第8話

 1


 カールはその日いつものようにヘイマンさんと得意先を回り、通りのスタンドで新聞を買い、セントラル・パークの入り口にあるベンチに腰掛けて新聞に目を通していた。ある見出しがカールの目を捉えた。

 

乳児売買組織の全貌明らかに 容疑者がアルゼンチンの連れ去り事件など全面自供

 

カールは記事に吸い込まれていった。


南米を舞台に乳児を拉致(らち)し、子供に恵まれない裕福な家庭を狙い、有料ボランティア組織による養子縁組の手配をすると見せかけて高額の手数料を取り、乳児を売りつけていた組織の全貌が、組織の末端で働いていた容疑者の自供で明るみに出た。この組織は低所得者層の生活苦に付け込み、乳児を安く買い取って、子供が欲しい高所得者の家庭に乳児を高く売りつけるという人身売買にも深く関わっている疑いが持たれている。容疑者の男は組織の報復を避けるため現在警察の保護プログラム下に置かれており、名前や現住所などは明らかにされていない。男の自供によると、これまでアルゼンチンやブラジルなどの大都会の産院から乳児を相次いで連れ去り、組織のネットワークを通じて子供に恵まれない裕福な家庭に乳児を養子縁組させ、有料ボランティア組織と称して、家庭から高額の手数料を騙し取っていた。売買された乳児はこれまでにわかっただけでも約百人に上ると見られている。一例では二十二年前、アルゼンチン・ブエノスアイレスのP病院産婦人科棟から女の乳児を連れ去り、乳児は当時ジャマイカのモンティゴ・ベイに住んでいたM家に養子として売られたという。


「娘だ! ジャマイカに売られていたのか!」

 カールは新聞を握り締めて、ベンチから立ち上がり、タクシーを拾って、新聞社に向かった。新聞社の受付で事情を話し、編集局のスタッフと面会した。

「この記事の女の子はわたしの娘に間違いありません。ブエノスアイレスのP病院はカラオ通りとコルドバ通りの交差点のすぐ近くにあり、二十二年前わたしの亡くなった妻が産婦人科棟で娘を産んだのです。生まれて直ぐに何者かに連れ去られました。ジャマイカに売り飛ばされていたとは・・・・・・」

 スタッフはカールの話をメモしながら、幾つかの質問を投げ掛けた。カールは興奮しながら答を返した。

「ジャマイカの受け入れ先を教えていただくわけには参りませんか?」

 カールは、すがるように訊いた。

「家庭の詳細については、まだ容疑者の自供の段階で、ウラを取っているわけではないんです。いくら父親と言われても、娘さんを養子にした家の方も騙されていた被害者の立場ですから、こちらとしてはその家庭の名誉を守る必要があり、申し上げることは出来ません。どうかご理解下さい」

「せめてその家庭の名前だけでも・・・・・・」

「残念ですが無理ですね」スタッフはどうしても首を縦に振らなかった。

 カールはうな垂れたまま、新聞社を後にした。


 ボクはその頃ティムに会っていた。マリアを見舞い、その時の様子を毎日ティムに伝えるのが日課のようになっていた。

「日毎に気力が増しているような気がします」

「そうか。いつもありがとう」

 その瞬間、ティムの目がボクのペンダントに注がれた。ティムに何かが閃いたようだった。

「思い出したぞ。そのペンダントの輝く石だ。何処かで見たと思ったら、マリアの背中にある痣の形にそっくりだ」

「えっ?」

ボクはティムに気取られまいと思い、知らぬふりを装った。ボクが、マリアが裸にならないとわからない背中の少し深いところにある痣の秘密を知っていたとしたら、ティムはどう思うだろうか。そう思うと少し怖くなったのだ。

「プリティ、俺はあれからマリアのことを少し調べてみようという気になった。ほら、カールとそのクロスのペンダントの話をしただろう? あの時だ。クロスは二人の人間が運命的に出会う象徴だという話だったね。そこに俺とマリアとの関係を当てはめてみたんだ。そして同時に交通事故で亡くなった知り合いの夫婦からマリアを引き継いだ当時の記憶を辿ってみた。その助けになるかと思い、当時役所立会いで受け取った夫婦の遺品を開けてみたんだ。あれからずっとしまい込んだままになっていた遺品をね」

