第5話

 1


 退院したボクは、母さんと一緒にサウス・ダコタに戻った。故郷はいつものように静かに時を刻んでいた。そんな時を家族と過ごしているうちに、あの大都会の喧騒は記憶のはるか彼方に押しやられてしまっていた。

 心がすっかり落ち着いてから、ボクはカールを山小屋に訪ねた。

「やあ久し振りだな。ニューヨークが気に入って長居をしたようだね」

 カールはそう言いながらボクのために熱々のコーヒーが入ったカップをテーブルの上に置いた。何故予定が延びたかについて説明した。

「それは大変だったな」

 カールは眼鏡をずらすようにボクを見つめた。白目の血管が前より少し濃く、増えたように感じた。

「これ、お土産」

 ボクはティムからもらったTシャツをカールに手渡した。

「ほう、なかなかいいシャツだなあ」

 カールはTシャツを開け、胸にプリントされた文字を読んだ。

「ヘルズ・キッチン。これは一体・・・・・・?」

 ボクはヘルズ・キッチンの語源を話した。

「へえ、あの街にそんなところがあったんだなあ。若い頃ニューヨークに十年ほどいたが、気付かなかった。どうもありがとう」

 そう言いながら、カールは席を立った。テーブルに戻った時、手のひらに木製のクロスのペンダントが載っていた。

「プリティ、これを君にあげよう」

 ボクはそのペンダントを手に取った。クロスに左右対称の花の文様が彫られ、交差した部分に星型をした白く輝く小さな石が埋め込まれていた。その輝きが何処かしら神秘的な感じがした。ペンダントを見つめているボクに、カールはやさしく語りかけた。

「勿論君がクリスチャンじゃないのは知っている。スーは昔から自分たちの宇宙観を持っているからな。これは十字架の形をしているが、十字は何もキリスト教の専売特許じゃない。二つの道が交わることを象徴している。クロスロードのことだ。別々の道を歩んできた人間同士が運命的に出会い、交流することを意味するとも考えられる。わたしと君がこうして出会ったのもそうだ。その出会いを見守るお守りのようなものと考えてくれ。君と、君の家族も守るお守りだとね」

 輝く石を眺めていると、何処かで一度その星型を見たことがあるような気がして来た。でも、思い出せなかった。

「きれいだね、気に入ったよ」

 ボクは早速クロスを胸にぶら下げてみた。

「よく似合うよ」

 カールは微笑みながら、ボクの胸元を眺めていた。

「ありがとう、カール。大切に使わせてもらう」

 ボクはカールにティムとマリアの話をした。カールは白いあごひげを撫でながら、耳を傾けていた。

「本当の妹じゃない女性を兄のような眼差しで慈しむなんてことは、なかなか出来るもんじゃない。そのティムという男は相当ストイックな精神を持ち合わせているんだな」

「それはどういうことなの?」

「君にはもうそろそろわかると思うが、普通若い男女が二人きりで一緒に暮らしていれば、男と女の関係になるってことだ。でも、ティムはその女性の亡くなったご両親に敬意を表し、その女性を妹のように暖かく見守ることに心を決めたのだろうな」

 カールのいうことが本当はよくわからなかったが、ティムがマリアをとっても大切に思っていることだけはわかっているつもりだ。

「それにしても、プリティの話を聞いていると、またニューヨークに行ってみたくなったよ」

 そう言って、カールは微笑みながらコーヒーに口をつけた。

 その瞬間、ボクの頭にあの大都会の喧騒が舞い戻って来た。

「ボクはニューヨークがとても気に入ったんだ」

 カールの想いも過去の記憶に飛んでいた。

「若い頃アメリカは戦時体制の暗い時代で、同胞がナチスに殺害されるのを阻止も出来ず、ただ傍観して戦争が終わるのを待っているだけだった。だからこそ、戦後わたしはナチスの犯罪者を捜し出して裁判にかけるため、遠いブエノスアイレスまで出掛けた。二十一歳の春だった。三年後にニューヨークで親爺が亡くなり、一時帰国したが、葬儀が終わるとすぐにアルゼンチンに戻り、結局かの地で四十年も暮らすことになった」

「サウス・ダコタに戻ったのは六十一歳ということになるね」

「そういうことだな。当時ここには知り合いがいたし、わがマインツ家の墓もある。諜報の世界に長く生きて来て、疲れ果てていた。墓を守りながらここでゆっくり暮らしたくなったんだ」

