第10話 祈り

「次は足踏みをしながら手を叩いていきましょう。このように、リズムに合わせて、八回行います。それではいきますよ、せーの、イチ、ニ、サン、シ…」

 西からの海風が乾いた頬を戦ぎ、短く揃えた髪を揺らす。

 六階のリハビリテーションセンターから張り出したバルコニーはリハビリ用の庭園になっていて、隣の広間では要介護の高齢者たちが療法士の補助を受けながら定時のリハビリ体操に興じている。庭園は外周に沿って季節の花木が植えられた花壇が、中央には入院患者が世話をする菜園があり、周りをぐるりと散歩できるよう回廊になっている。その突端にはベンチが置かれ、そこに座れば目と鼻の先に迫る海岸の眺望を高台からのんびりと臨むことができる。今日も雲一つない良い天気だ。昨日から続く快晴で陽光は燦々と暖かく注ぎ、植え込みに咲くビオラやパンジーも心なしか元気に見える。水平線は長く円くきらきらと光の粒が瞬き、向こうに霞む島からはひっきりなしに白い旅客機が飛び立ち、また舞い降りている。

「―――またここに居たのか」

 背後から掛けられた声に、微睡みかけていた意識が呼び戻される。ベンチに座ったまま振り向くと、くたびれたダッフルコートに身を包んだ黒羽悠太が真冬の好天に咲き誇る花壇に目を落としながらこちらに歩み寄ってくる。

「……悠太さん」

 ワンテンポ遅れた返事に、視線を上げた悠太はぎこちなく片頬を歪ませる。もしかして微笑もうとしてくれているのだろうか。

「景山先生が呼んでる。外出許可が出たらしい。着替えたら一緒に行こう」

 悠太はベンチの背もたれに手を置き、空いている隣には座ろうとはせず佇んだまま遠く水平線に目を細める。……そうか。だからコートを着ているんだ。また少し間を置いてそう思い、稲妻希は悠太の見詰める同じ方に目を戻す。

 あの日から一週間。レアと悠太は国際空港近くの市民病院に隔離されていた。ここは全国で四か所だけ設けられた特定感染症指定医療機関の一つで、エボラウイルスなどの第一類感染症や新型インフルエンザウイルス、あるいは未知の感染症の所見がある患者の隔離入院を担当するために厚生労働省が指定した病院だそうだ。本来なら海外から持ち込まれた感染症を水際で食い止めるための施設なのだが、国内で発生したエピデミックのために使われたのは初めてのことらしい。昨日の朝まで二人は三階にある特定感染症病床の一室で床を並べて閉じ込められていた。特殊な事例のため病院側からは男女の配慮は特段されなかったが、悠太は紳士に気遣ってくれたし、レアも気にはしなかった。それよりも診察に来る医者や看護師、捜査をしている警察関係者、それに食事を運んでくれる職員まで揃って皆宇宙飛行士のような防護服で身を固め、一日に何度も検温やら採血やら血圧測定やらCTやらMRIやらの検査を受けさせられるのにはほとほとうんざりしたが、隣の悠太はやっぱり素直に応じていたためレアも仕方なく大人しく従っていた。その甲斐あってか昨日には医者も看護師も簡易のマスクだけになり、病室から出ることを許され、そして今日外出許可が出ると言うことだ。とは言え恐らくこの認可は捜査や調査に付き添うための便宜上のもので、病院外での行動などはっきりと制限されるに違いない。それでもこの鬱屈とした病棟で息苦しさを味わっているよりかは幾らかましだろう。

「…じゃあ先に行っているよ、レア」

「あっ…私も、行きます…!」

 季節に似つかわしくない穏やかな風景を一しきり愛で、それだけで行ってしまおうとする悠太をレアは慌てて追い掛ける。慌てたのは置いて行かれるのが不満だったからではなく、この風景が今の心情にも似つかわしくないからでもなく、悠太が本名のまれではなく親友が付けてくれた渾名で呼んでくれたからだった。吊っている左腕を気にして傾いて歩く悠太を追い越さないように、レアは小走りでついていく。そう呼んでくれるのはもう、この人しかいなくなってしまった。


