第7話

 1


 数日後、ボクはカールをヘルズ・キッチンに案内した。カールはすっかり街が気に入り、軒を連ねるエスニック料理店を覗いて回った。ボクはデリでティムを紹介した。

「マリアさんのお兄さんですか。この前妹さんと先住民博物館で出会いました。感じのいい妹さんですね」

「本当の妹じゃないんですが、世間では兄妹と名乗っているんです。まあお座りください」

 ボクらは席について、それぞれドリンクを注文した。

「マリアは思っていたより元気そうだったよ」

 ボクはキッチンに入り、ティムに話し掛けた。ティムは一瞬ボクに視線を投げかけたが、すぐに横を向いてコーヒーを沸かし始めた。やはりボクがマリアに近付いたのを気にしているのだろうか。

「プリティが首からぶら下げているペンダントはカールさんがお作りになったそうですね」

 ティムがコーヒーをカールの前に置いた。

「そうです」

「クロスのペンダントに星型の石が埋め込まれていますね。あれはどういう意味があるんですか」

 ボクはカールの返事に耳を傾けた。

「十字は二つの道が交わるのを象徴しています。クロスロードですね。別々の道を歩む人間同士が運命的に出会い、交わることを意味します。その真中に輝く星は出会った人間同士の絆を強くして見守るという気持ちを込めたものです。例えばわたしとプリティという別々の人生を歩んできた二人が、サウス・ダコタで運命的な出会いをした。星は二人を見守っているというふうに・・・・・・」

 ボクはその言葉をマリアとの関係に重ね合せていた。別々の人生を歩んできたマリアとボクがマンハッタンで出会ったことを。カールから頂いたその星のお陰でマリアと再会できたことを。

 ティムは首を横に振った。

「わたしが訊きたいのは、この星の形です。これはユダヤのダビデの星ですね。ヘブライ語では確かマーゲン・ダビッドといい、ダビデの楯という意味です。マンハッタンのダイヤモンド・ディストリクトでダイヤを販売しているユダヤの友人から聞きました。カールさんはユダヤ系ドイツ人と伺っていますから、その意味合いを込められたのではないかと・・・・・・」

 今度はカールが首を横に振った。

「いえ、そうではありません。そう解釈することは可能ではありますが、わたしの意図としては直接ダビデの星を意識したのではありません」

 ボクはマリアの背中の痣を思い出していた。その痣は確かにマリアが言うように、ダビデの星によく似ていた。火照るとピンク色に浮き出る。マリアが服を脱ぎ、後ろ向きになってベッドに入って来た時、ボクはその痣に気付いた。痣は白っぽい感じだったが、直ぐに星を連想するほど形はくっきりとしていた。マリアの背中を抱いて寝転んでいた時、その痣はピンクに色を変えていた。

「そうですか。ダビデの星だと思ったんですがね」

 ティムは残念そうな表情を見せた。


      2


 翌日ボクはアカデミーの帰りにマリアと近代美術館で待ち合わせ、テラステーブルに腰掛けて、コーヒーを飲んだ。マリアは一口飲んだあと、カップをゆっくりと白塗りのメタル・テーブルに置いて尋ねた。

「この前博物館で紹介してくれた人はどんな人なの?」

 ボクは出会った経緯やカールが語った人生の軌跡を話して聞かせた。

「へえ、ちょっとした運命的な出会いね。七十八年も生きていると本当に色んなことがあるのね。そんな長い人生って想像したこともないわ」

「ボクも。でもカールは気が若いし、木工作品の販売ルートを開拓しようと必死になっている。あの年齢ならニューヨークに飛行機でやって来るだけでも大変だろうに、毎日マンハッタンを商用で歩き回っている。何処からあんなバイタリティが出て来るのか、いつも不思議になるよ」

 思いついたようにマリアが言った。

「久し振りにヘルズ・キッチンを歩いてみない?」

「いいよ。腹がすいたら何処かで食事をしよう。ボクがおごるよ」

「嬉しい! さ、行きましょう」

 ボクらは手をつないで近代美術館を出て歩き始めた。九番街の辺りまで来た時だった。歩道の柵に腰掛けてタバコを吸っている男がいた。ボクらが通り過ぎようとすると、男は突然立ち上がり、タバコを足でもみ消しながら、こちらを振り向いた。