「ちょうどボクが生まれ、プリティ・ロックと名付けられた頃、カールはまたここウンデッド・ニーで暮らし始めたということになるね。それにしても、最近まで全く出会わなかったよね」

「わたしは半ば隠遁生活を送っている。時々食料品や工具を買いに町に出掛けるくらいで、あとは小屋周辺の雑木林に入り込み、木工品の素材を切り倒し、小屋の中や周りで作業をする。休憩する時はコーヒーを沸かし、クッキーやケーキを作る。夜はベッドで買って来た本や、もらって来た雑誌を読み、いつの間にか寝入ってしまう。朝は早く目覚め、食事を作る。後は日暮れまで作業が続く。その繰り返しだから人には殆ど会わない」

「父さんはこの山小屋に通じる別れ道に入るなと言うんだ」

「きっと何処かで俺の姿を見つけ、君に忠告したんだろう。怖い白人に近付くなってね」

「今度町の広場でパウワウがあるんだ。父さんが店を出す。その時にカールも店を出さないか? 木工品が売れるよ」

「先住民と地域住民の交流会のことだね。白人が店を出せるかどうかわからないが、広場に行くのはいいかも知れない」

「父さんに事情を訊いてみるよ。じゃ、これで」

 カールからもらったクロスを胸にぶら下げたまま、ボクは坂道を下って行った。

家に戻ると、母さんがクロスを見て訊ねた。

「それどうしたの?」

「ドイツ人のおじいさんにもらったんだ」

「ドイツ人?」

「ウンデッド・ニーの近くの山小屋に住んでいるんだ」

「ひょっとして父さんが近付くなと言っているあの別れ道の上の?」

「そうだよ」

「そうだよ、じゃないわよ。おじいさんと言っても、白人は白人よ。気をつけないと・・・・・・」

「最初は警戒していたけど、会って話してみると、とってもいい人だよ」

「一体どうしたんだ?」

 父さんが工房から顔を出した。ボクが事情を話した。

「この辺は昔ドイツ人の入植者が多いところだった。マイケルと会ったホテルを建てたのもドイツ人だ。しかし、ドイツ人でも山師のような人間もいるから、父さんは気をつけるように言ったんだ」

「おじいさんはユダヤ系で、ヒットラーが台頭して来る前に、家族と一緒にドイツを離れ、ユダヤ人社会を転々とした後、ニューヨークに落ち着いたそうだ」

「ナチス政権の被害者だな。それなら弱者の立場を身を持って知っているだろう」

「あなた、こんなペンダントまでもらって来ていいのかしら」

 母さんが眉をひそめながら父さんの反応を見た。

「何故もらったんだ?」

「ボクがニューヨークの土産をあげたから、そのお返しだと言って」

「独り暮らしなのか?」

「そうだよ」

「何をしている人なんだ?」

「木工品を作っている」

 父さんはその一言で俄然関心を示した。

「ほう、そうか。作品を見たいものだな」

 ボクはそれを聞いて嬉しかった。クロスのご利益はすごいもんだ。早速、人と人を結び付けたんだから。ボクはクロスを手に取り、改めて眺めてみた。

「じゃあ、一度山小屋に行こう」ボクは父さんを誘った。

「そうだな。あさってには一区切りつくから、午後にでも行くか」

「あなた、大丈夫なの?」母さんはまだ心配している。

「プリティがいい人だと言っているんだ。信用してやらないとな」

「そうと決まれば、今からカールのところに行って話して来るよ」

 ボクは逸る心を押さえるのに必死だった。

「カールって?」

「おじいさんの名前だよ」

 父さんと母さんは顔を見合わせた。


 

二日後ボクは父さんとカールの山小屋を訪ねた。カールはいつものようにコーヒーを沸かし手作りのアップルパイと一緒にテーブルの上に差し出した。

「ありがとうございます。息子が時々寄せていただいているようで・・・・・・」

「プリティと友達になりました。はっきりと自分の意見を言ういいお子さんですね」

 ボクはちょっぴり恥ずかしくなり、父さんの表情をうかがった。父さんは周りに無造作に置かれてあるカールの作品を眺めていた。

「あちこちに木工の作品がありますね。全てご自分でお作りになったのですね」

「はい。こちらに来てから始めました。最初の頃はなかなかうまくはいきませんでしたが、知り合いが木工をやっていたものですから」

「その方は?」

「もう亡くなりました。この年になると、友達も知り合いも次々に居なくなり、寂しい限りです。プリティはわたしの一番新しい友人です。先日はニューヨークの土産まで頂きまして」

