第4話

 1


先住民博物館の披露の日が来た。ヘイマンさんのコネのお陰で、一般公開の前に行われるプレス発表の日にゆっくり見ることが出来る。博物館に展示される先住民コレクションの母体は、ニューヨークの石油成金だった銀行家のジョージ・グスタフ・ハイという人物が六十年ほどかけて収集したものだそうだ。 

ヘイマンさんによれば、ハイは先住民の居留地を訪ねると、立派な石彫から使い古したモカシンの靴まで手当たり次第に買いまくって帰るので、空っぽになる居留地もあったという。

そんなにしてまで収集し、合わせて百万点にのぼるというコレクションの中には、先住民の遺骨が納められた器や聖なる物品もあった。

遺骨はこの機会に披露の式典で本来の持ち主に返還されることになった。コレクションは元々ブロードウェイの百五十五丁目にあったミュージアムで展示されていたが、今回自由の女神像のあるエリス島に渡るフェリーが発着するバッテリーパークの近くの記念碑的建物に移されたのである。

ボクは家族とヘイマンさん夫婦、それにブルースとスーザンで見学に出掛けた。コレクションは首都ワシントンDCにあるスミソニアン財団が管理するとあって、式典には政党の大物議員も姿を見せていた。

ボクらは展示品を見て回った。

「スーのパイプがあるよ!」

 サザンが声を上げた。

「父さんが話してくれたシッティング・ブルのパイプもあるのかしら」

「さあどうかな」

「スーのパイプ・コレクションは目玉展示のひとつだ」

 ヘイマンさんが並んだパイプを覗き込みながら言った。

「グスタフ・ハイが金に糸目をつけず、買いまくったんだろう。本来はスーの遺産として地元の資料館に保存されるべきものだ」

 父さんの口調に悔しさが滲んでいた。それを聞いてボクはこう言った。

「当時は白人の侵入で混乱も続いていたし、地元には今のように資料館がなかったから、貴重なパイプも何処かに失せてしまったかも知れないよ。ハイのお陰とまでは言わないけど、結果的に残ったことはいいことだと思う」

「プリティ。それはそうかも知れない。でもこれらのパイプは元々我々スーの伝統的な聖具だ。万物すべての創造主ワカン・タンカに祈る際、必ず必要なものだ。ワカン・タンカを初めとするスピリットはパイプの煙が大好きで、パイプから吐き出された煙は天に昇り、その煙にこもった願いをワカン・タンカが聞き入れてくださるんだ。シッティング・ブルが透視のパワーを得ようとパイプの煙を吐き出してワカン・タンカに祈ったのも、白人との平和協定を結ぶ時にパイプを使うのも皆同じことだ。そんな大切なパイプは、どんな経緯があったにせよ、残っている限りは本来の持ち主に返すのが筋だと父さんは思う。それを地元で資料として保存し、消されつつある歴史を取り戻すことに役立たせる方がいいと思う。ブルース君はどう思うかね」

「おじさんのおっしゃることが正しいと思います。わたしもカンサ族の一員ですから、もしもカンサの貴重な遺品があれば、地元に保存したいですね。スーザンはどうだい? もっとも君は白人だからなあ」

「・・・・・・」

 下を向き黙っているスーザンを見て、ボクは一言言いたい気持ちにかられた。

「ブルースさん、スーザンを白人だと言い放つのはどうかと思います。肌の色は関係ありません。偶々ここでは先住民が多数派なのかも知れないが、少数派のことも公平に受け入れることが如何に大切かということを、我々先住民は長い苦しい闘いの中で、身をもって体験して来たのではないでしょうか?」

 一瞬ブルースの顔色が変わった。

「君、何もわたしは差別めいたことは言っていない。区別して話してるんだ」

 ボクは大きく首を振って否定した。

「それは言葉のマジックです。このニューヨークでは、住み分けてはいるけれど、多種多様な民族が切磋琢磨しながら暮らしているのが、今回実際に来てみて良くわかりました。多数派が少数派をいじめるのを無視したら、我々の存在理由は消えて無くなりますよ」