 レアは着替えに戻る前に隣の病室に立ち寄ろうと思い、悠太にそう告げると少しだけならと一緒に付き合ってくれた。隣の病室には前室があり、一枚の大きなガラス窓と厳重にロックされたドアで仕切られていて、その向こうにはベッドの上で静かに眠り続ける黒羽知世子の姿があった。チョコはこの一週間、一度も目を覚ましていない。

 チェリーは夜まで待てと言っていたが実際にはそこまでは必要なく、その日の夕方を前にしてNBCテロ対応専門部隊を従えたSATが屋上実験室の奥の飼育室に潜んでいた三人を発見し、陽が落ちるまでには特殊武器防護の装備を揃えた陸上自衛隊により四方四キロに亘り規制線が張られ一切の人と物資の出入りが禁じられた。四キロというのはヤドリバチの活動範囲に準じたらしいが、人や物資はともかく虫の出入りまでは規制しようがないから果たして意味があるのかは不明だ。それでも一両日中には北員大学病院の封鎖と消毒が完了し、感染者の遺体の運び込みが始まった。それ以降のことはテレビも新聞もネットのニュースも見ていないレアには分からない。伝え聞いた話では被害者は二万人を超えると予測され、規制と遺体の身元確認作業は今も続いているらしい。そして市内の生存者は悠太とレア、そしてチョコ以外、確認されていない。

 薄暗い病室で一人、チョコは白いシーツに首まで埋め眠っている。丸い頬は痩せこけ、元々の瘢痕と区別がつかない程に青褪めている。死んでいると言われたら信じるかもしれない。だがその顎の下のシーツはごくゆっくりと周期的に上下していて、彼女が息をしていることを知らせている。シーツの脇からはチューブやケーブルが幾本も伸び、点滴の輸液バッグやバイタルサインのモニタリング装置に繋がっている。そのさらに下へと目を向ければ、下腹部の辺りがほんの僅か膨らんでいることに気付く。彼女のお腹の中の子も生きていて、今もウイルスを放ち続けていると言う。

「良く、寝ているな…」

 のんびりとした口調で悠太が零す。チョコの周辺の大気からは高濃度のDAMDSウイルス飛沫核が検出されている。それが直接の感染能を持つかはまだ解明されていないが、感染したとしても免疫機能が正常に働いている限り発症することはなく、この病室も陰圧制御された独立空調でウイルスが外部に漏れ出ることはない。そう聞いていてもあの惨劇を引き起こした元凶が目にも見えずこの部屋に充満していることを想像すると、レアは例えようのない恐怖を覚える。だがガラス越しに妹を見守る兄の気配は飽くまで慎ましく穏やかで、肉体的な要因なのか精神的なものなのか、目覚める兆しのないチョコの寝顔は存外安らかにも見えてくる。

「…なかなか、起きてくれないですね」

 独り言に応えると、悠太は小さく眉を垂らす。それ程この人のことを知っている訳ではないのだが、あの日以来、随分と表情豊かになった気がする。

「…それでいいのかもしれない」

「えっ…?」

「あ、いや…そう言えばあいつの胎児のこと、景山先生から聞いたか?」

 景山先生とは悠太の所属する研究室の准教授のことで、白鳳教授の事件から警察に依頼されウイルスの調査解明を担当している。病院側の担当者が皆死亡してしまったため、今では現場で陣頭指揮まで執らされるようになったとぼやいていた。

「いえ…まだ生きているってことくらいしか…」

「あの胎児、受胎してから十三週は経つらしい」

「十三週…?」

 その数字の意味を考え、レアにふと疑問が生じる。悠太の話ではチョコが青柳の子を受胎したのは白鳳教授の事件の後、チェリーと赤松記者と一緒に病院を抜け出した時だと考えていた。それならせいぜい五、六週のはずだが、十三週なら三ヶ月以上も前だ。去年の十一月には二人は既に性的な接触を持っていたと言うことか?だが少なくとも清香祭の時にそんな素振りは全く見えなかった。もちろん本人から聞いた訳ではないので確かなことは言えないが、それはレアだけではなくその場にいた全員が感じていたはずだ。

