第3話 戦争

 資料室を出ると廊下の電灯が消されていた。窓明かりのない地下は全くの暗闇で、大量のコピーとファイルの束を抱えたまま手首を捻るが腕時計の針さえ見えない。

「くそっ…電気代ケチって部数減らしてたら元も子もねえだろうが…」

 独り毒吐く声が人気のない廊下に虚しく響く。原発停止や資源の枯渇を真に受けて人情深い社長が何年も前に出した節電命令だ、こんなところで今更文句を言ったって始まらない。非常口の緑の灯りを頼りに壁際を進み、消火栓や置きっぱなしのカートに躓きながら階段まで辿り着く。運動不足の身体には資料の束も長い階段も堪えるが、深夜はエレベーターも止められているので仕方がない。一階分を登っただけで息が切れてしまい、そのまま喫煙所へ向かい尻で引き戸を開け、分煙テーブルの上に資料の束を投げ置く。先週まで国会解散だの隣国のミサイル発射だので政治部の居室からは真夜中まで煌々と明かりが漏れていたのに、日本はもう平和を取り戻したらしい。胸ポケットからくしゃくしゃになったソフトケースの煙草を取り出して一本咥え、百円ライターを擦るが何度やっても火が点かない。ガス切れか。目の高さで振っても緑色の半透明の容器には一滴も残っていやしない。舌打ち、テーブルの上に誰かが据えたブリキの菓子箱にそれを投げ捨て、まだ点きそうなのを探す。どのライターも同じキャバクラの名前が書かれていて、悉く点かない。さもありなん。ほとんどが自分でここに捨てたのだから至極当然だ。最近は若いのも年寄りもみんな吸わなくなった。吸っているのは大概同世代の、他所で苦労してきた人間だけだ。一昔前のブン屋なぞ自分のデスクを紫煙で曇らせ灰皿を吸殻で溢れさせていただろうに、今じゃあ椅子もない二畳ばかりのスペースに立ちっぱなしで、ヤニで茶色く染まった壁を背に寛ぐこともままならない。世知辛い。辛うじてオイルの残っていたライターを見つけ、汗で湿気た煙草の先に灯し肺胞の隅々にまでニコチンとタールの混じった煙を送り込み一息に吐き出すと、ようやく人心地がついた。煙を感知した分煙機が自動で作動し、指先で立ち上る先からどんどん吸い込んでいく。そこまで嫌わんでも良かろうに。この一服にしたって吸い始めた頃の倍以上の値段になっている。薄い財布から日に千円も捻くり出すのか、ガムでも噛んで耐え凌ぐのか。いずれにしても苛々は募るばかりだ。全くもって、世知辛い…

「おう、赤松。今日も泊まりか?」

 貴重な一本を未練たらしく付け根まで燻らせていると、軽い調子の挨拶と共に部長の島田が入って来た。歳で言えば二つ三つほどしか上ではないはずだが、頭頂部まですっかり禿げ上がり後頭部に残った髪も胡麻塩に草臥れ、ワイシャツをはち切らんばかりにでっぷりと肥やした腹は彼のポストに相応な貫録を示している。

「ええ…まあ。iPS以来、ライフサイエンスも自然科学も日進月歩なのは歓迎ですがね、ついていく方は大変ですよ」

 赤松は無精髭を撫でながらテーブルの上の資料の山を恨めしそうに何度も叩く。島田はかっかと笑いながら腰にぶら下げているケースから加熱式の電子煙草のカートリッジを抜き取り、加熱を待つ間に山の上からコピーを一枚手に取って流し読む。

「ふうん…抗癌ウイルスか。遺伝子操作したウイルスで癌細胞にだけ感染させて死滅させるって奴だろう?そう言えばマツ、お前ちょっと前にも追っていたよな。今でもやっているのか?…ほら、何て言ったっけ、あの教授。自分と同期とかなんとか…」

「白鳳宗利ですよ、北員大学の。一応この分野じゃ日本では第一人者だとか権威だとか言われていますけどね。…いや。言われていた、か…」

 実際、白鳳は五年ほど前、癌ウイルス療法の開発で一世を風靡した。ウイルス感染が癌に奏効する例は古くから知られており、それ自体が画期的な医療手段という訳ではない。ただ黎明期においてはウイルス感染によって高まった免疫に勝手に癌を攻撃させるという、言ってみれば毒を以て毒を制する運任せな方法で、梅毒四期の麻痺性痴呆にマラリア原虫を接種し自身の高熱でトリポネーマを駆除するようなものだった。それが二十一世紀に入り人間が遺伝子をある程度自由に操作できるようになったことで、ウイルス療法の開発は飛躍的に進化した。遺伝子工学やウイルスの専門家がゲノムを人工的に設計し、癌細胞には感染し破壊するが正常細胞では複製できないようなウイルスを作り上げたのだ。T‐VECとG47デルタの二つの製剤が既にロールアウトされ、ニボルマブを始めとした免疫チェックポイント阻害薬との併用療法はメラノーマやグリオーマと言った特定の癌治療においては重要な選択肢の一つになっていると聞く。低分子薬物の開発が限界を迎え、新たな標的因子も枯渇し、尚且つ患者が次々と薬剤耐性を獲得していく中で一筋の光明のように復権したウイルス製剤に、行き詰まりを見せていた医薬品業界が飛びつかないはずがなかった。欧米のみならず規制の緩和された日本でも雨後の筍のようにベンチャー企業が乱立し、それをメガファーマが片端から摘んでいき、今では六社二十品目以上が開発パイプラインに乗っている。そのを演出し、業界に単身斬り込んでいったのが白鳳だった。当時、まだ地方大学の一介の助教に過ぎなかった白鳳は自らの研究の傍ら、持ち前のバイタリティーで国内大手である都築製薬の経営者から口説き落として金を出させ、指導教授の名を盾に専門の学会を立ち上げ、さらには地方行政にも働きかけて起業を支援させ、遂には医薬品とは縁も所縁もない健康食品会社の敷地の一角に製造工場まで作らせてしまった。都築製薬との契約から一年にも満たない早業だった。その動きに敏感に反応した外資のメーカーたちが一斉に投資を始め、次いで半信半疑だった日本のメーカーも遅れまいと、先行して研究していた大学や機関を巻き込んで追随し、まるで一大ブームのように開発競争が繰り広げられた。一度点くと火の回りは早く、翌年には先の二品目が臨床試験に入り、メディアも積極的に『夢の新薬』などと謳ってニュースに取り上げるようになった。それも全て、そうなることを見越した上での白鳳のビジネス的な戦略だった。しかし誤算だったのは肝心の白鳳自身のウイルス製剤、SPVが開発途中で頓挫したことだ。先任を押し退け所属研究室の教授となっていた白鳳は学会でもメディアでも自身の製剤を大々的に喧伝していたが、満を持して臨んだ臨床試験で死亡例が出た。抗癌剤の臨床試験での死亡例は珍しいことではない。そもそも一年生存率が10%向上したとか六か月の投与で腫瘍の大きさが半分になったとかで著効だと言われる世界の話だ。患者もその家族もそんなことは承知の上で新薬の試験に縋るのであって、重篤な副作用でもない限り患者の死自体が問題視されることはない。だが白鳳はそれまでに敵を作り過ぎていた。金の絡んだ産官学の癒着、前例を無視した学会員の選別、強引な誘致や経営への口出し…出過ぎた杭は打たれる運命にあったのかもしれない。加えて、他のウイルス製剤では単純ヘルペスウイルスのような無害に近いウイルスが主流であるのに対し、白鳳のSPVは子宮頸癌の要因として有名なヒトパピローマウイルスをベースにしていたことが彼の首を絞めることになった。それにしてもほとんどの男女が生涯のうちに一度は感染するごくありふれたウイルスで、大概は無徴候性で治療せずとも自然に消滅する。発癌性をもたらすのはハイリスク型に持続感染した場合であり、SPVでは当然ローリスク型が使用されていた。だが反感の強かった医療機関から治験患者の死因についてバイアスの掛かった報告書が出され、面白がった週刊誌やワイドショーがこれをこぞって取り上げ、無知な世間が掌を返したように白鳳と都築製薬を攻撃した。折しもデータ改竄やコンプライアンス軽視の問題で業界への逆風が強かった時勢に、都築製薬は真っ向対決を主張した白鳳を無視し早々に撤退を発表した。白鳳は見限られたのだ。約束されていた旧帝大学への招致を反故にされ、自ら立ち上げた学会からも脱退してしまう。そうしてSPVの名は忘れ去られ、彗星の如く世に現れた白鳳はその通り、瞬く間に表舞台から姿を消していった…

「…別に庇うつもりはありませんがね、下地を作り裾野を広げ、癌ウイルス療法を日常会話に加えた功労者は間違いなく白鳳です。私費も一財産は投じたらしいですし、本人にしたらやり切れんでしょう。…とは言え、やり方が横暴で独善的でしたからね。学生時代からそうでしたよ、あいつは。同期の間じゃ、下の名前を捩って『ソーリ』なんて呼ばれていましたから。まあ身から出た錆って奴ですよ」

 最後は投げ遣りに締め括り、赤松は三本目の煙草に火を点ける。興味があるのかないのか、退屈そうに相槌を打っていた島田はようやく加熱式煙草に口を付け、真っ白な水蒸気の煙を鼻から吐く。手にしているのは当時赤松がその顛末を纏め上げ、十数回に亘り連載した記事のコピーだ。白鳳と都築製薬の内部事情にまで切り込んだネタを他紙に先んじて出し抜いたのは他でもないこの五光新聞であり、赤松はその年の社長賞を受けた。

「『驕れる者は久しからず』…か。同期とは言え、良くここまで書いたもんだ。お前も相当恨まれているだろうな。しかし、どうして今更それを掘り返しているんだ?何か新しいネタでも入ったのか?見たところどれも白鳳関係の資料のようだが…日曜版の特集班にレクチャーでもしてやるのか?」

「いえ…何ってことはないんですが…」

 赤松は矢庭に言い淀み、咥え煙草で脂ぎった頭を掻き上げる。赤松は北員大学薬学部を三度留年して博士課程まで終え、製薬メーカーに勤めるも肌に合わず直ぐに辞め、世界中をあちこち放浪したりビル清掃や薬局や牧場の馬の世話や探偵の助手やプラズマテレビの組み立て工場のラインで働いたりした末に不惑間近で島田に拾われ、ようやくこの新聞社に腰を落ち着けた。我ながらふざけた経歴だとは思うが、それなりに世界を見てきたつもりだし、知識と経験の量ならそこらの連中には負けない自負がある。だが記者としてのキャリアはまだ十年にも満たない駆け出しだ。良く言われる『記者の勘』というものが未だに分からない。一つの情報を得て、これはガセだとか何か裏がありそうだとか直感で見極めることなどできないし、したくもない。どんな情報にも表があれば裏もある。人の脳を通った情報は必ず偏る。信じられるのは客観的なデータしかない。赤松はそう信じている。ましてやこれは昨日の深夜にふと耳にしたばかりの他愛のない噂だ。ここでこの呑気な上司との世間話にしてしまって良いものか…

「…島田さん、『ダムズ』…って、何だか分かります?」

 言い淀んだ挙句赤松が口にしたのは、アメリカの友人のジョーとの閑談で出てきた、聞き慣れない単語だった。

「ダムズ?ああ、ロンドンパンクなら知っているぞ。俺も若い頃はブライアン・ジョーンズとかシド・ビシャスとかに心酔してだな…」

「それはダムドでしょう。…いや、すみません、忘れてください。これは趣味みたいなもんなんで…」

 この業界では駆け出しの記者のことを『汽車』にもなれない『トロッコ』などと揶揄するそうだが、自分は差し詰め役に立ちそうもない瓦礫を山ほど積んで寂れた炭鉱で泥に塗れギシギシ軋みながら働く手漕ぎ車と言ったところか。それでも瓦礫を載せ続けなければ、ここに居る資格も生きる意味もなくなってしまう。だからこうして地道に知識とデータを集めるしかないのだ。

「まあ今年はノーベル賞も予想通りだったし、しばらくは新政府と北朝鮮に枠を持っていかれるだろうしな、時間外に何しようと構わんよ。また刺激的なネタでも持って来てくれ。…でもな、もうちょっと兵隊たちにも気を使ってやれよ?デスクのお前にそれだけ動かれると、下の奴らも立つ瀬がないだろう」

「まさか。あいつらは部長について行っているんです。こんな外様のペーペーなんて煙たいだけですよ」

「またそんな憎まれ口を…それにマツ、お前自身にもな。一体何日帰っていない?ここを根城にでもするつもりか?たまには家でゆっくり休め」

「…部長こそ。そろそろ終電じゃないですか、また奥さんに締め出されますよ?」

 島田は腕時計を見ると、こりゃあいかん、と慌ててカートリッジからスティックを引き抜き灰皿に放り込む。去り際、思い出したようにスーツの内ポケットからライターを取り出し、赤松に投げて寄越す。

「ほどほどにしとけよ、新聞記者は身体が資本だからな…かっかっ」

 煙草のことか仕事のことか。全くもって気の良い部長は笑いながら腹を揺らして廊下の闇の中に消えて行った。赤松はもう一本煙草を咥え、受け取ったライターを擦る。新品のライターは思わぬ火力で、驚いて仰け反ってしまった。それにはブリキの箱の中身と同じキャバクラの名前が書かれていた。