「青臭い君なんかに何がわかると言うんだ。わたしはね・・・・・・」

ヘイマンさんが割って入った。

「そこまで、そこまで。議論もいいが、今日は新しい先住民博物館の披露の日だ。新しい門出をみんなで祝おうじゃないか。さあ、次の展示コーナーを見よう」

 スーザンの眼がボクを見て微笑んでいた。ボクは微笑みを返した。


 ニューヨークを離れる日が近付いて来た。ボクはマリアのことが気になっていた。ヘルズ・キッチンに出掛けようかとも思ったが、踏ん切りがつかなかった。またティムに説教されると思うと億劫になった。か、と言ってこのまま黙ってサウス・ダコタに帰ってしまうのも憚(はばか)られた。処女だと思っていたのに、既に経験豊富だったんだ。それなのに、大切なものを奪った責任をとれとマリアは言う。好きだから一夜を共にしたんだ。何でわかってくれない!

(そんな身勝手なことを言う女は放って帰れ!)

 ボクのひとりが叫んでいる。別のボクはこう言う。

(処女であろうが、経験者であろうが、そんなことは関係無い。お前が本当にマリアを愛しているならそれでいい。それが一番大切なことだろう。もっとよく考えろ!)

 もしマリアに会うとして、何をどう言えばいいんだろう。一緒に暮らそうと言うのか。それとも別れようと言うのか。ニューヨークに残るとすれば、家族を説得しなくちゃならない。マリアと暮らすとなれば、母さんは絶対に許してくれないだろう。別れるとなれば、あの剣幕では慰謝料でも請求されかねない。いずれにしても決断を迫られる。ああ、困った!


 思案したあげくに、ボクは思い切ってヘルズ・キッチンに出掛けることにした。母さんが心配すると困るので、アート・スクールの見学に行ってくると嘘をついた。騙(だま)すのはつらいが、仕方がない。

地下鉄を降りてヘルズ・キッチンの入り口に差し掛かった時だった。

マリアが若い男と腕を組んでボクの方向に歩いて来る。あれがソンイルだ。ボクは反射的に近くにあった電話ボックスの後ろに隠れた。二人は気付かずに近付いて来た。会話が聞こえた。

「お前、まだあのインディアンのガキと付き合っているのか」ソンイルが言った。

「ええ」

「もう一度俺と付き合わないか」

「急にそんなこと言われても・・・・・・」マリアが困惑した表情を見せた。

「インディアンなんてやめとけ。寝ている間に頭の皮を剥がれちまうぞ」

ボクはその言葉に堪忍袋の緒が切れて、二人の前に飛び出して行方を遮った。

「誰だ。お前は!」ソンイルが叫んだ。突然現れたボクの姿を見て、マリアは後ずさりした。

 ソンイルがボクを睨みつけた。

「何で、プリティ・・・・・・」マリアはボクの名を呼んだ。

「そうか。お前が噂のインディアン野郎か」

 ソンイルがマリアの腕を振り払い、身構えた。

「先住民の頭の皮を最初に剥いだのは白人だ! 先住民を侮辱する奴はこうしてやる!」

 言葉が出るか、出ないかの瞬間に、ボクのパンチがソンイルの腹部に飛んでいた。ソンイルは不意打ちを食わされ、路上に突っ伏した。

ボクは一目散に走って逃げた。ソンイルは叫びながらボクを追っかけようとしたが、走りではボクに適うはずもなかった。


    2


 サウス・ダコタに発つ前の日、ボクはカールへの土産物を探しながら、独りでマンハッタン五番街を歩いた。わずかな滞在だったが、ボクの今までの人生に比べたら、それに匹敵するほど色んな事が一度に起きたような気がする。

マリアとのことはもうこれで終わりだ。ボクはマリアがもっと純粋な女の子だと思い込んでいた。でも都会は大きく人を変えてしまうんだろう。都会は刺激に溢れ、人が本来持って生まれた純粋さを消し去ってしまう。