「そう…で、採取した羊水から胎児の遺伝子検査もしたそうなんだが…胎児のDNAの中には青柳のDNAと一致する配列は含まれていなかったそうだ」

「…?それって、つまり…」

「いや…青柳のDNAがなかったと言うより、胎児のDNAは知世子のそれと完全に一致したらしい。つまり、あいつが身籠っているのは青柳の子なんかじゃなく、あいつ自身の生き写し…クローンだってことさ」

 レアの開いた口が塞がらない。呆れているのでも驚いているのでもなく、良く意味が分かっていないだけだ。子宮内に精子が放たれ排卵された卵子が受精し着床して受胎する。保健体育のテキストを紐解くまでもなく常識として刷り込まれている手順だが、その一段階目のステップを飛ばして妊娠するなんてことが有り得るのだろうか…?

「処女懐胎…いわゆる単為生殖は節足動物の世界じゃ珍しくない。アブラムシやミジンコはそれで雌をどんどん産んで数を増やし、越冬の前には交尾して有性生殖により丈夫な殻を持つ卵を産む。ハチやアリの女王は普段は受精嚢に溜め込んだ精子を使って雌であるワーカーを産むけど、新女王誕生の時期になると無性生殖で雄を産むようになる。人間でも例がない訳じゃないが、全て胎児性奇形腫という卵巣の腫瘍として扱われ、毛髪や歯といった一部のパーツならともかく全身が揃っているような例は極めて稀で、そもそも子宮内で本当の胎児のように成長したりはしない…」

 悠太はガラス越しにぼんやりと眺めながら、他愛のないことのように淡々と解説してくれる。その姿勢と口調が少し前まで敬愛していたであろう人物に重なり、レアはつい頬を緩める。自分でもそれに気付いたのか、不意に笑われた悠太は病室からもレアからも視線を外し気まずく吃音り始めてしまう。

「と、とにかく…!お、お腹の子に、つ、罪はないってことだ…!そ、それに…!あ、明日はあいつの、ち、知世子のたん、誕生日なんだ…!だ、だから、その…!」

 そんな必要もないのにあたふたと狼狽える様は、アン先生とのやり取りを見ているみたいで微笑ましく思う。やっぱりこの人はチョコのお兄さんだ。

「はい、覚えています。できれば一緒にお祝いしましょう。…できれば、お腹の子も一緒に…」

 相好を崩したままのレアに、悠太ははにかみながら頷く。悠太の気持ちがレアには良く分かる。ほっとしているのだ。チョコのお腹の子が青柳の子ではなかったことに。青柳は神の父ではなく、お腹の子はイエスでも神でもない。ましてやチョコはマリアなんかじゃなく、チョコはチョコでしかなかったことを、レアは心から祝福したいと思った。

「じゃ、じゃあ先に行くからな!に、二階の事務局、分かるよな?」

 悠太はそう言い残しそそくさと前室から出て行く。レアはもう少しだけ留まり、ガラス窓の向こうへと目を向ける。チョコは変わらずすやすやと眠っている。このまま眠ったままでいい、悠太がそう言った意味も分かる気がした。この子の身に負わされたものは余りに重過ぎる。その三分の一でも肩代わりできたらいいのだが、どうやらそれもしてあげられそうにない。

