第2話 支配

 今日は一段と日差しがきつい。麦わら帽子の鍔を上げ、彩付き始めたコナラの枝葉の合間から覗く高く澄んだ空をちらりと見上げ、またすぐに鍔を下ろす。

 暦の上ではもう冬のはずなのに、ここ一週間は上着のいらない好天が続いている。小春日和とは良く言ったもので、ぽかぽかとした陽気に各地でソメイヨシノが狂い咲いているそうだ。秋に咲いてしまったら来年の春にはもう咲かないのだろうか。咲かせる花がなくて困っている桜を想像し、可笑しくなって一人で笑ってしまう。

 麦わら帽子の主は紺色のカーディガンを羽織った女の子だ。襟元には地元の私立高校の制服のリボンが覗いている。片手で腰高の杖を突き、ケヤキやカエデやアカメガシワなどの落葉高木に挟まれた九十九折りの山道をひょこひょこと踊るように登ってくる。訊ねずとも彼女の脚に障害があるのは瞭然で、十歩ほど歩いては立ち止まって息を整え、頭上で囀る鳥や足元に咲く花に耳目を休めている。ひとしきり愛でたらまたひょこひょこと歩き出し、珍しいマルハナバチや遅咲きのリンドウを見つけてはまた立ち止まる。舗装されているとは言え、あちこちひび割れ落ち葉や枯れ枝の溜まった坂道は健常者でも爪突き滑るのに、彼女の足取りは楽しそうに軽やかで、遅々として進まないように見えて確実に一歩ずつ頂上へと近付いていく。

 山道も中腹に差し掛かる頃、女の子は足を止め、鍔広の麦わら帽子の下で眩しそうに目を細めた。そこは木々が途切れ視界が大きく開けた緩いカーブで、ハイカーが一服寛ぎながら眼下の景色を愉しめるよう、木造りの東屋の下にベンチが置かれた展望台になっている。この上天気なら絶好の眺望で、麓に広がる色とりどりの街並み、雄大に水を湛える川の流れ、パッチワークのような田畑の原風景に、その向こうには大都市の摩天楼が霞んで見える。景色を邪魔する峰や構造物のない真っ平らな扇状地の眺めが二百度の視野を超えて一杯に広がり、道程の疲れだけでなく日頃の悩みまで癒し、忘れさせてくれる。

 日はまだ十二分に高い。暫しベンチにもたれ、陽だまりで滲んだ汗を乾かしたとしても日暮れにはほど遠い。それに人通りのないこの閑道。誰に気兼ねすることなく景色を堪能できる。それなのに彼女は木陰に沿って東屋の裏手まで廻り、ベンチの奥の落ち葉の積もった斜面に腰を下ろす。せっかくの見晴らしには目もくれず、それどころか柔らかな木漏れ日さえも忌み嫌うように帽子の鍔を目深に下げ、そのまま瞼を閉じてしまった。

 丘に吹く秋風は冷やっこく、火照った頬には丁度良い。スカートが汚れるのも構わず両足を投げ出すと、乾いた落ち葉が厚目のストッキングを通して膝裏やふくらはぎをちくちくとくすぐる。彼女は握っていた杖を脇に寝かせ、手袋をはめた両手をちょこんと腿に乗せて鼻からゆっくりと息を吸い込む。冷たい空気と一緒に、焦げ酸えた土の匂いが肺胞の隅々にまで行き渡る。このお尻の下ではダンゴムシやヤスデが枯葉を食べ、その食べ残しをダニやトビムシやセンチュウが細かく砕き、彼らの屍糞を無数の微生物たちが土壌に還していることだろう。命の巡る匂い。彼女はこの秋の匂いが大好きだった。ふかふかの腐葉土をせっせと耕すミミズたちを思い、また可笑しくなってフフッと笑う。風が草木をさやさやと揺らす。目を閉じたままその音に耳を傾ける。キョッキョと鳴くアカゲラの声。虫の羽音。かさかさと擦れる落ち葉の音…

 ―――コトン。

 何かが落ちてきて鍔に当たった。帽子を押さえて仰ぎ見る。頭上には立派なミズナラの枝が無尽に張り出し、落ち残ったギザギザした葉が空を隠している。彼女は地面に目を戻すと、一つ木の実を拾い上げた。ドングリだ。今の風が落としたのだろう、思わぬ贈り物に目尻を垂らし抓んだ指の間で遊んでいると、またいくつか降ってきた。

 ―――コトン、コト、コトン、

 もしかしてリスが来ているのかも…可愛い悪戯をする姿に淡い期待を込め、もう一度ミズナラの木を仰ぎ見た。するとそこにはリスではなく、クマがいた。

「……何してるんですか?」

 彼女はいつの間にか頭上に現れていた、枝の隙間に引っ掛かってもがいているスカートを履いた小動物に声を掛けた。スカートはものの見事に捲れ上がり、クマのキャラクターがプリントされた可愛らしいパンツが露わになっている。

「見りゃ分かるでしょ!困ってんだから!助けなさいよ!」

 意外にも流暢な強い言葉で、至極真っ当な答えが返ってきた。複雑に絡まった枝に両腕とも袖が引っ張られ万歳をした恰好になっていて、片足は伸び、片足は畳まれ、背中越しのシルエットだけでも進退窮まっているのが良く分かる。ただ、どういった経緯でその状態に至ったのかは見ただけではとても分からないが。

「は、はい、すみません、気付かずに…どうしたらいいですか?」

 仰ぎ見たまま杖を支えによたよたと立ち上がる。が、立ち上がってみたものの何をしてあげたら良いのかさっぱり分からない。なにせ困った小熊は手を伸ばしたところで半分にも届かない遥か上空にいるのだ。

「なんであたしに聞くの!そんなの自分で考えなさいよ!こっちは身動き取れないの!」

 小熊がもがく度にまだ青いドングリまでポトポト降ってくる。もっともなようで理不尽な叱責にも彼女は何とかしてあげたいと思うのだが、細い腕と弱い脚ではとてもこの悲惨な状況を打破できそうにない。

「え…と、分かりました、ちょっと待っててください、呼んできますから!」

「……え?ど、どこ行くのよ?呼んでくるって?」

 彼女が杖を突きつつ急いで来た道を引き返そうとする気配を背中で感じたのか、小熊が慌てて引き止める。

「はい、ここは電波が入らないんで、麓まで戻って助けを呼んで来ます!近くに消防署があるのでもう少しだけ辛抱してください!」

「ちょ、ちょっと待って!言ったでしょ、あたし今身動きが取れないんだけど…」

「はい、ですから急いで助けを!」

「そうじゃなくって!いや、その、デ、デリカシーってもんがあるでしょうが!こ、こんな格好、人に見られたら…わぁっ!」

 慌てふためき無理に暴れた拍子に小熊のお尻が枝の隙間から抜けそのまま真っ逆さまに落ちてきた。受け止める暇などなく、彼女は大事を予期して思わず目を瞑る。ボスッ、と低くくぐもった音。びくびくしながら片目を薄く開けると、逆立ちした両足が地面から生えていた。幸運にも小熊はちょうど落ち葉が搔き集められ堆く積もった小山の上に落ちたようだ。柔らかな落ち葉のクッションに頭から突っ込み胸まで埋もれ、ミステリー映画のワンシーンみたいな格好で固まっている足を心配して近寄ると、我に返ったのか突然足が暴れ出した。良かった、どうやら無事みたいだ……安心したのも束の間、今度は林道から話し声が聞こえてきた。しかも家族連れだろうか、子供のはしゃぐ声までする。なんてタイミングの悪い。この時間、この道で行き交うことなんて滅多にないのに…彼女はじたばたと暴れる足を後ろ手に押さえ、背中で必死に隠す。

「こんにちはー」

 先頭のお父さんが爽やかな挨拶を送る。ハイカーの鏡だ。後に続く二人の子供たちとお母さんも、口々にこんにちは、こんにちは、と元気な挨拶をくれる。

「こ、こんにちはー…」

 彼女は背中を膝で散々蹴られながらも笑顔でやり過ごす。爽やかハイキング一家はまた家族の会話に戻り、何事もなく麓へと下っていった。

「ふう、危なかった…」

 彼女は縛り付けていた手を離し、冷や汗を拭う。

「さすがに、子供達には見せられないもんね…もう大丈夫ですよ」

 落ち葉の山から突き出た足の根元は当然スカートが重力に負けて捲れ、しわくちゃのクマがあられもなくご開帳されてしまっている。小熊の貞操の危機を何とか守り切り彼女が胸を撫で下ろして振り返ると、あんなに暴れていた両足も安心したのかパタリと地面に倒れ、そのまま動かなくなる。

「……はっ。いけないいけない」

 ピクリとも動かない足にようやく事態を理解した彼女は落ち葉の山から無事、虫の息の小熊を救出した。


「まったく…生き埋めの人間を押さえつけるとか、一体何考えてんのよ…」

 落ち葉の山から出てきたのはエキゾチックな顔立ちの少女だった。肌は白く、瞳も薄く碧く、明らかにアングロ・サクソンの血を引いている。さらに目を惹くのは、金髪に赤毛の混じった髪色だ。ただでさえこんな片田舎の山道には似合わない容姿なのに、少女は展望台のベンチの上でやさぐれた中年男のように片方の足首をもう片方の腿に乗せ、ぶつぶつ文句を言いながらピンクのショートヘアに絡みついた落ち葉や小枝を一つ一つ丁寧に取っている。

「すみません、隠さなきゃいけないと思い込んで、つい…」

 麦わら帽子の女の子がその後ろでペコペコと頭を下げている。態度はともかく、背丈からも発育具合からも桃髪少女の方が年下にしか見えないが、きっと彼女は誰に対してもそうなのだろう、ずっと敬語を使っている。

「そんなの構ってる場合じゃないでしょうがいや構うよ?構うけども!」

 少女が振り向き声を荒げ一人で盛り上がる。少女もブレザーの制服を着ているが、見たことのないデザインだった。県外の中学生か、もしかしたら小学生か、それとも見た目の通り海外の学校の子なのかもしれない。いずれにしてもその短すぎるスカートに、今時の子は大胆だな、と自身の膝丈のスカートを見下ろしながら彼女は思った。

「…ま、いいわ。とりあえずケガもなく済んだし。今回は許してあげる。それはそうと、あんた清香学院の人でしょ?行き方教えてくんない?あたしそこに行きたいのよ」

 少女は手首を返して親指で彼女の制服を指差して言う。そうか、下見に来たのかな。彼女の通う清香学院は県下でも有数の進学校だ。年末からの受験シーズンに先駆けて、この時期は受験生たちが何組も見学に来ている。まさかこの子が来年受験する訳ではないだろうが、将来を見据え早目に高校から大学まで決めておくのは良くあることだ。

「はい、もちろん!この道を下りると消防署の先にコンビニがあるので、そこを左に…」

 未来の後輩だと思うと嬉しくなり、先輩に対する生意気な口の利き方など気にもせず懇切丁寧に道順を教える。迷わないよう少女のスマートフォンにランドマークをいくつかメモまでしてあげた。が、少女はメモされたスマホを腕を伸ばして遠目に眺め、気に入らないかのように眉をしかめている。