「ソンイル!」

 ボクとマリアの表情はみるみる強張った。

「お二人さん。仲良くデートかい? 結構なご身分だな」

 ソンイルはコートのポケットに両手を突っ込み、こちらを睨みつけた。

「待ち伏せていたんだな」

 ボクはマリアをかばうようにソンイルと対峙した。

「そんなことはどうでもいい。それよりマリア、金を返してもらおうか」

 ソンイルはボクらに向かって一歩踏み出した。ボクらは後ずさりした。

「お金を返せって、どういう意味?」

 マリアが訊いた。

「お前が俺のことをばらしたのはわかっている。お陰さまでこのインディアン野郎の治療費とブタ箱から出る金をたんまり払わされて、文無しになっちまった。仕事もクビになったし、すべて弁償してもらうぞ」

「お前、まだボクのことをインディアンと呼ぶのか? 間違っていると言っただろ!」

 マリアがボクを制止して前に出た。

「文無しになったのは、あんた自身のせいよ。身から出た錆というものだわ。わたしがあんたに金を返す義務なんてこれっぽっちもないわ!」

「相変わらず威勢だけはいいな。俺にそんな口がきけるのか!」

 ソンイルはいきなりマリアの頬をぶん殴った。マリアは歩道に倒れ込んだ。

「マリアに何をする! 暴力をふるうしか能がないのか!」

「黙れ! うすのろインディアン野郎!」

「いい加減にしろ! ボクは誇り高いスーだ。お前にも民族としての誇りがきっとあるはずだ。それを蔑(ないがし)ろにされてお前は黙っていられるのか。ボクは出来ない。どんな民族でも誇りを持ってこの社会に生きているんだ」

 ソンイルの顔に不敵な笑いが浮かんでいた。

「知ったようなことを言いやがって。お前みたいな若造に何がわかる? 生活能力もない野郎に。とっとと田舎に帰って、母親のオッパイでも吸っていやがれ」

「お前は人間の心ってものがわからない情けない奴だ。暴力ばかり振るって、それで人を屈服させたとでも思っているのか? いい加減にあきらめて帰れ!」

 マリアは頬を手で被いながら、ボクの後ろに立っていた。

「さあ、一緒に来い!」

 ソンイルはマリアの腕を力まかせに引っ張った。ボクはソンイルの腕に思い切り噛み付いた。

「痛い! くそっ。何をしやがる」

 ソンイルは顔をゆがめてマリアの腕を放し、腕を押さえて後ずさりした。

「マリアは絶対に渡さない!」

 ボクはソンイルを睨みつけた。喧嘩騒ぎを見ていた誰かが連絡したのか、二人の警官がボクらの方に走って来るのが見えた。

「インディアン、このままで済むと思うなよ」

 ソンイルは捨て台詞を残し、マリアを睨みつけながら走り去って行った。



マリアがソンイルに拉致されたと知ったのは、ティムからの緊急連絡でだった。ティムによれば、ソンイルは電話口にマリアを出し、もしもマリアを生きて帰して欲しいのなら、身代金二十万ドルを用意してマンハッタンの某所に来いというのだった。

ティムは直ぐ警察に連絡し、警察ではソンイルと仲間のアジトを捜しているという。ボクは最悪の事態が起こったことに改めて愕然とした。

「マリアはどんな様子だったんですか」ボクは直ぐにティムと会い、詳しいことを尋ねた。

「かわいそうに、泣きじゃくっていたよ」ティムは唇を噛んだ。

「警察の捜査は進んでいるのでしょうか」

「いや、その辺りは皆目わからない。それにしても二十万ドルなんて大金はどうしようもない」

 ボクはティムの苦渋に満ちた表情をただ見つめるしかなかった。ソンイルは一体マリアに何をしようとしているのだろう。裏切り者呼ばわりして、マリアに酷いリンチでも加えようとしているのだろうか。元はと言えば、一連の事件はボクがソンイルを殴ったことに起因する。あんなことさえしなければ、マリアは平和に暮らせたはずだ。ボクは後悔するとともに激しい自責の念にかられた。か、と言って何も出来ない。マリアの無事を祈るしかない。時間だけが過ぎて行った。