「何かわかったんですか?」

「ああ。夫婦が封じ込めていたマリア出生の秘密が・・・・・・」

「出生の秘密ですって?」

「遺品に夫婦の手記があったんだ。それによると、マリアは乳児の頃、ブエノスアイレスからジャマイカに住むその夫婦の元に養子として連れて来られた。子供に恵まれない夫婦のために養子を斡旋する組織の手によって」

「ブエノスアイレス? カールの娘さんが何者かに連れ去られたところじゃない?」

「そうだ。ところが、今朝の新聞を見て驚いた。ボランティア組織なんて真っ赤な嘘で、実際は法外な手数料を取って乳児を売買する犯罪組織だったんだ」

「カールの娘さんはその犯罪組織に連れ去られたということですか?」

「間違いない」

「そのことを亡くなった夫婦は知っていたんですか?」

「ああ。手記にはそのことが打ち明けてあった。夫婦はヒスパニックで、夫はフリオ・モンテス、妻はカタリーナ・モンテスという。マリア最初の育ての親になる。カタリーナは不妊症で、フリオとの間には子供に恵まれなかった。でも二人は子供が欲しかった。そんな二人の前に現われたのが、犯罪組織の男だった。恐らくは組織の犯罪を新聞で暴露した男だろう。男は二人の希望を叶えてやると言い残し、去って行った。ある日、男は女の赤ん坊を抱いて再び二人の前に現われた。生まれたてのかわいい女の子を見て、二人は有頂天になった。やっと念願の娘が出来たと。男は高額の手数料を要求し、二人は借金をしてまでして娘を手に入れた。二人はその男に乳児の身元を確かめた。乳児はブエノスアイレスで生まれた孤児ということだった。夫を事故で亡くした母親がその子を産んで直ぐに亡くなったという。二人は念のため男から聞いたブエノスアイレスのP病院にそれとなく確認したら、ちょうどその頃病院から女の乳児が連れ去られた事件があったことを知り愕然とした。しかし、二人に届け出る勇気はなかった。こうなったからにはこの子を自分達の子として立派に育て上げよう。それが自分達の贖罪(しょくざい)だと思い切ったんだ。そしてその子をマリアと命名し育てた。手記にはそう書かれてあった」

「夫婦はその後不運にも交通事故で亡くなった訳ですね」

「そう。あとは知っての通り、養父母が亡くなって天涯孤独となったマリアを俺が引き取ったということだ。兄といっても、第二の育ての親みたいなものさ」

「マリアはカールの娘さんだったんですね」

「そうだな。お父さんに一刻も早く知らせてあげなくては・・・・・・」

「全て聞かせてもらったよ」背後から声がした。

 振り向くと、カールが店の扉の横に立っていた。

「カール!」

「新聞社に行ってみたが、娘が売られて行った家の情報をくれない。ジャマイカのモンティゴ・ベイにあるM家と新聞にあった。その時ティムのことを思い出したんだよ。確か昔モンティゴ・ベイでマリアと暮らしていたと言っていたのを。何かわかるんじゃないかと思い、急いでここにやって来たら二人の会話が耳に飛び込んで来た」

「M家というのはモンテス家のことです。わたしの知り合いの夫婦です」

 ティムは改めて夫婦について話した。

「カール、とうとう娘さんが見つかったね。まさかマリアだったとは驚いたよ」

 ボクはカールの表情を探った。まだ信じられないといった気持ちが顔の皺に表れているような気がした。

「娘の背中にはくっきりとした痣がありました。ダビデの星によく似た白っぽい痣が。ユダヤの血が流れるわたしの娘の背中にダビデの星型をした痣があること自体、何か運命的な業さえ感じながら、赤ん坊の娘を見つめた記憶があります。今となってみれば、その痣が唯一娘を確認出来る術(すべ)のような気がします」