「何よ、案外遠いじゃない…見えなくって当然だわ。せっかく木にまで登って探したってのに…ま、いいわ。下りたらタクシーでも拾うから」

 少女は身も蓋もないことを言い、あっさりとメモを消去しスマホをポケットに戻してしまう。流石の彼女もがっくりと肩を落としてうな垂れる。木になんか登らなくても、展望台ここから住宅街の中に伸び出た校舎がはっきり見えてるのに…

「さて、と。じゃあそろそろ行くわ。こんな所にいてもしょうがないし」

 少女はベンチの背をわざわざ跨いで乗り越えると、彼女の肩までもない背を目一杯反らせて投げるように右手を突き出す。何のことか分からず、彼女が不思議そうに見詰め首を傾げていると、その手はすぐに苛々と揺れ始めた。

「何してんのよ、握手でしょ、握手!恥かかせる気?」

「え?あ、ああ!ご、ごめんなさい!」

 そんな素直な行為がもらえるとは思っていなかった彼女は、慌てて両手で力一杯握り返してしまう。

「あたた!何なのよ、もう!なんかあたしに恨みでもあるわけ?まったく…いくら習慣がないからってこのくらい常識でしょう?バカじゃないの?それにいつまでその古臭い帽子被ってるつもり?人に挨拶するときくらい取りなさいよ」

「あ、これは…」

 押さえようとした手の下から目深にしていた麦わら帽子が強引に奪い取られた。鍔の陰に隠れていた素顔がちらちらと揺れる木漏れ日の中に晒される。さらさらの黒髪にぱっちりとした瞳はくるくると良く動き、控えめな鼻梁とふっくらと丸い頬に、困ったように垂れた眉端と口角…幼さの残る可愛らしい容貌はしかし、額から左の眼窩を通りこめかみにかけてと、右の鼻翼から耳下を抜け首の半分と襟元の奥にまで、痛々しい赤黒い瘢痕が仮面のようにその顔の大半を覆っていた。彼女は咄嗟に顔を背け、引き攣り皺の寄った肌を恥じるように両手で隠す。

「ごめんなさい、汚い顔で…そんな、見せられるものじゃないですから…」

 しかし少女はその庇う手を払い除け、伏せようとする顎を無理矢理掴み上げる。

「なんで隠すのよ?ほら、しっかり見せなさい。ふん、本当に汚い顔ね。でもマーブル模様で分かりやすくていいじゃない。あたし人の顔覚えるの得意じゃないから助かるわ。どうしてこんなになっちゃったのよ?え、火傷?紫外線?酷い日焼けってこと?生っちょろいわねえ、そんなくらいで。それにあんた、脚も悪いんだっけ?生まれつき?まったく不便な身体してんのね。どうせモテないんでしょ?あによ、冗談よ、そんな顔で落ち込まれたらこっちまで気分が暗くなるじゃない。ほら、下向くな!」

 どこまで本気でどこまで冗談なのか。ついさっき出会ったばかりのこの名も知らぬ少女は、普通なら聞くのも憚られるようなことまで躊躇も遠慮も礼儀もなくずけずけと踏み込んでくる。確かに彼女は障碍者だ。生まれた時からこの身体しか知らないが、みんなと一緒に太陽の下で走り回れないのは世間一般からしたらきっと不便に違いない。だからいつもみんな優しくしてくれる。電車に乗れば席を譲ってくれるし、階段を昇れば荷物を持ってくれるし、特に困っていなくても何かと助けてくれる。それが善いとか悪いとか、有難いとか迷惑だとか、そんなモラリストが喜びそうな話は今はどうでも良い。この少女は彼女自身ほとんど諦めているケロイドを汚くて覚えやすい顔だと言い、杖なしでは真っ直ぐに立てもしない脚を不便で面倒な身体だと断じる。彼女にはそれが新鮮で、嬉しかった。平気で人を罵り、蔑み、冗談だと言い切るその感覚が羨ましかった。

「―――知世子……私、黒羽知世子って言います。おっちょこちょいだから、みんなからはチョコって呼ばれてます…!」

 気付けば彼女は顎を掴む少女の手をもう一度、今度は優しく柔らかく握り絞めていた。

「は?誰も聞いてないわよ、あんたの名前なんか」

 冷たい返事。彼女はそれでも湛えた笑みを崩さない。

「はい、でも嬉しくって……あの、ありがとうございました」

「何であんたが礼を言うのよ、助けたのはあんたの方でしょ?…変な奴」

 面倒臭そうに手を振り解き、そのまま麓に向かってスタスタと歩き出す。チョコは残念そうにその背中を見送る。呆気ない別れ。どうして名乗ったり手を握ったりお礼を言ったりしたのか、自分でも良く分からない。ただ、今の気持ちを簡単に表すとしたら、自分はこの子と友達になりたかったのだと思う。段々と遠ざかる背中に小さく手を振り、麦わら帽子を目深に被り直す。私もそろそろ行かなきゃ…片手で杖を突き、日陰の道を行こうと目を上げた時、九十九折れのカーブの先の、丁度見えなくなる手前で少女が立ち止まりこちらを向いていた。

「チョコだっけ?…いいわ、覚えといてあげる。ま、忘れようにも忘れられないけどね、そんな変な顔と名前」

 麓からの風に乗って少女の声が届き、彼女の顔に満面の笑みが戻る。

「あなたは?」

 少女に見えるように頭の上で手を振り、精一杯声を張る。少女は頬に手を置き少し考え、その手を肩の辺りでひらりと翻すとカーブの向こうへと消えていった。

「そうね…もし次に会ったら、チェリーって呼んでもいいわよ」

 チョコは暫くの間、見えなくなった少女の背に大きく手を振り続けていた。


「知らない制服?」

 カーテンの隙間から射し込む西日がほんのり赤みを帯び、そろそろ夕陽に変わろうとしている。液晶モニタに掛かり始めたその光線を邪魔臭そうに、よれよれの白衣を羽織った医者が元々細い目を更に細めてキーボードをタイプしている。

「そう、ボタンがダブルの山吹色のブレザーにタータンチェックのスカートで、赤いリボンもすごく可愛いんです」

 医者の側の丸椅子に腰掛けた黒羽知世子は、自分の制服のボタンを閉めながらさっき出会った少女の話をしている。看護師たちはとっくに本来の持ち場に戻り、診察室は医者と知世子の二人きりだ。壁際のハンガーにカーディガンが掛けられ、鍔広の麦わら帽子はベッドの上に置いてある。

「肌が真っ白で瞳も碧くって、で、聞いてください、髪の毛がピンクなの。びっくりでしょう?たぶん、いや絶対あれ染めてない、地毛だと思う。あんな子初めて見ました、本当にお人形さんみたいだったんですよ、そう、『お人形さんみたいな子』って画像検索したら真っ先にヒットしそうな…ホントですよ?」

 胸のボタンを閉め終えた知世子は、モニタに向かったままの医者の視界の端に入るように身を乗り出す。慌ただしい外来の診察や検査の余韻なのか、夕方の診察室には何となく気怠い空気が漂うものだ。でも今は、大袈裟な身振りまで交え珍しく興奮して喋る彼女のおかげでそんな雰囲気も霧散してしまう。

「あんな可愛い制服の中学校なんてあるのかなぁ、でもパンツ…じゃなくって、スマホは使い慣れてないみたいだったし、背も私より低かったし、やっぱり小学生なのかなぁ…ね、どう思います?ヤギ先生」

 知世子は顎に人差し指を当て、天井を見上げて考え込んでいる。学生時代など遠い記憶の彼方で、病院と寝床を往復するだけの生活をしている一介の勤務医が今時の学校の制服事情に明るい筈がない。彼女もそんなことは分かって訊いている。要はただ暇潰しに、他愛のない会話をしたいだけなのだ。モニタ上の時計を見ると、そろそろ病棟回診の時間が迫っている。だがヤギ先生と呼ばれた医者はとりわけ急ぐでもなく、タイプの手を止めてのんびりと知世子に向き直る。

「それは…きっとあれじゃないかな、トリックスター」

 決して暇な訳ではない。かと言って邪険に扱う理由もない。それに今日はちょっと良いこともあった。だから彼も思いつくまま、この戯れに付き合うことにした。

「トリックスター?」

「そう、妖精パックなんだよ、その子は。こんな小春日和だから、ヴァルプルギスの夜宴の頃だとでも勘違いして出てきたのさ」

「パックって、シェークスピアの?確かに悪戯好きそうだったけど…でも私、うたた寝なんてしてないし、あの子は夢なんかじゃないよ?」

 知世子は小鳥が囀るように口遊み、楽しそうに身体を揺らす。

 

 もし影法師がお嫌いでしたら

 こう思われれば気も晴れましょう

 うっかり今は眠ってしまい

 すっかり夢を見ていたのだと

 

 歌いながら知世子は右手首のボタンを外し袖を捲り始めた。その仕草に医者の顔色が曇る。彼女は体調が悪い訳でも定期検診に来ている訳でもない。学校帰りの日課として病院に立ち寄り、ついでに馴染みの医者の所に顔を出し、さらについでに毎日変わりもしない具合を診ているだけだ。本来無用なはずの採血を、しかし彼女は自ら催促するかのように華奢な腕を剥き出していく。顔面から続く痛々しい瘢痕はその腕にも蔓延り、肘先から手の甲まで斑に赤黒く染めている。瘢痕の下の血管は視認が困難で、壊死した皮膚は注射針の刺し傷を塞ぐことができない。必然、採血可能な箇所は限られるが、採血用の枕に乗せた色素の薄い肌の肘裏には、透けて見える青緑の静脈に沿って治り切っていない針痕がいくつも並んでいる。数日の間に何度も刺入した証拠であり、刺したのは他でもない医者自身だ。これ以上刺す隙間のない針痕に、医者の顔色が曇る。

「どうしたんですか?ヤギ先生」

 知世子は再び身を乗り出し、寧ろ待ち焦がれるように医者の冴えない顔を覗き込む。血を抜かれることなどまるで苦にしていないその無邪気な瞳を見返すことができず、医者は努めてさり気なく視線を外す。

「いや…良く覚えているなと思ってね、エピローグの口上なんて…」

「そうなの!毎日みんなの練習見てるから覚えちゃった、わたしたちのクラス、今度の清香祭で、あ、うちの学祭のことですけど、シェークスピアをやるんです、『真夏の夜の夢』。ヤギ先生こそなんで知ってるの?あ、そうか、わたし話しましたっけ?えへへ、結構上達してきたんですよ、台本もやっと出来上がって、音楽も決まって、みんな台詞も覚えて…わたし?わたしは出ないよ、みんなの足引っ張っちゃうもん、裏方で音楽のスイッチとか緞帳の上げ下ろしとか…でもみんな演出家とか監督とかって呼んでからかうの、役割ももう決まってるのに、ひどくないですか?…あ、でも脚本もちょこっと手伝ったの、本当にちょこっとですけどね、ほとんどシューちゃんが書いてくれたんだけど、最後の場面をどうするかすごく悩んでて、そこだけ一緒に考えて書かせてもらったの、え、自信なんてないですよ、シューちゃんたちは褒めてくれたけど…でも上手くいくといいなぁ、結婚式と最後の挨拶…そうだ、先生も見に来ませんか?チケットがあれば誰でも入れるんで、色んな出店とか吹奏楽部のパレードとかクイズ大会とか、将棋のプロの棋士が来てくれたり、移動動物園とかもあって、楽しいですよ、絶対、ね、先生も来てください、明日持って来ますね、チケット…」