「大変なことになったね」

 カールも顔を歪めていた。

「ソンイルという男は、恐らく自暴自棄になっている。文無しになって、今度捕まればそう簡単には出所出来ないことを知りながら、身代金目的の誘拐と言う重罪を犯してしまった。彼はもう後がない。マリアを傷つけるなどこれ以上犯罪を重ねないように祈るしかなかろう」

「何とかできないものでしょうか」

 ボクは祈るように訊ねた。

「四十年暮らしたブエノスアイレスならいざ知らず、ここマンハッタンでわたしは土地感さえままならない。残念ながら警察に任すしかなかろう」

 ボクは万策尽きたような気がしていた。

警察はソンイルが以前勤務していたリムジン会社の関係者や友人らの証言から、ソンイルがマリアを監禁しそうな場所を調べていた。しばらくして可能性のある幾つかの場所が特定された。警察はそのひとつひとつに捜査員を派遣し徹底的な捜索を開始した。

そのうちソンイルが以前住んでいた二番街近くのアパートの部屋が監禁場所という可能性が高くなった。その部屋は現在空室になっているが、ソンイルがその部屋の合い鍵をまだ持っていて自由に出入り出来ることも考えられるからだ。夜に入って警察はその部屋に的を絞り、密かに捜査員を急行させた。

マリアの救出作戦は進む。ティムが身代金を入れたように見せかけたバッグを持って、ソンイルが指定した場所に出掛けた。捜査員がティムを遠巻きにしながら追尾した。現場には指定された時刻に身代金受け取人と思われる若い男が立っていた。ティムはその男に近付いて行った。

男はサングラスとマスクで顔を隠し、両手で拳銃を構えながらティムの方へ歩いて来た。あと数メートルというところまで近付いた時、男はティムにバッグを自分の方に放り投げるように指示した。ティムが言われたとおりにバッグを投げた瞬間、周りの闇の中から捜査員が飛び出した。

「フリーズ!(動くな)」

 男は一瞬ひるみ、捜査員に向けて拳銃を発射した。闇の中に銃声が乱れ飛んだ。静けさが戻った時、男は数発の弾丸を足に受け、歩道に倒れ込んでいた。

 捜査員が一斉に飛びかかって男を押さえ込み、手錠がかけられた。

「ソンイルは何処にいる?」

 男は観念した表情を見せ、素直に居場所を吐いた。

「間違いない。二番街のアパートだ!」

 緊急連絡を受けたアパート周辺の捜査員は、密かに部屋の周りを固めた。ソンイルがマリアを人質に立てこもる部屋の中を見渡せる隣のビルの屋上には、スナイパーが配置された。

「よし。行くぞ」

 捜査員は部屋のドアをたたいた。

「警察だ! 開けろ!」

 ズキューン! マグナム銃が室内からドアに向けて発射された。弾はドアを貫通し、ドア付近にいた防弾ベストを着た警官が一斉に伏せた。

「入ってくるな! 女の命はないぞ!」

ソンイルが銃を発射したことを確認したスナイパーの高性能ライフルの照準が、ソンイルの後頭部に絞られていた。

「これ以上銃が発射されたら人質の命が危ない。今度奴が撃ったら射殺しろ」

 現場指揮者からスナイパーに無線で指示が出された。

ソンイルはマリアを後ろから抱かかえたまま、更に数発ぶっ放した。ドアを貫通した弾と跳ね返った弾が乱れ飛んだ。その瞬間、スナイパーのライフルが火を噴き、後頭部をぶち抜かれたソンイルの体が吹っ飛んだ。