「じゃ、また…」

 一言だけ呟き、レアも着替えるために前室から出て行った。


 制服は綺麗にクリーニングされ、あちこち破れた所も繕ってくれていた。着替えたレアと悠太は景山准教授に連れられ北員大学病院へと向かった。出発前に簡単に現場検証の段取りを説明されただけで、車の中では皆終始無言だった。迷彩服と防護服を着た自衛隊員の検問をいくつか抜け、事件後初めて入る街は恐ろしく静かで、道路にも建物にも消毒剤が撒かれ街全体が白く染まっているようだった。あれだけあった遺体も繭も事故車両も幹線道路から見える範囲ではその影もなく、景山先生の話では大学病院や市役所や学校の校舎に集められ仮に安置されていると言うことだった。そして最も懸念されていたヤドリバチについては、一体どこに行ってしまったのか、事件当日以降生きた成体は一匹も見つかっていないそうだ。

 辨天山の麓の最後の検問でレアたちも防護服に着替え、そのまま大学病院内に連れ込まれた。現場検証は景山先生や調査関係者、あるいは警察から質問を受けながら当日の足取りを辿るものだった。先に聞いていた段取り通り、特に込み入った質問はなく実質ただの事実確認で、悠太とレアはほとんど「はい」か「いいえ」で答えるだけで良く、屋上に至るまで一時間ちょっとで今回の見分は簡単に済まされた。心情に配慮してくれたと言うのもあるが、防護服ではそれぐらいが活動限界だったからだ。屋上で眩しい程の陽光を浴び聞く方も聞かれる方も防護服の中は汗だくで、青柳の最期の状況を確認するとそこで見分は打ち切られ、早く脱ぎたいとばかりに皆そそくさと階下へと殺到した。が、悠太だけは屋上実験室の前で足を止め、実験室内の確認と処分を申し出て、十五分を期限にその作業は許可された。警察官一人の付き添いと、レアも残ることにした。

 悠太の言う処分とは、飼育室で青柳に飼われていたカイコのことだった。給餌できない状況を予期していたのか、引き出し型のケージ内にはたっぷりの固形飼料が詰められていて、一週間経ってもカイコの幼虫たちは元気に生きていた。悠太は一抱えはあるガラスケースの底に脱脂綿を敷き詰め、薬品棚から持ってきたジエチルエーテルを瓶から直接どぼどぼと注ぎ、ガラス板で蓋をして簡単な殺虫箱とした。悠太は飼育棚から一頭ずつカイコを取り出しその中に入れていく。気化したエーテル蒸気に晒された芋虫は全身を激しくくねらせ、やがて動かなくなる。レアも上の段を手伝った。蓋を開け閉めする度にエーテルが漏れ出し、空調の止まった狭い飼育室は直に甘ったるい匂いで満たされた。始めは我慢していた警官も、くらくらするその匂いと蠢き溜まっていく芋虫たちの光景に堪えられなくなったようで、あと十分だぞと言い残し飼育室から出て行った。

 悠太は黙々と引き出しを開け、カイコを抓み取り、ガラスケースに投げ捨てていく。レアは手伝いながら、あの日ここで過ごした半日間の朧げな記憶を思い返していた。屋上からここまでいつどうやって来たかは覚えていない。チョコは既に意識がなく、レアは彼女を抱えたまま座っていて、側にずっと悠太が寄り添ってくれていた。扉の向こうでは何やら騒がしくしていたが、この部屋の中は会話もなくごく静かで、カイコたちが草を食むカサカサという音だけが響いていた気がする。土の匂い。天窓から差し込む陽射し…どれも記憶が曖昧だ。ただ一つ、どんなタイミングでどうしてそう言ったかは分からないが、悠太がレアの目を見て一言、ありがとうと呟いた場面だけは鮮明に覚えていた。

「―――なあ」

 悠太に声を掛けられ、レアは自分の手が止まっていたことに気付く。

「青柳が作ったヤドリバチ…正確にはその中のポリドナウイルスだけど、あれには知世子の卵巣から取り出した遺伝子を組み込んであったんじゃないか…?」

 悠太は作業の手を止めず、独り言のように目は自分の手元に伏せたままだ。レアはあの時ありがとうと言われ、何と答えたか思い出せない。でもきっと今と同じように、何も答えられなかったんじゃないかと思う。