 気の進まない医者を励ましてくれているのか、知世子は引っ切り無しに会話を繋ぐ。医者は投げ遣りに溜め息を吐き、引き出しから個包装されたシリンジと灰色の注射針を取り出して組み付け駆血帯で制服の上から上腕を縛り針痕の並んだ肘裏の静脈を指先で探りアルコール脱脂綿で消毒しなるべく古い針痕の上からほとんど皮膚と平行に刺入した。瞬間、彼女の口元が歪むがすぐにまた一人で喋り続ける。真空採血管は使えない。ただでさえ血管が細く、注射針は通常は皮下注でしか使わない27Gのショートベベルで、しかも針先の長い特別製だ。被検者への負荷が少ない代わりに、勢い良く吸引すると簡単に溶血してしまう。この子から採血できるのは自分くらいだろうな…そう思いながら医者はごくゆっくり時間をかけてシリンジを引き、ぴったり10ミリリットルの血液を採取した。

「ね、先生、いいでしょう?」

「え?あ、うん、もちろん…」

 EDTA入りの採血容器に血液を移し混和しているところをまた下から覗き込まれ、ついおざなりに返事をすると知世子は喚声を上げ刺し傷を押さえるのも忘れて手を叩いている。どうやら彼女の高校の文化祭に参加することを承諾してしまったようだ。彼は祭りとかイベントとか、そういう賑やかな場所は正直苦手だ。彼女以外知った顔もいないし、三十代半ばのだらしない男が若者で溢れるキャンパスの中を当てもなく一人でうろついている姿を想像してうそ寒くなったが、小踊りして喜ぶ彼女にそんなことを伝えてももはや無駄だろう。どうにか用事でも作って体良く断れないものかと思案していると、診察室のドアがノックされた。

「おや、今日は随分と盛り上がっているね、お邪魔だったかな?青柳先生」

 入って来たのは共同研究をしている薬学部教授の白鳳だった。イタリアンブランドのダークグレーのタイトなスーツを着こなしプラチナ製の細眼鏡を掛けた、青柳とは対極のスタイルをしている。黒羽知世子の血液サンプルの採取を依頼したのは彼であり、それを受け取りに来たのだ。

「いえ、ちょうど今採血が終わったところで…これで最後ですよね?」

 青柳が念を押しながらチューブを渡すと、白鳳は紅く淀んだサンプルを手の中で二、三度転がし、ええこれで予定の分は揃いました、ご苦労様です、と二人を労う。青柳は分からないように苦々しく首を振る。彼女にとって全く必要のない採血だ。それどころか身を切り売りするような行為は本人が気にしなくともこっちの気が進まない。そんな思いを知ってか知らずか、袖が捲れたままの知世子は回る椅子ごと振り返り、診察室を出て行こうとする白鳳を引き留める。

「白鳳先生、先生も来ませんか?清香祭」

「ほう、セイカサイ?何の話かな?」

 よっぽど嬉しかったのか、知世子は普段は会っても自分から話すことのない白鳳まで誘っている。白鳳はこの病院の所属する大学でも特に著名で、その分野では世界的にも名が知られた教授の一人だ。地元の高校の文化祭に誘うような相手ではない…少々暴走気味の知世子を咎めようとして、だが青柳はふと思い直す。待てよ。これはこの危機を脱するチャンスかもしれない。白鳳は間違いなく断るだろうからそれに便乗して自分も…

「来週末か、残念だけどその週は学会に呼ばれていてね、アメリカなんだ」

「ア、アメリカ…?」

 早速目論見が外れ、青柳の方が思わず反応してしまう。そっかあ、残念、と大して残念そうでもなく知世子がくるりと回ってまた青柳に向き直る。まずい、このままでは貴重な休日が孤独な身上を思い知らされるだけの虚しい一日に変えられてしまう、そんな無慈悲な仕打ちにはとても耐えられない、こうなったら少々強引にでも…

「あ、ああ、そうだ、そう言えば僕もその日は学会で…」

「おや、青柳先生。確か小児科学会は先月でしたよね?年末まで休日は完全オフだとおっしゃっていたような…」

 ご丁寧にシステム手帳まで取り出して予定を確認している。取って付けた青柳の芝居より、わざとらしく手帳を捲る白鳳のそれの方が一枚も二枚も上手だ。怪しむ知世子の表情がみるみる険しくなり、青柳の額から一筋汗が垂れる。

「いや、羨ましい。私なんてこの二年来、付き合いだのなんだのでまともな休日なんて一日もないですからな。たまにはゆっくりバス釣りでも行きたいものですがね…せっかく奮発したアルティマが倉庫で泣いていますよ、ハハハ。いいじゃないですか…青柳先生。休日と言ってもどうせ屋上に籠りっきりなんでしょう?息抜きに若い子たちに囲まれて英気でも養ってくるといいですよ。私なんかが行くより知世子さんも嬉しいでしょうしね、いや、羨ましい。ハハハ…」

 乾いた笑い声を残し、採血チューブを振りつつ白鳳は診察室を出て行った。残された二人の間に微妙な沈黙が流れる。知世子は黙って制服の袖を直しながら頬を膨らせ、青柳は縒れた白衣の袖で汗を拭う。

「……あー、そろそろ回診の時間だな、いけないいけない、うっかりしていた、知世子さんも暗くならないうちにかえ…」

「ヤギ先生。明日チケット持って来ますからね、

 壁のカーディガンを無造作に羽織り、ベッドの杖と帽子を引っ掴みドアの手前で振り返ると口元だけでにっこり笑ってそう言い残し、知世子も部屋を出て行った。残された青柳はがっくりと肩を落とし、独り呟くしかなかった。

「はい…分かりました…」


 チョコの通う清香学院は町の中心部にある。中心部と言っても全く地理的な意味だけで、辺りに繁華街や大きな駅がある訳ではない。そもそもこの町には流行りの店舗が並ぶような通りもなければ観光客で賑わう史跡や名所もない。鉄道にしても特急の止まらない私鉄の駅が一つ二つあるだけだ。市民の足は専ら車で、なければとても不便な思いをする。車も免許も持たない学院生はもちろんその不便を被る筆頭であり、バッグを担いで自転車を漕ぐか、さもなければ一時間に一本のバスを乗り継ぐしかない。

 そんな汗水垂らし吊革に揺られる生徒たちを横目に、チョコは心地好く沈む黒革のシートに座り、スモークが貼られた車窓に流れる景色をぼんやりと眺めている。車体の長いリムジンの後部座席に一人きりで、分厚いアクリル板で仕切られている運転席とは会話もない。シートの背に埋め込まれたテレビモニタには英会話のDVDが映されているが、チョコはさっきから一瞥もくれていない。ただぼんやりと、窓の向こうに燻むうろこ雲を呆けたように見上げている。

 と、リムジンが急ブレーキに軋みを上げた。シートベルトで胸が潰され、瞬間息が詰まる。どうやら猫が飛び出して来たらしい。道路を渡った鉤尻尾の黒猫が、何事もなかったかのように民家の塀に跳び上がり奥へと消えていった。失礼しました、と運転手が肩越しに頭を下げる。大丈夫です、とチョコも頷く。リムジンは再び走り出し、チョコもまた空に目を戻す。小鳥が一羽、白い雲の下を横切っていく。ジョウビタキだろうか。スモークのせいでちゃんとは見えなかったが、オレンジ色のお腹をしていた気がする。もうそんな時期なんだなと、チョコはふと空を渡る鳥に憧れていた子供の頃を思い出す。近所の公園の散歩道で、父はチョコの乗る車椅子を押しながらツバメやツグミが遥か遠くシベリアや東南アジアから渡ってくるのだと教えてくれた。あんな小さな体で何千キロも海を越え旅ができる鳥たちが羨ましく、妬ましく、自由にならないこの脚が恨めしく思えたものだ。この腕が羽だったなら。この背に翼が生えていたのなら。あの頃は叶いもしない夢想ばかり巡らせていたが、今はもうそんなことは考えもしない…

「―――知世子様。どうされました、知世子様?学校に着いておりますが…」

「え…あ、はいっ…!」

 運転手の呼び掛けにチョコは目を瞬き、声を裏返らせる。いつの間にかリムジンは止まり、学校の正門の前に横付けされていた。毎日のこととはいえ、運転手付きのリムジンで乗り付ける生徒など他にいない。窓の中を生徒たちが物珍しげに覗き見ながら通り過ぎていく。慌てて鞄を肩に担ぎ帽子を被ると、運転手が回り込んでドアを開けてくれた。いつもなら人目に付くような行為をチョコは嫌がるのだが、今日はぼんやりしていた自分が悪い。素直に礼を言い、乗降口から伸びた特別仕様のステップを踏んで車から降りる。袖口に金ボタンの並んだ皺一つない真っ黒なスーツ姿の運転手―――黒羽家の使用人である丸山は、返事の代わりに制帽に小さく右手を当て目尻を下げる。いつも無愛想なのに、今日はどうしたんだろう…チョコはどこか上の空で、危なっかしく校庭を歩いていく。彼女が校舎に入るまで、丸山はいつものように直立して見送っていた。

「おはよう、チョコ」

 玄関に入ったところでクラスメイトに声を掛けられた。細縁の丸眼鏡を掛けた委員長の栗村柊だ。今日も肩まである癖っ毛を、大きなヘアピンやクリップをいくつも使って苦労してまとめている。

「あ、おはよう、シューちゃん」

「どうしたの、ニヤニヤしちゃって。ご機嫌だね」

「え、ウソ?そんなこと…」

 言いつつチョコは頬に手を添える。そんなにニヤついていただろうか、だから運転手も笑っていたのか、自分では全然気づかなかった…

「隠すことないじゃん、すぐ分かるよ。友達でしょ?チョコが楽しそうだとウチらも嬉しいんだから…で、どうしたの?何か良いことあった?」

 シューがぴったりと身体を寄せて追及して来る。何でもないよと鼻先を手で扇いではぐらかしていると、肩に担いでいたバッグがもう奪われていた。何も言わず当然のようにシューがバッグを二つ持ち、自分も靴を替えている。

「チョコ、顔が赤い…」

 下駄箱の端を掴み靴を脱いでいると、横から上履きが差し出された。屈んだ体勢では相手の顔まで見えないが、ボソボソとした喋り方とすらりと伸びた足元でクラスメイトの稲妻希だとすぐに分かる。

「レアちゃん…な、何でもないよ、気のせい気のせい」

 背の高いレアを見上げて首を振るチョコの頬はあからさまに赤い。それを微笑ましく見下ろし帽子を直してくれるレアの脇から、もう一人が顔を出した。

「そう言えばチョコ、昨日も病院だったよね~、もしかしてあの先生、学祭誘ったの?来てくれるって?どうなのよ~、ほら、キリキリ白状しな!」

 レアとは反対にキンキンと高い声でチョコより背が低く、コロコロとした身体つきの八木戸奈津が杖を渡すついでに肘で突ついてくる。

「もう~ナッツちゃん、何でもないってば…」

 体型に似つかわしくコロコロと良く笑うナッツを躱して逃げ出すも、跛を引くチョコはすぐに追いつかれ、真っ赤な顔を口々に弄られる。

 チョコたち二年生の教室は二階にある。階段に差し掛かり、シューは手摺に掴まるチョコの隣に並ぶ。ナッツは先頭に立って前を行く生徒たちを除け、レアは一段一段ゆっくりと登るチョコに合わせて後ろからついて来てくれる。杖を突きバッグを抱えながら靴を替えたり階段を登ったりするのは確かに大変だ。だからどれも率直に有り難い。チョコはいちいち礼を言わないし、三人も押しつけがましくしたりしない。周りの生徒たちも適度に気にしつつ通り過ぎていく。いつもの朝の光景。その間も三人の冷やかしは続いている。ねえ何があったの教えなさいよ、何でもないって言ってるじゃん…

