第9話

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 カールが退院するという前の日、ボクはティムとマリアを伴ってカールの病室を訪れた。

「娘さんを連れてきたよ」

 ティムがマリアの肩を抱きながら、ベッドに横たわっているカールの前にマリアを誘導した。カールは起き上がり、マリアの手を取って微笑んだ。

「お父さん!」

 マリアはカールに抱きついて泣きじゃくった。カールもマリアを強く抱きしめて大粒の涙を流した。

「お前をどれだけ捜したことか。クロスを贈ったプリティがまさかわたしの娘と繋がっていたなんて、信じられないような気がする。きっと星がお前を導いてくれたんだ。本当に嬉しい!」

「プリティが、ニューヨークに連れて来てくれた人が本当のお父さんだったなんて奇跡だわ。本当に運命のクロスロードってあるのよね」

「ティムといういいお兄さんに恵まれたからこそ、今ここで幸せに暮らせている。そのことを有難く思うんだぞ」

 抱き合ったまま、カールはやさしくマリアの髪を撫でていた。

「ええ、わかってるわ。わたしの気持ちはもうちゃんと兄さんに伝えているから安心して頂戴」

「そうか。こうなりゃ亡くなったフリオとカタリーナにも、親子が無事会えたことを報告しなくちゃならない。手記を読ませてもらったが、憎んでも憎みきれない。本当の親の気持ちとしては当たり前のことだ。しかしもう済んでしまったことだ。彼らはお前のことで充分に苦しみ、悩んだ。もうこれ以上死者に鞭打つことはしたくない。体が回復したら、一緒にジャマイカに行って、墓前に花を捧げよう」

「ええ、そうしましょう。本当のお母さんにも報告したいわ。お父さんと会えたって」

「それにはブエノスアイレスまで行かなくっちゃな」

 ティムはカールとマリアだけの時間を作ろうと、ボクに声をかけて病室から出た。

「お母さんはマルガリータという名前なのね」

「そうだ」

「アメリカで言えば、マーガレットね。すてきな名前だわ」

 マリアは何度も母親の名前を呼んでみた。

「お母さんはどんな人だったの?」

「とてもやさしい人だった。当時のアルゼンチンは今よりもずっと貧しい人が多かったんだ。マルガリータは貧民街の一角で仲間と一緒にボランティア活動をしていた。料理がうまかったから、よく仲間の女性らと貧しい人々のための食事を作っていた。食材は仲間の勤めるレストランやマーケットから調達していた。その合間を見つけて衣服を縫う仕事でわずかな生活費を稼いでいたんだ」

「お父さんとはどうして知り合ったの?」

「当時父さんはナチスの戦犯を追っていた。そのひとりがようやく長い密偵の結果ブエノスアイレスのアパートに暮らしていることがわかった。父さんは仲間と共にそのアパートに急行した。ところが、何かの情報が洩れたせいか、その戦犯の男は父さんらの追尾に気付き、アパートから逃げ出したんだ。父さんらはその男が階段から必死に逃げようとしているところに出くわした。そして後を追った。男は貧民街に逃げ込んだ。袋の鼠だと思ったが、男は食事を配膳していたボランティア女性に銃を突きつけて父さんらを牽制(けんせい)したんだ」

「それで?」

「銃を突きつけられた女性が母さんだった。男は父さんらに追い詰められ、結局逃れられないと思ったのか、頭を銃で撃ち、自殺した。母さんは無事助かった。それから父さんは母さんの仕事振りを見に、時々貧民街を訪れるようになったんだ。いつの頃からか、一緒にコーヒーを飲みながら話すようになった。父さんは、母さんが社会的な弱者のために働いている姿を美しいと思っていた。ナチスに追われて家族と共にドイツを脱出し、各地の貧しいユダヤ人居住区を逃げ回っていた頃に、同胞のユダヤ人が食事の世話をしてくれたのを思い出していたんだ。母さんにそんな話をしているうちに、お互いの境遇が重なって見えるようになっていった。母さんも貧しい家に育ち、小さい頃から苦労人だった。だから、貧しくて弱い立場にいる人々の気持ちがよくわかり、ボランティアに身を投じた。お互いの気持ちが通い合い、結婚した。そしてお前が生まれたんだ」