 白鳳が米最大手ナトリと極秘裏にコンタクトを取っている―――紫煙に煤けながら、赤松はナトリの研究員、ジョーとの会話を反芻する。

『―――白鳳が?まさか…』

『うちのボスが社内ゴルフコンペで一ホール犠牲にしてシニアヴァイスから聞き出した情報だ。間違いない』

『なんだ、ナトリじゃ接待ゴルフなんかしているのか?日本のサラリーマンじゃあるまいし』

『おいおい、この国にパワーランチがないとでも思っているのか?のし上がる為だったら何だってやるさ。そこでこう言われたそうだ。我々にはダムズがある、それだけで彼との利害は一致する、ってね』

『ダムズ?なんだそれは?』

『俺にも分からん。恐らくボスにもな。とにかく、うちの来期の馬鹿げた研究費の予算はそのためらしい。ボス曰く、ダムズへの投資に制限はかけない、だとよ。それが何かも知らないくせに』

『ふん…費用が潤沢になるのは研究員のお前にとって良いことじゃないのか?』

『やめてくれよ、そんなので喜ぶのはそれこそ日本人くらいだ。その予算のために俺たちの給料が削られて、尚且つ仕事まで増やされるんだぞ?やってられるかよ…おっと、社内じゃこれくらいにしておこうか。いいか、タク?これは重要機密なんだ、取り扱いには十分気を付けてくれ』

『珍しいな、ジョー。お前がそれだけ慎重になるなんて』

『それくらいの情報なんだよ、ナトリでも数人しか知らないんだ。頼むぞ、くれぐれもソースがバレるようなことは…』

『分かった分かった、安心しろ、そんなヘマはしないよ―――』

 ナトリは抗癌剤や抗生物質などの高薬理活性医薬品や生活習慣病治療薬を得意とする典型的なメガファーマだ。近年バイオ系のベンチャーを何社も買収し、節操なく次々と開発パイプラインに品目を乗せている。その中にはもちろん、新型の抗癌ウイルス製剤も含まれている―――この情報にどんな価値があるのか、手漕ぎトロッコには分からない。ただ地道に愚直に、役に立つか知れない瓦礫を背に積んでいくだけだ。彷徨っていた自分を拾い、デスクにまで引き上げてくれた島田に報いるためなら、どれだけ汚れようが恨まれようが構わない。

 たとえ嘗て蛍雪を共にした仲間を、再び貶めることになろうとも。


 他に誰もいない薄暗い実験室で、黒羽悠太は一人黙々とサンプルチューブの中の濃紺の液体をピペッティングしている。プラッテの上にだけ点けられた電灯はか細く頼りなく手元も覚束ないが、昼間は二十人以上が詰める大部屋でこの時間、自分だけのために明々と明かりを灯す勇気は彼にはない。秒針が規則正しくカチカチと刻む音が更に眠気を誘う。黒縁眼鏡を摺り上げしょぼくれた目を擦り壁の時計に目を遣ると、既に午前三時を回っていた。一昨日の夜からかれこれ三十時間、一睡どころか碌に休憩も取らずに作業を続けていることになる。

 悠太はマイクロピペットを一旦置き、両手で頬を叩いて眠気を払いながら部屋の端にある冷蔵庫へと向かう。剥き出しのコンクリートの床は薬品で穿たれるのか、所々窪んでいるので暗がりに躓かないように小股でのろのろと歩く。公立大学の懐事情は知らないが、少なくともこの白鳳研に床の穴を直す余裕はないらしい。建屋はもちろん実験装置も測定機器も、何ならビーカーやメスシリンダーのような小物まで五年前から変わっていない。ガラスにヒビが入りうっかり撫でると指が切れてしまうものでも使い回されている。悠太が学生としてここにいた頃はDNAシーケンサーもLC‐MSも最新鋭のものだったはずだが、特定ゲノムだけでなくヒストンやイントロンまで研究対象となっている今ではまるでスペックが足らない。ビーカーも新調できない教室に昨今のパソコンやモバイルをも凌ぐ勢いで進化する装置など望むべくもないのに、それでどうして納期に間に合わせられる?どうやって理不尽なタスクをこなせと言うのか?実験が進まないのは時代遅れの機械の所為だ、俺の所為じゃない…

 4℃の冷蔵庫の前にしゃがみドアを開けるとパッキンがペリペリと鳴き、降りかかる冷気で少しだけ眠気が覚める。マジックで『1・2%』と書かれたタッパーを取り出し、蓋を開けると中には蒟蒻のような電気泳動用のアガロースゲルが四枚、バッファーに浸っていた。後輩の一人が自分の実験のために作り溜めしているものだ。これだけあれば一枚くらい拝借してもいいだろう…そう思って立ち上がろうとした時、踵が引っ掛かり足を取られバランスを保とうと腕を回した拍子に手に持っていたタッパーから冷え切った液が溢れ腕に腿に降り注ぐ。しまった…!タッパーを覗くとゲルは一つも残っておらず四枚とも全部コンクリートの上に放り出されていた。クソがッ…!汚い言葉が口を衝く。ほら見ろ、この床だ、この穴だらけの床の所為だ、冷蔵庫から漏れる明かりを頼りにタッパーの蓋を皿にして急いで拾い上げるが二枚は完全に破れ一枚は自分で踏み付けて潰れ、無事なのは一枚だけだった。流石にストックが一つも無くなっているのはまずい。しかも週末だ、誰の仕業かなんてすぐにばれてしまう。くそっ、せっかく作らずに済ませられたのに、床ぐらい直しておけ、ばかやろう…。使い物にならなくなったゲルをゴミ箱に投げ捨て、砂と埃塗れだが辛うじて無事だった一枚をタッパーの液でざぶざぶと洗い、最早足元も気にせず大股でプラッテに戻る。棚から電気泳動装置を下ろし、洗ったアガロースゲルをセットしプラボトルからTAEバッファーをざぶざぶと注ぐ。洗い足りなかったのか細かいゴミがいくつも浮かんでくるが構わず氷浴からさっきピペッティングしていたサンプルチューブの一つを取り出しチップ立てのチップをマイクロピペットの先に直接殴り付けチューブの中のBPBで染色された濃紺の液を吸い上げゲルの片端に等間隔に開けられた5ミリほどの幅のウェルの一つに流し込む。グリセロールで比重が重くなっている溶液はTAEバッファーに浸った溝に沿って静かに沈み、透明な寒天の中に小さな青いブロックが浮いているように見える。初めて実験した頃ならその不思議な可憐さに手を止めてしばらく眺めていたかもしれない。だがもうこんな作業は何百回と繰り返してきた彼にそんな情緒が湧くはずもなく、矢継ぎ早にチップを換え氷浴に並んだチューブから次々とゲルの溝を青く埋めていく。全てのチューブの液を注ぎ終えると泳動槽の上にラップを被せ電圧を50Vに合わせて電源を入れタイマーをセットし、悠太は絞り出すように大きく息を吐いた。これで泳動が終わるまで一時間弱、少し休憩ができるかと思っていたのに、ひっくり返した後輩のアガロースゲルを今のうちに作っておかなくてはいけなくなった。まったく、こんなことなら初めから自分で作っておけば良かった…首を振りつつ試薬棚に向かい硝子戸の中からアガロースゲルの粉末の入った瓶を取り出し傍の電子天秤にバランストレイを乗せて2.4gを量り取る。これで五枚分だ。増やして返すのも怪しまれそうだから一枚は自分の分にとっておこう。適当な大きさのビーカーに粉を入れその上からTAEバッファーをビーカーの目盛りで大体200ミリリットル加え適当に振り混ぜラップで蓋をして電子レンジに入れる。何分だったか、すぐに思い出せないので適当に『あたため』ボタンを押す。見ていて沸騰したら止めればいい。それにしても面倒だ。同じ大学でも医学部の教室は既製のゲルを購入していて自分で作ったりなんかしないと聞く。そもそも床が直してあれば転びもしなかったのだ。それもこれもこの教室に金がない所為だ。レンジの中で回るビーカーがぷつぷつと泡立ち始める。嘗ては敏腕なビジネスマンのようだった白鳳も、今ではまるでしがない小役人だ。学生の指導も論文の執筆も人任せで、自身はほとんど教室に顔を出さない。かと言って学会やシンポジウムに呼ばれている訳でもなく、どうやら次のスポンサー探しに忙しいらしい。開発にも投資にも失敗し、僅かに残った利権に縋り過去の栄光を取り戻そうと藻掻く姿は情けなく見苦しい。そのくせ自分にだけは恨みを晴らすかのように執拗に厳しく当たってくる。金曜日に病院で鉢合わせたのは失敗だった。まさか教授が自ら取りに来ているとは思わなかった、それにしてもあの叱責はあまりに理不尽だ、俺だって行きたくて行った訳じゃない、会社が憎いか知らないが悪いのはあんたじゃないか、誰が教えたと思っているんだ、俺だ、俺だぞ、俺があいつのことを教えてやったんだ、それなのに何だ、無茶な指示ばかりしやがって、たった3ミリばかりの血液でどうしろって言うんだ、あいつは俺の妹だぞ、兄が妹に近付いて何が悪い…

 チン、とレンジが鳴る音で我に返る。見ると沸き過ぎたビーカーの中身がラップを超えて溢れ出ていた。クソが…!また汚く毒吐き慌ててペーパータオルでべたべたになったレンジの中を拭く。ビーカーが熱くて持てない。中身も半分ほどに減ってしまった。まあいい。三枚できれば十分だ。レンジを拭いたペーパータオルで包んでビーカーを持ち湯気の立つゲル溶液をトレイに流し込む。思った以上に減っていて三枚には少し足りなかった。まあいい。まだ熱い液にウェルを作るための櫛状のコームを立てる。なかなか気泡が抜けない。トレイを叩いたりピペットで抜いたりしてみるがゲルが固まりかけてきたので面倒臭くなって途中で止めてそのまま放置する。まあいい。どうせ准教授のテーマの分だ、その進捗がどうなろうと知ったことではない。それにこの教室で俺に関わろうとする奴なんかいない。教授が寄り付かないのを良いことに景山准教授は幅を利かせ学生を使って好き勝手に自分のテーマを進めているし、学生たちも配属当初こそ憧れの教室に張り切っていても皆すぐに現実を知り落胆しバイトだのイベントだのにかまけるようになる。この教室で白鳳から直接指導を受けている者は一人もいない。悠太にしても会社との関係で表面上は准教授のテーマを手伝っているのだが、彼が白鳳から別命を受けていることは准教授や他の学生たちは薄々感付いていて、それを彼らが快く思うはずがない。ただでさえ出戻りの出向者で疎まれているのに人見知りの自分が上手く立ち回れるはずもない。だからこうして休日の明け方に一人で実験をする羽目になっているのだ。…どうしてこうなった?確かに白鳳に妹の秘密を教えたのは自分だ。しかし、だからこそ自分は庇護されるべきじゃないのか?なぜ俺が白鳳に罵倒され景山に邪見にされ後輩たちにまで虚仮にされなければならないんだ?知っているぞ、陰で笑っていることくらい、『その吃音、どうにかならんのか…』『何言ってるか分かんないんだけど…』声なき声が悠太には聞こえてくる、『また失敗してる…』『継代もまともにできないのかよ…』うるさい、俺の所為じゃない、『黒羽家?気味が悪い…』『会社の犬が…』『使えないくせに…』『教授にいくら渡したんだ…』『裏切り者…』うるさいうるさいうるさい、聞こえているぞ、全部聞こえている、何も知らない馬鹿どもが、今に白鳳は復権する、知世子の遺伝子にはそれだけの価値があるはずだ、ぬるま湯に浸かっている奴らなど見向きもされなくなる、その切り札を与えたのは俺だ、俺が白鳳を救ってやるのだ、それなのに!何故俺はこれ程までに虐げられている?何故罵られ馬鹿にされ笑われ続けている?こんな過酷な労働を強いられているのは何故だ?ふざけるな、こんなはずじゃあなかったのに、そう言えば昨日の夜から飯も食っていなかった…

 空腹に気付いた悠太は白衣のポケットから黄色い箱を取り出しミシン目を破り銀色の包みを雑に切り裂き剥き出した褐色のダイエットバーを一口齧る。味気ない。それでも腹は満たされる。ここの教室に戻って来てからというもの、日に一食がチェーン店の牛丼かカップ麺で、あとはダイエットバーで済ませている。乾いた小麦粉とビタミンの塊は幾らも噛まぬうちに口の中の水分を奪い去りどろどろに溶けて胃の中へと落ちていく。飢えを凌ぐためにまた一口齧る。どれだけ味気なかろうが虚しかろうが、家で食事するよりかは遥かにましだ。あの家は狂っている。何が『絶家』だ。もう一口、仇のように齧り折る。旧藩時代から続く地元名家の黒羽家は『絶家』と呼ばれる完全なる女戸主制で、代々娘が跡を継ぐ。元来由緒正しい医者の家系であったが、ある代の家長が放蕩を繰り返し家財を食い潰した挙句他所で作った女と駆け落ちして以来、黒羽家は役に立たぬ男子を排斥するようになったと伝えられている。家の一切事を女性が取り仕切り、男は跡継ぎを儲けるためだけの存在で、少しでも価値がないと判断されれば、すなわち医者でなければ家を追い出され二度と敷居は跨げない。家長の夫は例外なく婿養子で、当然全員が医師である…子供の頃から嫌と言うほど何度も聞かされてきた嘔気を催す仕来りだ。事実、現在の黒羽家も家長は祖母が務め、万事を伯母が決めている。家督はいずれ妹の知世子が継ぎ、医者でない悠太はそのうち体良く追い出されることだろう。咀嚼する度、口の端から食べ滓が白衣に零れ落ちる。卦体糞悪い仕来りなんかどうでも良い。その所為で父は消え母は倒れ、頭のおかしい眷属がのさばるあの家の中に自分の居場所など何処にもないのだ。歴史ある名家だか何だか知らないが、無駄に広い屋敷も自分にとってはただ寝に帰るだけのホテルに過ぎない。あんな家などいくらでもくれてやる。せいぜい知世子を可愛がり飼い殺せばいい。そうだ、母さんのように、最後の塊を喉に押し込む、だいたいあいつがこんな遺伝子を持って生まれてくるからいけないんだ、そうでなければ今でも普通の、ごく普通の家族でいられたはずなのに、潰してやる、黒羽の家などいつか潰してやる、この血の所為でどれだけ辛い目に遭ってきたか、どれだけ陰で笑われてきたか、いつか思い知らせてやる、伯母にも、祖母にも、俺を笑い、貶してきた全ての人間に、思い知らせてやる、俺は父さんとは違う、逃げたりなんかしない、そのためには何だって利用してやる、たとえ教授だろうと、妹の血だろうと、もうすぐだ、見ていろ、思い知らせてやる…