「キャー!」

 マリアの悲鳴が響き渡った。捜査員が斧でドアを叩き割り、部屋の中に入ると、ソンイルは仰向けになり絶命していた。

マリアは直ぐに救急車で病院に運ばれた。幸いかすり傷程度で助かったが、人質として身柄を拘束された恐怖から来るシンドロームに悩まされていた。

「しばらく入院して安静にする必要がありますね」

 医者がティムに告げた。ティムはベッドの傍でボクと一緒に、眠るマリアを静かに見つめていた。

「本当に危ないところだった。ヘタをすれば、マリアは殺されていたかも知れない」

 ティムは苦悩の表情を浮べながら独り言のように言った。ボクは黙って、起ってしまったことを振り返っていた。


翌日の午後、カールが見舞いにやって来た。

「容体はどうかね?」

 カールは眠り続けているマリアの顔を見つめながら、ボクに訊いた。

「ようやく落ち着いたせいか、ずっと眠っている。お医者さんはしばらく入院して安静にしていれば大丈夫だと言ってくれているよ」

「精神的なショックが大きいだろうな。うまく乗り切ってくれるといいのだが・・・・・・」

 カールは帽子とコートを脱ぎ、椅子に腰を降ろした。

「ティムは?」

「店を閉める訳には行かないので、デリに戻ったよ。ボクが傍にいるから大丈夫だ」

「君も大変だな。スクールがあるんだろう?」

「マリアがよくなるまで傍に居てやりたいから、しばらく休みを取ったんだ」

「そうか」

「カールこそ忙しいんじゃないの?」

「マイケルがサポートしてくれているから順調に行っている。午後は休みを入れた」

 カールはマリアの寝顔を見ていた。

「俺の娘も生きていれば、ちょうどマリアくらいの歳になっているはずだ」

「ブエノスアイレスの産院から連れ出された赤ん坊のことだね」

 カールはマリアの寝顔をずっと見つめたまま話した。

「連れ出された時はまだ名前さえなかった。もしもあんなことがなければ、何という名前を娘に付けていたんだろう。当時考えていた名前があったはずだが、すっかり忘れてしまった」

「カールが何歳くらいの時のことなの?」

「五十六歳の時だ」

「と、いうことは、娘さんは今年二十二歳になるんだね。マリアと同い年くらいだ」

「そういうことだな」

 カールは感慨深げな表情をマリアに向けた。

その時マリアが目を醒ました。

「どうだ、マリア。気分は?」

 マリアはシーツの端を鼻の上まで引っ張りながら、ボクとカールを交互に見つめていた。

「ソンイルの顔がなかなか消えないの。夢の中に現れて、わたし怖くって」

「ソンイルは死んだんだ。もう君を苦しめることはない」

「でも・・・・・・」

「少しずつ良くなるから、安心をし」

 ボクはマリアの目を見つめながら微笑んだ。

「ありがとう、プリティ。傍に居てね」

「ああ、ずっと傍に居るよ」

 マリアは微笑みながら目を閉じた。


   4


 翌日、マリアが精密検査を受けるというので、ボクは病院から外に出て、久し振りに独りでマンハッタンの街を歩いた。これまで余り足が向かなかったミッドタウンの真ん中を探検してみるのもいいかと思い、スカイスクレーパー(摩天楼)が林立するロックフェラーセンターを歩いた。

上を見上げると、青空を突き抜けるように巨大な高層ビルが聳(そび)えている。ビルの間の広場には噴水があり、近付くと飛沫が飛んでくる。高層ビルで働くビジネスマンらがホットドッグやソフト・ドリンクを売る屋台に行列を作っている。

街を歩きながらボクは日本人のヤスイを思い出していた。ウンデッド・ニーで初めて出会い、次に出会ったのはマリアのことで悩んでいた頃だった。

ひょんなことからスナックで再会したヤスイのことが印象に残っていた。このビジネス街の何処かでヤスイは働いているのだろう。そう思いながら、バッグの中から雑記帳を取り出してページをめくっていると、貼り付けていたヤスイの名刺が目に入った。住所を見ると、TLビルになっている。通りをはさんだ目の前のビルだ。こんなに高いビルの中には入ったことがない。

ボクは交差点を渡ってビル一階の回転ドアの前に立った。ちょうど白人の初老の紳士が回転ドアの取っ手を押しながら中に入ろうとしていたので、ボクは紳士と同じ回転ドアの区切りに飛び込んだ。途端に狭い空間で紳士とぶつかってしまい、ボクらは回転ドアの中でぶつかり合いながらビルの中に入って行った。ドアから出たところで紳士は振り返り、迷惑この上ないといった顔でボクを睨みつけた。

「君ねえ。ここの回転ドアの区切りは一人用だ。二人も入れば今みたいにぶつかってしまうだろうが。今後気を付けたまえ」

「ごめんなさい」

 ボクは小さくなって下を向いた。

 紳士は高級そうなスーツを叩いて身なりを整えてから、さっさと立ち去って行った。

さて何処に行ったらいいのかと迷っていると、今度は黒人のガードマンが不審な眼差しを向けながら近付いて来た。

「何処に行くんだね?」

 ボクはヤスイの名刺を見せた。

「ああ、Mブロードキャスティングか。それなら向こうのバンクからエレベータに乗るんだ」

 ガードマンは太い人差し指で高層階用エレベータを指し示した。

ボクはエレベータに乗るのも初めてだった。どうしていいのかわからず、ドアの前でじっと待っていると、後からやって来た若い女性がボクをジロリと見ながら、エレベータドアの横にあるボタンを押した。