「そうだったの。プリティからも話は聞いていたけど、やはり大変だったのね」

「母さんはお前が生まれて本当に幸せそうだった。毎日お前にミルクをやり、おむつを代えた。仕事を終えて病院に通ってくる父さんに、あやしながらお前の顔を見せた。その時、お前の背中には、あの白い痣(あざ)が既にあった」

「痣は生まれつきあったのね」

「そんなある日、ちょっとした隙にお前がいなくなった。母さんは半狂乱になり、あちらこちらを捜し回った。でもお前の姿はどこにもなかった。それからしばらくして母さんはしゃべらなくなり、いつも虚ろな顔をしてベッドを離れなくなってしまった。父さんは仕事でいつも帰宅が遅かったので、昼間は近くに住む母さんの友達に見てもらっていたが、食欲が戻らず、母さんはどんどんやせ細って行った。そしてとうとう精神に異常を来たして、亡くなったんだ」

 マリアは目を潤ませながら、父親の話に聴き入っていた。

「母さんを埋葬してから、父さんは本格的にお前を捜し始めた。警察にも届け、仲間にも協力を仰いだ。まさかジャマイカに連れ去られていたとは全く知る由もなかった」

「わたしは赤ん坊のままフリオとカタリーナの子供になってしまったという訳ね」

「あの新聞記事を読んだかい?」

「ええ、兄さんに見せてもらったわ」

「あんな犯罪組織があったのは全く知らなかった。もう少し早くわかっていたら、何とかなったのかも知れないが、今となってはどうしようもない。よくあの記事が目についたと思う」

「お父さんのせいじゃない。自分を責めないで。今こうして会えたんだから。クロスを作って祈ってくれたお父さんの強い願いが通じたのよ」

「マリア!」

 二人はもう一度強く抱き合った。



カールがすっかり回復したのを見計らい、ボクはティム、それにマリアと共にジャマイカに飛んだ。ニューヨークから飛び立ち、しばらくして眠ってしまったボクが目覚めると、飛行機はちょうどキューバ上空を飛んでいた。

「くっきりと島の輪郭がわかる。地図と全く同じ形だ。島を囲む真っ青な海、これがカリブの海か」

 海を見るのが初めてのボクはその青さに目を奪われていた。カールは心地よさそうに寝息をたてている。ティムは推理小説を読んでいた。

「キューバが見えたら、ジャマイカは間もなくよ」

 マリアが窓から外の風景を眺めながら言った。

「早く海の絵を描いてみたい。あの色がうまく出せるかなあ」

 ボクははしゃいでいた。

飛行機はしばらくしてジャマイカの空港に着いた。

「本当に久し振りだわ。ほら、椰子の木が生えている。住んでいた頃は当たり前の景色だったけど、今じゃすごく新鮮に見えるわ」

 マリアが目を輝かせた。空港に降り立った時から南国特有の熱い空気を含んだ海風がボクの頬を撫で続けていた。塩の匂いが鼻をくすぐる。海がすぐ近くにあるんだろう。ニューヨークの寒さが嘘のようだ。ボクは防寒コートを脱ぎ、半袖のTシャツ姿になった。

 空港からタクシーに乗り、椰子が繁茂する地道を揺られて行くと、木々の間にコバルトブルーの海が見え隠れしていた。

「海が白く波立っているね」

「風が強いせいよ。ほら、椰子の木を御覧なさい。葉が風に靡いているわ」

 風に乗って民家の方から音楽が流れて来た。陽気なリズムが耳に心地よい。

「あれがレゲエよ、プリティ」

 ボクは頷きながら、リズムに合わせてステップを踏んだ。

 タクシーは海岸線をはるか下に見ながら、砂埃を巻き上げ、坂を上がって行った。道端に少女が座っている。こんなところで一体何をしているのだろう。ボクは少女を見つめていた。