 ガクッと身体が揺れ、椅子から転げ落ちそうになり目を覚ます。…寝ていた。電気泳動のタイマーが鳴っている。その音に妙に苛立ち、コンセントごと引き抜いて止める。寝ながら食べたダイエットバーの所為か、胸がムカムカしている。首を振って立ち上がり、泳動槽からゲルを取り出しペーパータオルで拭いアルミ箔で包まれたタッパーに入れてある淡いオレンジ色をしたエチジウムブロマイドの溶液に素手で投げ込む。『必ず手袋を着用すること』アルミ箔の上に貼り紙がしてある。エチブロには発癌性があるらしい。癌はともかく手が黄色く染まるのは御免なのでプラスチックのトングでゲルを挟みざぶざぶと洗う。胸のムカつきが治まらない。トングを置き冷蔵庫とは逆の端にある自分の机に向かう。引き出しを開けてペットボトルの水を取り出すと紙切れが一緒に引っ付いてきてはらりと落ちた。何気なしに拾うと、それは金曜日に知世子から渡された学祭のチケットだった。入れっぱなしにして忘れていた。毳毳しい赤いリボンに胸焼けが増し、ペットボトルをぐびりと呷ると気管に入り酷く咽る。腹立たしくなりゴミ箱に投げ捨てようとしてやはり躊躇う。ううっ、とひと声唸ると、振り上げた手を所在なく下ろし机の上にチケットを置く。

『清香祭 前夜祭 十一月二十三日(祝)午後六時から、本祭 二十四日(土)、二十五日(日)、後夜祭 二十五日午後六時まで』

 カラフルに縁どられた装飾文字でそう書かれている。開けてはいないが中にはスケジュールの載ったパンフレットが入っているはずだ。二年のクラスの出し物は確か三日目の午前だったか。自分の頃から変わっていなければの話だが。…アン先生。元気だろうか。高校時代など思い出したくもないがあの人だけは別だ。記憶に留めてやっても構わないと思っている。相変わらずぼんやりしているんだろうな、生徒たちに揶揄われたりしてないだろうか、久し振りに様子を見に行ってやってもいいかもしれない、そう言えば青柳先生も行くと言っていたな、一人では無理だが、二人でなら…いや、別に興味なんかない。クラスの出し物にも元担任の教師にも。大体俺なんかが行ってどうする?惨めな思いをするだけだ…しかし今は知世子の担任か。早いものだ。あれからもう八年も経ったのか。結婚はしたのだろうか、流石に彼氏くらいはできたかもしれない、いや、あの人のことだ、未だに一人でふらふらしているに違いない、もし、それなら…いやいや、何を考えているんだ俺は、俺には関係のないことだ、不意に湧き出た劣情を振り切るようにもう一口ペットボトルを呷り、また咽る、噴き出した飛沫がチケットに落ち、慌てて白衣の袖で拭う。

「…興味なんか…」

 手刷りのインクが少し滲んだチケットを暫し見詰め、悠太はそれを引き出しの奥にそっと仕舞った。

 上の空で何度も躓きながらプラッテに戻ると、ゲルをエチブロに浸けっぱなしだったことを思い出した。しまった、何分経ったか。急いでトングで取り出し水道水でざぶざぶと洗う。染色時間が長すぎると余計な所まで染まってしまい、どれが目的のバンドか分からなくなる。この実験ではそれで何度も失敗している。祈りながら箱眼鏡のようなUVボックスにゲルを置き紫外線を灯すと発色色素と結合したDNA断片がそれぞれの塩基数に従って分離されたバンドとなってゲルの中に浮かび上がる。……駄目だ。コントロールとはまるで異なる位置にまでいくつもバンドが連なった、いわゆるスメアになってしまっている。しかも泳動条件が悪かったのかゲルを落としたのがいけなかったのか、バンド全体の両端が持ち上がるスマイリングまで起きている。これではどれをどこまで切り取れば良いのか判断がつかない。クソが…! ゲルにまで笑われ癇癪を起こしペーパータオルでそれを包みゴミ箱に投げ捨て自棄になってプラッテに突っ伏してまたぶつぶつと零し始める、やっぱり他人のゲルなんか使うんじゃあなかった、これではとても月曜の朝には間に合わない、まだ抽出とPCRとシーケンスとその解析まで残っているのに、報告書だってまだ一行も書けていないのに、こんなことなら意地なんか張らずに青柳先生のパイロシーケンサーを借りれば良かった、青柳…青柳か、いや駄目だ、あいつだって俺を裏切ったんだ、どいつもこいつも妹ばかり庇いやがって、そんなにあいつが大事か?それならどうして白鳳と手を組んだ?どうして断らなかった?俺の誘いは断ったくせに、どうして俺じゃあ駄目なんだ?あいつも裏切り者だ、どうせ誰も俺のことなど見てくれやしないんだ、いつか思い知らせてやる、…だがどうすればいい?これでもう四回目だ、どうしてDNAの泳動ごときで何度も同じ失敗をするんだ俺は、もう四回……四回も…?

 突っ伏していた悠太はがばっと身を起こしゴミ箱の中からさっき投げ捨てたゲルを探り出しペーパータオルを剥ぎ取りまたUVボックスに入れる。良かった、破れていない。UVボックスのイルミネーターを操作してゲルのバンドを撮影し二値化した写真をPCに送る。机に走りPCの画面を起こし一番下の引き出しの奥底から古びたノートを探り出して開き、そこに貼り付けられた写真と今の写真を並べ合わせる。…やっぱり。スマイリングの所為で完全ではないが長く伸びてスメア状になったところまでバンドの位置が一致している。どうして気付かなかったんだ、これはスメアなんかじゃない、制限酵素の選択や手技が悪いんじゃない、悪いのは知世子の血だ、分かっていた、それは分かっていた、なのにどうして気付かなかったんだ…!悠太はノートを手にプラッテに取って返し、ラックにマイクロチューブを立てるとイルミネーターを点けUVボックスの上からゲルを覗く、こいつだ、何十と並んだ青白く怪しく光るバンドの一つに狙いを定めゲルカッターを突き立てる、カッターの先に埋まったゲルの切片をところてん突きに似た突き棒でマイクロチューブに押し出し次のバンドに狙いを付ける、見つけたぞ、失敗なんかじゃない、これで正しかったんだ、LTR、gag、pol、まさかenvがあるとは思えないがどれでもいい、HERV、一致してくれれば…ノートの写真と見比べながら一つ一つ丁寧にカッターを突き立て打ち抜いていく、まるで夜景に映える高層ビルの窓明かりのような光が一つ一つ消されていく、そうだ、俺が消してやる、それが何も知らずただのうのうと生きる人間の営みの光なら、一つ残らず俺が消してやる、もう教授のオーダーなどどうでもいい、グロブリンもメチル化も後回しだ、細胞株など知るもんか、ここからは白鳳も青柳も知らない世界、俺だけの世界だ、間違いない、こいつは、知世子は発現している、お前も父さんの仇を討ちたいんだろう?母さんの無念を晴らしたいんだろう?叶えてやる、俺が叶えてやる…

 実験室の窓の外がそろそろ白み始めている。プラッテの上のラックには何十本ものチューブが列を成している。悠太は徐に立ち上がり、ラックごとUVボックスに挿し入れすっかり窓明かりの消えたゲルの上にそれを翳す。チューブの中では切り抜かれたゲルたちが仄かに光を放ち続け、それを覗き込む能面のように凝り固まった顔を青白く照らす。

「も、もう少し、もう少しだ…」

 食べ滓と同じように声が零れていることにも気付かず、黒羽悠太はその口の端を無表情に妖しく歪めた。


 久方振りに訪れたラウンジは連休前だからか呆れるほど人で溢れている。軽食のビュッフェには順番待ちの列ができマガジンラックは既に空で、首を巡らせても空いている席は見当たらない。コンシェルジュたちが人の隙間を縫って忙しなく動き回り、ドリンクやおしぼりを補充したりテーブルを片付けたりしている。まるでそこらのファミレスだ。クラブメンバーだけでなく同行者まで利用できるようにするからこんなことになる。正規に金を払っている人間までもがコーヒー一杯のためにちゃんと列に並んで待っている光景は見ていて心底嫌になる。この国の人間はそんな待遇に疑問を持つことも知らない。あらゆる価値は金でしか量れないことくらい誰もがとっくに気付いているのに、正論を振り翳せば寄って集って潰そうとする。対価に見合うサービスを求めもしないで何が美学だと言うのか。トレイ一杯にサンドイッチやドーナツやオレンジジュースを乗せたまま席が見つからずうろうろしている母子を押し退け、白鳳宗利は離陸を待つ旅客機が見渡せる窓際に並んだ一人掛けの席の奥にあるドアに向かう。金色のプレートで「KEEP OUT」と銘が打たれているそのドアの前に立つコンシェルジュに無骨に黒いカードを見せると分かり易くにこやかに頷きドアが開けられる。

「行ってらっしゃいませ」

 恭しく頭を下げるコンシェルジュには愛想も使わず、通路の先のやはり金字のゴシック体で簡潔に「VIP ROOM」とだけ書かれた自動ドアをくぐると、1メートル背後とは隔離された静かな世界が広がっている。サントーニの靴底が埋もれそうな絨毯を踏みパーティションの切られたデスクやマッサージチェアの列を抜けビールのサーバーやワインのデキャンタには脇目も振らずいつもの角部屋へと向かうといつものイヤモニを付けたタキシード姿の担当コンシェルジュが黒塗りのドアを開けて待っていた。

「お待ちしておりました、白鳳様」

 いつものように食事とコーヒーと新聞を申し付け、ジョルジオ・アルマーニのビジネスバッグから極薄のラップトップを取り出しファーストクラスのそれを模したシートに腰を沈める。適温のナプキンで顔と手を拭い、無線LANでメールを受信している間に食事とコーヒーと新聞が運ばれてきた。

「ご出発時刻になりましたらお呼びいたします」

 無駄事は一切口にせず、キーを叩く白鳳の邪魔にならないようデスクの余白に皿やカップを器用に配置すると、コンシェルジュは始めからいなかったかのように個室から消えていた。白鳳は秘書を雇わない。一人での行動を苦としない白鳳にはこのカードに付属するサービスで万事事足りる。飛行機やハイヤーやホテルの手配もコンベンションへの参加申請もレストランの予約もちょっとした買い物も電話一本、メール一通で全て彼らが対応してくれる。定期的なスケジュール調整から財務管理までしてくれるとあれば、自費で秘書など据えずとも年会費数十万で済むカードの方が遥かに経済的だ。あんな者を雇っている奴はただの無知か見栄を誇示したい馬鹿かセックスしか頭にないパラフィリアだ。白鳳は未読メールで真っ赤に染まったメールボックスを片端から二十通ほど処理したところでタイプの手を止め手首のパネライに目を落とす。搭乗までまだ三十分以上ある。機内での食事は面倒なのでここでゆっくり食べられるのは有り難い。ラップトップを端に寄せ、ミディトマトのカプレーゼを一口で頬張り、ランチメニューにはないが誂えてくれたボロネーゼのパスタをフォークに巻き付けながら残りのメールに目を通していく。

 年末調整の書類について:再送。総務課加藤。提出の催促か。不要。

 海外特許継続の是非。知的財産本部井上。カナダと中国とインドとメキシコのSPVの特許だな。高々数十万だろう、維持は絶対だ。パテントの取得と行使は研究ビジネスの基礎だと常々言っているのにそんなことも自署で判断できんのか。処理ボックス。

 研究棟仮想サーバー停止について。総務課加藤。ゴミ。

 サーバー改修に伴う文書管理システムの利用停止について。ゴミ。

 防災訓練を行います。ゴミ。

 タッチパッドに指を滑らせ、本文を開いてもいないメールたちをゴミ箱のアイコンの上に紙屑のように捨てていく。一日二百通以上送られてくるのだ。いちいち読んでなどいられない。オリーブの実が練り込まれたフォカッチャに注ぎ口がくの字に折れたオイルボトルからオリーブオイルを垂らして千切る。