「さっき息子と話していたんですが、街で今度パウワウが開かれます。もしお宜しければ、店を出されては如何でしょうか。歓迎します」

「いいんですか。わたしのような白人が」カールは嬉しそうだった。

「勿論です。ウンデッド・ニーはご承知のとおり、騎兵隊が多くの同胞を惨殺した苦い歴史を抱える地です。カールさんが息子と初めて出会った時、殺害された同胞の墓地の中に入られ、刻まれた墓石銘をなぞりながら、息子に同胞の存在をしっかりと心に刻み、これからは二度とそのようなことが起こらないように心に刻んだことを後の世代に伝えていくようにおっしゃったと聞きました。わたしはそれを聞いて涙が止まりませんでした。大変失礼な言い方ですが、白人の方にもそのような御心をお持ちの方がおられることに驚きました。差別と偏見に満ち満ちた面ばかりを見聞きし、肝心なところを見逃していたのじゃないかと反省しました。民族背景は違っても、人間だから目指すところは同じだということをカールさんに学んだのです。先日息子らと様々な民族が集うニューヨークに行って、その思いが確たるものになりました」

 カールは父さんの言うことにじっと耳を傾けていたが、吹っ切れたように口を開いた。

「全く同感です。わたしも長年にわたり、スーの聖地に住まわせていただいています。白人のひとりとして過去の先住民に対する残虐さを振り返るにつけて、いつも心が痛みます。わたし自身、ユダヤ系のドイツ人としてナチスの行なった残虐な行為はとても許せるものではありません。戦後わたしが四十年もかけてナチスの戦犯を追い詰め、彼らの犯した罪に対して公正な裁判を受けさせようと走り回ったのも、それが人間としての責務だと信じたからです」

 ボクは二人の真剣な会話に聴き入っていた。父さんもカールも、同じ目的に向かって突き進む同胞のように見えた。


      3


 パウワウの日が来た。会場となったホテル・アレックス・ジョンソンの前にある広場には、スーを初め近隣の先住民の露店が建ち並び、好天にも恵まれて多くの人出があった。

 カールは父さんの計らいで、父さんと同じ場所で木工品を売ることになった。会場にはニューヨークからヘイマンさんも駆けつけ、久し振りの再会の場ともなった。

「プリティ、体の具合はどうだ?」

「すっかり元に戻りました。治療費の請求を助けてもらい、本当にありがとう」

「それはよかった。一時はどうなることかと心配したよ」

「ボクが悪かったんです。都会に慣れてないのに、横着をしたのですから」

「スーザンもよろしく伝えて欲しいと言っていたよ」

「元気ですか? スーザンは」

「あれから何度も店に来て、プリティのことを訊ねていた。もっと先住民のことを勉強したいって」

「スーザンなら先住民のいい友人になれるでしょう。心強いな」

「ヘイマンさん、紹介します」

 ボクはカールを紹介した。

「へえ、ウンデッド・ニーに住んで、木工作品を。ちょっと見せていただけますかな」

 ヘイマンさんはカールの作品を手に取り、繁々と眺めた。

「これはいい。良ければニューヨークで売らせてもらえませんかな」

「この業界のお仕事を?」カールが尋ねた。

「わたしは元々ここの出身ですが、今はニューヨークでギフト・ショップを開いています」

「それは助かります。なかなか販売ルートは見つかりませんでしたので」

「向かいのホテルで後程詳しいお話をしましょう」

「恐縮です」

ボクは民族を越えた人の輪の広がりを感じ、嬉しかった。カールは、立ち止まって木工品を見る人々に、材質や作品の意図を説明していた。その姿を見ていると、カールと一緒にニューヨークに行きたくなった。アートの勉強もしてみたい。

ボクは胸にぶら下げているクロスのペンダントを見つめた。このクロスが次々にこれまで別々の人生を歩んで来た人と人を結び付けている。不思議なパワーを持ったクロスだ。

マリアのことも気がかりだった。一旦は都会の垢に染まった不純な女性と切って捨ててはみたが、サウス・ダコタの静かな暮らしに身を置くと、折りに触れてマリアのことが懐かしく思え、心が騒いでいた。もう一度会って話がしてみたい。そうすれば、マリアに対する自分の本当の気持ちがわかるような気がする。その思いは日毎に募っていた。