「運転手さん、停めて」

 ティムが叫んだ。タクシーは少女の傍らでガクンと停まった。途端に砂埃があたりに立ちこめた。

「二つおくれ」

 ティムがタクシーの窓から手を伸ばしながら少女に声を掛けた。手には数枚のコインが握られていた。

少女は手で埃を払うような動作をしたかと思うと、傍にあったバスケットから何かを取り出した。それは花束だった。熱帯特有の鮮やかな原色の花が数本、陽を受けて光っている。少女はティムの掌からコインを受け取り、一枚ずつゆっくりと確かめていた。納得すると嬉しそうに腰にぶら下げていた袋の中にコインをしまい込んだ。そしてティムの手に花束を二つ握らせた。

タクシーはまた走り出した。少女の姿はあっという間に砂埃の彼方へと消えてしまった。

「こんなところで少女が花を売っているんですね」

 ボクは不思議そうにティムを見た。

「ここを車で通る人間は墓参りに行くから、花束が売れるんだよ」

 ティムが束ねられた花の香りを嗅ぎながら言った。しばらくすると、セメタリー(墓園)が見えて来た。

「あそこにフリオとカタリーナが眠っている」

 タクシーはセメタリーの入り口で停まり、ボクらは降りた。

「ここで待っていてくれ」

 ティムは運転手にそう言うと、ボクらを先導して歩き始めた。

「あれから十二年経つが、ここいら辺はちっとも変ってない。昔のままだ」

 ティムがセメタリーに通じる階段を上りながら言った。マリアはカールの腕をしっかりと掴み、並んでゆっくりと歩を進めていた。

セメタリーは海に突き出した岬の台地の上にあった。数百基もあろうか、白いクロスがカリブ海の水平線をバックに、陽光を受けて佇んでいた。ボクらはティムの後に続いた。

「この先だ」

 ティムが指差した。ボクらは並び立つクロスの間にある小道を進んで行った。すると、ティムの足が停まった。

「これだ」

 古びた隣り合わせのクロスの墓標にフリオとカタリーナの名前が辛うじて読めた。カールとマリアはティムから受け取った花束を二つのクロスの前に置こうとした。

「おかしいな。誰か最近参ったのだろうか」

 カールが首を傾げた。二つのクロスの前には、まだ新しそうな花束が置いてあった。

「彼らの墓に詣でる人間の心当たりはありません。何かの間違いで、誰かが置いて行ったのかも知れませんね」

 ティムも首を傾げていた。

「とにかく祈りましょう」

 カールとマリアが花束を二つのクロスの前に置き、ボクらは全員黙祷を捧げた。

「ティム! ティムじゃないか!」

 突然背後でしわがれた男の声がした。振り向くと、みすぼらしい身なりの老人が立っていた。ティムは不審気な視線を老人に向けていたが、すぐに頷いた。

「フェリックス! どうしてここに?」

 ティムが叫んだ。フェリックスと呼ばれた老人は、今度はマリアの方を向いた。

「ティム、ひょっとしてマリアじゃないのか?」

 マリアは驚いてティムの顔を見た。ティムはマリアに頷きを返した。

「ジャマイカに住んでいた頃の隣人フェリックスだ。フェリックス、そのとおり、妹のマリアだ」

 老人は大きく頷いて、赤銅色の顔をほころばさせた.