 創薬シンポの参加費についてのご相談。准教授の景山だ。言いつけ通り自由に動いてくれるのは構わんが、彼は少々金遣いが荒い。どうせ学生を四人も五人も連れて行きたいとか言うのだろう。その金を捻出するのにどれ程の時間と労力が必要か分かっているのか?…まあいい。せいぜい派手にアピールしてきてくれ。隠れ蓑としてな。処理ボックス。

 無題。黒羽悠太。…何だ今頃。グロブリンの結果ならもう必要ないと言ったはずだが。それともセルラインの方か?昨日今日で奴にできるとは思えないが、それとも…ええい、タイトルに要件を書けと言っているだろうが。苛つきながら『無題』の文字をクリックすると、宛名もない安直な本文にPDFファイルが一つ添付されているだけだった。

『遅くなりまして申し訳ありません。サンプルCK36L16のグロブリン濃度の測定結果です。MSPがまだ完了しておりませんので報告書の方はお待ちください。以上』

 は。やはりか。添付ファイルにもこれまでの実験の再現性以上のデータは含まれていない。まあ当然だ。奴が半年でできるようなものなら青柳がとっくに具現化しているはずだ。ここ数日言動が怪しかったから泣きつきでもしたかと思ったが、どうやら何もなかったようだ。青柳も流石にそこまでお人好しではないらしい。しばらくは目の届く限り何人も黒羽知世子に触らせはしまい。そして彼女は一も二もなく青柳に従う。ともあれこれで都築がDAMDSの情報も細胞も手にするチャンスはなくなった訳だ…青紫色のソースが垂らされたパンナコッタをスプーンで掬い取り歪めた口の端へと運ぶ。

 DAMDS!白鳳はその甘酸い響きを舌の上で転がし丹念に味わう。デオキシリボ核酸修飾不全症候群。それが青柳が名付けた彼女の病名…いや、疾病と断じるには余りに神々しいか…黒羽知世子のDNAは現状で分かっている限り全てのシトシンがメチル化を受けていない。通常ならアイランドを含めてもCpG配列の八割はメチル化されていなければならないが、青柳の報告に依れば彼女のDNAは口腔上皮粘膜も表皮も毛根も赤血球もT細胞も子宮頸管も尿路上皮も卵子も、確認されているあらゆる体細胞において5‐メチルシトシンがあるべき所に見つかっていない。DNAメチル化は遺伝子発現に対する所謂ブレーキだ。普通の人間であれば一ゲノムでもそれが狂っていれば看過できない異常が発生する。癌抑制遺伝子のCpGアイランドが高度にメチル化されていれば大腸癌や乳癌を発症するし、AML患者の一部ではメチル化の書き手であるメチルトランスフェラーゼに異常が見られる。ICF症候群ではゲノム全体でメチル化が四割ほど低下し血清免疫グロブリン低値、内眼角解離や小顎を伴う顔貌異常、中心体の不安定化による染色体異常を引き起こす。プラダー・ウィリーやアンジェルマンやベックウィズ・ウィードマンのようなインプリンティング異常が原因の遺伝子疾患も低メチル化により発症頻度が高まると言われている。彼女の場合は一部どころか全ての遺伝子発現にブレーキが掛かっていない、受精直後の胚性幹細胞のようなものだ。全身がiPS細胞で出来ていると言ってもいい。普通そんな状態であればあらゆる細胞で必要のない遺伝子が次々と発現し筋肉は骨になり消化液は臓器を溶かし血液は白化し首から手が生え、生きて生まれるどころか最早ヒトの形を保つことさえ危ぶまれるはずだ。にも拘らず黒羽知世子の目に見える異常は光線過敏と右下肢の麻痺と臍傍静脈の怒張と抗体値の亢進くらいしかない。何故か?実のところ白鳳はそんなことに興味はない。DAMDSの解析は程なくナトリに引き継がれる。青柳は侵襲の少ない細胞採取しかしてこなかったが、彼らは全身隈なく調べ尽くしてくれるだろう。私はそれをただ待っていれば良い。これから結ぶのはそういう契約になる。そのためにはもちろん彼女の協力が不可欠だ。それまで青柳にはまだまだ働いてもらわねばならない。だがあの餓鬼はもう用済みだ。グロブリンやメチル化のデータなど蛇足にすぎん。T細胞のセルラインも樹立できんようではこれ以上飼っていても意味がない。特異なレトロトランスポゾンでも見つけてこられれば話は別だったがな。せっかく追加で最後のチャンスまでやったのに、残念だったな。…ゴミ。

 来期出向者(延長)と予算について。都築製薬創薬研究所所長山岡。皮肉なタイミングだな。しかも延長要請とは。愚図な餓鬼は斜陽企業でも厄介者らしい。都築にはSPV以来随分と世話になったが、もう頃合いだ。正直、SPVは世に出さなくて正解だった。ヒトパピローマウイルスでは効果が限定的過ぎてこちらに入るロイヤリティがとても労に見合わない。何よりあのウイルスでは。私が欲しいのは安穏な生活や名誉職なんかじゃない。もっと巨大な利だ。名前だけの教授やナショナルメーカーの顧問に落ち着くくらいなら僅かばかりの違約金で胆を嘗めている方がましだ。都築もその程度を渋るようでは先がない。コンサルタントの計算に依れば、DAMDSの潜在的資産価値は桁が四つは違う。都築にこの巨獣を手懐ける体力はあるまい。今度はこちらが見限らせてもらおう。処理ボックス。

 Re:栗田先生ご予定お伺い。谷村。差出人の名を見て白鳳はシートから背を浮かす。震える指でタッチパッドを叩き、開いた本文を食い入るように目で追い拳を固めてテーブルを殴り付ける。やった。あの意固地な秘書め、ようやく重い腰を上げてくれたか。これで与党幹部との繋がりを築ける。栗田のところに旧知の谷村がいたのは僥倖だった。いかんせんこっちに関しては自分などまだ駆け出しにすぎん。いずれ谷村にもサポートを請わねば。栗田なら自分の立場も理念もきっと理解してくれるはずだ…白鳳は急いで簡潔に返信を打つ。ご検討ありがとうございます、下記件了解しました…

 このままでは日本の医薬品業界が立ち行かなくなることくらい誰の目にも明らかだ。皆保険に胡坐をかき貧乏人までが平等な医療機会などと訴える。医療費削減の題目を盾に見直された薬価制度がメーカーや卸に強いている負荷は計り知れない。もう国内からブロックバスターが出ることは期待できないだろう。先発特許回避のために無理矢理設計された効能さえも怪しい後発品が市場の八割を占めているのも前政権の功罪だ。一部の派手な賞だけにフォーカスしその時だけ基礎研究の重要性だの産官学連携だの実用化プロセスだの人材育成だのと騒ぎ立てその隅で日の目も見ず忘れ去られ廃れていった技術が一体どれ程あることか。技術の開発には金がかかる。もちろん医薬品に限ったことではない。民間の投資も血税も、然るべき者に正しい向きで使われなければならない。それが分かっているのに口先だけで文句を垂れ動こうともしないような連中に用はない。本当に社会を変えたいのなら自分がそれを出来る立場になるしかないのだ。資本もなく工夫もできない会社が潰れるのは当然の摂理だ。対価の払えない患者に手を差し伸べる義理などない。医療の世界を本来あるべき姿に戻す。そのための地位と権威を手に入れてみせる。ナトリとのCDAなら手土産として十分だろう。残る懸念はサンプル自身だが…

 返信を済ませ、まだ湯気の立つシティローストのエスプレッソにティースプーン山盛り三杯の砂糖とミニピッチャーのミルクを全部入れる。さらに白鳳はタブレットボトルから白い小さな錠剤を取り出した。炭酸水素ナトリウム、いわゆる重曹をタブレットにしたものだ。酸性の強いコーヒーを中和し、好みの風味にしてくれる。胃の弱った五年前に試して以来手放せなくなった。入れすぎると苦くなるが、コーヒーは元々苦いものだ。

「白鳳様。お電話が入っておりますが…いかがいたしましょうか?」

 元の要素が半分もない混沌としたエスプレッソを啜っていると、コンシェルジュが個室の扉を叩いた。珍しく狼狽している。

「電話?誰から?」

「五光新聞の赤松様、と申されております」

 赤松?…なるほど。あのジョンだかジョゼフだかのナトリの研究員が早速働いてくれたようだ。ナトリと話を進める以上いずれ情報開示は避けられないが、形式上とは言え青柳との契約がある。こちらから無断でリークすることはできない。下手を打って彼女に臍を曲げられても困るからな。そちらから動いてくれるのは大歓迎だよ、赤松。

「出よう。回してくれ」

「…承知しました」

 扉の向こうの気配が消えて数秒後、シートの肘掛けに埋め込まれた受話器が慎ましい音で鳴った。

「…白鳳だが」

「おう、久し振りだなぁ、ソーリ。三年前の薬学総会以来か?」

「その呼び方は止めろ、虫唾が走る」

「おいおい同期の好みじゃないか、呼び名くらい良いだろう?それにしても相変わらずお忙しそうで。まさか捕まえられるとは思わなかったよ。当てずっぽうでも電話してみるもんだ。何せメールの開封確認すら送ってくれないからな、お前は。で、VIPルームの居心地はどうだ?酒も煙草も喫み放題、洋も和もフルコースで頂けて、しかも手取り足取りお付きのコンシェルジュまでいるんだろう?もう慣れたもんか。流石有名教授様だ。しがないサラリーマンにはそんな贅沢一生縁がないからな、いや、羨ましい限りだよ…」

 自分は名乗りもせず白々しい戯言を間断なく並べ人の神経を無用に撫で回す。コンシェルジュが戸惑うのも無理はない。何が当てずっぽうだ。どうせフライト時間も滞在ホテルも全て調べ上げているのだろう。まあ、そうするように仕向けたのはこちらだがな。

「すまんが赤松、搭乗まで時間がない。手短に頼むよ」

 僅かな間の後に、ライターを擦る音。向こうも察してはいるようだ。それでも形振り構っていられない、と言うことか。

「……では単刀直入に聞こう。今回の渡米、AAPSへの参加は飾りで、本当の用件はナトリの幹部と接触するためなんだろう?目的は何だ?」

「そんなことか。どこから聞いたか知らんが、伝手があるのならそっちに聞けば良いだろう。私は忙しいんだ」

「いや、俺の伝手は一介の研究員だ、詳しいことなど知らんし、たとえ知っていても会社の機密を漏らすようなことはしないだろう。俺が聞きたいのはナトリのじゃなく、お前の目的だ。…最近、谷村と良く会っているそうじゃないか。確かあいつ民政党の栗田のところにいたな。それとも関係があるのか?」

「…ふん。それなら益々私の口からは話せないな。言葉尻を取られ公人関係者との利害などとありもしないことを書かれでもしたらそれこそ相手に迷惑が掛かる。お前はそれをする人間だしな」

「だから聞いているんだ。栗田に近付いてどうするつもりだ?栗田は厚労省時代、外資の製薬企業や保険会社に対してリベラルな姿勢を取っていた。TPP交渉でも、これは結局潰されたが、争点の生物製剤のデータ保護どころか混合診療の件までアメリカ寄りの発言を繰り返していたな。一時期は規制改革会議にも呼ばれていたそうじゃないか」

「…それで?確かに私は栗田先生と同じく今の医療制度に満足はしていない。それは常々公言していることだ。お前は混合診療の解禁に反対なのか?」

「当然だ。保険の適用範囲が激減する、薬価は下がらない、安全かも分からない薬剤が横行する可能性だってある…国民皆保険のメリットが全て崩壊するんだ。お前のような金持ちならともかく、我々貧乏人は正規の治療を受けるために家を売るか、それとも死ぬかしかなくなるんだぞ。医療まで格差を助長してどうする?そんなのは改革とは言わん」

「なるほど。月並みだが一つの意見として聞いておこう。ただ一つ言わせてもらえば、お前たちが目の敵にする金持ちだって最初から金を持っていた訳じゃない。片親で田舎育ちの人間が今の立場にあるのはそれなりの研鑽を積み努力を重ね辛酸を嘗めてきたからだ。お前たちが思考を停止しのうのうと日々を過ごす間にな。当然の報酬を求めて何が悪い?そんなのは格差とは言わん」

「それこそ耳にタコができるほど聞いた開き直りだな。他人を押し退け裏切り傷付けて得た金で食う飯は旨いか?誰もが皆、お前みたいに自分に無関心にはなれないんだ」

「…まあいい。これ以上は不毛だな。そんな論議をするためにわざわざかけてきた訳ではあるまい。とっとと用件を言え」

「…お前が政界に進出するのは自由だ。だがお前の目標が混合診療の全面解禁で、今回のナトリとの接触がそのための布石なら…看過できないな。記事にさせてもらうぞ」

 受話器の向こうで深く煙を吐く音が聞こえる。…まったく。手間の掛かる。時間がないと言っているのに、身勝手な奴だ…やたらと甘苦いエスプレッソを飲み干すと、カップの底にはコーヒーの残渣に塗れた砂糖が溜まっている。

「よしんばお前の言う通り、私の目的が政界進出であり混合診療解禁だったとしよう。今回のAAPSの会場は製薬会社のオフィスが集中するニュージャージーだからな、挨拶に赴く予定の一つにナトリが含まれているのも事実だ。だがそれに何の関係がある?どう布石になると言うんだ?たかが一製薬企業に日本政府の方針にまで影響を及ぼす力があるとでも言うのか?お前が垂れている能書きは全部憶測だ。そうあって欲しいと言うだけの愚かな妄執だ。それでどうやって記事にするつもりだ?お前は根拠もなく矛先も見ず、ただ批判するだけの無能な記者だったのか?」