 教室に入ると一角が賑わしい。みんなが集まりガヤガヤと話をしている中心には、短く刈り揃えた髪に目鼻立ちの力強い男子が頭一つ抜けて見えている。澤桃大はバスケ部のキャプテンで成績もトップクラス、190センチ超の長身にルックスも整っていて、しかも実直で気さくな性格とくれば、異性同性問わず自然と人は集まるものだ。

「なになに?どうしたの、トータ?何かあったの?」

 早速ナッツが駆け寄り、人混みを掻き分けてトータを呼ぶ。つい今まで突ついていたチョコの話題などすっかり忘れてしまったようだ。

「ワイらのクラスに転校生が来るんやと。こんな時期に物好きなやっちゃで」

 答えたのはトータではなく、後ろ隣の蜂須崑だった。ドレッドヘアを丁髷のように頭の後ろで結んでいて、その髪型と糸目と関西弁は集団の中でも否応なく目立っている。

「勝手に答えんじゃないわよ、コンス。こっちはトータに訊いてんの」

「なんやと?情報取ってきたんはオレやぞ、こいつはそれをアホみたいに聞いとっただけやんけ」

「アホはあんたでしょうが。だいたい今頃転校生って、ホントなのそれ?」

「ホンマやって、ソースだってちゃんとあるでぇ、顔はしょうゆやけどな」

「あんたのどこがしょうゆ顔よ。塩じゃん、塩。塩ラーメン」

 仲が良いのか悪いのか、いつもの調子でじゃれ合いながらケラケラ笑っている二人を見て、チョコは少し胸が疼く。その疼きがどこから来るのか、はっきりとしない感情に揶揄われていた赤く染まった頬は知らず知らず固まっていた。

「チョコ、おはよう」

 そんな心の機微を嗅ぎ分けた訳でもなかろうが、トータがいち早くチョコを見つけ、わざわざ立ち上がって挨拶する。学院一の人気者は、チョコのような異端の女子にも分け隔てなく優しくしてくれる。

「おはよう、トータくん。コンスくんも」

「『も』ってなんや、『も』って!朝からキッツいなぁ、チョコは!」

 コンスは笑いながら関西人が良くやる素振りで片腕を振っている。突っ込めるのが嬉しいらしい。

「お、おはよう、トータ…」

 立ち上がったトータに驚いたのか、シューはレアの後ろに隠れるようもじもじと身を捩る。しっかり者のシューもトータの前では一人の乙女だ。

「おはよう、シュー、レア、ナッツ」

「そこは『も』を入れんかい!せっかくのチョコのフリが台無しやんけ!」

 調子に乗ってトータの脇腹辺りを手の甲で小突くコンスなどには目もくれず、シューはチョコにバッグを返すのも忘れて抱え込んでいる。

「それで?転校生ってどんな子なの?」

「どこの学校?」

「男子?女子?」

 漫才が一息ついたのを機に人だかりから次々に質問が上がる。コンスは待ってましたとナッツを押し退けて輪の中心に身を乗り出し、得意気に人差し指を一本立ててみせる。

「もちろん女の子や。男やったら興味あらへん。アンちゃんから直接聞き出したんやさかい、確実な情報や。そんでその転校生な、海外からの留学生らしいで。しかもどこの国やと思う?なんとな……ヨーロッパやて!」

 もったいぶって話すコンスに周囲から文句が漏れる。

「なんだよ、そのいい加減な情報」

「ヨーロッパは国じゃないぞ」

「ええい、茶化すなや。ヨーロッパの北の方とか言うとったわ。とにかくな、欧米の女子高校生なんちゅうたらそらもうパツキンで目ぇなんかも青うてスタイル抜群のボインボインでプリンプリンのねーちゃんやで、絶対。アンちゃん、サイズの合う制服がなくて困る言うとったし、間違いないで、絶対」

 コンスは『絶対』をやたらと強調しながら胸の膨らみを手振りで作る。まだ見もしていないナイスバディの留学生を想像して鼻の下を伸ばすコンスに、ナッツを始め女子たちは汚いものを見るように引いている。

「そうだったとして、その子が日本語できなかったらどうすんのよ?あんた英語なんてからっきしじゃん」

「ええねん、そんなもんジェスチャーでなんとでもなるわ。だいたい愛さえあれば言葉の壁なんてやな…」

「その時はシューに任せればいいよ。交換留学もしてたし、英語ペラペラだから」

「えっ?な、何言ってんのトータ、ペラペラとか、そんなことないし…」

 急に話を振られてどぎまぎしたシューがチョコのバッグをますます抱き潰す。こりゃあしばらく返してくれそうにないな…一先ず諦め、人混みを掻き分けてトータの隣の席にチョコが座ると同時にチャイムが鳴った。

「あれれ、みんなどうしたのー?チャイム鳴ってるよー、席に着いてー」

 間延びした調子で教室に入ってきたのは担任の小倉アン先生だ。チョコたちの学年を受け持って二年目の自称新米教師で、独特のおっとりした雰囲気に多くの生徒からちゃん付けで呼ばれている。今日も縁なし眼鏡が鼻からずり落ちそうだ。いずれにしてもそんな緩い注意にエネルギーの有り余った高校生たちが耳を貸すはずもなく、変わらずワイワイと騒ぐ輪に向かって甲高く手が打ち鳴らされた。

「うるさいよ、コンス!ナッツも!朝礼始めるよ!みんなも席に着いて、早く!」

 輪の中心人物を一喝し、シューが見事な手腕であっという間に騒ぎを鎮めてしまう。全員が席に戻るのを見届け、教壇前の席に悠然と座るシューにアン先生はぺこぺこと頭を下げている。チョコのバッグはいつの間にかレアが取り返してくれていて、後ろの席から渡してくれた。

「ゴメンね、栗村さんありがとう。さて。えーと、今日は金平先生がお休みなので、三時間目の数Ⅱは代わりに安倍川先生が…」

「アンちゃん。そんなことよりもっと大事なお知らせがあるんじゃないの?」

 我慢のできないナッツが早速口火を切り、またもや教室が騒めきだす。

「海外からの転校生は?」

「いつから来るんですか?」

「え?どうしてみんな…あっ、蜂須くん、もしかして…もう、みんなには内緒だって言ったじゃない、せっかくびっくりさせようと思ってたのに…」

 サプライズ失敗にしょんぼりと肩を落とすアン先生に、コンスは大して悪びれる風もなく片手を額の前に立てて謝っている。噂が真実となり、クラス全体が興奮し始めた。最早シューにも収拾できない。いや、寧ろシューも興味津々で後ろのチョコやトータを振り向いている。どんな子だろう?本当に金髪?日本語話せるかな?…一緒に盛り上がるチョコの背中が突つかれた。振り向くとレアが斜め前方を指差している。言われるままに首を戻し、そのままチョコは絶句した。

「今は職員室で学院全体の研修を受けてもらっているので、もうちょっと待っててください。みんなには後で改めて紹介するから。じゃあ朝礼の続きを…って、あれ?」

 気が付いたアン先生がチョコと同じ方を見て固まる。ナッツやコンスも口を半開きにしたまま目が点になっている。無理もない。教室の入り口には赤いリボンの付いたダブルのキャメルブレザーにタータンチェックのスカートでピンク色の髪をした、小学生にしか見えない女の子が胸の前で腕を組んで立っていたのだから。

「あ……あの、オガミさん?主任の研修はまだ…」

 見たことのない制服の子はアン先生の言うことを簡単に聞き流し、憮然とした態度のまま顎をツンと上げ教壇の前に歩み寄り、すました顔で教室全体を見渡す。

「ウソ…?」「ウソやろ…?」

 チョコとコンスが同時に、別の意味でも同じ言葉を漏らす。その小声を耳聡く聞き取り、チョコを見つけた少女がニヤッと片方の口角を上げた。

「ま、まあ、せっかくだから紹介しちゃいますね、今日からこのクラスに来てもらうことになった、オガミサク…って、あれ?」

 アン先生が板書しようとチョークを持って振り向いた時にはもう、少女はチョコの机の前に立っていた。

「こんなにすぐに会えるとはね。まあ、予想はしていたけど」

 腕を組み胸を反らせ斜に構える少女を、チョコは口を三角にしてただ見上げている。

「あの~…オガミさん?まずはこっちで自己紹介を…」

「ねえ、案内してよ。主任だかなんだか知らないけどコハギとかいうおっさん、カリキュラムとか校則とかどうでもいいつまんない話しかしないからトイレだって言って抜けてきたの。まだ全然この学校の中見てないから、連れてって。あるでしょう?こんな辺鄙な学校でも一つや二つくらい、面白そうなとこ」

 一方的に捲し立てられ呆気に取られるチョコに代わり、コンスが横から口を挟む。

「おいおいおい、ウソやろ?君、ホンマにタメかいな?中学行くの忘れてへんか?確かに目は青うてケッタイな髪色やけども、なんや、その、ボインボインはともかくやな、よりによってこんなちんちくりん…ひがっ!」

 椅子から腰を浮かせて小さな身体を上から下までまじまじと眺め見ていたコンスが潰された蛙のような音を立て顔を押さえてうずくまる。ピンク髪の転校生が右腕の肘を水平に伸ばし拳を握り固めている。教室が静まり返る。殴った―――誰もが目の前で起きたその出来事をすぐに受け入れられないでいた。少女は少し眉を歪め、でも醒めた碧い瞳はチョコを見下ろしたままだ。

「なにしやがんだてめえ!」

 鼻血を流しながら怒号を上げ掴みかかろうとするコンスの前にトータが割って入る。

「やめろ、コン、今のは完全にお前が悪い。ごめん、えっと…サクラさん、友人として俺も謝る。でもこいつも決して悪気があって…うわっ!」

 コンスの肩を押さえて謝ろうと振り返ったトータの鼻先を返す拳が掠めていった。トータはすんでの所で仰け反って避けたが、今度はそれを見たシューがいきり立つ。

「ちょっとサクラさん!今トータ謝ってたでしょう?いきなり殴るとか…っひぃ!」

 机を叩いて立ち上がろうとしたシューも目の前に伸ばされた拳に腰を抜かして椅子の上にへたり込む。その拳の先からはコンスのものか自分のものか、鮮血が滴っていた。

「あたしがいつあんたたちに名乗った?気安く呼んでんじゃないわよ。あんたも!なに勝手にでかでかと人の名前書いてんのよ!」

 シューに向けていた拳から人差し指を伸ばし、アン先生と黒板に書かれた『拝 桜』の文字に突きつける。再三無視された上に紹介すらさせてもらえず涙目のアン先生を尻目に少女はチョコへと向き直り、彼女の制服の襟に拳の血を擦り付ける。