 カールがティムを見つめて言った。

「マリアにはおっしゃる通り、背中に六角星の形をした痣があります。娘さんに間違いありません」

「マリアさんのお年は?」

「二十二です」

「娘と同い年だ」

 カールは頷いていた。

「カール、このクロスの輝く石は行方不明になった娘さんの痣を象徴して作ったんだね」

 ボクは胸のペンダントを持ち上げた。

「クロスにはわたしと娘がいつの日にか出会うことが出来るようにという願いを込めたんだ。そしてクロスの中心に娘の背中にあったダビデの星型の痣を象徴する輝く石を取り付けたんだよ」

「これから早速マリアに会いに行きますか?」

 ティムがカールに訊ねた。

「いや、もう少しお互い心の整理が出来てからゆっくり会おうと思います。わたしが知っている娘といえば、未だに小さな赤ん坊のままです。あのブエノスアイレスの産婦人科にあった保育器の中で、猿のような顔をしてすやすやと眠っていた赤ん坊です。でもマリアさん、いや娘のマリアはもう立派な大人になっている。突然わたしが本当の父親だと名乗って出ても、戸惑うだけでしょうから」

「そうですか。わたしからそれとなくマリアに事情を説明しておきましょう。少しでも理解が早くなるように」

「ありがとうございます。それに娘をあんなに立派な女性に育てていただき、感謝します。本当にありがとう」

 ティムの両手をとるカールの目が潤んでいた。ボクも目頭に火照りを感じていた。二十二年という歳月を経て、別れたままになっていた親子が初めて出会う時、どんな気持ちを抱くのか、ボクは必死に想像してみようとした。でも、それは、やはり本人でなければ、なかなか難しいことのように思われた。しかも、娘は全く親を知らないのだから。

「ところで娘を育てていただいたフリオさんとカタリーナさんのお墓はモンティゴ・ベイにあるんですね?」

 カールがティムに訊ねた。

「はい、そうです」

「娘を育てていただいた上に、わたしに代わって娘の命名をしていただいた。マリアってシンプルだけど、とてもいい名前だと思います。落ち着いたら一度お礼を言いがてら、お墓に参りたいのです。できれば、娘も一緒に」

「もしその時が来れば、ご案内します。わたしも自分なりの報告がありますので」ティムが微笑んだ。

「よろしくお願いします」

 カールはそう言って、ボクとティムを残してデリを出て行った。


    2


 ティムとボクは病院を訪ねた。マリアは目覚め、ボクらを見つめていた。

「どうだい、気分は?」

「大分落ち着いたわ。恐怖感が和らいで来た。ありがとう」

 マリアに直ぐにでも真実を伝えてやりたかったが、話を持ち出すには戸惑いがあった。恐怖から逃れたばかりなのに、また別のショックを与えはしないかと心配になったからだ。ボクはティムがどう語り始めるのか、その言葉を待った。

「マリア、父さんと母さんのことを覚えているかい?」

「どうしたのよ、急に」

「ここに来て、お前の寝顔を見るたびに、フリオとカタリーナのことを思い出すんだ」

「変なこと言うのね。勿論覚えているわよ。なぜ?」

「お前が退院して落ち着いたら、一度墓参りでもしようかと思ってね。長いことモンティゴ・ベイにも帰っていないからな」

 マリアは、ティムの様子がいつもと違うのが気になっていた。

「兄さんらしくないわ。兄さんはいつも言っていたじゃない。俺は土地には執着しない。捨てた土地や昔には未練がないって」

「それは昔の話だ。若い頃のね。今俺はヘルズ・キッチンを終の住処(すみか)と決め、お前と暮らしている。もうこれ以上他の所で暮らすつもりはない。となると、昔住んだところが懐かしくなって来た。モンティゴ・ベイはお前と暮らした最初の土地だ。それで・・・・・・」

「いいわよ、行っても。嫌な思い出を早く忘れてしまいたいから、気分転換になるかもしれないからね。わたしも本当はあの青く澄み渡ったカリブの空や海が懐かしいわ。色々あって都会暮らしにもほとほと疲れたし、久し振りに椰子の浜辺で絵を描いてみたい。どう? プリティも一緒に行かない?」