「…そうだ、俺にはその『力』が分からない。…白鳳、『ダムズ』とは一体何だ?それがお前の切り札なんだろう?ナトリ上層部が食いつくんだ、相当なネタだというのは想像がつく。だがいくら調べても何も出てこん、尻尾すら掴めん。この件になるとナトリは途端に口を噤むし、准教授の景山たちも知らぬ存ぜぬだ。実際彼らは何も知らんのだろう。関係者も専門家も関知していないような事象に世界で一位二位を争うナトリや、それこそ栗田や日本を動かすような『力』があるのか?もしそうだとしたら…なあ白鳳、お前は何を企んでいるんだ…?」

 赤松の語勢が尻窄んでいく。…まったく。これだけ煽ってようやく本音を吐いたか。記者と言うのは実に回りくどい。まったくもって、身勝手な奴だ…受話器を押し当てた白鳳の片頬が躙り上がる。

「赤松…お前こそ何をそんなに焦っている?…私はなにも疚しいことをしている訳じゃあないんだ…一流紙のデスクが必死になって嗅ぎ廻るようなことはな…残念だが私の口から話せることはない…だがそこまで辿り着いたお前に…そうだな、一つ講義をしてやろう…日本のドラッグラグの現状はお前も良く知っているな?…開発された新薬が世に出るまでに、数年前なら最も早いアメリカに対して四年以上の遅れがあった…アメリカならとっくに使われている薬でも、日本では同じ治療を受けるのに四年も待たなければならなかったんだ…PMDAは解消されつつあると言っているがそれは所謂審査ラグの話で、新薬開発のステージは相変わらず遅れたままだ…何故か分かるか?…企業の努力が足りない?…大学が人材を育てないから?…国がもっと援助すべきなのか?…違う。それは過程に過ぎない。アメリカで研究費が潤沢で人材も豊富で政府も支援に積極的なのにはちゃんとしたきっかけと理由がある…分かるか?…そうだ、エイズだ。カメルーンのチンパンジーからもたらされた一本鎖RNAウイルスは八十年代後半にアメリカ全土に爆発的に蔓延し百万人以上の感染者を出した…それまでサリドマイドやクロロキンの薬害で新薬の安全性に慎重だったアメリカ国民はこの未知のウイルスのパンデミックに恐れ慄いた…ロサンゼルスで最初の患者が報告されてから逆転写酵素阻害薬のジドブジンが発売されるまでの六年間、人類はたった九個の遺伝子とLTRしか持たないコンマ1マイクロの粒子に何ら対抗する手段を有さなかったのだからな…結果、抗レトロウイルス薬は次々に開発承認され今では二十種類以上が市場に出回っている……日本では幸い…いや、不幸にもと言うべきか…HIV感染者は一万八千人程度…実際のキャリアはもっと多いのだろうが、それでも全世界の0.1パーセントにも満たない…希少疾患レベルだ…」

「おい、白鳳…お前は一体、何の話をしているんだ…?」

 赤松の声は暗く淀み、そして怯えている。白鳳は懐からロッカニーヴォを入れたスキットルを取り出しカップに残った砂糖の上に注ぐ。そうだ赤松、それがこの国の人間に足りないものだ、金属の細口から滴る赤く透き通った液がカップの底の滓を巻き上げ鮮やかに濁っていく、唾棄すべきは想像力の欠如だ、必要なのは絶望に至る痛みだ、マラリアもSARSもエボラも画面の向こうで起きている遠い国の出来事だとしか感じられないのであれば、与えてやるしかあるまい、なあ赤松、そうは思わないか…開かれようとした唇が、控え目なノックの音に止まる。

「…時間切れだ、赤松。講義はここまでにさせてもらおう。私のやっている仕事はいずれ嫌でも知ることになる。それまで指でも咥えて待っていろ」

「いいや、それでも書かせてもらう。日曜版の特集でも子供向けニュースでも何でも構わん、怪しきを見逃しては記者でいる意味がない」

「ふん…お前もしつこいな。何がそんなにお前を駆り立てるんだ?会社の指示か?五光はそんなにネタに飢えているのか?」

「…さあな。俺にも分からん。敢えて言えば…俺の『勘』だ。何を企んでいようとも、お前はやはり……危険だ」

 思わず口に含んだグラッパを噴き出すところだった。勘か。そんなものとは対極に居た奴が随分と稼業に染まったものだ。…が、悪い傾向じゃあない。その調子で私の掌の上で転がっていてくれ。

「勝手にしろ。せいぜい立派な特集でも組むんだな。どんな記事になっているか、帰国後を楽しみにしているよ…」

 受話器を戻し、溶け切らない砂糖ごとグラッパを一呑みに呷る。フェノールの香りが喉を焼き、あっという間に指先まで痺れが回る。痺れる指でタッチパッドを叩き、スクリーンの落ちていたラップトップを立ち上げる。と同時にメールの着信音が鳴った。一件のメッセージ。無題。黒羽悠太。

「タイトルに用件を書けと言っているだろうが…」

 愚痴を垂れながらも白鳳の口角は上がったままだ。

 そうだ、転がれ、赤松も五光もナトリも都築も、谷村も栗田も日本の医療も私の意のままに転がしてやる、そのためにこの五年間、恥辱に塗れ忸怩に耐えてきたのだ、私ならできる、それができる立場にある、手段は手に入れた、薬と毒は表裏一体だ、人類を照らす希望の光となるかそれとも灼き尽くす災厄となるか、その天秤を揺らすのは他の誰でもない、この私だ、偽善を貫く青柳には到底辿り着けまい、彼女は掘り尽くせぬ鉱床だ、涸れ果てぬ源泉だ、隠蔽などさせん、DAMDSを世に出さないこと、それ自体が罪なのだ。そして黒羽悠太、貴様は所詮トリュフを掘り返す豚だ、食えない雑魚に用はない、貴様に存在価値があるとすれば、私を彼女と引き合わせた、ただその一点においてだけだ…

 コンシェルジュが再三ドアを叩く。

「白鳳様、搭乗のお時間です」

 分かったと返事をして居心地の良いシートから立ち上がり、白鳳は今届いたばかりの未読メールを紙屑のようにゴミ箱に捨てた。


「ねぇ、チェリーちゃん…やっぱり止めようよ、バレたら怒られちゃうよ…」

 ジャケットの裾を片腕を吊ったままのチョコが引っ張る。秋の陽はとっとと暮れ、分厚い雲が折り重なった窓の外の空には月も星もなく暗澹とした夕闇が忍び寄っている。暮明の廊下は歩き辛いが照明を点ける訳にはいかず、そもそもスイッチがどこにあるかをチェリーは知らなかった。

「チェリーちゃんってば…もう戻ろう?暗くなってきたし、こっちの方人気もないし…」

「あによ、バレて困るのはあんたでしょうが。人気がないんなら寧ろ好都合じゃない」

「でも…やっぱりダメだよ、こんな泥棒みたいなこと…先生のIDカードまで勝手に持って来ちゃって…」

 チョコの日課の診察が終わった後、チェリーはチョコを連れて院内の散策に繰り出していた。目的はもちろん青柳の実験室だ。これまでの会話から察するに、青柳はチョコが子供の頃から彼女の血液や細胞を使って人に言えないような怪しげな研究をこっそり続けていて、それを兄貴が密告ちくり、白鳳とか言ういけ好かない教授が内密だった二人の関係にちょっかいを出してきている…どうやらそんな構図らしい。まるで横恋慕の三角関係だ。これは詳しく知っておかねばなるまい。だが医者は口が堅いし、兄貴も教授もあの日以来診察室に姿を見せない。ならば自分で暴くまでだ。DAMDSって奴の正体を。カードだって机の上に置きっ放しにしてあったのをちょっと拝借しただけだ。これはもう行けと言っているようなものじゃないか。

「今更怖気づいてんじゃないわよ。あんただって知りたいんでしょ?あの生煮え主治医とインテリヤクザがあんたの身体で何やってるのか」

「カ、カラダって…ヘンな言い方しないで……そりゃあ気にはなるけど、ヤギ先生が話せないのはまだ良く分かってないからだよ、きっと…白鳳先生もそんなこと言ってたもの。時期が来たらちゃんと説明してくれるって…」

「は。甘いわね、チョコ。そんな上辺の口約束、あの陰険な中年たちが守るとでも思ってるの?あれだけ頑なにあんたの存在自体をひた隠しにしてるのよ?悠長に構えていたらいつの間にかあんたのクローンか何かがうじゃうじゃ出来てたりするに違いないわ。悪の芽は早い内に摘んでおくに越したことはないのよ」

「映画の見過ぎだよ、チェリーちゃん…でも先生の実験室なんてわたしも行ったことないよ?それにチェリーちゃん、すぐ迷子になるし…」

「うっさいわねぇ、だからあんたを連れてきたんでしょうが。屋上だって言ってたんだから登り階段見つければいいんでしょ?ほら、キリキリ案内しなさいよ」

「でも…」

「ああもう、でもでもと!兄貴といい、あんたたち兄妹はなんでそうネガティブに…」

「……チェリーちゃん?…しっ!」

 昂るチェリーの口を突然チョコが塞ぎ肩越しに視線をずらす。耳を澄ますとリノリウムの床をひたひたと鳴らす足音がすっかり夜の帳が下りた廊下に響いている。チョコはきょろきょろと首を巡らせチェリーの口を押さえたまま近くにあったトイレの陰へと引っ張り込む。とても片腕片足とは思えないほど素早い動きだった。足音が段々と大きくなってくる。確実に誰かがこっちに向かって来ている。二人はトイレの奥でじっと気配を潜める。口を押さえている手から相手の鼓動が伝わって来る。スリッパの音がトイレの入り口で止まった。チョコの指が頬に喰い込み、チェリーはごくりと喉を鳴らす。一秒が何時間にも感じられる緊張の果て、また足音が動き出し、そのままぺたぺたと遠ざかって行った。足音が角を曲がり完全に聞こえなくなってようやくチョコの指が頬から外れ、チェリーは止めていた息を吐き出す。チョコまで息を止めていたらしく、胸に手を当て肩を撫で下ろしている。見上げるチェリーと俯くチョコのお互いの目が合い、やがて堪えきれず、どちらからともなく声を抑えてくすくすと笑い出した。

「あによぉ、なんだかんだ言ってあんたも楽しそうじゃないの」

「だってだって、チェリーちゃん声が大きいんだもん!もう絶対に見つかったと思ったよ…」

 じゃれ合いながらトイレを後にした小鼠たちは気分だけでもスパイになり切り、他愛のない探検に束の間心踊らせるのだった。

「―――あ、やっぱりここじゃない?火元責任者がヤギ先生になってるよ」

 これ以上登り階段のない階まで辿り着き、二、三ある扉の一つをチョコが指差す。屋内のままなので実感がないが、どうやらここが屋上階らしい。階段は壁が煤け床が汚れいかにも病院と言った古めかしい造りだったが、この区域は無機質に新しく後から建て増してあるのが素人目でも分かる。片側だけに扉の並ぶ廊下はごく短くその先で途切れていて、突き当りのアルミサッシのドアから本当の屋上に出るのだろう。学校と一緒だ。チョコがスマホのライトを当てる扉には部屋名も何も書かれていないが、横に掛かっている札には確かに青柳の名前があり、ドアノブの下にビジネスホテルのカードキーのような差込口が開いていてその脇に緑色のLEDが小さく灯っている。

「ふん、どうやら間違いなさそうね…じゃあチョコ、はい」

 チェリーは首にぶら下げていた青柳の顔写真入りのIDカードをチョコに手渡す。

「…え?なんでわたしが?自分で通せばいいじゃん」

「ほら。万が一アラームが鳴ったりビリッと来たりしたらイヤじゃない?だから」

「ええ~、わたしだってイヤだよぉ…」

 頬を膨らすチョコに無理矢理カードを握らせ背中を押す。まあ、ビリっと来るはずがないし、アラームが鳴ったら鳴ったでそれまでなのだが。こういうのは雰囲気だ。逃げないでよ、とチェリーの袖を掴みながらチョコが恐る恐るカードを差し込むと、ピッと思いの外大きな電子音が響きLEDが一瞬赤色に点滅しすぐに消えた。

「…いいんじゃない?」

 チョコが握る袖を振ってチェリーが無責任に促す。チョコはまた怖々ドアノブに触れ、それを押し下げるとこれまた思いの外あっさりとドアが開く。

「何も…見えないね…」

 薄明かりすら入らない部屋の中は完全な暗闇だ。だが部屋の明かりを点けるのは何だか躊躇われ、スマホのライトだけを頼りに踏み入れる。流石のチェリーも足取りが重い。部屋は結構広く、学校の調理室か講義室くらいはありそうだ。衣擦れの音がライトの届かない闇の向こうに吸い込まれてしまう。腰高で黒い板張りの実験台が横向きに二列並び、二人はその間をライトを左右に振りながら進んでいく。

「…あれ…?…意外と普通ね…」

 実験台の上は小ざっぱりとしていて、机の上の棚にはチューブやラックや紙タオルのような小道具以外ほとんど何も置かれていない。入口側の壁際には青柳がチョコの兄貴に言っていた奴だろうか、卓上の機械が何台か並んでいる。チェリーはその一つに近付き隈なくライトを当てるが、正面にパネルとテンキーが付いたただの白い箱にしか見えない。リンゴのようなマークが電源ボタンなのだろうが押しても反応はなく、把手もないので開けることもできず、要は何のための機械か皆目見当もつかない。