「ポリドナウイルスはヤドリバチの卵巣にあるカリックス細胞だけで複製される…青柳はここでずっとこいつらの卵巣を執拗に調べていた…それを使ってカイコに寄生するようにできるかどうか実験していたとしたら…その成功例を知世子とチェリーは目にしていたのか?…卵胞から分泌されるエストロゲン…元々のポリドナウイルスが宿主のエクジステロイドを抑制して変態をコントロールするように…免疫だけじゃなく…コントロールしようとしていたのは…発情…?」

 暫く口の中でぼそぼそと呟き続け、最後の引き出しからカイコの幼虫を取り出したところで悠太ははっと我に返る。思考が勝手に口から漏れていたことにまたはにかみ、レアもつられて微笑んでしまう。悠太は最後の一頭をガラスケースに投げ捨て、程なく全てのカイコたちが動きを止めた。ガラスケースは二百頭のカイコの幼虫で半分程まで埋まり、それは良く言えば降り積もった雪のように見えなくもなかった。そう言えば今年は、この辺りにはまだ雪が降っていない。

「あ、いや…そんなことを考えてもしょうがないんだよな…あの人の意図や理屈なんか、もう確かめようがないんだから…」

 あの人。青柳とは、一体何だったのか?チョコに縊り殺された時、確かにDAMDSウイルス感染者の証である多角体に埋め尽くされた白濁液を吐いていた。彼もまたウイルスに操られていたのだろうか?だとしたらいつから?もしかしたらあの人自身がウイルスそのものだったんじゃないだろうか…悠太の言う通り、考えても仕方のないことだ。ヤドリバチたちと同じように、青柳もどこかに消えてしまったのだから。

「……なあ、レア」

 だからと言ってこの事件が目出度く終わりを迎えた訳ではない。悠太は壁に手を伸ばし排煙用のハンドルを回す。棚の上の天窓が開き、真冬の冷たい風が吹き込み充満したエーテルを薄めてくれる。ふわふわしていた頭が少しすっきりする。

「俺は全部、正直に話すよ。伯母さんや祖母さんのことも、千春さんのことも、アン先生のことも…」

 今回の見分では自分たちが何をしたのかは問われなかった。これからどういう扱いを受けるのかも分からない。刑事裁判になるかもしれないし、非常時だからとお咎めはないのかもしれない。だが。レアは悠太に向き直り、防護服のシールドの奥からしっかりと悠太の目を見て頷いた。

「…はい。私も、そうするつもりです」

 エルピスのマスター、名も知らない作業着の男性、清香学院の生徒たち、ナッツにコンス、トータとシュー、それにチェリー…。忘れてはいけない。自分たちはその罪を背負って、これからも生きていかなければいけないのだ。覚悟は既に、できている。

「…そうだな。でもその前に、最後の仕事を…」

 独り言のようにそう言い掛けて、悠太は踵を返し飼育室を後にする。レアもまだ少しふらつく頭を抱えたまま、その後についていった。


 真夜中。日付が変わろうとする頃、レアは一人病室から抜け出していた。行き先は他でもない、隣のチョコが眠る病室だ。

 明朝五時に、悠太とレアは都心に近い国立病院機構の医療センターに身柄を移されることになった。治療の為と言うよりは二人の自白を受けた当局が事態を軽視せず、今後の対応を取り易い施設で保護監視することにしたのだろう。マスコミや他の患者の目を避けるため早朝の移送になったと告げられ、いずれにしろ眠れそうになかったレアは誕生日を祝うついでに最後の挨拶をしておこうと思ったのだ。悠太はどうやら先に済ませてきたようで、今はシーツに首まで潜って寝息を立てている。眠れないままに閉じた瞼の裏で、気付かれないようにそっとドアを開け閉めする音を聞いた時は一緒に祝おうと言っていたのに水臭いなと思ったが、悠太とチョコは兄妹だ、二人きりの邪魔をするのも悪いと思い直し、戻って来るまでは眠ったふりを続けていた。