「そうだね。ボクは海辺には行ったことがないし、いい機会だ」

「じゃ、退院したら三人でジャマイカに行きましょう」

 マリアはボクらに微笑んだ。


 翌日、ボクはカールとセントラル・パークを歩いた。木々は紅葉を終え、落ち葉が木洩れ日の差し込む歩道を被っていた。

「マリアは日毎に元気になって来ているよ。もうじき退院できるかも知れない」

 カールは黙って頷いた。

「マリアが退院したら、ティムと一緒にジャマイカに行くことにしたんだ。カールも行くだろう?」

 カールは無言のまま落ち葉を踏みしめて歩いていた。ボクも黙ってしまった。

「あそこのベンチで少し休もうか」

 カールがか細い声で言った。ボクの返事を聞く前に、ベンチに向かって歩こうとした途端にカールの足がもつれ、よろけながら歩道に倒れ込んだ。

「どうしたんだ!」

 ボクは目を閉じて背中を揺すった。見渡したが、周りには人のけはいがない。先に電話ボックスが見えた。急いで走り、受話器を取って救急車を呼んだ。


 カールは近くの病院に収容され、精密検査を受けることになった。疲労が溜まったのが原因だろうと医者が言った。

「直ぐに退院できるでしょうか?」

「お年がお年ですからね。それでも一週間ほど安静にしていたら回復するでしょう」

 医者はそう言って病室を出て行った。

「驚いたよ。カールが倒れるなんて」

 医者と入れ替わりにヘイマンさんが現れた。

「ここのところ毎日外出していたから、こたえたんだろうな。長年会えなかった実の娘の所在がわかったんだ。ほっとした途端に溜まっていた疲れが出たんだろう」

 ヘイマンさんは眠っているカールの顔を覗き込んだ。

「ポーラも心配している。商売のこととは言え、カールさんをニューヨークに誘ったのは我々だからな」

 

ヘイマンさんが帰った後、ボクはベッドの傍でカールの寝顔を見ていた。その寝顔は別の病院で眠っているマリアの顔に重なっていた。しばらくして、カールは目覚めた。

「ずっと付き添っていてくれたのか」

 カールの顔に笑みが浮かんだ。

「カール、このペンダントを返そうか。マリアと出会う願いを叶えてくれた大切なペンダントだから」

 ボクは首からペンダントをはずそうとした。

「いや、それは君のものだ。今までどおり胸にぶら下げていてくれ。そのペンダントは同じような仕様でいくつか作った中で一番気に入っていたものだ。だから君にもらって欲しかった。君と出会えたのも、きっとそのペンダントのお陰さ。わたしの作ったものが運命のクロスロードで君とわたしの娘を結びつけていたのだから、本当に不思議だ」

 ボクは改めて胸元の木製のペンダントを手にとり見つめた。六角星の石がキラリと輝いた。



 マリアはしばらくして退院し、ヘルズ・キッチンに戻った。アート・スクールを休み、アパートで養生していたが、時たまティムの店にも顔を出すようになっていた。

「兄さん、いつでもジャマイカに行くわよ。もうすっかりよくなったから」

 マリアは元気な顔で言った。ティムは微笑を返した。

「ちょっと話があるんだ」

 ティムはマリアを近くの公園に連れて行った。

「実はお前のことなんだが・・・・・・」

 マリアは一体何を言い出すのかとティムの目を見つめていた。ティムは事の顛末(てんまつ)を話して聞かせた。マリアは驚きのあまり、しばらく言葉を失っていたが、ようやく口を開いた。

「じゃあ、父さんと母さんは本当の両親じゃなかったということ? わたしは赤ん坊の頃にその犯罪組織に連れ去られて、ジャマイカに来たってことなの?」

「俺も最近までその事実は全く知らなかった。この前カールとの会話の中でヒントをもらい、今まで全く気にも留めなかった遺品を紐解いてみることにした。そしたらフリオとカタリーナが生前に残していた手記が遺品の中から出て来た。それを読んでようやくわかったことなんだ。これが手記だ」