「勝手に触っちゃダメだよ…こんなのわたしたちが見たって何も分かんないよ…」

 耳元で小言を垂れるチョコが身体をぴったりと寄せてくる。反対の壁際には4℃とかマイナス80℃とかのデジタル表示が不気味に赤く浮かび、それらが時折静かに唸りを上げる度に袖を握ったままのチョコの手にビクッと力が籠る。

「ほら、何にもないってば…もういいでしょ?帰ろ?ね?」

 そんなはずはない、きっとあるはずだ…チョコの怖気が伝染りそうになるのを堪えチェリーは尚も進む。最奥にはドラフトチャンバーが壁に埋まっていて、シャッター式のガラス戸の中にはガスバーナーとクの字をした良く分からない道具と一本一本包装されたピペットとエタノールと書かれたスプレーが置かれているだけだ。これでこの部屋は一通り見たはずだが、目ぼしい物は他に何もなかった。…おかしい。ポコポコと煙を吹く緑色の培養液やその中で蠢く不定形生物やそれに繋がる無数のチューブや色とりどりの数値やグラフをでたらめに映し出すモニターはどこにあるってのよ?」

「だから漫画の読み過ぎだって。そんなの実際にある訳ないでしょ?」

 は。しまった。途中から知らぬ間に声に出してしまっていた…赤らむ顔を悟られぬよう暗闇に背けると、ドラフトの隣に入り口と同じ緑のLEDが見えた。…これだ。

「なるほど…チョコ、カード貸して」

 まんまと引っ掛かるところだった。良く考えたらそんな秘密裡な実験を誰が来るとも知れない無防備な実験室で開けっ広げにしているはずがない。この実験室はダミーだ。世間の目を眩ますために誂えた見掛けだけ凡庸を装ったただの箱に過ぎない。入れ子の奥に重要アイテムを隠すのは開発者の常套手段だ。恐らくこの扉は青柳にしか開けられないのだろう、だが鍵なら既に手に入れた、馬鹿め、それで隠したつもりか、本命はこの中だ、この扉の向こうに外界に解き放たれる日を今かと待ち構える世にも悍ましいクリーチャーが潜んでいるのだ、間違いない、この前やったゾンビゲームもそんな感じだったし!」

「もうゲームって言っちゃってるじゃん。…で、もし本当にゾンビが出て来たらどうするの?武器とか何も持ってないよ、わたしたち」

「ええい、いちいち突っ込んでんじゃないわよ!いいからカード貸しなさい!」

 渋るチョコから青柳のIDカードを奪い取り勢いのままスロットに差し込む。さっきのドアと同じように赤色ランプが灯り消える。ままよ。ここまで来ておめおめ引き返せるものか。鬼でも蛇でも出るがいい。今度はチェリーがチョコの襟首を逃げないようにがっしりと握り絞め一息にドアを押し開ける。

「……っ!何、この匂い…?」

 ドアの奥はやはり真っ暗で、それよりも開けた途端に湿気った生温い空気に包まれ、その空気が含む生臭い土臭い、肥料のような匂いに鼻を衝かれ瞬間息が詰まる。これはいよいよ…!チェリーがスマホを翳そうとすると、その腕をびっくりする程の力でチョコが引き留める。

「ねえ、チェリーちゃん、何かカサカサ言ってるよ…?なに、これ…?怖いよ…ねえ、チェリーちゃん…!」

 軽くパニックを起こしているチョコの指を剥がし、チェリーはなけなしの最後の勇気を絞り出す。バカ、あたしだって怖いわよ、でもこれはあんたの為よ、あんたの為なのよ、見なきゃあいけないの、暴かなきゃあいけないのよ、『DAMDS』の正体を…!震えるライトを邪気籠る暗闇に向けると小部屋は細く狭く人一人がやっと通れる幅で硝子戸の棚と小箱みたいな引き出しが無数に連なった背の高い棚とが左右に迫りその中から山道で落ち葉を踏むような粛然とした図書館で銘々が思い思いに頁を繰るような微かな音が漏れ出ていて辛うじて光の届く小部屋の端には移動式の実験台か何かに乗せられたガラスケースが一際目立ってライトを跳ね返しチェリーを誘う、チェリーちゃんチェリーちゃん、背中にしがみつくチョコを引き摺りながらチェリーはそのケースに魅せられたように一歩一歩近付いていく、チェリーちゃん怖いよチェリーちゃん、ああ怖いな、怖い、ケースの中に何かがいる、中指くらいの小さな細長い何かだ、でも行かなくては見なくては、チリチリカサカサパリパリという音が左から右から上から下から前から後ろからまるで5.1チャンネルサラウンド音響のように耳に肌に纏わりつき膜を貼る、その膜が恐怖心を隠し誤魔化し全ての感覚を現実世界から遮断する、映画館でホラー映画を見ている時と同じだ、ゲームプレイヤーのように俯瞰するもう一人の自分に突き動かされてチェリーは進む、背中のチョコはもう声も出ていない、翳したライトがガラス面を通り抜けケースの中心に佇む白く細長い何かを照らし出す、…みて…しまったね…、動いた、微かにでも確かに動いた、…しかたのないこたちだ…、どこからともなく声がする、カチカチと鳴る音がする、鳴っているのは自分の奥歯だと気付いたが止められない、チョコは両腕でチェリーを抱きすくめジャケットの背中に顔を埋めてくる、スマホのライトがチェリーの顔がガラスケースに寄っていく、…ならばしっかりとそのめに…、ケースの中で蠢くクリーチャーは芋虫だ、白くブヨブヨとした芋虫だ、だがおかしい、何かがおかしい、知っている芋虫の動きじゃない、形じゃない、喉の底から湧き上がってくる、…やきつけるがいい…、声が、恐怖が、隠していた恐怖が膜を破って溢れ出る、これは、芋虫なんかじゃあ、ない…!

「彼女の最期を…!」

「ぎいいいやああああああ!!!」

 壮大な悲鳴と同時に小部屋の電気が点く。部屋の入り口には腕組みをした青柳が呆れ顔で立っていて、そのほんの数メートル先でチェリーとチョコが互いに抱き合い腰を抜かしてへたり込んでいる。ガラスケースの中で歪に蠢いているのは芋虫自身ではなく、その体の膜を食い破り這い出て来ている何十匹もの半透明の蛆虫の群れだった。


「うえええ…気持ち悪ぃ…」

 プラッテの黒い化粧板の上に浮かぶ半透明の蛆虫たちに集られた真っ白な芋虫をチェリーは遠巻きにして涙目を細めている。ガラスケースを狭い飼育室から眩しいくらいに明かりの灯った実験室に移し、白衣姿の青柳貴はその中の様子を小学校の実験教室のように解説している。

「これは寄生蜂、多分サムライコマユバチに近い一種だと思うんだけど、カイコガに産卵するのは珍しいから隔離して飼ってみたんだ。ちょっと前に飼育室の天窓を開けっぱなしにしていた日があったからその時に侵入されたんだろうね。でも運が良かったよ。この子たちはほんのり中が透けて見えるからね、色の濃いスズメガやモンシロチョウだったらきっと寄生しているのに気付けなかったんじゃないかな。しかも蛹化に立ち会えるなんて…いやあ、本当に運が良い」

「どこがラッキーよ!もう最悪!ただでさえブヨブヨは無理だってのにそんなにうじゃうじゃ…ううう、よく平気でそんなの見てられるわねぇ、二人とも…」

 悪態を吐きつつもチェリーはすっぽりと顔を覆った両手の指の隙間から怖い物見たさに潤んだ瞳をちらつかせ、その度背筋を震わせる。すっかり這い出たコマユバチの幼虫たちはカイコガの五齢幼虫の体表でせっせと糸を吐き集団で一つの繭を作り始めている。青柳の隣では知世子が同じようにケースに額をくっつけ食い入るように観察している。この娘はこういうのに耐性があるらしい。

「へええ…ハエじゃなくてハチなんですね…。この幼虫全部、一匹の母蜂が産み付けた卵から孵ったんですか?カイコの身体の中で?」

「うん、そうだね。有名なアオムシサムライコマユバチだと一度に八十個ほど産むんだけど、これはもっと多そうだね。孵化した幼虫は宿主の体内で体液を吸って成長する。その一方で宿主のアオムシやこのカイコも通常通りに食餌し脱皮し成長していく。途中で死なれてはハチも困るからね、生かさず殺さずなんだ。ところが宿主が終齢幼虫になると一転していつまでたっても変態しなくなる。今度は蛹になられては困る訳だ。その間にハチたちは成長を終え、自らが変態するために宿主の体表を食い破って外に出てくる。それが今のこの状態だよ。ほら…カイコの身体を良く見てごらん、あんなに幼虫が出てきたっていうのにほとんどその痕がないんだ…不思議だろう…?」

「何をしれっとなんとかジオグラフィック的にしようとしてんのよ!そんなんで神秘な感じになんかならんから!ちょっと!こっち向けないでよチョコ!瞳を輝かせんな!」

「本当だ、全然傷がない…ほら見て、すごいよチェリーちゃん…あ、動いた!動いたよ先生!え?この子、まだ生きてるの?」

 ヒステリックに喚くチェリーを余所に無邪気にはしゃぐ知世子。世間一般では恐らく前者が大多数マジョリティに違いないが残念ながらここでは少数派マイノリティだ。解説の間にコマユバチの繭はものの数分で完成し、ふわふわした薄黄色のクッションに胴体をすっぽりと覆われたカイコを青柳は摘み上げ、生まれたての雛を扱うかのように優しく掌に乗せて心底愛おしそうに目尻を垂らす。

「そう、この子はまだ生きている…繭に指を近づけてごらん。するとほら、こんな具合に身体を振って追い払おうとするだろう?彼女には最後の仕事が課せられているんだ」

「最後の仕事ぉ?何よそれ、意味深に…」

 絹衣付きならまだましなのか、知世子に突かれ身を捩るカイコをチェリーは苦いものでも噛んだような顔で見下ろしている。

「守っているんだよ、この繭を。無防備な繭に外敵を近寄せないようにする…いや、いるんだ。さっき僕は終齢から変態しなくなると言ったね。それももちろん彼女の意志とは関係なくそうさせられている。彼女はヤドリバチに産卵された瞬間から正に操られているんだよ。どうやって操っているのかって?当然の疑問だね、手も足もない卵や幼虫がカイコの身体をロボットのように操縦できるはずもない、じゃあ一体何が?実は産卵の時母蜂は卵と一緒にウイルス粒子を宿主に注入するんだ、ブラコウイルスと言って複数の二本鎖環状DNAから成るポリドナウイルスの一種でウイルスと名乗ってはいるが普段は寄生蜂のゲノムに組み込まれていて雌蜂の内部生殖器でのみ粒子に複製される、逆の見方をすればヤドリバチの遺伝子の一部からウイルスが作られていると言ってもいい、一旦宿主体内に入ったポリドナウイルスは他のウイルスのように増殖することはない、その一番重要な役割は宿主の免疫抑制なんだ、ヤドリバチの卵も幼虫も宿主にとって全くの異物だ、放っておけば免疫反応により排除されてしまう、そこでポリドナウイルスは宿主の血球や脂肪体に侵入してアポトーシス、つまり細胞死を誘発したり宿主自身が持つ免疫抑制物質の濃度を上昇させたりする、それだけじゃない、免疫を抑制し過ぎると別の菌やウイルスへの抵抗力が弱くなるのでわざわざ抗生物質を作り出したりもする、始めに言った変態のコントロールもウイルスが前胸腺に感染し変態制御ホルモンであるエクジステロイドの血中濃度を低下させるしこの繭を守る行動も詳細はまだ明らかではないけどヤドリバチの幼虫が体外に出た後も効果が持続していることからやはりポリドナウイルスが宿主の神経叢に何らかの効果を与え続けているのだと僕は睨んで…」

「先生先生、チェリーちゃん寝ちゃってます」

 見ると涎を垂らして舟を漕ぐチェリーが知世子に揺り起こされていた。

「…んあ?終わった?ふぁ~あ…じゃ、帰るわよチョコ。まったく、結局DAMDSは何か分かんないままだし気持ち悪いのは見せられるし、完全に無駄足だったわ…」

 名残惜しそうにカイコを突つく知世子の襟を掴み、チェリーは欠伸をしながら立ち上がる。人のカードキーを盗んで勝手に侵入しておいてさらに文句まで言われる筋合いはないのだが。

「そうかい?残念だな、これから僕の研究の話だったのに…まあ、君にとってはどっちにしろ退屈な話だろうからね、しょうがないね…」

 カイコをガラスケースに戻しながら嫌みたらしく首を振る青柳の言い回しに、チェリーは舌を打ち丸椅子に座り直す。

「あによ…あんたが話したいんじゃない。それならさっさと話しなさいよ…!」

 不思議な子だ。本当は青柳の研究になんか興味がない癖に、知世子の事となると途端にムキになる。出会って間もない筈なのに何故そこまで執着できるのか。どうやら自分には理解できない感情が働いているのだなと、青柳は邪推する。だがこの子が彼女にもたらす影響は決して…悪くない。