「大きくなったな。しばらくわからなかった」

「マリア、お前は小学生だったから余りよく覚えていないよね。当時はフェリックスによくかわいがってもらっていたんだよ」

 マリアはフェリックスに軽く会釈をした。

「それにしても一体どうしたんだ。何故ここに?」

 ティムが訊ねた。

「俺はこの墓地の管理を頼まれているんだ。相も変らず貧乏暮らしさ。わずかでも生活費の足しにしようと思って引き受けたんだ。まさかここでお前に会えるとは思いもかけなかった。お前こそ、どういう風の吹き回しなんだ?」

 ティムは事情をかいつまんで話した。

「へえ、それじゃこちらの旦那がマリアの本当の親爺さんかね」

 フェリックスはカールを見つめていた。

「フリオとカタリーナの墓前に花束を置いてくれたのは、あんたなのか?」

 ティムが訊ねた。

「ああ、フリオとカタリーナには生前よくしてもらった。だから、お前がマリアと一緒にジャマイカを離れてからも、時々花ぐらいは置かせてもらっている」

「ありがとう。俺の方は放ったらかしにしていたのに」

「人間皆自分が一番大切さ。それは何も利己主義という意味じゃない。人にはそれぞれ捨て置けない事情というものがあるのさ。お前はそれに従ってこのモンティゴ・ベイを離れて行っただけのことだ」

 微笑むと、赤銅色の顔に刻まれた深い皺が震えた。

「フェリックスさん。養父母がお世話になりました」

 マリアが礼を言った。

「いや、何も。それにしてもすっかり大人になったな。町で出会ったら全くわからなかった」

 照れ笑いをすると、不揃いな黄ばんだ歯が見えた。

 花束をクロスの前に置いて祈り、参拝を終えたボクらはセメタリーの階段をゆっくりと下りて行った。

「墓地に来る道で女の子が花を売っていただろう。あれは俺の孫娘なんだ。息子夫婦がこの近くに住んでいる」

 フェリックスが微笑みながら言った。

「へえ、それは、それは。かわいいお孫さんだね」

「ところで、ティム。伝えておかないといけないことがある。それはお前がモンティゴ・ベイを離れてからずっと後でわかったことだ。どっちにしてもお前が何処に住んでいるのかわからなかったから、連絡の仕様がなかった。今日こうして会えたのも、神様のめぐり合わせだろう」

 フェリックスは胸元で小さな十字を切った。

「一体何のことだ?」

 ティムが怪訝な表情を向けた。

 フェリックスはティムの耳元で何かを囁いた。途端にティムの顔色が変った。

「何だって! フリオとカタリーナは事故で亡くなったんじゃ・・・・・・」

 ティムは信じられないといった表情をフェリックスに向けていた。

「間違いない。詳しいことは警察で聞いてくれ。資料が公開されているからな。俺は孫娘が心配になって来た。じゃあまたな。元気で」

 フェリックスは急に何かを思い出したように帰り支度を始めた。

「まだ昔の家に住んでいるのか?」背後からティムが声を掛けた。

「ああ、そうだよ。じゃあな」フェリックスは足早に去って行った。ティムは固い表情のまま、立ちすくんでいた。

「どうしたの、兄さん」

 マリアが訊ねた。

「フリオとカタリーナは自殺したと言うんだ」

「えっ、それ本当なの? 交通事故で亡くなったんじゃなかったの?」

 マリアが首を傾げた。カールも顔を曇らせていた。

「とにかく、町に戻って警察で真相を聞こう。資料が保管されているそうだからな。話はそれからだ」

 ボクらは待たせていたタクシーに飛び乗り、町へと急いだ。



 警察の話はこうだった。

フリオとカタリーナが亡くなった日の夜は激しいスコールが降り続いており、事故が起こった地道は泥濘(ぬかるみ)が多く、滑りやすい状態だった。その地道を外国からやって来て、でこぼこ道の運転に慣れていない男が車で通りかかった。そこへ地道の脇にある林の中から、突然男女が飛び出して来て次々に車に跳ねられた。検証の報告によると、車はかなりのスピードを出しており、跳ねられた男女は即死状態だった。車はそのまま走り去り、翌朝道を車で通りかかった行商人が二人の遺体を見つけ、警察に届けた。

二人はフリオとカタリーナであることが確認された。検死の結果、死因は車に跳ねられたことによる全身打撲と内蔵破裂。警察は遺体に付着していた車の塗料片から車種を割り出し、レンタカー会社で車を借りた男が特定された。