しばらくするとガチャンという音と共にドアが開き、中から何人も人が出て来た。乗り込んだのはボクと若い女性だけだった。女性は右側に縦二列に並んだ数字のボタンのひとつを押した。ボクがボタンを押そうとしないので、女性はボクの方を振り向いた。

「わたしと同じ階で降りるってわけ?」

 女性はブロンドの髪を撫でながら、不審気な表情でボクの顔を覗き込んでいた。胸の出っ張りがすごい。緊張しているから変なところに目が行ったのだろう。ボクは急いで目をそらせて言った。

「ボクは、あのう・・・・・・四十六階に行くんです」

「じゃあ、このボタンを押さなくちゃ。でなきゃ、いつまで経っても四十六階には行けないわよ」

 女性は子供に諭すような口調で、微笑みながらボタンを押してくれた。

「ありがとうございます」

 女性が降りた後で独りになり、一刻も早くエレベータから降りたくなった。

四十六階に着いてボクはヤスイのオフィスを捜した。廊下を何度も行ったり来たりして、やっとドアにMブロードキャスティングと書かれた部屋を見つけた。額にうっすらと汗がにじんでいた。思い切ってベルを鳴らすと、アシスタントらしい女性が顔を覗かせた。

「どちら様でしょうか」

「プリティ・ロックと言います。ヤスイさんは?」

「支局長はおりますが、お約束は?」

「いえ、突然来てしまいました」

「どちらのプリティ・ロックさんでしょうか?」

「サウス・ダコタの・・・・・・スーの・・・・・・」

 女性は眉間に皺を寄せながら、ボクに待つように言い、ドアの向こうに引っ込んだ。直ぐに女性は戻り、ボクを招き入れた。部屋に入ると、奥の部屋のデスクに懐かしい顔があった。

「やあプリティ、よく来た。久し振りだな」

「ヤスイさん!」

「元気そうだな。まあお座り」

 ヤスイはソファに移動して、ボクに握手を求めた。

「顔も手も随分と汗ばんでいるな。どうしたんだ?」

「いや、同じマンハッタンでもここは通い慣れたヘルズ・キッチンとは全く様子が違うんで驚きました。回転ドアも高層エレベータも皆初体験ですから」

「ははは。そうだったか。それは大変だったな」

 女性がコーヒーを持って現れた。

「前お会いした時にオクラホマに行かれると仰ってましたが・・・・・・」

「ああ、行って来たよ。アパッチ最後の戦士と言われるジェロニモの墓に参って花を捧げて来た」

「どうでした?」

 ボクは身を乗り出した。ヤスイはボクの関心の度合いを探るように話し始めた。

「オクラホマの州都・オクラホマシティの南西にあるロートンという町の近郊にフォート・シルという騎兵隊の駐屯地だったところがあるんだ。今も米軍の駐屯地になっている。その一角に、アパッチのセメタリー(墓園)がある。その中にひときわ大きな墓石がそびえている。丸石がびっしりと表面を被い尽くし、その頂に大鷲が胸を張り、羽を広げているエンブレムが乗っかっている。ジェロニモの墓だ。それを囲むようにジェロニモの親族や腹心の墓があり、その更に周辺には騎兵隊側について同胞との交渉に当たったスカウトや騎兵隊員だったアパッチの墓が並んでいる。駐屯地には三百人以上のアパッチが、騎兵隊の捕虜となって本拠地のアリゾナやニューメキシコに戻れないまま眠っているんだ。ジェロニモもそのひとりだよ」

「そうですか。敵だった米軍の駐屯地の中に葬られているんですか。因果なものですね」

「ジェロニモは族長になる素質を充分に備えた戦士だったが、自らの一団を率いるリーダーの道を選んだ。ジェロニモと同じ部族の族長コチーズは背が高く、肩幅の広い体格で、指導者としてのイメージを備えた人物と言われているが、君らスー族の有名な戦士クレージー・ホースと同じく、写真に収まったことが一度もないというエピソードがあるんだ。ジェロニモが家族写真などをたくさん残しているのとは全く対照的でおもしろい」

