「ああっ…!どうしてっ…!先生、逃げて…!わたし…わたしの身体が…!なんで…こんなこと…!お兄ちゃん…!レアちゃん…!お願い…!銃を…銃を下ろして…!お願い…やめてっ…もうやめてよぉ…お願い…!」

 チョコの泣き声にレアは益々混乱する。チョコは泣きながら青柳の首を絞めている。言葉では拒絶していても身体が言うことを聞いていないように見える。懇願されても悠太は銃を下ろすのを許さず、変わらぬ眼光で前を見据えたままだ。レアにはまだ何が起きているのか分からない。青柳の踵が浮き爪先立っている。普段のチョコからは考えられない、とんでもない力。とても青柳には対抗できそうにない。こんな光景をここに来るまでに何度か見た。まるで何者かに操られているかのような、いや実際に操られているのか。ヒトを殺すのに最も原始的で、最も効果的なその方法は、レアにはゾンビそのものの動きに見えた。

「そう…かっ…ゆうた…!たいじは…いえすはりかい…しているというんだな…!じぶんがききに…さらされている…ことも…その…げんいんが…ぼくだと…いうことも…!なるほ…どっ…だから…ぼたいを…つかって…はいじょを…!」

 銃を突き付けられ命の危険を感じた胎児が母体であるチョコの身体を操ってその原因となっている青柳を排除しようとしている―――レアの痺れた頭でも、理解はできずとも納得はできる。だがそれよりも、チョコに喉を絞め潰されながらも現状を正確に分析し、ともすれば喜悦の笑みまで浮かべている青柳に、レアは怖気を震う。

「いやっ…!やめてっ…!もうっ…!ああっ…ごめんなさい…!せんせいっ…!なんでっ…!ああっ…!ごめんなさい…!」

「す…ごい…すば…らしいよ…だから…そのじゅうを…おろさな…ぐっ…!やっぱり…きみ…に…かっ…たくして…せい…かっ…せいかい…だっ…ぐうっ…!」

 青柳の爪先が地面から離れ力なくぶらぶらと宙を泳ぎ、チョコは声にならない声で謝り続けている。これでいいのだろうか?レアには分からない。何も考えられない。あるいはこの脳も、すっかり操られているのかもしれない。

「さん…ぷる…ぜろろくか…ら…じゅう…のっくあ…かっ…うと…の…ふさん…もび…くかっ…びぷふぇる…ほたい…け…ぼ…くは…ただし…かはっ…」

「いやっ…!せんせいっ…!死なないでっ…!いやあっ…!」

 チョコの腕を掴んでいた腕がだらりと滑り落ちる。うな垂れた青柳の口の端からは白く濁った体液が止めどなく流れ、瞳は白く染まっていた。泣き叫ぶチョコは両足をしっかりと踏み締め、両手はいつまでも感染者の首を離すことはなく、屋上を吹き荒ぶ風はその悲しい啼き声を遥か麓の街まで届かせようとしていた。

 ああ、もう、どうでもいいや。

 そんなことだけ思い浮かべ、鉛のように重い銃を飽きもせず支え手と手を重ねる根元にふと目を遣ると、悠太の睨みつける目尻からは透明な涙が、噛み破った唇からは赤い血が流れていて、自分たちは人間なんだとレアに教えてくれていた。

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