 ティムは養父母の手記を手渡そうとしたが、マリアは受け取ろうとはしなかった。

「それで、あのカールという人がわたしの本当のお父さんだというの?」

「そういうことだ」

「わたし、そんなこと信じないわ! 信じられるはずがないでしょ!」

 マリアは激しく首を振った。

「まあ、落ち着いて言うことを聞いてくれ。お前の気持ちは兄としてよくわかる」

「わかるはずないじゃない。本当の兄さんじゃないんだから!」

 マリアは言い過ぎたと思ったが、後に引けなかった。

「俺は亡くなったフリオとカタリーナからお前を引き取った。そして本当の妹のようにして育てて来た。それに嘘はない。お前が成人して恋をするようになっても、お前の自由意志を重んじて男友達には干渉せずに、保護者として見守って来た。特にあのソンイルにはヒヤヒヤさせられた。そして、あんな結末を迎えてしまった」

「ソンイルのことはもう言わないで!」

「悪かった。謝る」

「わたしって本当に不幸な星の下に生まれたのね。こんなことじゃ人間が信じられなくなるわ」

「そう自分を卑下するもんじゃないよ。いいことも色々あったじゃないか」

「それで兄さんはわたしにどうしろって言うの? あのおじいさんに会えっていうの? 親子の対面をすべきだと・・・・・・」

「そこまでは言っていない。それは最終的にお前が決めることだ」

「でも兄さんが言おうとしているのは、そういうことじゃない。違うの?」

「カールは実の父親として、お前が産院から連れ去られた後で悲しみのあまり精神に異常をきたして亡くなったお母さんに代わり、お前を捜し続けて来た。でもそう簡単に見つかりはしなかった。カールはその思いを木製のペンダントに表わした。ほら、カールがプリティにプレゼントしたあのペンダントだよ」

「わたしの背中にある痣の形をした星があるペンダントのことね」

「そのとおりだ。お前といつかは出会いたいという願いを込めてクロスの真中に星を輝かせたとカールは言っている。人と人との運命的な出会いや再会を象徴するクロスの真中に・・・・・・」

「しばらく独りにしてくれる? すっかり頭の中が混乱しちゃった」

「すまない。あんな事件に巻き込まれた後で、またショッキングなことを話すことになり、本当にすまないと思っている。でも、ジャマイカに行くまでに話しておくべきことだと思っていたんだ。手記は部屋の机の上に置いておくから、もしも読む気になったら、読んでおくれ」

 ティムは思いに沈むマリアを公園のベンチに残して、立ち去って行った。


 マリアの心は糸の切れた凧のように漂い続けていた。私が赤ん坊の頃に連れ去られて、フリオとカタリーナの娘になったって? フリオもカタリーナもそんなことは一言も言わなかったじゃないの。どうして? それが真実なら何故直接言ってくれなかったの? ずっとわたしを騙していたの? マリアは腹立たしさに胸をかきむしられていた。それに何よ。この前プリティと一緒にいた老人が本当の父親だって? 冗談はよしてよ! そんなことがどうして信じられるの? ああ、人間なんて信じられない。どうしてこんなばかなことになるのよ! 神様、お助け下さい!

 心の中で叫んだ。きっと呪われているんだ。でも、呪われるような悪いことをわたしが何かしたって言うの? それは一体何なのよ、教えて!

 部屋のベッドの上に倒れ込み、泣き崩れた。自分ほど不幸な人間はこの世にいない。皆わたしに嘘をついて欺こうとしている。ティム兄さんも、フリオも、カタリーナも、カールも! 一体何故なの!

 マリアは声を上げて泣いた。

 

どれくらい時間が経ったのであろう。部屋の外は暗くなっていた。一体何が起こったのか、思い出そうとしたが、はっきりと思い出せない。いや、思い出したくなかった。泣き疲れて、いつの間にか眠り込んでいたらしい。頭の芯の奥にずきんずきんとした痛みがあった。意識がはっきりしていくにつれて、直前の記憶が蘇って来る。

わたしはこれから一体どうなるんだろう。今まで信じていたことが音を立てて崩れ去ってしまったような不安が心を暗雲のように被っていた。涙はとっくに涸れ果ててしまっていた。わたしに残されたものって一体何があるんだろう? 心の中をよぎった、死んでしまおうという思いさえも、今は陰を潜めてしまった。