その男はモンティゴ・ベイのホテルに宿泊していることがわかり、警察が取り調べた。激しいスコールが降る暗がりで何かを跳ねたような感じはあったが、まさか人間だったとは思わなかったと証言している。

亡くなったフリオの遺体を検索したところ、上着の胸ポケットから遺書が見つかった。当時遺書などの遺留品については、個人の秘密を守るため一般には公開されなかったが、その後法律が変り、遺書なども情報公開の対象となって、請求があれば公開されるようになった。

「その遺書は見せていただけるのですか」

 ティムが警察の担当者に訊ねた。

「閲覧室だったら、見ることは可能です。但し、請求者本人に限ります」

 ティムは代表して遺書に目を通すことになった。遺書は透明ビニールのファイルに収められ、証拠物件として番号がふられていた。変色したと思われるメモ用紙に書きなぐった感じで、文字にも乱れがあった。ティムは遺書を読み始めた。


長年にわたり、マリアをわが子と思い、育てて来ましたが、いつまで経っても違法に病院から連れ出された子だという思いが去りませんでした。本当の親のことも薄々知っていたのに届け出なかったことが悔やまれ、罪をこのまま背負ってマリアを育てていく自信がなくなりました。ご迷惑をおかけしますが、後のことはよろしくお願いします。              

                       フリオ・モンテス


たったそれだけの遺書だった。ティムはフリオとカタリーナに降りかかった運命のいたずらに改めて憎悪の念を抱いていた。カールの話に触発されて遺品の中から見つけた手記には、罪を背負いながらもマリアを育てていこうという二人の強い意志が感じられた。しかし、その後十年ほどして書かれたであろうこの遺書には、罪に打ちひしがれ、絶望した二人の印象しか感じられない。その十年間で果たして二人の心境にどんな変化が起きたのか、知る由もないが、二人のマリアとの暮らしぶりを身近で見ていた限りでは、想像出来ない変化だ。この文面通りとすれば、マリアを娘として暮らし始めたフリオとカタリーナは十年後、心も体も疲れ果てて、マリアを置き去りにして死を選んだことになる。マリアを育て上げるという責任を全うせずに放棄するくらいなら、始めからさっさと届け出るべきだった。そうすれば、罪に苛まれることもなく、こんなに切羽詰った形で死に急ぐこともなかった。マリアも親を奪い取られることもなく、カールとマルガリータの娘として育つことが出来たはずだ。

 ティムは改めてフリオとカタリーナの罪の深さに触れる思いだったが、何処か腑に落ちない気がしていた。

 閲覧室を出ると、マリアらが待っていた。ティムはとりあえず、皆に遺書の内容を告げた。

「酷い! 死ぬほど罪を感じているんだったら、どうしてわたしを両親の許に返してくれなかったの! そんなの卑怯よ!」

 マリアは部屋を飛び出して行った。カールとボクは後を追った。ティムは部屋に残り、黙って椅子に腰を掛け、考えに耽っていた。

マリアは警察署の入り口にある石段にしゃがみ込み、すすり泣いていた。カールは肩をやさしく抱いた。

「マリア、もう全て終わってしまったことだ。フリオもカタリーナも罪を罪と感じるふつうの人間だったんだよ。長くかかったが、ようやく天に願いが通じて、親子がこうして再会出来たんだ。セメタリーでフリオとカタリーナにもその報告をした。もうこれ以上、二人のことを責めるのはやめにしよう。我々はこれからのことを考えるんだ」

 マリアはカールに抱きついて嗚咽(おえつ)していた。ボクは傍で親子の姿を前に、胸にぶら下げているクロスの輝く石を見つめていた。


    4


ボクらはモンティゴ・ベイのホテルで一泊し、翌日はカリブの浜辺で過ごした。ボクとマリアは浜辺に出て、椰子の木陰に座って絵を描いた。真っ青な空の下、遠く沖合に船影が浮かび、カリブの波が繰り返し打ち寄せていた。  