ボクはサウス・ダコタでマリアと出会いたかった。サウス・ダコタに生まれ育ったなら、マリアも生まれたままの純な心と肉体を持ち続けられただろうに。

恨めしそうに都会の雑踏を眺めている自分に気づく。初めて五番街を見た時に感じた街の活発さは、きっとその裏に潜んでいた都会の穢れた顔を覆い隠していたに違いない。そこで呼吸する人間は知らぬうちにその穢れを吸い込んでしまう。そして穢れた自分を覆い隠すために、派手な恰好をし、大袈裟なジェスチャーをして「都会に負けるもんか」と叫ぶんだろう。

 ボクはマンハッタンに来てから初めて故郷サウス・ダコタでの静かな営みや暮らしを懐かしく感じ始めていた。

 カールへの土産を買うため、感傷に浸るのをしばらく中断し店を覗いて歩いた。どの店も洗練され、つんとすましている。着飾った店員も、ドレスアップした客も、売っている品物も、すべてがみすぼらしい姿のボクを見て見ぬふりをしているようだ。田舎者が一体ここで何をしているんだ。とっとと立ち去りな。そう言われているような気がする。

 ヘルズ・キッチンが好きになりそうと思ったのは幻想だったのだろうか。そう思いつつも、ボクは五番街の雑踏を離れ、ヘルズ・キッチンに向かっていた。  

ティムに会ってさよならを言おう。マリアのことで迷惑をかけたし、初めて出会ったサザンとボクに暖かい手を差し伸べてくれた。

 ボクはヘルズ・キッチン・デリの中を覗いた。客はおらず、ティムが椅子に座って本を読んでいた。いざとなると、声が掛けにくい。また説教をくらうだけかもしれない。このまま会わずに帰ってしまおうかと迷ったが、思い切ってドアを開けた。

 ティムが本から視線をこちらに向けた。そして微笑んだ。

「やあ、プリティじゃないか。久しぶりだな。まあ、入れよ。ソフト・ドリンクでもご馳走するぜ」

 ティムはボクとマリアのことをまるで気にしていないかのように、本をテーブルの上に置いて立ち上がった。その本はベストセラーの探偵小説だった。

「探偵ものが好きなの?」

「ああ、大好きだ。推理を駆使して真犯人を追い詰めていくプロセスがたまらない」

 ティムはテーブルにジンジャー・エイルを置いた。

「ありがとう」

 ボクはストローでエイルを少し飲んでから、姿勢を正した。

「マリアのことは本当にごめんなさい」

 ボクは真顔でティムの許しを乞った。

「気にするな。若い頃はいろんなことがある。君はサウス・ダコタの田舎からやって来たんだ。都会ですぐに何もかもうまくいくはずがないぜ」

「マリアは家にいますか?」

「ああ、呼ぼうか?」

「いや、昨日会ってますので・・・」

「あいつは物事にこせこせしない性格だ。すぐに嫌なことは忘れちゃう」

 ティムは胸ポケットからタバコを取り出し、マッチで火をつけた。紫煙が辺りに漂った。

「明日サウス・ダコタに帰ります。色々お世話になり、ありがとうございました」

「そうか、いよいよ帰るか。ちょっぴり寂しくなるな。またニューヨークに来てくれ。マリアと待っているからな」

「ありがとう。きっとまたこのデリに来ますから」

 ボクはジンジャー・エイルを飲み干し、立ち上がった。

「元気でな」

 ティムは微笑みながらボクの手を強く握った。

「ちょっと待ってくれ。うちの特製Tシャツをあげよう」

 ティムは店名が胸元に印刷されたTシャツを三着持って来て、袋に入れボクに手渡した。

「君と、弟サザンの分。もうひとつサイズのデカイやつは親爺さんにでもあげてくれ」

「いいんですか。ありがとう」

 ボクはTシャツを受け取った。大きなTシャツはカールにあげよう。お土産代が助かった。そう咄嗟に思った。

 ティムの見送る姿を振り返りながら、ボクはデリを離れ、地下鉄の駅に向かった。

 駅に曲がる細い通りをしばらく行った時だった。通りの角から高校生くらいの男が数人現れた。そして睨むように近付いて来た。手には棒のようなものが握られていた。ボクはただならぬ気配を感じて踵を返し、反対方向に逃げようとした。そちらからも同じ年頃のグループが近づいていた。高校生グループは両側からどんどん間を詰めて来た。