「あたしは日本語も英語もドイツ語もスウェディッシュもデニッシュも、もちろんノルウェージァンも話せるけど漢字だけは見たくもないの。クソ親父につけられたそんな読めもしない名前、次に呼んだら一人ずつぶっ飛ばすから。…さ、チョコ。こいつらに教えてやって。あたしのことをなんて呼べばいいか」

 同じだ。突飛な行動。身勝手な要求。理不尽な物言い。昨日病院までの山道で出会った時と全く同じ。忘れようにも忘れられない。乱れたピンクの髪を掻き上げる仕草、冷たく細めた碧い瞳に魅入られ、チョコは三角にしていた唇をようやく解き、動かした。

「チェリーちゃん…!」

 破天荒な転校生は良くできましたと言わんばかりに頷き、そこだけは控え目な胸を満足気に反らせるのだった。


 小学生でも受験生でもなく高校二年生だったチェリーは血眼で探しに来た学年主任の小萩先生に拿捕され、三時間目が終わる頃にようやく教室に戻ってきた。その時も用意してあった席を拒否してチョコの隣のトータの席に居座り、トータは断り切れるはずもなく渋々席を移り、おかげでトータが隣に来たシューは密かに喜んだりしていたが、後ろのコンスは鼻にティッシュを詰め机に突っ伏して不貞腐れている。

「なんやねんこいつ…チビジャリんくせに…」

 敵対心剥き出しで聞こえよがしにブツブツ文句を言っているが、チェリーは一切構わず教科書も開かずにふんぞり返っている。周りのクラスメイトは朝の騒動が嘘のように距離を置き、そこここで声を潜めて横目遣いに噂し合っている。

 あの髪と瞳の色、どうやら海外、それも北欧から来たというのは本当らしい、ハーフなのかな?日本語はペラペラだし名前も日本人ぽいよね、本当に何か国語も喋れるの?そんな風には見えないけど…それにしてもあの態度!いきなり殴るとかありえなくない?あれはコンスが悪いだろう、でもトータやシューまで殴ろうとしたじゃん?あの髪だって染めてるんじゃないの?怪しいな、誰か聞いてこいよ…

 興味はある。なにせまだ彼女のことについて彼女自身の口からは何一つ、それこそ名前すら発せられていないのだ。だがあんな光景を見せられて、誰も聞きに行きたくなんかない。ただ悪戯に想像だけが膨らみ憶測が飛び交い、そして昼休みになった。

「さ、行くわよ。チョコ」

 チャイムと同時に立ち上がり、チェリーがチョコの机をバンバン叩いて催促する。

「え?…あ、校内の案内だよね。うん、行こっか」

「ちょっと待って」

 人も無げなる転校生に挑みかかった勇者は、委員長のシューだ。杖と帽子を手にもたもたと立ち上がろうとしているチョコを制して座らせる。水を差されたチェリーは鼻白み、おせっかいな丸眼鏡の女子を小鼻に皺寄せ限界まで瞼を細めて睨みつけるが、シューも怯んでばかりではない。

「おが…チェリーさん、あなたまだ来たばっかりで知らないのも仕方ないけど、チョコ…黒羽さんは生まれつきの障がいがあって見ての通り足が悪いの。それに紫外線にも弱いから、昼間に長時間外にいられないのよ。だからあまり無理を言わないようにしてあげて。校内の案内なら私たちがするから」

「知ってるわよ、そんなこと」

「……は?」

「知ってるって言ってるの。本人から聞いたから、その話」

「……そうなの?」

 シューが尋ねるとチョコはこくんと頷く。

「うん、昨日病院に行く途中で会ったの。まさか同級生だとは思わなかったけど…」

「病院の?チョコ、まさかまたあの山道登ったの?駄目じゃない、いくらリハビリのためだって普通の人でもきついのに。医者の先生にも止められてるんでしょ?まあ、あの先生じゃアテにならないけど…で、チェリーさんはなんでそんなところに?」

「それがね、学校に来る途中で道に迷ってたみたいで木の上から探そうとしてて落っこちてき…むぐぐ」

「チョコちゃ~ん、そんなことはどうでもいいから早く行きませんこと?」

 早速醜態を暴露しそうなチョコの口をチェリーがしどろもどろになって塞ぐ。流石にそのエピソードは恥ずかしいらしい。シューも周りで聞き耳を立てている連中も眉をしかめて訝しむのを、無理矢理チョコの手を引いて誤魔化そうとしている。

「待ちなさいって。知ってるなら尚更じゃない。チョコだって嫌がってるでしょう?」

「そうなの?」

「え?」

「あんたじゃないわよ、チョコに聞いてるの。チョコ、あんたあたしを案内したくないの?」

 されるがままに両手を引かれ、万歳をしている格好のチョコは腕の間で首を振る。

「ううん。大丈夫だよ」

「問題ないじゃない。ほら、ぐずぐずしてないで行くわよ」

「あのねぇ」

 あっけらかんとしているチョコとチェリーに、シューはイライラと髪を掻き毟る。せっかく整えてある癖っ毛が弾けそうだ。

「この子は頼まれたら断れない性格なの。それに昨日今日会ったばかりの転校生にそんな風に言われたら誰だって断れないでしょうが。いい?チョコにとっては階段を登るのもグラウンドを歩くのも命に関わる重労働なの。分かるでしょう?さ、手を離して。レア、悪いけど案内一緒に付き合って。チョコはナッツたちと先にごはん食べてて」

 てきぱきと指示し始めたシューに、チェリーは素直にチョコの手を離す。かと思うとくるりと振り向きシューの鼻先に自らの鼻先を突き当てて睨め上げる。

「なんであんたが勝手に決めんのよ。いい?あたしはあんたたちじゃなくてこの子に案内してもらいたいの。分かるでしょう?」

 シューの声音と仕草をわざと真似て挑発する。傍から見れば子供が悪戯に馬鹿にしているようにしか見えない。チェリーはそのまま一回転してチョコに向き直り、ほら行くわよと襟首を掴んで引きずって行こうとする。チョコは締まる首に目をバッテンにしながら、慌てて帽子を冠り杖を握ってついていく。

「ちょっと…!」

 引き留めようと伸ばしたシューの手を、当のチョコが遮り首を振る。

「いいの、シューちゃん。行かせて?」

「でも…!」

「三十分くらいなら平気だから。ね?お願い」

 シューは面食らった。チョコが手を合わせて懇願する姿なんて、入学以来一緒に過ごしてきて初めてだった。

 チョコは良い子だ。聞いたこともないとても珍しい遺伝子の病気で、麻痺した右足や光線過敏症以外に臓器や血管にも障がいがあると言う。難しいことはシューにも分からないが、チョコがヤギ先生と呼んでいるあの頼りなさそうな医者は治る病気ではないと言っていた。成績が良く従順で真面目な性格のシューは小学校でも中学校でも級長や生徒会の役員を任されることが多く、その関係で障碍者支援のボランティアに何度も参加していた。発達障害の子供たちの施設を訪問したり、小児がんの病棟を見舞ったりしたこともある。どこでも皆明るく元気に振る舞っていて、一目では障がいや病気を持っているように見えない子も少なからずいた。そこでシューが必ず聞くことがあった。何か困っていることはない?そう聞くと大抵少し躊躇ってから、彼らは例外なくポツポツと何かしらの不平不満を漏らし始める。ごはんが美味しくない、自分の部屋だけエアコンが効かない、誰々先生が優しくしてくれない、誰々がちゃんと掃除当番をしてくれない、友達が会いに来てくれない、家族が会いに来てくれない、怖くて眠れない…些細な愚痴から深刻な悩みまで人それぞれだったが、そこには一様に彼ら独特の暗さが垣間見えた。それは現状や将来がはっきりしない不安だったり、それでも明るく元気に振る舞わなければいけない諦念だったりするのかもしれない。想像はできても所詮障がいも病気も持たない健常人のシューには理解し切れないその暗さは、たどたどしい言葉の、漂う視線の、緩慢な動作の端々から滲み出て彼らを覆い、他人がそれ以上近付くことを拒絶する。そしてその隔絶感はシューを妙に安心させた。自分は彼らとは違う世界に生きている……だがチョコにはそれがない。目を背けたくなる容姿でも、自由の利かない身体でも、いつまで生きていられるか分からない病態でも、彼女からあの暗さは感じられない。彼女の口から我が侭や不平不満を聞いたことなど一度もない。かと言って無理に明るく振る舞ったりもしない。嫌なことがあれば素直に落ち込み、楽しいことがあれば一緒に笑う。そんなチョコを見ていると、シューは堪らなく心配になる。怖くないはずがない。不満がない訳がない。チョコは良い子だ。だから私が守らないと。不自由極まる彼女を、何不自由のない私が守らないと…!

「待って…!」

 尚も食い下がろうとするシューの肩に手が置かれた。振り向くとレアが静かに首を振っている。ありがとうシューちゃん、そう言い残してチョコは逆にチェリーの手を引いて教室を出て行った。

「待って……」

 呆然と見送るシューの呟きをレアは聞こえない振りをし、自分の机をナッツの机にくっつけてお弁当を並べる。シューは自分が零した呟きに言い知れぬ不安を覚え、立ち尽くしたまま独り背筋を震わせた。


「いつまで握ってんのよ」

 階上の踊り場で、思い出したようにチェリーがチョコの手を振り解く。案内しろと言った割にはチョコを追い抜いて自分でずんずん先を進み寧ろ手を引っ張っていたのはチェリーの方なのだが、あちこち連れ回される訳でもなく真っ先に辿り着いたのは屋上だった。学祭で使うのだろう、作りかけの垂れ幕や小道具が物置代わりに置かれている。

「えへへ…ゴメンね、わたしが案内しなきゃいけないのに…チェリーちゃん歩くの早いから…ふう、良いリハビリになったよ…でもいいのかな、こんなところ勝手に入って…」

 杖に寄り掛かり肩で息をするチョコにも赤字で書かれた「立入禁止」の貼り紙にも構わず、チェリーが突き当たりのアルミサッシのドアを開けると、深秋の眩い陽射しと冷たい風が一斉に飛び込んできた。

「あー、ちょっと寒いわねぇ」

 寒風の中、チェリーはブレザーの上から腕を擦っている。屋上は飾り気のない打ち放しのコンクリートに、取って付けたような簡単な事故防止用のフェンスで周りを囲われている。階段も太陽も苦手なチョコは、もちろん来るのは初めてだった。

「わあ…」

 飛ばされないように帽子を押さえながら照り返すコンクリートの上をひょこひょこと端まで歩き、フェンスの上に顎を乗せる。枡目の大きな金網を片手で握り、ぐるり三百六十度、屋上からの展望を見渡した。