 マリアはベッドから立ち上がり、窓辺から外を眺めた。暗闇の向こうに、ヘルズ・キッチンのレストランの灯りが見えた。その灯りの周りから雑踏の騒音が洩れ聞こえて来る。窓の傍にある机の上に仄かな灯りが差し込んでいた。その灯りにティムが置いたフリオとカタリーナの手記が白く浮き上がっていた。マリアは無意識にその手記を手に取った。そして傍らの電気スタンドをつけた。突然眩い光が飛び込んで来た。眩い残像が消えた頃、マリアは目をゆっくりと開けて手記を読み始めた。


(ティム・ゴメス様気付)カール・マインツ様とマルガリータ様


この手記はご令嬢のことについて、私達が神の怒りに触れ、地獄に落ちた場合のために書き残すものです。不妊症のため私達には子供が授からないことがわかっている状況の中で、どうしても子供が欲しい私達は養子を迎え入れました。そしてその子をマリアと名付けました。ボランティア組織の斡旋ということになっていますが、実はこの点でお二人に対し是非申し上げておかなくてはならないことがあります。マリアを私達の許に送り届けて来た組織の男は、マリアがブエノスアイレスのP病院で生まれた孤児だと言いました。父親が事故で亡くなり、妊婦だった母親も娘を産んで間もなく亡くなったというのです。私達は本当に気の毒な子供だと思い、わが子として大切に育てようと決意しました。私達は念願の子供が授かり有頂天になりました。マリアはその日から私共の家の輝く太陽となったのです。しばらくして、少しは冷静になった頃、念のためにと思い、マリアが生まれたという病院にそれとなく連絡を入れ、事情を確かめてみました。すると、驚くべき事実がわかりました。私達がマリアを受け容れた少し前に、女の乳児がその病院から連れ去られるという事件があり、病院は大騒ぎになっていました。病院の関係者の話では、連れ去られた乳児には背中に星の形をした白っぽい痣があり、父親はドイツ人のカール・マインツ様。母親はマルガリータ様というヒスパニック系の女性だということでした。確かにマリアには背中に同じ痣がありました。マリアはその病院から連れ去られたご令嬢だったのです。私達は組織に完全に騙されていました。それは仕方のないこととして、騙されたとわかり、しかもご両親の名前までわかったのに、何故直ぐに名乗り出なかったのか、未だに悔やまれてなりません。私達の心の中に悪魔が潜んでいたとしか思えません。やっとの思いで手に入れた目に入れても痛くない娘を目の前にして、ご令嬢を失ったご両親の悲しみをそっちのけにしておいて、このまま名乗り出なければ何もわからない。マリアは私達の娘として育てていける。情けないことにそういうことしか念頭にありませんでした。マリアは既に私達の人生の中にすっかり入り込んでいました。今更マリアを手放すなんてことは全く考えられませんでした。

ご両親にとっては、聞くに堪えない残酷極まりないことですが、私達は黙ってご令嬢を手元に置き、育てようと思うに至りました。マリアを立派に育て上げることこそが、ご両親に報いることになり、人様の大切なご令嬢と知りながら、その運命を一方的に決めてしまうという大罪を犯した私達の贖罪になると勝手に決めてしまったのでした。私達はマリアを誠心誠意育て上げることを神に誓いました。何と言う酷い人間だ、いや人間以下の存在だと思われても、悪魔に取り付かれた私達は一旦手にしたご令嬢をお返しする気にはなれなかったのです。私達はきっとこの大罪により、いずれ神の厳しい裁きを受けることになるでしょう。一方で、この事実を誰にも告げずに放置することだけは、私達にはどうしても出来ませんでした。もしも将来このことが公になった場合、一体私達がどういう心積もりでご令嬢を預からせていただいたのか、ご両親に知っておいていただきたかったのです。ああ、何という卑怯な言い草でしょう。自分達の情けなさ、非情さに呆れ果てます。こんなことが許されるべきことではないと思いながらも、私達は誰にも何も告げずに暮らして参りました。ただマリアの成長を祈りながら。罪の深さに身の毛がよだちます。

カール・マインツ様。そしてマルガリータ様。本当に申し訳ありません。ご令嬢は、私達がきっと立派にお育て申し上げることをお誓いします。お許しを乞うことなんぞ、出来る筋合いでは全くございませんが、いつの日にか、ほんの少しなりとも子供に恵まれなかった大ばか夫婦のことをお知りになった場合のために、ここに手記を残させて頂きます。幾重にも私達の残酷な行為を謝罪いたします。