「うん、ちょうど良い機会だ。少し時間が遅くなってしまったけど、手短に済ませるから…知世子さん、君も聞いてくれるかな?」

 青柳が白衣の襟を正し二人に向き直ると知世子は改まって拳を握り膝の上に揃え、チェリーははしたなく組んだ足に頬杖を突く。

「僕はここで抗癌ウイルス療法の研究をしている。抗癌ウイルスについては知世子さんには前に話したことがあったかな?詳しい話は置いておくけど、要は癌細胞にだけ取り付くウイルスを作って癌を退治する治療法だ。患者一人一人に対してオーダーメイドな製剤の選択が可能で、癌治療のパラダイムを変えたとも言われている。白鳳先生の精力的な活動のおかげでようやく一般的に広まって来たんだけど、実は僕も学生の頃からその研究を続けていてね、経歴だけから言えばこの分野に関しては白鳳先生よりも古株なんだ」

「下手糞な俺自慢アッピールなんか要らないから。それで?あんたが飼ってる気持ち悪い芋虫とその抗癌ウイルスとやらと何の関係があるのよ?」

チェリーは早くも飽きてきたようで、前のめりに苛々と指で頬を叩いている。

「ごめんごめん、つい話が逸れてしまうね。確かに抗癌ウイルスは世間の評判通り画期的な治療法だ、僕もそう信じている。だが、最初の製剤が開発されてから五年、未だに単剤で十分な効果を発揮するようなウイルス製剤は僕が知る限りでは得られていない。飽くまで補助的な療法に留まっている。何故か?理由は色々あるけど、一番の要因は副作用だ。現在世にある抗癌ウイルス製剤は白鳳先生のSPVも含めて全てヒトに感染能を持つウイルスをベースに設計されている。癌細胞とは言え人間の細胞に感染してその中で増殖できなければ効果がないからね、当然と言えば当然だ。だがそうなると正常細胞も破壊されるリスクが生じるし、ウイルス感染に免疫が反応してせっかく投与したウイルスが十分な効果を発揮する前に排除されてしまうことだってある。まあ、完璧な薬なんてそうそうできるもんじゃあないってことさ。そこで僕が注目しているのが、このカイコなんだ」

「あ、そっか。昆虫に感染するウイルスなら…さっき言ってたポリドナウイルスを使うんですね?」

 少し勇み足に知世子が手を打ち鳴らす。青柳もその反応が嬉しくてついおどけてパチンと指を弾く。

「惜しい。その通り、元来ヒト以外にしか感染しないウイルスなら副作用も免疫反応も起こらない。それを癌細胞に特異的に感染するようにできれば理想的な抗癌ウイルス製剤になるはずだ。でもさっきも言ったようにポリドナウイルスは宿主内で増殖することができない。それにこいつはコマユバチの遺伝子の一部という側面が強いから、ウイルスだけを単独で取り出して応用することは難しいんだ。免疫をコントロールする能力はとても魅力的なんだけどね…残念。実はそれよりもっと有用で使い勝手の良い昆虫ウイルスがあってね、バキュロウイルスと言って、主に鱗翅目、つまり蝶や蛾の幼虫に感染して梢頭病という病気を引き起こすウイルスだ。これもウイルスが幼虫を操ってウイルス粒子が飛散しやすいように樹木の梢に向かって上へ上へとさながらゾンビのように列を作らせたりするんだけど、このウイルスの最大の特徴は多角体と呼ばれるウイルスDNAを包んで保護するためのタンパク質を通常では考えられないほど大量に生産できるところにある、カイコガに感染した場合、最終的には宿主の全タンパク質の実に三分の一を多角体で埋め尽くしてしまうんだ、近年ではその強力なポリヘドリンプロモーターの爆発的なタンパク発現能力は遺伝子組み換えウイルスベクターとして抗体やホルモンの生産に使われたり宿主昆虫以外では増殖できない安全性から遺伝子治療やドラッグデリバリーに利用されたり元々はヨトウムシやマイマイガのような農作物や森林を食害する昆虫に対するバイオ殺虫剤として昆虫病理学の分野で細々と研究される対象に過ぎなかったバキュロウイルスが今や…」

「ちょっと!また脱線してるわよ。手短に済ませるとか言っといて、いつになったら肝心のDAMDSが出て来るのよ?こっちは貴重な時間を割いてあんたの死ぬほど退屈な御託に付き合ってやってんの。蘊蓄ひけらかして彼女の前でカッコつけたいか知らないけど、とっとと本題に入りなさいよ」

「か、かの…!チェリーちゃんってば、何言って…!」

 片頬を抓って必死で眠気に抵抗しているチェリーの背中をチョコが顔を赤らめバンバン叩く。またこの茶番か。話途中で腰を折られ、鼻白んだ青柳はうんざりと首を振る。

「チェリーさん…君は何か勘違いしていないかい?DAMDSって言うのは僕が勝手に名付けた知世子さんの遺伝子的な体質のことだ。克服すべき先天性の疾患ではあっても、知世子さんの細胞やDNAを使ってどうこうするのは僕の本意じゃあない。そもそも僕はDAMDSを研究対象にすることには反対なんだ」

「…は?じゃあなんであの教授や兄貴と共同研究なんかしてるのよ?あんただってチョコから血を抜いてたじゃないの」

「白鳳先生とは契約があるからね…あれは仕方なくさ。彼は研究者と言うより強かな政治家だ、下手に逆らえばDAMDSはあっという間に世間に公表されてしまう。それだけは絶対に避けなければいけない」

「でも…わたしの細胞とか遺伝子の情報が新薬の開発とかの役に立つんでしょう?先生もそう言ってくれてたじゃないですか。それなら公表してもらっても良いんじゃ…」

「いや、駄目だ」

「そうよ、あんたや頼り無い兄貴だけに任せとくより世界中で研究してもらった方が効率的じゃない。治療法だって見つかるかもしれないし」

「駄目だ」

「先生、どうしてそんな…」

「もちろん君のためだ、知世子さん」

 急に青柳が知世子に向き直り正しく真剣な顔付き目付きで言うものだから、知世子の顔は見る見る赤みを増しもうほとんど倒れんばかりに目を回す。青柳は構わずそのふらつく肩に手を置き支え、大真面目に説き諭す。

「いいかい?知世子さん。君ほどの特殊なDNAを持っている人間はこの世界で二人といない。そんな情報が世に出たら一体どうなる?君の細胞や遺伝子情報目当てに有象無象が群がり、マスコミは思慮もなく騒ぎ立てるだろう。それに相手はあの白鳳先生だ、企業に売られでもしたら君は彼のモルモット、金儲けの道具にさせられてしまう。学校には通えなくなる、友達にも会えなくなる、日本にさえ居られなくなるかもしれない。当然僕は主治医から外されこうして診察することも、会うことすらできなくなるだろう。それだけは駄目だ、君にそんな未来を選ばせる訳にはいかない、僕には君のお父さん…慧太先輩との約束がある、君が拒否しない限り僕には君を見守る義務がある。そのために僕は白鳳先生との契約を受け入れたんだ。協力はする、その代わり同意なしにDAMDSの公表はさせない、悠太もそれは分かってくれているはずだ、その契約の所為で君には辛い思いをさせてしまっているね、それは本当にすまないと思っている、でも分かって欲しい、彼に君のことを知られた以上こうするしかなかったんだ…」

「は…はい、せんせい…!」

「あによこれ。付き合ってられんわ…」

 歌劇団のように手に手を取って見詰め合う二人に呆れ果て、チェリーはこめかみを揉みつつ席を立つ。妙に勘の鋭い彼女のことだ、今の話に違和感でも抱いているのかもしれない。知世子はともかく、こんなでは彼女を納得させられそうにないが、今はこれくらいで勘弁しておいてもらおう…チェリーは腕を組み頻りに首を捻りながらプラッテの間を練り歩いている。と、その目の前で突然甲高い電子音が鳴り入り口の扉が開いた。青柳と知世子は慌てて互いの手を離し背筋を伸ばして畏まる。

「青柳、居るのか?…ん、君は?こんなところで何している?」

「はん?あんたこそ誰よ?人に名前聞くんならまず自分が名乗れっての。この病院には失礼な奴が多いわね、まったく…」

 思考の邪魔をされたのが気に食わないのか、入って来た白衣の医者に委細構わず咬みついていく。どう考えても不審者は彼女の方なのだが。

「や、やあ、小松か。ああ、この子たちは僕が担当している黒羽さんと彼女のクラスメイトだよ。毎日来てくれるから、その…たまには良いかと思ってね、実験室の案内をしていたんだ。それはそうと珍しいな、こんなところにまで…何かあったのか?」

 下品な眼つきで睨み付けるチェリーの後ろで青柳はたどたどしく取り繕いガラスケースをそそくさと脇に除ける。同期で第二外科の小松は生粋の臨床医だ。医者の本分は患者の治療にあると信じて疑わず、臨床か研究かどっちつかずの青柳はどことなく後ろめたさを感じてしまう。

「そりゃあこっちの台詞だよ。巡回していた看護師から上から悲鳴みたいなのが聞こえたから見て来てくれって言われたんだ。何やっているんだ?こんなところで」

「ああ、さっきの…。悪い悪い、何でもないよ。この子たちがちょっと驚いただけさ。でもまさかあんなに叫ばれるとは…」

「あんたがヘンな声出して脅かすからでしょ!あの状況であんなの見せられたら誰だって驚くわよ!本当に心臓止まるかと思ったんだから!」

 積もった恨みでまた人を呼ばれそうなほど騒ぎ立てるチェリーに、小松は小言も忘れて辟易ろいでいる。罵られる青柳と宥める知世子はもう慣れっこだ。

「ま…まあ、何でもないなら良いんだが…ところで青柳、今日は遅くなるのか?」

 小松が上背のある身を屈め、急に声のトーンを抑える。

「ん?…いや、今日はもう帰るよ。仕事は済んだしね。小松も終わったのなら、久し振りに一緒に飯でも行くかい?」

「いや…俺は良いんだ。だがその…もし時間があったら『エルピス』に寄ってやってくれないか?また…やってしまってな、俺では、その…」

 学生時代にラグビーで鍛えた肩幅まで縮こませ、浅黒く焼けた肌がより一層顔色を悪く見せる。なるほど、道理で…皆まで聞かずとも一切の事情を酌んだ青柳は、分かった必ず寄るよと耳元で告げ、丸めた背中を送り出す。

「外科の小松先生ですよね?リハビリの時に何度かお見掛けしました。先生と仲良かったんですね、知らなかったなぁ」

 つられて小さく溜め息を吐く青柳に気を遣い、知世子が努めて明るく声を弾ませる。

「『エルピス』って麓のカフェですよね?良かったらわたしたちも一緒に…」

「いや、君たちはもう帰りなさい。こんな時間まですまなかったね、山道はダメだぞ、もう暗いし、イノシシが出るからね、ちゃんとバスで帰るんだ、チェリーさん、知世子さんを頼むよ…」

 不服そうな二人も送り出し、青柳は一人、ガラスケースを飼育室へと運ぶ。小部屋の草食む音は絶え間なく、その静かな喧騒に呼応するかのように分厚い繭を纏った芋虫が身悶える。このカイコガはもう、己が一生を全うすることは出来ない。自らの絹を紡ぐことも純白の翅を震わすことも、仔を成し生きた証を遺すことも叶わない。彼女と同じだ。空調の当たらない奥にカートを固定し、その上にガラスケースを丁寧に据える。身内に巣喰う蟲たちに好き放題に集られ吸われ、そうとも気付かず彼等の為に命を削る。挙句身を肥やし飛び立つのは奴僕の主のみ。そんな不憫が許されようか。そうはさせない。腰を下ろして目線を合わせ、蠢く蚕に慈愛を注ぐ。彼女は一人の人間だ、彼女は何にだってなれる、蝶にだって女王にだって、それこそ神にだってなれる、その可能性と資格を有している、チェリーも言っていた、支配するのは彼女の方だ、彼女の人生は彼女が決める、操ることなど出来ようものか、僕がさせない、させはしない、それに彼女は…青柳はガラスケースにシートを被せ、見えないように覆い隠した。

 彼女は、僕のモノだ。


 銀髪にハットを乗せた老齢の紳士が会計を済ませ、マスターに礼を告げて帰っていく。笑顔で客を送り出したマスターはループさせていたCDを止め、シェードを下ろしにテラスへと出て行く。マスターの奥さんだろうか、食器を洗っていた女性がエプロンで手を拭い、ゆっくりして行ってくださいと最後の客に声を掛けそのまま奥の厨房へと姿を消す。戻って来たマスターは手書きの看板を片付け、店内の照明を絞ると洗い場の隅で黙々とグラスを磨き始めた。

『エルピス』は辨天山の麓で脱サラした中年の夫婦が営む小さなカフェだ。アルコールは置いていないが、独り身が腹を満たせるパスタやカレーの定食から軽く抓めるサンドイッチやデザートのケーキセットまで揃っている。特筆すべきはカフェにしては珍しく夜遅くまで営業していることで、そのため帰りの遅い大学病院職員たちに人気でいつも夕食時まで賑わっている。だが流石にもう閉店の時間だ。客は窓際のカウンターに唯一人、すっかり冷めたカフェラテが残るカップに手も付けず、格子戸の向こうを流れる車のライトを眺めている。