 ちょうど南中の太陽の方角には色とりどりの屋根が並ぶ新興の住宅地が広がり、その真ん中を一直線に伸びる土手が綺麗に分断している。さすがにここからでは本流までは見えないが、土手の向こうには一級河川の巻田川が豊かに水を湛えているはずだ。太陽の向かう先に目を移すと川沿いから次第に家屋が減り、稲刈りの済んだ枯田へと代わっていく。規則正しく区切られた平地の中に突如としてベージュ色の肌をした巨大な郊外型ショッピングモールが現れ、ただでさえ物寂し気な田園風景を更に虚しく見せている。遥か西の地平には瀬関山地の峰々が歪に横たわり、稜線に沿って掛布団のような雲を湧かして西日に染められるのを待っている。学院のすぐ北には一際広大な敷地の中に鈍重に光る瓦屋根の、古めかしくも豪奢な屋敷が目に留まる。この町に住む者ならそれが黒羽家の屋敷であることは誰もが知っている。だがチョコはそれを見ないようにすぐに視界から逸らす。北東にはそこだけポツンと盛り上がった辨天山があり、その山頂には北員大学の大学病院が白亜の城の如き姿を見せつけている。ヤギ先生は今日もあの中で暇なく働いているはず……チョコは朝の運転手の笑顔を思い出し、また上気しそうになる頬を冷まそうと絶え間なく吹き付ける東風に顔を向け、目にした光景にひっくり返りそうになった。

「チェ…チェリーちゃん?」

 チェリーはいつの間にかフェンスを乗り越え、端際の段差の上で仁王立ちしていた。

「あぶ…危ないよ?…その、色々と…」

 昨日といい高い所が好きなのだろうか、屋上の突端は風が更に強く吹き荒びピンクの髪は乱れるままに舞い散らされ、見ているこっちがハラハラする。肩幅に開いて踏みしめる両足は貼り付いたように動かずとも、下から丸見えなのは明白だ。

「つまんない町ねぇ。家ばっかりで、目ぼしい所なんてアニオンモールくらいしかないじゃない。どうせ休日はこの町のほとんどの人間があそこに集まるんでしょう?典型的な日本の田舎ってヤツね。本当に母様、こんなところで生まれ育ったのかしら…?」

 外野の心配など気にも留めず片手を額で傘にして遠くを眺め、チェックのスカートを翻るに任せている。昨日はあんなに狼狽えていたのに……なるほど、確かに良く見れば今日はテニスのアンダースコートのようなフリルの付いたローレグのショーツを履いている。とは言え遠目にはやっぱりパンツにしか見えない気もするが。

「そっか、今日はクマちゃんじゃないんだね。あれ似合ってたのに…」

「チョコちゃ~ん?クマちゃんとかいったい何の話かしら?何かの見間違いじゃないかなあ?てか人前でその話したらぶっ飛ばすよ?いやゴメン頼むから見なかったことにしてすみません忘れてくださいお願いします」

 フェンスの反対側からしがみつき金網の跡が付くほど額を押し当てながら情緒を錯乱させて訴えるチェリーは涙目だ。どうやら期せずして弱みを握っていたらしい。もちろんチョコに悪気はないが、これでもうチェリーは卒業まで、いやそれ以降もずっとチョコに逆らうことはないだろう。悪態と懇願を繰り返しながらめそめそと泣いているチェリーが何だか可哀そうになり、チョコはそのピンクの頭をおざなりに撫でてやった。

「―――それでチェリーちゃん、他の所は見なくていいの?講義室とか体育館とか…」

 復活したチェリーは構内に戻ろうともせず、外側からフェンスにもたれたままのんびりと遠望している。

「んなありきたりな所見てどうすんのよ」

「音楽室とか美術室とかは?今、清香祭前で楽しくなってるよ?」

「セイカサイ?知らないわよ、つまんない」

「じゃあクラブハウスは?うちは部活の数が多くて設備も充実してるの。チェリーちゃんは何かやらないの?」

「嫌よそんな汗臭いとこ。部活とか興味ないし。実弾でも撃てれば別だけど」

 首だけを変な角度に曲げて振り向き、ピストルの形にした指をチョコに突きつける。

「さすがに日本の高校でそれは無理かな…」

「でもチョコには興味があるわ」

 指先を向けたまま真面目な顔をして突然言うので、チョコは思わず背筋を伸ばし姿勢を正してしまう。

「案内なんていいからあんたのことを聞かせてよ。生まれつきだって言ってたわよね、その身体。どういう病気なの?痛いの?感覚はあるの?てかそもそも病気なの、これ?」

 矢継ぎ早に聞きながら伸ばした指で赤黒い頬を突いてくる。チョコは少し困った。彼女自身、自分の身体についてちゃんと理解できている訳ではないし、親しい人以外には言い触らさないようにヤギ先生からきつく言われている。クラスでも詳しく話したことがあるのはシューとレアとトータと、それにアン先生くらいだ。それだけ特異な体質であり、そのために心無い扱いを受けることもある。現にその所為でヤギ先生はチョコの血を採らされているし、黒羽家だってお世辞にも良い雰囲気だとは言えない。だがチェリーがこれからこの学院で一緒に生活していくのであればいつまでもはぐらかせるものでもない。それに、これははっきりと根拠がある訳ではないのだが、チェリーは人の弱みに付け込んだりするような子ではないと思う。チョコはこの出会ったばかりの子供のような転校生を、最初の印象そのままに信用し始めていた。

「うん…わたしね、わたしの遺伝子…DNAに、本来付いていなきゃいけないものが付いてないんだって。D、A、M、D、S、ダムズって言う病気なんだけど、今のところ世界でもほとんど例がないって主治医の先生が言ってた。どういう症状が出るかははっきりしてなくて、わたしの場合は光線過敏と右足の麻痺は見ての通りで、他にも免疫が弱かったりお腹に蚯蚓腫れみたいなのも出てたりするんだけど、それでも症状としてはびっくりするほど軽いらしいの。癌になりやすかったり、筋肉が骨になったり、本当かは分かんないけど、足が三本あったり首から手が生えたりしててもおかしくない身体なんだって…えへへ、ゴメンね、何言ってるか分かんないよね。わたしも正直良く分かってないんだ、自分自身のこと。原因も不明で、これからどんな症状が出るかも予測できなくて…ただ一つ分かっているのは、治る病気ではないってこと。大学でずっと研究してもらっているし、薬もたくさん飲んでるけど、一つ一つの症状を抑えるだけで遺伝子そのものが治ることは決してない。一生付き合っていかなきゃいけない病気なの…って、いつまで生きられるかも分かんないんだけどね。でも今は元気。体調は落ち着いてるし、クラスのみんなは優しいし、それにヤギ先生も……あ、や、それはおいといて、とにかくその、わたしは大丈夫だから。あんまり気にしないでもらえると嬉しいな」

 できるだけ嚙み砕いて丁寧に説明している間、チェリーは真剣な眼差しをちらとも逸らさず、ずっとチョコだけを見続けていた。

「気にするわよ」

 チェリーはぶれない。誰もが例え思ったとしても自制し、納得し、自己消化して口に出すことなどないだろう。全然気にしないよ、無理しなくていいから、遠慮しないで何でも言って……だがチェリーは同級生の生々しい悲運を本人から直接聞いても同情も共感も憐憫もなく、上辺で言葉を繕ったりしない。それがチョコには新鮮で、心地良く響く。

「ちゃんと歩くこともできない、外にも出られない、他にもややこしい病気抱えてていつ倒れるかも分からない。周りに気を遣わせて迷惑かけて、しかもその汚い顔。隣の席にそんなのがいて、どうやって気にしないでいろって言うのよ。その上治る見込みもないなんて、あたしだったら今すぐにでもここから飛び降りて新しい人生を選ぶわ。あのおせっかい眼鏡たちがあんたをちやほやするのも、見てて可哀そうだからでしょ?弱い生き物を世話することで自分の優位を確認したいだけじゃない。あんたは好いように使われているだけなのよ、分かってる?それが善いとか悪いとかなんてどうでもいいけど、あたしは嫌。あんたの気持ちなんて知りたくもない。自分の自由にならない人生なんてまっぴらだし、その世話をさせられるのも御免だわ」

 優しい子だ。そんなことを言いながらこうして離れず傍にいてくれる。チョコは目を細めてほんの少し笑い、高い青空に浮かぶ雲を遠く眺める。

「……お兄ちゃんに言われたことがある。お前は呪われているんだって。この痕、顔だけじゃなくて体中あちこちにあるの。まだこの病気が分かっていなくて、お父さんもいた頃に家族で海水浴に行って、わたし一週間くらい生死の境を彷徨ったんだって。入院していた時のことは覚えてないけど、浜辺でみんなで遊んだことはすごく良く覚えてる。まだ小さかったから、寄せてくる波が怖くって、でも触ってみたくって、お父さんに負ぶわれて海に浸かった時の塩辛さも、浮き輪で浮かんでたお兄ちゃんも、パラソルの下で手を振っていたお母さんも、全部覚えてる。楽しかった。あんまり楽しかったから、その後のことはすっかり忘れちゃったんだと思う。……でももう無理。海になんて行けないし水着だって着られない、人前でこんな身体見せられないし見られたくもない、周りに気を遣わせるし迷惑もかける、こっちだって遠慮もするし気も遣っちゃう、みんなの厚意に甘えて、それを煩わしいとも思っちゃう…この身体の所為でお兄ちゃんは笑ってくれなくなったし、お父さんも、お母さんも…」

 頬に何か触れた。チェリーの指だ。話しながら勝手に涙が一筋零れていた。チェリーはそれを摘むように拭い自分の口元に持っていくと、舌を伸ばしてぺろっと舐め取った。どうしてそんなことをするのだろう。チョコは不思議に思った。わたしの涙に味なんて、きっとないのに。

「それでもわたし、生きていたい」

 チョコはフェンスの金網を弱々しい握力でぎゅっと握り締め、風に流され粉々に千切れた雲の切れ端を、それが大気に溶けて消え去るまで目でどこまでも追っていく。

「これから先、楽しいことなんてないかもしれない。嫌な思いもいっぱいすると思う。でもわたし、みんなのこと好きだもん。シューちゃんもレアちゃんもナッツちゃんも、トータくんもコンスくんも、クラスのみんなもアン先生も、みんな大好き。たとえそれがエゴでも嘘でも、わたしにとって優しさには変わりないから。それに…こんな呪われた使えない身体でも、ちょっとは役に立つかもしれないんだって。先生が言ってくれた。神様がどうしてこんな身体にしたのかは分からないけど、きっと生まれてきた意味がある…生きていて欲しいって、そう言ってくれたもの。だからわたし、生きるよ」

 チョコは寂しく微笑むが、それは飽くまで凛としていて寂しくは映らない。頬に雫はもう見えない。チェリーが全部舐め取ってしまったから。空に向けていた目を戻すと、そこにチェリーの鼻先があった。チェリーも寂しく笑っている。それは漠としていて、とても強い笑顔だった。