「インディアン野郎、この前はよくぞパンチをお見舞いしてくれたな。礼を言うぜ」

 背後から声がした。振り返ると、ソンイルが不敵な笑いを浮かべていた。

「お前ら、可愛がってやれ!」

 ソンイルの指図で高校生らはボクを羽交い絞めにし、棒を振り上げた。

「卑怯だぞ! 離せ!」

 必至でもがいたが、多勢に無勢だった。押し倒され、棒と足蹴りがあちこちから飛んで来た。鈍い音がし血が体から流れ出していた。ボクは耐え切れず失神した。


 目を醒ましたら、ボクは薄暗い部屋のベッドの上に横たわっていた。頭には包帯が厚く巻かれ、首を動かすと激痛が走った。

 白い服を来た女性がドアを開けて入って来た。

「やっと目が醒めたわね。良かった。熱を計るわね」

 女性はボクの口の中に体温計を差し込んだ。しばらくして、女性は体温計を取り出し、目盛りを見た。

「微熱があるわ」

「ボクは一体・・・・・・」

「頭から血を流して地下鉄の駅の近くで倒れていたのを誰かに通報してもらったの。動いちゃだめよ。痛むから」

「ここは病院ですか?」

「そうよ。救急病院の病棟」

「ボク帰らなくっちゃ。明日故郷に帰るんです」

 立ち上がろうとしたら、腹部や頭部が裂けるように痛んだ。

「動いたらだめと言っているのがわからないの!」

 看護師が怒鳴った。

「ところで、あなた連絡先は何処なの」

「マイケルズというお店です」

「電話番号を教えて頂戴」

 ボクは椅子に架かっているズボンのポケットを指差した。

「ポケットにメモ帳があります。見ていただけませんか」


 天井を見てぼんやり過ごしていると、ドアの方で人の足音が騒がしくなった。ドアが開き、父さんらが入って来た。

「プリティ、どうしたんだ。大丈夫か」

 父さんと母さん、それにサザンが心配そうにボクの顔を覗き込んでいた。

「ケガの程度はどうなんでしょう?」

母さんが看護師に訊ねた。

「体中に打撲があり、脇腹は固いものでひどく殴られた傷があります。今精密検査を行っていますのでしばらくお待ちください」

「兄さん、一体何があったの?」

「余り話させないようにしてあげてくださいね」

 看護師が皆に声を掛けて部屋を出た。


   3


 ボクは一ヶ月ほど入院することになった。父さんは仕事が溜まっているので、学校があるサザンを連れてサウス・ダコタに帰り、母さんが付き添いで残ることになった。母さんは病院の近くにある安いホテルに逗留しながら、毎日病院に通って来た。傷害保険に加入していなかったので、ボクの入院費は雪だるま式に増えているのだろう。