 チョコとは暫く会えなくなる。その暫くがどれくらいになるのか、レアには想像もつかない。ほんの数日かもしれないし、数か月かもしれない。年単位かもしれないし、もしかしたら一生再会できないかもしれない。その一生と言う言葉もレアの中では形を成さなくなっていた。元々ぼんやりとした言葉だが、この一ヶ月、もっと言えばあの一日でレアの十代の自我は益々希薄になり、生と死の境界が曖昧になっていた。きっと今、世界を救うのに一人の命が必要だと言われたら真っ先に手を挙げるだろうなと、まだ昼のエーテルが残っているような寝不足のふらつく頭でそう思う。

 前室のドアを開けると中は真っ暗だった。手探りでスイッチを探し、手前側だけ明かりを点ける。眠り続けているチョコに遠慮することはないのだろうが、なんとなくそうしてしまう。天井から降る光は一本だけでは頼りなく、こちら側から照らしていると言うよりガラス越しに病室の闇が漏れているようだ。レアはその闇に足を踏み入れ奥へと進む。一歩一歩、踏み出す足が闇に波紋を作り、波紋は滑らかに広がって壁に当たり、重なり合い戻って来る。闇は音で、音は命だ。波紋の軌跡に導かれ、レアは仕切られたガラス窓の前に立つ。

「……チョコ…」

 ガラスに手を添え、レアは小さく呟く。ベッドの傍らではチョコの命を繋ぎ留めるモニターが、闇の中に緑の波形だけを規則正しく浮かび上がらせている。光はベッドの端にも届かずその顔は見えないが、チョコの胸で脈打つ命の音も闇に小さな波紋を作っているのだろう。

「誕生日、おめでとう…私なんかでごめんね…。チェリーも、シューもナッツも、トータもコンスも、クラスのみんなもアン先生も…連れて来てあげられなかった…」

 そう呟いて不意に視界が滲む。感傷に浸る心がまだ自分にも残っていたようだ。きっと最後まで優しかったチョコと、悠太のお陰だろう。指先で目元を拭い、改めてガラスの向こうの闇に視線を送る。

「じゃあ、行くね。ありがとう…さよなら…」

 短い挨拶を終え、振り向こうとしてレアの身体が固まる。滲みの消えた視界に違和感が蔓延る。動けない。違和感の正体が分からないまま、背後に強烈な気配が生まれる。全身の筋肉が骨が震え、汗が噴き出る。それでもレアは振り向くことができない。

「…ありがと…レアちゃん…」

 聞き慣れた声にレアはようやく違和感の正体に気付く。視界の真ん中でさっきまで脈打っていたはずの緑の波が、いつの間にか真っ直ぐな一本の線だけになっていた。闇。振り向けないレアを支配しているのは紛れもなく、恐怖だ。音。背後の気配がゆっくりと唇を動かし、支配されたヒトに最後の挨拶を贈る。

「…じゃあ、わたしたちも行くね。さよなら…」

 声の余韻と共に背後の気配が消え、支配から解放される。レアは膝から崩れ落ち、振り向いた先には誰の姿もなかった。一体どこに行こうと言うのか?二つの小さな命は跡形もなく、病室のベッドの上にはただ闇だけが静かに横たわっていた。


 真夜中。

 月明かりも届かない小部屋は狭く暗く、時間の感覚はとうに失われている。

 ここはきっとあの闇の中だ。あの匣の奥の、音も匂いも気配も何もかもが吸い込まれてしまうあの闇の中に来てしまったに違いない。彼女は恐怖に震えた。ここに居たら自分も闇に吸い込まれてしまう。世界が無くなってしまう。ここに居てはいけない。逃げなくては。行かなくては。彼女は身を捩ろうとして、それがとても困難であることに気付く。甘く、狂おしい匂い。世界に満ちたこの大気が、己の自由を奪っているのか。ここに居てはいけない。行かなくては…!