 店が暇になるのを見計らい、思い切って父さんに打ち明けてみた。父さんは少なからず驚いたようだった。

「あんな酷い目にあったのに、よく行く気になれるもんだな」

「あの街が好きになったし、第一最新のアートに触れられるのは刺激になる」

「お前、ひょっとしたら、まだあのマリアとかいう娘に未練があるんじゃないだろうな?」

 心の中を見抜かれたような気がして、ボクはうろたえた。

「そんなんじゃないよ! 本格的にアートの勉強がしたいだけさ」

「簡単に言うが、費用はどうするつもりだ。うちの家計を知っているだろう? どこにそんな金があると言うんだ!」

「働いて返すから。お願いだ」

「大体、母さんをどうして説得するつもりだ。あの母さんが、マリアの住む大都会にお前を独りで行かすと思うか?」

「母さんに頼んでみる。ボクの気持ちを伝え、納得してもらうさ」

「無理だろうな。そこまで言うのならやってみればいい」

「父さん、お願いだ。ボクの味方になってよ」

「お前の意思は尊重してやりたいが、余りにもハンディが多すぎる。資金のことも、マリアのことも」

「ヘイマンさんの家に泊めてもらうように頼んでよ。そうすれば、航空運賃と授業料だけだ。働いて返すから」

「それだけでは済まない。生活費はどうするつもりだ?」

「向こうで働くよ。ティムに頼んでデリで雇ってもらう」

「ティムって誰だ?」

「マリアの兄さんだよ」

「そんなことは母さんが許さない。お兄さんのところで働くなら、マリアは目と鼻の先だ。大体、お前はニューヨークでどれだけ皆を心配させたのか、ちっともわかっていない」

「わかっているって!」ボクは必死に防戦した。

「いや、そんなはずはない。わかっているのなら、そんなことを言い出すもんか。もっとよく自分のこれからのことを考えろ」

「父さんだけはボクをわかってくれていると思っていたのに」

夢が足早に逃げて行くような気がした。

「頭を冷やしてよく考えてみろ。ニューヨークで起こったことを。お前は考え違いをしているんだ」

「わかった。もう頼まない。自分で何とかするから」

 ボクは店を放ったらかして、広場を離れた。

ホテルに入ると、ロビーにヘイマンさんがソファに腰掛けて、カールと話し込んでいた。

「やあ、プリティ。どうした? 怖い顔をして」

「ニューヨークで勉強したいんです。ヘイマンさんのところに下宿させてもらえませんか?」

「藪から棒にどうした? お父さんらと話したのか?」

「・・・・・・」

「何か理由(わけ)がありそうだな。まあ、お座り」

 ボクはヘイマンさんとカールの間に腰掛けた。父さんとの話をかいつまんで聞いてもらった。

「それはプリティが無理難題を押し付けていることになる。両親を説得できなければ、仕方なかろう」

「でも・・・」

「しかし、どうしても行きたいというのだろう?」

 カールが言った。

「はい」

「若い時にはそんなことがよくあるもんだ。夢を追って周りが全く見えない。親からすれば、危なかしくって見ていられない。当然親は反対する。若者は反発し、無謀な行動に出てしまう」

「・・・・・・」

「でも誰かがその若者の夢を実現させようと味方になる」

「カール、それどういう意味?」

「俺が君の力になろうと言っているんだ」

「カールが?」

「そうだ。俺はしばらくニューヨークに行くことになった。ヘイマンさんに木工品の販売を引き受けてもらうことになったんだ。多感な時期を過ごしたニューヨークに行く機会を前から狙っていた。それがこういう形で実現することになった。プリティ、一緒にニューヨークに行こう。お金は俺が何とかする。両親は俺が説得してみる。こんな老いぼれの言うことなんぞ、賢いご両親は聞く耳を持たないかも知れないが、やってみるだけの価値は十分にある。夢を追い、その夢を実現するために行動する。それが若さの持つ特権だ。俺の青春は戦争と民族差別という時代背景で無残に打ち砕かれた。若者としての夢を時代に奪われてしまった。しかし君は自らの信念を持って今夢を実現するためのスタート地点に立とうとしている。なんと素晴らしいことだろう。それを知ったこの老いぼれが君の夢に惚れた。そういうことさ」

 カールの言葉にボクは身体が熱くなった。有難くて、涙がこぼれそうになった。頭の中を、再びマンハッタンの喧騒が回り始めていた。

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