 母さんは一体誰に襲われたのか、心当たりはないのかと折りに触れ訊ねたが、ボクは黙っていた。

 そんなある日、面会者がやって来た。マリアだった。母さんが来ないことを祈った。

「わざわざ来なくても良かったのに」ボクは嬉しい気持ちを隠してそう言った。

 マリアはお見舞いの花を花瓶に差しながら、包帯が巻かれたボクの腫れた顔を黙って見つめていたが、唇を噛んでから口を開いた。

「ソンイルの仕業ね。手下の高校生に襲わせたと聞いている。何て卑怯なことをする奴なのかしら」

 マリアは再び唇を噛み、顔を歪めた。ボクはマリアの表情を窺いながら尋ねた。

「ソンイルはどうしている?」

「あいつとは完全に別れたわ。今度は絶対によ」

「ボクのためにすまないね」

「あなたのせいじゃないわ。わたし、人を傷つける人間が許せないだけよ」

 それがマリアの本心から出ているのかどうか疑っていた。一度はマリアに裏切られたという気持ちが失せなかったからだ。

「もういいよ。顔を見せてくれただけで嬉しい。また元気になったら会おう」

 マリアは頷いて微笑んだ。

「母さんが顔を出すと君も嫌な気持ちになるから、今すぐ帰ったほうがいい。もうじき母さんがやって来る時間だから」

「折角来たのに余りせかさないでよ」

 気持ちを思いやって言っているのに、それがマリアを不快な気分にさせていることが、やりきれなかった。

「あなた、ソンイルを告発したら? でないと、病院代がすごく高くついちゃうわよ。あいつが悪いんだし、当然支払わせるべきよ」

「・・・・・・」

「少しそれを考えたほうがいいと思うわ。親御さんとも相談して」

「考えてみるよ」

「余り気分が乗らないようね。腹が立たないの?」

「そりゃ腹は煮え繰り返っているよ。ボクをまたインディアンと呼んだんだ。あいつの首をへし折ってやりたいほどだ」

「だったら告発すべきよ。ばか高い治療費を全部かぶる必要なんかないじゃない」

「両親と相談してみると言っているんだ。もう帰ってくれないか」

母さんと出会ったら、またトラブルになるという思いがボクに人払いするような言葉を吐かせた。

 マリアは黙って出て行こうとした。

 その時ドアが開いて母さんが入って来た。マリアと母さんの目が合った。

「あなたは確かあの時の・・・・・・」

「失礼します」

 マリアは俯いてドアに手を掛けようとした。

「マリアさんだったわね。どうしてここに・・・・・・」

「息子さんがケガをしたと聞いて、お見舞いに寄せてもらったのです」

 マリアが振り向いて母さんに言った。

「お前が知らせたのね。でなきゃ、マリアさんはどうしてお前が入院していることを知っているの?」

 母さんがボクを睨みつけた。

「ケガをさせたのは、わたしの元カレなんです」マリアが言った。

「元カレって?」

「わたしがプリティの前に付き合っていた人です。ソンイルという」

「あなたの前の恋人が何故プリティにケガをさせたの?」母さんが困惑した表情をマリアに向けた。

「母さん、もういいって! マリアを帰してあげてよ」

 マリアはドアのそばに立ったまま、母に向かって説明した。

「ソンイルがプリティのことをインディアン野郎と罵倒したんです。それでプリティが怒って、ソンイルを殴ったんで、それを根に持ったソンイルが仕返しを・・・・・・」

「じゃあ、その男に治療費を払ってもらいましょう。その人をここに連れてきて!」

「母さん、もうやめて!」ボクは痛みを堪えながら、起き上がろうとした。

「あなたは引っ込んでなさい。加害者がわかったのに、泣き寝入りすることは出来ないわ。さあ、早く連絡を取ってちょうだい」

 母さんはマリアを睨みつけた。

「彼は今仕事中です。それにもう彼とは別れましたんで、連絡先をお教えしますから、お母さんから連絡を取ってもらえますか?」

「ええ、いいわ。早く教えて」

 マリアはメモ用紙をバッグから取り出し、リムジン会社の代表番号を書き込み、急いで病室から出て行った。

「母さん、よしなよ。ソンイルは乱暴な奴だ。返り討ちにでも遭ったら、それこそ元も子もない」

「父さんに連絡してニューヨークに来てもらうわ。我々先住民に差別的な暴言を吐く人間の根性を叩き直してもらうから」

 母さんはドアから走り出して行った。

 ボクはまたひと騒動ありそうで憂鬱になった。枕元を見ると、ティムからもらったTシャツの入った袋があった。ボクが倒れているのを発見した人が、救急車の隊員に手渡してくれたそうだ。もうマリアから今回のことは伝わっているかも知れないけれど、退院したらボクから事の次第をティムにも報告しなくちゃならないと思った。