「やっぱり良いわね、あんた。気に入った。いいわ、友達にしてあげる。今日からあたしと一緒に生きなさい」

 チェリーがチョコの乾いた冷たい頬に唇を寄せる。感覚の薄れた皮膚にチェリーの吐息がかかり、チョコはそれを避けるように首を傾げる。

「あれ?…まだ友達じゃなかったの?」

 屈託のない仕草にチェリーは吹き出し、豪放に笑いながら小さな身体で一跳びにフェンスをひょいと跳び越える。

「さ、帰るわよ。もう三十分でしょ?お腹空いたわ。カフェテリアとかないの?ここ」

 チェリーがちゃんと覚えていて気にしてくれていたことが嬉しくて、チョコは降り注ぐ陽射しの下、帽子の鍔を上げて大きく頷いた。

「学食は混んでるから、購買でサンドイッチ買って行かない?タルタルチキンがすっごく美味しいの!」

「何よそれ早く言いなさいよ、食べてみたかったのよ日本のタルタル。購買ってどこよ?もう、トロいわねえ、ちゃっちゃと歩きなさいよ、売り切れちゃうじゃない」

「え~待ってよ、無茶言わないで…あ、それと、教室戻ったらコンスくんに謝ってね。コンスくんもコンスくんだけど、いきなり殴っちゃダメだよ」

「はぁ?なんであたしが謝んなきゃいけないのよ?大体殴る相手に『今から殴ります』なんて言うヤツいないでしょうが」

「いいからいいから。ほらそっちじゃないよ、こっちだよ……」

 杖を突きつつチョコはひょこひょこついていく。その左手はずんずん大股で先を歩くチェリーの右手と、さっきと同じように繋がれていた。


「あの、チェリーさん…だっけ?ちょっと席を外してもらえると嬉しいんだけど…」

 北員大学病院の東棟四階、小児科病棟の診察室で、青柳は今日も困っていた。目の前の丸椅子には昨日と同じく黒羽知世子が座っていて、机の真ん中にはご丁寧に熨斗付きのリボンまであつらえた清香学院の学祭のチケットがちゃっかりと置かれている。知世子はベッドの上と青柳とを交互に目配せ、助けを求めてくる。ベッドの上には奇抜な髪色をした知らない制服の女子高生が胡坐をかき、我が物顔で居座っている。

「あー、気にしないでとっとと診察しちゃってよ。そのために来たんでしょ?」

 知世子がチェリーと呼ぶ無遠慮なその子は診察室で堂々とスマートフォンを弄っている。知世子は気まずそうに胸元を押さえ、元々垂れている眉を益々垂らす。

「う…でも、そんなところで見られてると、さすがにちょっと…」

「なに恥ずかしがってんのよ。その医者にはいっつも全部見せてんでしょ?」

「全部は見せないよ!いや、そうじゃなくって…べ、別に先生はいいでしょう?し、診察してるだけなんだから…」

 本気で照れられるとこっちまでなんだかいけないことをしている気になってくる。これはまたおかしな子を連れて来てくれたものだ…

「あのね、チェリーさん、医者には守秘義務ってのがあって、診察とか検査とか、医療行為を簡単に他人に見せる訳にはいかないんだ。なにより本人が嫌がって…」

「あんたまでなに堅いこと言ってんのよ。あたしが見てたって減るもんじゃないでしょうが。おら、観念しなさい!」

「あ、ちょっ…!」

 理不尽な主張を振りかざすチェリーに正面から襲われ、知世子の抵抗空しく制服のブラウスのボタンがあっという間に外される。必死に隠そうとする両手を封じ、露わになった胸元から腹部までをチェリーはまじまじと見入っている。

「へえ……」

 流石の奔放厚顔娘も言葉を失う。知世子のシンプルで清楚な白いブラジャーの下には、遠慮がちに細く縦に入った臍の筋を中心に怒張した皮膚直下の血管が幾つも放射状に蛇行している。痩せて浮き出た肋骨を越え脇腹や腋窩、鎖骨のすぐ下辺りにまで伸びたそれはさながらコガネグモが巣に描くスタビリメンタムで、斑に染まる赤黒い瘢痕が紛れるほどの異様な造形だ。

「なるほど…こりゃあ水着にはなれないわね」

「ひどいよ、チェリーちゃん…」

 半べその知世子はもう諦め、青柳も仕方なくそのままなし崩しに診察を始める。上肺野、心基部、心尖部、背部、下肺野と順に聴診器を当てていき、腹部の手前で青柳の手が止まる。メデューサヘッドと呼ばれるこの血管徴候は、通常閉塞しているはずの胎児循環の名残である臍傍静脈に、何らかの要因で血液が流れ込むことで発生する。

「……先生?」

 手の止まった青柳を知世子が下から覗き込む。青柳は時に己の無力さに苛まれる。腹部皮下静脈の膨張自体は命に関わったりするものではない。だがこの異形。彼女は出生直後からずっとこの奇形を抱え、人目を拒んできたのだ。本来は肝硬変などで門脈圧が上昇するか下大静脈が慢性的に狭窄でもしない限り起きない現象なのだが、知世子にそれらの異常は見当たらない。要因が分からなければ処置のしようがない。もしかしたら彼女は今も胎児のままなのかもしれない…青柳の頭にはそんな仮説まで過ることさえある。

「これだけでも何とかしたいと手は尽くしているつもりなんだが…すまない、僕がもっと早く、ちゃんと対応していればこんなに酷くはならなかったのに…」

「先生、謝らないでって言ってるじゃないですか!」

 一人落ち込む青柳を、知世子は故意と怒ったように𠮟りつける。

「先生が診てくれた時にはもう手遅れだったんでしょう?それにヤギ先生がいなかったらわたし今頃生きてないよ。先生のおかげで歩けるようになったし、学校にも行けるようになったんだから。大丈夫、こんなの平気だよ。他の誰かに見せたりしないし、先生だけが見てくれれば…」

 そこまで言って知世子は自分で口を塞ぎ、また照れて顔を伏せてしまう。ベッドの上では胡坐のチェリーが膝に頬杖を突いてニヤニヤと歯をちらつかせている。青臭い科白も口脇白い冷やかしも青柳にはくすぐったいだけだ。気を取り直して一通りの聴診触診打診を済ませ、お疲れ様と知世子のはだけたブラウスの皺を伸ばす。

「あれ、もう終わり?薬とか塗ったり貼ったりしないの?」

 何を期待していたのか、ボタンを合わせ胸元を閉じる知世子にチェリーは不服そうに唇を尖らせている。

「そうだね、色々と外観上の症状は見えているけどこれは体質的なもので、特に治療は必要ないんだ。本当はこんなに頻繁に診察する必要もないんだけど…」

「ダムズとかっていう遺伝子の病気なんでしょ?でも調べても全然出てこないのよね…本当にあるの、そんな病気?詳しく教えてよ」

 チェリーは片手でスマートフォンの検索画面をスワイプしながら興味津々に身を乗り出してくる。もう話してしまったのか…青柳が視線で咎めると、知世子は片目を瞑りペロリと舌を出す。青柳は額に手を当て肩を落とし、深く嘆息する。

「またかい?駄目じゃないか、あれほど話さないように言っておいたのに…」

「ごめんなさい、先生。でもチェリーちゃんはそんな子じゃ…」

「チェリーさんを疑っている訳じゃない。でもまた変な噂でも立ったりしたら傷つくのは君自身なんだぞ?それで何度辛い思いをしてきたのか忘れたのかい?みんな優しい人間ばかりじゃないんだ。ただでさえ君を利用しようとする人だって…」

「ほう、それは一体誰のことですかな?青柳先生」

 ノックもなく唐突に診察室のドアが開きスーツ姿の白鳳が入ってきた。いつから聞いていたのか、諌めるように背後から肩に手を置かれ青柳は背筋に冷や汗が滲む。

「利用する…いいじゃありませんか。知世子さんのゲノムは特別製だ…その研究が知世子さん自身の治療のみならず世の役に立つとあらば、それに魅力を感じるのはごく自然な心理でしょう。何より知世子さんは自ら進んで協力してくれている…有難いことじゃないですか。その厚意を無為にする方が彼女を傷付けることになりはしませんかね?それに…」

「誰よあんた。人の診察中に失礼なヤツね」

 自分のことは完全に棚に上げ、チェリーが白鳳に向けて追い払うように手の甲で扇ぐ。そっくりそのまま返したいであろう台詞と態度に、俄かに白鳳の眉間に皺が寄る。

「……感心しませんな、青柳先生。あなたこそ安易に部外者を診察室に入れていて良いのですか?」

「へえ、いきなり入って来て人の話遮ってベラベラと勝手に喋っておいて部外者扱いするとか、いい度胸してんじゃない」

 青柳の肩を握る手にぎりっと力が籠る。だが白鳳は何も言わず、細眼鏡の奥の冷ややかな眼でただ黙ってチェリーを見下ろしている。青柳はこの行為を何度も目にして知っていた。をしているのだ。

「あ…チェリーちゃん、この方は薬学部の白鳳先生、青柳先生と一緒にわたしの遺伝子の研究をしてもらっているの。白鳳先生、この子はその…同じ学校の友達で、海外から転校してきたばかりなんです、だからわたしの病気のことを知ってもらおうと思って…ほら、前にもクラス委員の栗村さんとか澤くんも来ましたよね?その、わたしじゃ上手く説明できないから…」

 凍りついた空気に耐え兼ね、知世子が横から口を添える。すると白鳳はおもむろに組んでいた両手を広げ、知世子に向かって頭を下げた。

「……そうでしたか!それは失敬。制服が違うので分かりませんでしたよ。…知世子さんのご友人であれば歓迎です、どうぞゆっくりしていってください」

 笑みまで浮かべて謝意を示す白鳳の手の平を翻した挙止に、チェリーも些か戸惑い口をへの字に曲げている。白鳳の品評の基準は自分にとって有用かどうかと、知世子との関係性だ。浅くても深くても彼の御眼鏡には適わない。以前ほどの勢威はなくとも今でもその発言は学会のみならず財界政界にまで及ぶと聞く。不遜な小娘一人、ごく短い付き合いで終わらせることくらい彼にとっては掌上の些事だ。

「ただ…聞いての通り知世子さんの…病気、これはとても特別でねぇ…この時勢、どこで誰に聞かれているか分からない…分かるね?情報は正しく統制する必要がある、くれぐれも…他言無用で。友達はもちろん、あなたの…家族にも」

 白鳳はねっとりと纏わりつくような口調でチェリーに釘を刺す。その滑めた尖端はもちろん青柳にも向いている。青柳にしても知世子の主治医という立場でなければ、DAMDS、即ち知世子の処遇について正反対の意見を持つ彼の去就など風の中の塵に等しい。そんな青柳の心境が露ほども顧みられることはなく、チェリーの軽口は続く。

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。あたしには喋るような家族も信用できる友達もいないから。…この子以外にね」

 手首を翻して親指で指しチェリーが真面目な顔でそう言うので、チョコは思わず姿勢を正し眉毛を跳ね上げる。それを見て青柳の肩を掴む手がようやく弛む。どうやら品定めは終わり、一先ず彼女は赦されたようだ。青柳も心中息を吐く。しかし今日白鳳は何をしに来たのだろう。大学本構は都心にあり、郊外の丘の上に切り離されたこの病院まで車でも一時間はかかる。ここまで足を運ぶにはそれなりの要件があるはずだが、まさか…

「時に青柳先生。知世子さんの静脈血なんですが、もう少しサンプルが必要でして…また採血の方、お願いできますか?」

「え?昨日の分で終わりのはずじゃあ…」

 やはり。昨日の会話から知世子が今日も居るのを察することくらい容易い。そうでなければこんな辺鄙な臨床施設しかない病院にわざわざ何度も足を運ぶまい。

「ええ、予定では十分量だったんですけどね。追加で…そうですね、あと3ミリほどもあれば事足りるのですが…」

「しかし、彼女の傷の治りはご存知ですよね?この二週間でもう十二本も採血しているんですよ?量はともかく、これ以上穿刺すれば血管が壊死する危険がある。せめて来週になりませんか?」