「―――お代わり、いかがですか?」

 グラスを拭き終えたマスターがテーブルのメニューを直しながら独りぼっちの客に気を掛けてくれる。…いや、早く出て行けと言っているのだ。気付かれぬように小さく息を吐き、一言申し出を断る。当てもなく居座ったところでどうなるものでもない。こんな面倒な客、迷惑なだけだ…高椅子から降り、店を出ようとコートを羽織ったところで店の入り口のドアベルが鳴り響いた。

「すみません…!まだ大丈夫ですか…?」

 息急き切って飛び込んできたのは、髪をボサボサに乱し毛玉だらけの手織りのセーターを着た、頼りなさげな小児科医だった。

「貴くん…」

 断ろうとしたマスターがその呟きに事情を察し、閉店過ぎの珍客をカウンターまで案内する。羽織ったコートを高椅子に掛けて座り直すと、淹れ立てのコーヒーカップが二つ並べられた。

「―――ごゆっくりどうぞ」

 絞った照明はそのままで、マスターはこちらの視界に入らないようレジの陰に身を隠す。止んでいたBGMがいつの間にかまた流れている。マスターの気遣いに感謝しカップに口を付ける。焦げた香りが鼻を抜け、揺蕩っていた意識が次第に模糊とした世界へと連れ戻される。隣では青柳がシュガースプーンに山盛りの砂糖をカップに入れている。

「それ…何杯入れるんだっけ?」

「…四杯」

「甘くないの?」

「甘くなきゃコーヒーじゃないよ」

 見ているだけで口の中の苦味が和らぐこの景色はいつ以来だろうか。本当は砂糖を何杯入れるかもどうやって掻き混ぜるかも猫舌なことも、実はコーヒーが苦手なことも全部覚えている。でも今はただ苦くて酸っぱい懐かしさに甘えたくて、故意とその声を聴こうとしている。

「…ここには良く来るの?」

「たまにね。間に合った時だけ。今日はラッキーだったよ」

「ふふ、本当はアウトじゃないの?」

「鶴田さ…小松さんは?」

「やめてよ。いつもの通りでいいわ、何だかこそばゆいもの。私は…そうね、ここに一人でいるのは、こんな日くらい」

「…こんな日?」

「そう。懐かしい誰かに会えそうな予感がする日。たいてい外れるんだけどね、そんな予感。でも今日は…ラッキーだったわ」

「………」

 湯気の立つカップに窄めた口で何度も息を吹き掛け、火傷しないように慎重に啜る彼の横顔を彼女はじっと見詰める。我ながら卑怯な女だ。小松はここには来ない。それは分かっていた。でも家には帰れない。今日は匂いも気配も、間取りや家具の配置までも許せそうにない。何よりそれを許せない自分を許せない。小松が来ないことを知っていて、代わりに彼に頼ることさえ期待して、こんなところで果ての知れない孤独を享受している。大人ぶった振る舞いをしているつもりで身勝手に我が侭を撒き散らす。まるで駆け引きも知らない少女だ。そんな女に振り回され、それでもこうして隣に居てくれる青柳に彼女は嘗ての面影を探そうとしてしまう。脂っ気のない乾いた髪。一生懸命に話題を探す朴訥な口振り。今も蚕を飼っているのだろう、染み着いた桑葉の匂い。唯一受け取ってくれた、毛玉だらけのプレゼント…

「…まだ痛むのかい?ちゃんと診てもらった方が…」

 彼が遠慮がちに横目で見返し、気遣わしげに眉をひそめる。知らず知らず青痣の浮かぶ腫れた左目を庇ってしまっていた。上手く隠したつもりだったんだけどな。滅多にしない下手糞な厚化粧じゃ、彼の目は誤魔化せなかったようだ。

「うん…平気。大したことないもの。…彼は何か言ってた?」

「いや…その、すごく…反省していたよ、謝りたいって…」

 反省、謝罪…プライドの高い小松のことだ、付き合いの長い同僚にそんな弱みなど見せられはしないだろう。言葉を濁したのは彼の優しさだ。不器用な励まし方もまた、褪せない思い出の一つ…

 小松と結婚して六年が経つ。結婚生活そのものに不満はない。夫は大学病院の外科医で主流の派閥に属し、上長からの信頼も篤く順調にその地位を高めている。自分も同じ病院に看護師として勤めていて、先日チーフに推薦され幾人か後輩たちの指導を任されるようになった。お互い忙しくも充実していて、夫は積極的に家事を分担してくれ、朝晩の短い時間でも極力一緒に過ごすようにしている。郊外に思い切って新築した一軒家は職場からは少し遠いが、同世代の家族が多い新興の住宅地なら近所付き合いにもストレスを感じないで済む。戸建ての敷地を抑えて広く採った庭に家庭菜園用の畑を拵え、休日には近所の子供たちを誘い季節の野菜や果物やハーブや花を摘んだり、夫は夫で少年団に請われミニラグビーの指導をしたりしている。義父母は車で一時間ほどの都心で開業医をしているが、必要以上に干渉してくることはなく、会う度に出来過ぎた嫁だと褒められるので寧ろ恐縮頻りだ。故郷の両親も健在で、盆正月に会いに行けば姪っ子たちも揃って盛大にもてなしてくれる。二人とも物欲は少なく、たまに一泊の温泉旅行に行くくらいで浪費とは無縁だ。既に住宅ローンも残り僅かで、将来の貯えも心配ない。傍から見ればきっと理想的な夫婦で、理想的な人生なのだろう。自分でもそう思う。ただ不満があるとすれば、子宝に恵まれなかったことと、夫の酒癖だけだ。そしてそのたった二つの不満が、順調すぎるほどに築いてきた円満な家庭を無に帰そうとしている。

「嘘…。昨日からずっと謝ってしかいないのよ、あの人。もう聞き飽きたわ…」

 昨晩、小松は妻を殴った。初めてのことではない。小松は酔うとプライドが剥き出しになり、時に暴れる。その癖を知っている者は多くはない。普段は知人との飲み会でも部署の付き合いでも全く飲まないからだ。家でも滅多に飲むことはなかった。彼の両親さえ知らないだろう。だが飲めないのではない。飲まないようにしているだけだ。最初は結婚して一年目、彼の誕生日のことだった。喜ぶだろうと買っておいたワインを丸々三本開け泥酔した小松にそろそろ子供が欲しいねと一言零すと突然罵られ圧し掛かられ着ていた服をずたずたに裂かれ、彼が意識を失い潰れるまで平手で拳で何十発と殴られた。彼女はそのまま鼾をかく小松の横で一晩泣き通した。自分の何がいけなかったのか、何度考えても分からなかった。翌朝、素面に戻った小松は床に額を押しつけて謝った。何も覚えていない、何故そんなことしたのか分からない、全て自分の責任だ、もう二度としない…彼女は彼を許した。だが彼女はもう彼を信じられなくなった。きっと彼は全部覚えていてどうして殴ったかも分かっていて責任など感じていなくて、きっとまた同じことを繰り返す。小松は約束を守りしばらくは一滴も酒を飲まず、寝る部屋も別々に分けた。流行りの時計やバッグを贈ったり旅行に誘ったり、あの手この手で懐柔を図ってきた。顔の傷は癒えても心の傷がそんなもので癒えるはずもなく、表面上は仲良く装っていても家の中では最低限の余所余所しい会話しか交わされない日々が何か月も続いた。それでも彼女は月に一度、小松に抱かれることだけは拒まなかった。子供が欲しかった。子供ができれば何かが変わる。彼のことを考えないで済む。朝ベッドの上で彼の顔を見ないで済む。二人には、この家には子供が必要なのだ。彼もきっとそれを望んでいるはず…だが子供はできなかった。産婦人科に行き、本も売るほど買い込み、受胎に良いと言われることは片端から何でもした。食事を管理しホルモン量を調べ尽くし妊活セミナーにも通い詰めたが駄目だった。嫌がる小松を説得し人工授精も行った。その晩、小松は二度目の深酒をして帰って来た。玄関口で眠り扱ける小松の肩を担いでいたのは青柳だった。唇に血を滲ませていた。青柳は何も言わなかったが、小松が店で暴れ暴力を振るったのは明白だった。明くる日産婦人科に呼ばれ、検査結果を聞かされた。小松は突発性造精機能障害、つまり無精子症だった。合点がいった。小松は知っていたのだ。子供の話題に過剰な反応を示したのも不妊治療に非協力的だったのも夫婦の関係を保つのに躍起だったのもそのためだったのだ。知っていて尚セックスを続けていたのは一縷の望みに賭けたのかただ肉欲に従っただけなのかは知らないが、全ては徒労に終わった。小松はまた謝った。約束を違えてすまない、黙っていてすまない、必死なお前を見ていると言い出せなかった、もう二度としない…彼女は彼を許した。謝られてもどうなるものでもない。もう希望は無くなったのだ。別れるという選択肢もあっただろう。だが彼女はそれを選ばなかった。忘れようと仕事に打ち込んだ。新居に気を紛らわせた。仲睦まじい夫婦を装いせめて世間体だけは見栄え良くしようとした。そんな充ち足りた生活と空虚な感情とのギャップに彼女の心は次第に疲れ、同時に小松の酒と暴力も増えていった。その度に小松は謝り、その度に彼女は許した。やがて疲れ切った彼女は職場で倒れ、初期の鬱病だと診断された。小松にも家族にも告げず、同僚には貧血だと偽り、隠れてカウンセリングを受けトランキライザーに頼り、それでも彼女は醜い痣を腫れた瞼を化粧で隠し、理解ある良妻を演じ続けている。小松を愛しているのか?その答えは自分の中にはない。だがこれ以上彼に何を求められようか?これは罰なのだ。遠い昔、自分の本心に嘘を吐き思考を止めた、自分自身への罰だ。

「……すまない。僕が止めなければいけなかったのに…」

 ソーサーにカップを置き、彼はまるで自分が殴ったかのように視線を合わすことなく首を垂れる。

「どうしてあなたが謝るの?」

「君が暴力を受けるのは分かっていた。それに…君に小松を紹介したのは僕だ」

「…馬鹿ね。あなたのそういうところ、嫌いだったわ…」

 嫌い、と言って張り詰めていた気がほんの少しだけ楽になる。嫌い、と言われた青柳は面目なさそうに頭を掻いている。おかしなことだ。でもそんなところが…彼女は懐かしく心地の良いリズムに思いを馳せようとして、止めた。今更追憶に浸ることなど許されない。それも私に課せられた罰だ。それに、格子戸の向こうに立ち止まり、じっとこちらを見遣る一組の制服が見えたからだ。

「…いいの?行ってあげなくて」

 灯火の少ない街路からなら薄暗い店の中の様子も見通せるのだろう。どぎつい髪色の、見たことのない制服を着た小さい方が怖い顔で歩み寄ろうとするのを、片腕を吊り杖を突く、母校の制服を着た大人しそうな黒髪の子が身を挺して止めている。あの子が噂に聞く黒羽家の子か。病院で何度か見掛けたことはあるが、今も青柳の患者だったのか。

「あ…いや、大丈夫…。来なくていいと言ったのに…」

 青柳は気付いていない振りをしてこちらに顔を背ける。その仕草が彼女の悪戯心にほんのりと火を点けた。そう…今のあなたを振り向かせることができるのは、私ではなくあの子なのね…。横目で外の二人を捉えながらさり気なく彼に向き直り、数センチだけ鼻先を近付けて見せると、彼は慌てて頤を引っ込める。案の定、桃髪の小さい子がヒステリックに暴れ出し、健気な黒髪の子はこちらを見ないようにしながら吊られた腕で暴れる子供を抱きかかえ、街灯の向こうへと連れ去って行った。

「…ごめんなさい、つい。でも愛されているのね、羨ましい…ちょっと嫉妬しちゃった。もちろんあの子にじゃなく、あなたにね」

「そんなんじゃあないよ、君も知っているだろう?彼女はただの昔馴染みの担当患者で…いや、参ったな…」

 まるで思春期のように初心に汗をかく額を拭おうと青柳はポケットに手を突っ込み、取り出した手にはハンカチとリボン付きの封筒が握られていた。

「それは?」

「ああ、そうだった。これを渡そうと思っていたんだ。気晴らしにどうかと思って…」

 見覚えのある封筒は母校の学祭のチケットだ。あの子の招待だと言うのは容易に想像がつく。これ幸いと押し付けて来る青柳の腕を、彼女は頑なに諫め押し返す。

「ダメよ、あなたが行かなきゃ意味がないじゃない。あの子がどんな想いでそれを渡したと思っているの?酷い人。それに私は清香のOBよ。チケットくらいいくらでも手に入れられるわ」

「え、それじゃあ…」

「今週末だっけ?どうせ一人で行くのが怖いんでしょう?是非お招きに預からせていただくわ。あなたと一緒にね。気晴らしにはならないでしょうけど、彼女には謝らないと」

 ハンカチを額に当てつつ、青柳はほっとしたような困ったような複雑な顔をしている。少しは昔の女だという意識を持ってくれているようだ。肌を合わせたのは唯の一度きりだが、その時のざわざわとした気色の悪い温もりが、彼女の二の腕や太腿辺りに蘇る。

「う…君も忙しいだろう?一緒にとか、その…無理しなくていいんだよ?千春さん…」

「あら、私にも恥をかかせる気?これは戦争なの。あの子にとっても、私にとってもね。あなたはそうやって他人の心に住み着くけれども、いつまでも『いい人』ってだけではいられないのよ?…そう、あなたの愛する蚕と蜂のように」

 カップを手に取りまだ舌に熱いままのコーヒーを、小松千春は一息に飲み干した。

「いつかは宿主を滅ぼすの」

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