フリオ&カタリーナ・モンテス


マリアから電話があったのは翌日のことだった。

 ボクはマリアがいるという公園に向かった。木々の葉の大半が落ちて、間もなくやって来る冬将軍の到来を予感させるように雲が垂れ込めていた。ボクらは公園の中を並んで歩いた。

「ティムから全てを聞いたわ。プリティは知っていたのよね」

 マリアが重い口を開いた。

「うん。どう思った?」

「本当はまだ話すのも辛いくらい。でも誰かに傍にいて欲しかった」

「ボクでよかったのかい?」

「ええ」

 マリアが微笑んだ。ボクらは落ち葉を踏みしめながら歩いて行った。

「君の辛い気持ちは痛いほどわかる。ソンイルとの事件があって直ぐに、今度は自分の出生についてとんでもないことを聞かされたんだからね」

「プリティ、もうその話はやめて。お願い。わたし、これでも気はしっかりとした女だと思っているの。いつまでもクヨクヨしないわ。だって事実は曲げられないでしょ?」

「・・・・・・」

「ティムから全てを聞かされた後、フリオとカタリーナの手記を読んだわ。本当のお父さんとお母さんからすれば、あんな残酷な、そして勝手な言い草はないわ。だって、誰も知らないうちにわたしを両親から奪い取ったんだもの。自分達の全くのエゴで。その結果わたしは本当の両親が誰だかわからなくなってしまった。こんな残酷なことってあるかしら。でも、手記を読んでいくうちに、少しずつ反発する気持ちは小さくなっていったの。そして、亡くなったフリオとカタリーナの気持ちも察してあげなくてはいけないのではないかという気がして来たの。何と言っても、生きている間、わたしを大切に育ててくれた。やっとそう思えるまでになったのよ」

 ボクは黙ってマリアの言葉に耳を傾けていた。

「わたし、これからの人生を考えているの。これまで色々あったけど、それはもう全て変えられない過去のことよ。決して元には戻らない。プリティがここに来るまでの間、わたし独りで地面に積もった落ち葉を見ながら考えたの。厳しい冬の寒さを越えて行けば、また春がやって来る。そうすれば、また木々は緑の若葉を一杯につける。若葉は生い茂り、成長して夏になれば人々に安らぎの場を提供する。そして秋が来て、落葉する。その繰り返しの中で葉は生きている。人生もその葉っぱと同じだわ。赤ん坊が誕生し、成長して大人になる。生きていれば、必ず年を取り、老いて行く。そして亡くなる。そのサイクルの間にいろんなことが起こり、喜んだり悲しんだり怒ったり。わたしの場合は知らない間に大変なことが起こっていたのだけれど、ティムに育てられ、いろんな所を旅行し、旅先で絵を描いて結構楽しい人生をこれまで過ごして来られた。それはティムのお陰だし、わたしを望んで育ててくれたフリオやカタリーナのお陰でもある。ソンイルのことは誰のせいでもない、わたし自身の責任だわ。あそこまでやる人間だと見抜くことは出来なかった。そのせいであんなことにまで巻き込まれてしまった。自業自得だわね。でも、そんなわたしを父親が、亡くなった母親に代わって、ずっと捜してくれていた。そして父親がわたしをとうとう見つけ出した。そのペンダントのお陰で」

 マリアはボクの胸に輝く六角星の小石を見つめていた。

「君はえらいよ。辛いことでもそれに挫けず、積極的に捉えられる力がある。君は父さんから聞いた辛い孤独な修行に耐えて成長するスーの青年みたいだ」

「プリティ、あなたが来てくれてよかったわ。わたし独りじゃどうしようもなかったから」

 マリアは微笑み、ボクの唇にキスをした。軽く触れながら、きっちりと吸ういつものキスだ。

「これからも付き合ってくれるわね?」

 マリアが訊いた。

「ボクの方こそお願いするよ」

 知らぬ間に、マリアを抱きしめていた。マリアは肩を震わせながら、黙ってボクに抱かれていた。

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