「おや、もうお忘れですか?来週はアメリカだと昨日お話したばかりじゃないですか。今回のAAPSはとても重要でしてね…いえいえ、もちろん発表などしませんよ、お二人との約束がありますからねぇ。ただ、メチル化とグロブリン発現量に関してどうも面白い結果が出そうでして…お願いしますよ、青柳先生」

「そんな…ですが、彼女の血管は物理的にもう…」

「ヤギ先生、わたしなら大丈夫。ほら、右が駄目なら左から採って。わたしの血が役に立つのならいくらでも使ってください、白鳳先生」

 既に知世子は左腕の袖を肘まで捲り上げていた。だがその皮膚は右腕とは比較にならない。肘裏どころか手首にまで瘢痕が蔓延っているのに、一体どこに針を打てと言うのか。

「無理だ、知世子さん。ケロイドに穿刺してどうなったか覚えているだろう?よしんば採れたとしても内出血は抑えられない。学祭だってあるじゃないか、そんなリスクは…」

「平気平気、肘吊るくらいどうってことないよ。どうせ人前に出ることはしないんだし。ね?お願い」

 白鳳は何も言わず、二人のやり取りをただ黙ってその醒めた眼で見ている。まるで獲物を前にした蛇だ。二股に分かれた舌を舐め摺り、匂いならず呑み込む機微を嗅ぎ取っている。卑怯な。知世子を盾にされたら青柳には為す術がない。こうなるとこの子は如何に青柳の言うことでも頑として聞かなくなる…

「ふうん…面白いわねぇ、あんたたち」

 チェリーが誰にともなく呟いている。青柳は憮然としながら引き出しからシリンジと注射針を取り出し機械的に組み上げ、皮下の血管などまるで視認できない左腕肘裏に十分に確かめもせず針を突き立てる。黒く皺の寄れた皮膚は固く脆く、クレームブリュレのように刺した針の周りから皹が入りそうだ。針先の感触だけで辛うじて採血できそうな血管を探り当て、昨日の倍ほども時間をかけてようやく3ミリリットルの血液を得る。既に皮下には瘢痕よりもどす黒い静脈血がじわりと染み出していて歪な円を描いている。たっぷりの脱脂綿で押さえながら針を抜くも瞬く間に搾れるほど血が噴き出してくる。止血パッドなど役に立たない。ガーゼを幾重にも重ねテープで留めた上から包帯を巻き付けている間も、青柳は知世子の顔を見られないでいた。きっと聖母を気取り微笑んでいることだろう。いっそ般若であればこんな思いもせずに済むのだが…白鳳は待ち切れず青柳の手からシリンジをひったくり勝手に針先を替え採血チューブに血液を移し、その様子をチェリーが興味津々に身を乗り出して見ている。

「お疲れ様でした、知世子さん…これで研究も円滑に進むことでしょう。青柳先生、これまでの進捗については来週までに報告書を出させますので…では」

 獲物を呑み込みそそくさと退散していく蛇に返事もせず、青柳は黙々と知世子の肘を三角巾で吊っている。ドアの開く音に知世子がぴくりと首を上げ、小さく声を漏らした。

「あ…」

 振り向くと白鳳はまだ診察室の中にいた。そして彼の目の前、開いたドアの向こうには長い前髪が黒縁眼鏡に掛かり目元の隠れた小柄な男が立っていた。白鳳は自分の肩までもない背丈のその男を見下ろし、露骨に険しく顔を歪める。

「…こんなところで何をしている?」

 声音は既に質問ではなく糾弾のそれになっている。男はおどおどと白鳳から視線を逸らし所在なく泳がせる。

「い、いえ…サ、サンプルを、う、受け取りに…」

「サンプルなら私が今受け取った、お前はここには来るなと言っているだろう?どうして指示に従わない?それよりメチル化解析は終わったのか?MSPは?駄目ならCOBRAでやればいいだろう、それぐらい自分で判断できんのか?報告書のリミットは来週の月曜だ、それまでに読める形にして持って来い」

 口の中で吃音を籠らせる男に白鳳は苛立ちを隠そうともしない。矢継ぎ早に詰られて男は益々哀れに狼狽え、小刻みに震えている。

「げ、月曜?…で、でも、今朝は来週末までと…」

「なんだ?文句でもあるのか?予定など変わる、当然だ、そもそもお前がいつまでも結果を出さないから俺がわざわざここまで頭を下げに来ているんだぞ、血球だけで何か月かけるつもりだ、進捗も碌に報告できん奴が!文句を垂れる資格があるか!」

 次第に語気まで乱れてくる。さっきまでの青柳たちに対する態度とまるで違う。人格まで変わったように取り付く島がない。それでも分厚い眼鏡の下の三白眼が許しを請うように舐め上げる。

「で、でも、旧式のPCRではそれだけで時間が…げ、月曜にはとても…そ、それに、サ、サンプルもたったこれだけでは…」

「うるさい!でも、でも、と!まだ口答えする気か!できるかどうかなど聞いてない、やれと言っている!いいか、月曜の朝には報告書を上げろ、八十時間も猶予をやるんだ、それ以上は待たんぞ!血が足らなければ自分で何とかしろ、この愚図が!」

 白鳳は男の胸に採血チューブを乱暴に押し付け部屋を出て行く。肩を突き飛ばされた男の首がブリキのおもちゃのように振れる。

「分かっているのか、黒羽…あまり俺に恥をかかせるな…」」

 去り際、男の耳に噛みつきそうなほど顔を寄せ、白鳳は臆面もなくそう吐き捨てる。男は受け取ったチューブを持て余すように両手で握り、でも、でも、と小声で呟きながら首を振り続けている。

「お兄ちゃん…」

 青柳はこの男を知っている。知っていると言うだけでは足らぬほど浅からぬ関係がある。彼は白鳳研究室に出向中の都築製薬の研究員であり、他ならぬ知世子のたった一人の兄だ。まだ学生服の頃から成長を見届けてきた彼も、今は研究対象を同じくする共同研究者として青柳の前にいる。その研究対象―――すなわち自分の妹の血を手に、彼は部屋に入るべきか否か決断できず、診察室の入口で立ち尽くしている。

「悠太…屋上のパイロシーケンサーなら自由に使っていい、カードキーが必要なら僕のを貸そう。でも知世子さんの採血はもう無理だ。今君が手にしている分で採血できる血管が尽きた。教授の言った通り、3ミリあれば血球のPCRにも血漿のグロブリン量の測定にも十分だろう?すまないが…」

「先生、まだ採れる血管はあります。お兄ちゃん大丈夫、いくらでも持って行って」

 知世子が吊られた手で右腕の袖を捲り始めた。それを見て悠太が半睡のままふらつきながら近寄ってくる。馬鹿な。高々一つのデータのために。これ以上この兄妹の我が侭を聞く訳にはいかない。

「いい加減にするんだ、悠太、知世子」

 怒鳴り出したくなる気持ちを抑え、青柳は声を殺して窘める。白鳳のように激情に身を任せられればどんなにか気が楽だろう。だがそれだけで怯え身を竦める二人を見ると、強い言葉が出なくなる。これが親心というものなのだろうか?目の端でにやつくチェリーの顔が癪に障る。

「知世子さん、これ以上採血したら本当に両腕とも使えなくなってしまうぞ。周りに迷惑までかけてどうする?それじゃあ本末転倒だろう。悠太ももう少し彼女の気持ちを汲んでやれ。もう立派な社会人なんだろう?いくら妹だからって、知世子さんは君の実験動物じゃあないんだぞ……」

 白々しい言葉を並べ、なるたけ傷付けないように諭そうとしている自分に嫌気が差す。何が親心だ。なったこともないくせに。知世子はしゅんと項垂れ袖を戻し、悠太は虚ろな眼で青柳を睨み小さく一つ舌を打つ。

「へえ、あんたたち兄妹なの?全然似てないわねぇ」

 沈んだ空気をものともせずチェリーが適当な茶々を入れる。睨む先を変えた悠太に、知世子が慌てて乱れた空気を取り成す。

「そ、そう?目とか眉とか、良く似てるって言われるけど…」

「顔じゃないわよ。性質が、よ」

 人を物のように呼ばわり、チェリーは胡坐を解くとその弾みでベッドから飛び降りる。組んだ腕を当てるほど体を寄せてくるチェリーに気圧され、たじろいだ悠太はフンと鼻を鳴らし踵を返す。

「待って、お兄ちゃん…!これ…」

 出て行こうとする兄を呼び止め、肘も吊らないまま知世子が立ち上がり壁に掛けてあったブレザーのポケットからリボン付きのチケットをもう一枚取り出し悠太に差し出す。

「息抜きにどうかと思って…気が向いたらでいいから。ほら、ヤギ先生も来てくれるし、一緒に回ったらいいよ。それに!アン先生も是非って…」

 払い飛ばそうと振り上げた手が、知世子の最後の言葉で止まる。アン先生とは悠太の担任もしていた小倉先生のことか。青柳も何度か会ったことがある。学校で友達のいない悠太にいつも目を掛けてくれていた。特殊な障碍者の知世子を進んで受け入れてくれたのも彼女だ。悠太は暫し迷った末に、結局拝むように差し出す妹の手からチケットをひったくりそのままカードキーも持たずにずかずかと足を踏み鳴らして帰って行った。

「はあ…悠太は実際良くやってくれているよ。都築製薬からの出向では研究室でも肩身が狭かろうに。白鳳教授も一方的に契約を打ち切られた恨みも分からなくはないけど、だからって悠太には関係のないことだし、君の前であんなに辛く当たらなくたって…」

 一体誰に何を言い訳しているのか。この期に及んでまだ嫌われないように口を濁す青柳に、知世子は凛と寂しい微笑みを浮かべる。

「大丈夫です、ヤギ先生。お兄ちゃんも…きっと分かってくれていると思います」

 情けない話だ。守るべき相手に結局慰められてしまっている。青柳もつられてみっともなく相好を崩す。すると、微笑み合う二人の間を邪魔するかのようにチェリーが割って入って来た。

「やるわねぇ、チョコ…利用されているなんてとんでもない勘違いだったわ。差し詰め、この男どもの女王ってとこかしら?」

「じょ、女王…?やだなチェリーちゃん、そんなじゃないよ。わたしは言われた通りにしているだけだし…」

「あんたがそう思っていなくても」

 チェリーは青柳に向けて顎をしゃくる。

「この情けない主治医も居丈高な教授も気色の悪い兄貴も、ちゃんとあんたのために尽くしているじゃない。こいつらだけじゃないわ、クラスのおせっかい眼鏡も気障なノッポもその取り巻きたちも、みんなあんたの顔色を窺って機嫌を取って媚びへつらってる。それが女王じゃなくて何だって言うのよ?」

「そんな…わたし、そんなつもりじゃ…」

 チェリーは知世子の足元に跪くと宮廷の貴族がするように恭しく手を取り、その甲に鼻先を寄せる。

「いいじゃないの、女王様。あんたは利用されているんじゃない…」

 チェリーは捉えどころのない漠とした笑顔を困っている聖母に見せつけ、そのまま知世子の手の甲に唇を押し付けた。

「あんたが支配しているのよ」

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