「クレージー・ホースがヤスイさんの話に登場してボクは嬉しいです」

「そうだね。君は彼が大好きだったな」

「前から訊こうと思っていたんですけど、ヤスイさんはどうしてスーやアパッチなどアメリカの先住民に関心があるのですか?」

「先住民はアメリカのワイルドな大自然の中で生き抜いて来た。自然を一番よく知っている。今世界は高度情報化社会とか呼ばれて、機械文明が支配している。だけど、生身の人間に必要なのは自然から将来のための知恵を学ぶことだと俺は思うんだ。我々の大先達は君ら先住民ということになる。機械文明が牛耳る現代社会はどんどん自然環境を破壊し、人間は自分で自分の首を絞めている。今こそアメリカを初めとする先住民の生き方を学ぶべき時だと思うんだ。自然のことなら先住民に聞きなさいということなんだよ」

「へえ、そういうことなんですかねえ」

 ボクはヤスイのように、先住民じゃないのに先住民の生き方を評価し、暖かい目で見守ろうとする人間を知らなかったが、今では何人かの人間を挙げることが出来る。カール、ティム、それにマリア。ラピッドシティにドイツとスーの精神を融合したホテルを建てたアレックス・ジョンソン。それにネイティブ・アメリカンを研究するスーザン。自然と共に生きるボクらの生き方をプラス志向で見つめてくれる目が少しずつでも多くなるのはとっても励みになるし、嬉しいことだ。がんばろうという勇気が湧いてくる。もっともっと広い世界を知り、お互いの民族背景を越えて交流の輪を広げて行きたい。それがボクの夢だ。

 そう思いながら、ボクは胸にぶら下がっているクロスのペンダントに手をやった。

ボクはヤスイのオフィスの窓から、はるか下に広がるマンハッタンを眺めてみた。思わず足がすくんだ。地上を走る車も歩いている人も、まるで豆粒のようにしか見えない。シッティング・ブルが偉大なるスピリット、ワカン・タンカに祈るためにパイプを燻らせたというモンタナ州の丘の頂に立てば、きっとこんな感じだろう。その丘のすそ野には、スーの盟友であるシャイアン族のテント村が豆粒くらいの大きさに見えて広がっていたんだろう。

向かいに見える高層ビルを眺めていると、無数の窓がボクに迫って来るような気がする。その窓ひとつひとつの奥ではきっと様々な民族が働いているのだろう。このニューヨークを目指してやって来た民族の末裔が。山こそあれ、地に這いつくばるように生きて来たボクの視点からすれば、人間が毎日こんな高いところで働いているなんて、たやすく信じられるものではない。目を彼方に転じると、大西洋に流れ込む川が見える。空はあくまでも青い。

「どうだい? 超高層ビルの中から見たマンハッタンは?」

 気付くとヤスイが隣に立っていた。

「さすがに大都会を見渡せるのは素晴らしいですが、余りにも高すぎて、眩暈(めまい)がしそうです」

「この立ち並ぶ超高層ビルの建設に先住民が深く関わっていたのを知っているかい?」

「先住民ですって?」

「ニューヨーク州北東部の山岳地帯に住んでいたモホーク族だ。アパラチア山脈で鍛えた体を生かし、建設現場で思う存分に働いた。高所での作業なんかへっちゃらだった。彼らがいなければ、このスカイスクレーパーもそう早くには完成しなかっただろう。先住民とマンハッタンの超高層ビルは、そういう意味で深い関係にあるんだ」

「へえ、知りませんでした」

「これを君にあげるよ」

 ヤスイが本を差し出した。表紙には茶色い巻き毛を風に靡かせながら真紅の衣に身を包んだクレージー・ホースの肖像が描かれている。

「君が愛する英雄の伝記だ。マンハッタンの本屋で見つけたんだが、なかなかよくまとめてある。試練にぶつかって悩んだ時にでも読めばいい。馬は荒馬でも、クレージー・ホースの名は神秘的な霊感を受けた馬でもある。きっと君のスピリットを奮い立たせること請合いだ」

 ボクはその伝記を受け取った。

「ありがとう。傍に置いて大切にします」

 微笑みながら、ボクはもう一度ヤスイの笑顔を見つめた。

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