 ボクは隣で描くマリアの絵を覗き込んだ。

「あら、見ないで!」

 マリアが手のひらを目の前に突き出して微笑んだ。ボクは初めてマリアと出会った日の会話を思い出していた。

「カリブ海の色は真っ青で、空も抜けるように青い。浜辺で女性が頭の上にフルーツを乗っけて売り歩いている。椰子の木陰でそのフルーツを食べながら、よく海の風景を描いたの。南国の花も原色でとても絵には映えるのね」

「ボクの故郷には海がない。平原が続く大地さ。ブラック・ヒルズという聖なる丘があって、母親がボクを産んだのはその一角にある家だった。土間の一角に小さな岩が転がっていてそれがボクの名前になった。プリティ・ロックさ」

 あれから色んなことがあった。心も揺れ続けた。初めて出会った時、マリアに好感を持った。都会のセンスにあふれた服装。長い髪とつぶらな瞳。開けっぴろげな性格。付き合うにつれて心は自然と惹かれていった。

あの頃は一緒にいないと、心が落ち着かず、マリアの姿を想像するだけで胸がキュンとなった。会いたくて、会いたくて仕方がなかった。

マリアも好意を寄せてくれていると思い込んでいた。でも、当時マリアにとっては元カレのソンイルの方が頼り甲斐のある男だったんだろう。二人の恋に割り込む力なんてなかった。そう思い込んでいた。だからこそ遊び女だと思い切り、マリアとの関係にむりやり終止符を打とうとしたのかも知れない。あれほど心を占めていたマリアは急速に遠のいた存在になってしまった。

しかし、一旦ニューヨークを離れてみると、割り切れていない心が顔を覗かせた。何故かマリアのことが懐かしく思われたのだ。マリアを心の中で拭い去ることは出来そうにもなかった。もう一度付き合ってみたいという気持ちに駆られるようになっていった。マリアの本心を確かめたかったのだ。

再びニューヨークに来てソンイルに出くわした時、こんな野蛮な男にマリアを渡すことは絶対に出来ないと強く思った。マリアを守リ抜こう。その時ボクはマリアを愛していることを自覚したような気がする。ソンイルという強烈な存在が、逆にボクの気持ちをはっきりさせたのかも知れない。

そして今、二人で、カリブ海を目の前に絵を描いている。寄り添い合いながら。誰かが二人の姿を見れば、恋人同士に見えるだろうか。ボクは海を見ているマリアの横顔を見つめた。

「そろそろランチ・タイムだ。浜のレストランで食事をしよう」

 振り返ると、カールが麦藁帽子を被り、サングラスを掛けて立っていた。ボクらは絵をそのままにして、カールとレストランに行った。ボクは先ほどからティムの姿がないことに気付いた。

「ティムはどうしたの?」

「明日ニューヨークに戻るから、その準備でもしてるんじゃない?」

 マリアがミニ傘を浮べたトロピカル・フルーツを飲む手を休めて言った。

「そうだったな。ティムは店があるので、ブエノスアイレスには行かないんだった」

 ボクら三人は、あさっての午後ブエノスアイレスに出発することになっていた。ティムと一緒にニューヨークに帰ろうと思っていたが、マリアからカールの傍にいて欲しいと言われ、ついて行くことにしたのだ。

「カール、体の具合はどう?」

「うん、大丈夫。マルガリータに娘を見せるまでは死ねないよ」

 そう言ってカールは楽しそうに笑った。


 その頃ティムは警察署にいた。遺書を見に行った時に会った担当官の隣に、当時フリオらの自殺現場の検証に参加した年配の担当官が呼ばれていた。

「二人は自殺したということですが、間違いありませんか?」

「遺書がありましたからね。我々はそう判断しました」

 年配警官が言った。

「遺書の字はフリオのもののようでしたが、あれくらいの文だったら、本人を脅して書かせることも出来るし、誰か別の人間が書いてもわからないんじゃないですかね」ティムが迫った。