 父さんは母さんの知らせを受けて、ヘイマンさんの知り合いの弁護士と相談し、ソンイルを警察に告発し、治療費請求の手続きに入っていた。ソンイルは警察で取調べを受け、犯行を認めたため、実行犯とともに暴行傷害罪で逮捕され、収監された。



 後一週間ほどで退院するという頃に、ティムが見舞いにやって来た。

「つい昨日君が入院していることを聞いたんだ。驚いたよ。どうだね、具合は?」

「ありがとう。もう痛みも取れてきましたので」

「そうか、安心したよ」

 ティムは表情を和らげた。

「君をそんな目に合わせたのはソンイルらしいな。酷いことをする奴だ」

「マリアはどうしていますか」

「余り店にも顔を出さない。スクールも休みがちで、何か沈み込んでいるようだ」

「それはいけないなあ」

「君は体のことを心配していりゃいいんだよ。もう直ぐ退院と聞いてほっとした」

「マリアのことはやはり心配でしょう?」

 ティムは少し考えるような表情を見せた。

「プリティ。いつか言おうと思っていたんだけど、実は、マリアは本当の妹じゃないんだ」

「えっ、どういうことですか?」

 ティムは説明を始めた。

「俺の出身はジャマイカということは話したな。ジャマイカにいる頃、知り合いの夫婦がいた。夫婦は、子供がなかったので、養子を斡旋するボランティア組織を通じて女の子を養子として迎え入れた。それがマリアだった。ところが、夫婦は、マリアが小学生の時交通事故に遭い、二人とも亡くなってしまった。葬式を済ませた後、俺はマリアを引き取ろうと思った。マリアは養父母を同時に無くし、寂しかったのだろう。他人の俺を兄のように慕ってくれた。自然とマリアをうんと年の離れた妹として見るようになった。そして思い切ってジャマイカを離れることにした。養父母の辛い思い出から解放してやりたかったのさ。マリアを連れて海外を旅して歩き、色んな国に住んで、地元の人間と交流した。広い世界を見せてやりたかったからだ。マリアは元々好きだった絵を通して、それぞれの国に馴染んだ」

「小さい頃から絵が好きだったんですね。ボクと同じだ」

「マリアが成長するにつれて、正直な話、俺も男だからマリアをひとりの女性として見ることもあった。だが、あくまでも亡くなった知り合い夫婦からマリアを預かっているんだと思い切り、仲良い兄と妹として長年付き合って来たんだ。そして二年前に一緒にニューヨークにやって来た。マリアは直ぐにアート・スクールに通い始めた。俺は様々な民族が隣り合って暮らすヘルズ・キッチンがとても気に入り、デリで商売を始めたわけさ」

「二年後、偶然ボクがサザンとデリに立ち寄った訳ですね」

「俺はマリアの男友達を出来るだけ注意して見ている。後見人意識が強いのかも知れない。特にソンイルは要注意人物だと思っていた。遊び人で女好きな男だから、マリアにはそれとなく気をつけるように声を掛けていた。でもマリアも女だ。惚れた男のいいところしか見ない。そこに現れたのが君だった。君は、ソンイルとは正反対と言っていいほど純粋な人間だ。ただしまだ若いので世間を知らない。おそらくマリアが最初の恋人だろう。違うか?」

「そうです」

 ボクは恥ずかしくて顔を赤らめた。

「マリアの男性関係について、いちいち首を突っ込むつもりはない。でも、変な男に捕まって人生の階段を踏み外すことがないようにだけはしてやりたい。それはマリアの親から頼まれたことだと思っている」

「そうだったんですか。色々事情があったんですね。ボクなんか本当に何も知らないんだなあ」

「君はこれからいくらでも人生の勉強が出来る。早く体を直して頑張るんだ」

 ティムはボクの手を強く握った。

「ありがとう。退院したらまたデリに行きます」

 沈み込んでいると言うマリアのことが頭から離れなかった。

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