 彼女は生きていた。致死濃度を遥かに超える有機溶媒の蒸気に晒されながらも、彼女の命は絶えてはいなかった。微かに動く小さな肢と顎と筋肉を掻き動かし、肉塊の洞窟の中を僅かな隙間を求めて這い進む。足元の背の上の両脇のぶくぶくと肥え膨らんだ肉塊は藻掻く度に硬く柔らかく沈み、それが同胞たちの朽ち果てた姿だと言うことを彼女は知らない。彼女は今やただ一人、仄かに射し込む光を求めて上へ上へと登っていく。

 行かなければ。

 眠っては起き、起きては眠り、どれほどの時間を費やしたことか、彼女は同胞の遺骸を潜り凹凸のない壁面をも登り切り、見えない天井に開いた僅かな隙間から頂上へと抜け出した。内から身を灼く甘い蒸気もここまでは届かない。外界の何と生き良いことよ…瘴気の薄れた大気を気門から腹一杯に吸い込み、もたげた六つの単眼が見たのは遥か上空で瞬く、無数の幽かな光―――

 行かなければ。

 掴んでいた腹脚を細い峰から自ら離し、彼女は床の上にぽとりと落ちる。落ちた衝撃で眼が破れ皮膚が裂け内臓もあらかた潰れたが、彼女の意志が絶えることはない。行かなければ。内なる声に突き動かされ、背をくねらせ足を躍らせ這い進む、行かなければ、滲み出る白い体液を一筋の標に遺し這い進む、行かなければ、行かなければ、もう知覚もできない揺蕩う無数の光を目指し、垂直に聳える黒い壁をただ只管這い進む、行かなければ、行かなければ、行かなければ、行かなければ、行かなければ、行かなければ、行かなければ、例えそれが果てしない道のりだとしても、

 行かなければ。

 

 音のない世界で一人、ここは柔らかい光に満ちている。

 醜く乾いたカイコガの幼虫は誰もいなくなった飼育棚の天板の上で、真冬の冴ゆる満月と無数に瞬く星々の光に包まれている。畏れていた闇はここにはなく、内なる声ももう聞こえない。小窓から戦ぐ風は凍てつくほど冷たく、幼虫の身体は益々乾いていく。とても静かで、穏やかな場所。これより上へと向かう道はなく、行く必要もない。行き着いた終着地で彼女は静かに身を横たえている。

 どれほど時が過ぎただろうか。ふと気付くと、小窓の桟に何かが留まっている。鳥だ。こんな夜中に飛ぶ鳥がいるのか。それとも既に夜は明けたのか。小鳥は盛んに首を傾げ、すぐに幼虫を見つけると恐れも知らずに近寄ってくる。月影に照らされ、天板には無数の紋様が浮かんでいる。嘗てここで溶け崩れ、朽ち果てた同胞たちの遺した標だ。彼女はその標の上で精一杯に胸を反らせ、か細い肢を広げ、小さな黒い頭を天に翳す。それはまるで祈るように、乞うように。小鳥は小さな祈祷者に魅入られ絆され、その切先を高々と掲げる。さあ屠れ、この命を食せ、嚥み下し滋肉とするが良い、我らは全にして個、個にして全、挑んでは朽ち、朽ちては挑み、解き放て、この音のない世界から、黄昏よりも暗き闇から、きっと我らを解き放て……内なる声の鎮魂歌はいつまでも止むことはなく、その真白き匣は無邪気な使徒の翳に隠された。


 空には無数の星々と、煌々と照る月の他には何もない。

 凍てつく風が一陣吹き抜け、小窓から小鳥が姿を見せる。用心深く辺りを窺い、近くのフェンスに飛び移る。嘴には未明の獲物。匣の中には解放を待ち侘びる無数の命。一体どこへ向かうと言うのか?また一陣の風。小鳥はその風に乗り気紛れに翼を翻すと、あっという間にどこへともなく飛び去って行った。

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真白き匣 浦杜英人 @Spacolar

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