「一体何をおっしゃりたいのですか?」年配警官が困惑した表情を見せた。

「二人を轢(ひ)いた車を運転していた男が別の誰かと共謀して計画的に二人を殺害したんじゃないかと思いまして・・・・・・」

「どこにそんな証拠があるんですか!」

 年配警官が興奮して叫んだ。

「確たる証拠はありませんが、そんな気がしてなりませんのでね」ティムは冷静に答えた。

「それではどうしようもありませんな。本件は既に処理済ですからね」

「二人を跳ねた男はどうなりましたか?」ティムは諦めない。

「二人が自殺するために車に飛び込んだことがわかったので、特に罪には問われませんでした」

「その男の名前と当時の住所を教えてもらえませんか」

「いいですよ。情報は公開されていますから」

 ティムはその情報を持って一旦ホテルに戻り、電話のオペレータを呼び出した。

「長距離電話を頼む。ニューヨークだ」

ティムは長電話を終えると、すぐにフェリックスの家に足を運んだ。モンティゴ・ベイの郊外に昔マリアと住んでいた家があった。辺りの風景は十二年前と変っていない。フェリックスは、ティムがやって来たことに不審気な表情を見せた。

「どうした? 警察で何もかもわかっただろう?」

「お前に聞きたいことがある。フリオとカタリーナを跳ねたサントスという男はお前の知り合いだな?」

 フェリックスの血相が変った。

「いや、そんな男は知らない。会ったこともない」

「お前はフリオとカタリーナ殺害の手助けをしたんじゃないのか?」

「何を言うんだ。失敬な。何処に証拠がある?」

「証拠はない。だけど何故お前はわざわざ二人が自殺したと俺に話したんだ?警察が資料を公開しているので、フリオとカタリーナは自殺したと大手を振って言えるからか。いくら罪に苛まれていたとは言え、二人が自殺したなんてことは信じられない。それは俺が二人を誰よりもよく知っているからだ。それにサントスの当時の住所は、パスポートのコピーによれば、不思議なことにブエノスアイレスになっている。ブエノスアイレスにはマリアが生まれて直ぐに連れ去られた病院があるんだよ」

「・・・・・・」

 沈黙したきりのフェリックスにティムは自らの調査の結果を伝えた。

「今から言うことは、俺がお前とセメタリーで出くわしてから後に俺が感じ、推理したことをまとめたものだ。よく聞いて欲しい。俺はさっき、ニューヨークの警察に問い合わせの電話を入れた。サントスという男の件でだ。この前、マリアを連れ去った犯罪組織の全貌が明らかになった。今ニューヨークの警察にも、その組織犯罪を解明する捜査本部が出来ている。ニューヨーク関係の捜査をするためだ。そこでサントスの名前を挙げたら、サントスもその犯罪組織の一員だということがわかった。更にマリアが連れ去られた時に病院で組織の手引をした医者がいた。十年の歳月が流れた頃、組織の中に裏切り者が出た。その医者は裏切り者の証言で犯行がバレはしないかと不安になった。フリオがマリアの身元を確認するために一度病院に連絡を取って来たことがあるのを思い出し、組織に通報した。医者の連絡を受けた組織は、フリオとカタリーナが事情を知っている可能性があると睨み、犯罪を覆い隠そうと、二人の口封じをしようとした。警察によると、その後医者は裏切り者の証言で逮捕されたそうだ。サントスはジャマイカに乗り込み、車で二人を轢き殺す計画をたてた。そのためには、あの夜二人を地道のあの地点まで誘い出す協力者が必要だった。あそこにはモンティゴ・ベイの中心街までの距離を示す大きな交通標識があり、轢き殺す地点としてわかり易い。サントスは、フリオとカタリーナがマリアと住む家の隣人であるお前に札束をちらつかせながら近付いた。お前は金欲しさに二人を誘い出す計画に乗った。そしてあの地道の傍でお前は二人の背後に立ち、近くに停まっているサントスの車に懐中電灯か何かで予め申し合わせていた準備OKのサインを送った。車がすぐ傍に来た途端、お前は二人を道に向かって思い切り突き飛ばした。二人はスピードを上げて走ってきたサントスの車に跳ねられた」

 フェリックスは観念したように下を向いていた。

「フェリックス、お前と俺とは長い付き合いだっただろう? 本当のことを言ってくれ。俺は真実を知りたいだけだ。フリオとカタリーナの名誉のために。お前を警察に訴えたりしないから、さあ!」

「すまない! 許してくれ! 俺が悪かった」

 フェリックスはドアの傍に泣き崩れた。

ティムの推理は大筋で当たっていた。ようやく落ち着いてフェリックスが語ったところによると、あの夜知り合いの家でパーティが開かれていると嘘をつき、車が迎えに来てくれると、交通標識のある地道まで二人を連れ出した。

激しいスコールが降って来たので、地道横の林の中で雨宿りをしながら待っていたが、自分は道に出てサントスと連絡をとり合い、轢き殺すタイミングをはかった。そして頃合いを見計らい、二人に迎えの車が来たから道に出てくれと言って、サントスの車にOKの合図を送った。二人が道に出てきたところに雨の中ライトを煌々と照らしたサントスの車がスピードを上げて接近して来た。車に乗るチャンスを窺っていた二人はまさか轢き殺そうとする車とは思わない。目の前で停まると思っていた車が突然牙をむいた。二人が跳ね飛ばされた後で遺書をフリオの上着の胸ポケットに差し込んだ。

激しいスコールの中で急いで遺書を差し込もうとした時に雷鳴が轟き、稲光に映し出されたフリオの見開いた目が睨みつけているようで生きた心地がしなかった。遺書はフリオの筆跡を真似て、自分が書いたものだ。

偶々十二年ぶりに墓地で出くわしたティムとマリアを見て、フリオとカタリーナの死の真相を知ってやって来たのではないかとハラハラしていたので、二人が自殺したという情報が公開されているのを幸いに、その情報を伝えることにより、自らの罪を隠し通そうと思ったと言う。

セメタリーの管理人となり、フリオとカタリーナの墓標を見る度に、いくら生活費に困っていたとは言え、二人の隣人の命を奪う手伝いをしたことで、いつも良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれて来た。花を二人の墓前に供えるのは、ほんの少しでも重罪を心の中で詫びるためだったと涙ながらに告白した。

ティムはフリオとカタリーナの殺人の片棒を担いだ罪を許せなかったが、小さい孫と息子夫婦がいる老い先短いフェリックスを警察に告発する気にはなれず、そのままにしてホテルに戻った。

その夜、ニューヨークに戻る準備を終えたティムは、部屋にマリア、カールそれにボクを集めて、再び事情を説明した。

「殺人事件だったとはな」

 カールが溜息をついた。

「本当に犯罪組織って恐ろしいわ。人の命を何とも思っていないのね」

 マリアは両腕で体を抱え、体を振るわせた。

「最初は交通事故だと思っていたが、次は自殺に変り、今度は殺人事件になった。明日飛行機に乗る前にもう一度地元警察に行って来るよ。間違った捜査と情報の公開でフリオとカタリーナの名誉をひどく傷つけたんだ。警察は二人の名誉を回復する義務がある。しかし誤りはそう簡単に認めないだろう。事実を発表すれば、警察は非難の的になるからな。ニューヨークに帰ったら市警の捜査本部に出向き、事情を説明することになっている。フリオとカタリーナを計画的に轢き殺したサントスは改めて殺人容疑で指名手配されるだろう」

「フリオとカタリーナが自殺じゃなかったとわかって、何だかほっとしたわ。わたしを見捨てて自殺したんじゃなかったことがわかったんだから」

 マリアが呟くように言った。

「俺もほっとした。これ以上誤解されたら二人は浮かばれない」

 ティムは胸を撫で下ろしていた。

「さあ、寝るか。明日も早い」

 ボクらは自分の部屋に戻った。

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