第3話
1
居留地にあるラピッドシティという町に、父さんと出掛けることがあった。父さんの知り合いが東部から仕事で町にやって来たので、一緒に会おうということになった。
知り合いのおじさんが泊まっているホテルは町の中心部にある。褐色で直方体の建物の上階には、並ぶ部屋の窓の上に三角屋根が突き出て装飾的なアクセントになっている。屋上にHotel Alex Johnson(ホテル・アレックス・ジョンソン)というとっても大きな看板がそそり立っている。アレックス・ジョンソンなんて、全く白人の名だ。経営者が白人なのか。それにしても、何故先住民の居留地の真ん中に白人の名前を持つホテルがあるんだろう。ボクの頭の中に大きな疑問符が浮かんでいた。
玄関ロビーに入ると、壁面に張り巡らされたタイルの色が眼に飛び込んで来た。見渡すと、北側が白、東が赤、南は黄色で、西は黒と四色に分かれている。
「凝(こ)った造りだね」
父さんがフロントの従業員に声を掛けた。
「創業当時そのままなんですよ」
「創業はいつだい?」
「1928年です。大恐慌の直前ですかね」
その時、降りて来たエレベータの扉が開き、中年の男性が姿を現した。
「マイケル! 久しぶりだなあ」
父さんはその男性と抱き合い、ボクを紹介してくれた。
「マイケルとちょっとお茶を飲んでくるから、このホテルの中でも見物しててくれ」
「はい、父さん」
父さんはマイケルという人と喫茶室に入って行った。
ボクはホテルに入ってから、その佇まいが気になっていた。壁の色や天井から吊るされているシャンデリア。何故かとても身近な感じがする。どことなく親しみを感じるような不思議な雰囲気の正体を知ろうと、待ち時間を利用してホテルの中を見て回ることにした。
フロントのおじさんにも尋ねてみた。
「壁の色が四面とも違っておもしろいですね。何か意味があるんですか」
ホテルマンは驚いた表情でボクを見つめた。
「気付かないかね。これは君の部族スーの色だよ。ラコタ・スーの四つの聖なるパワーを方角で表しているんだ」
「道理で、身近な感じがすると思った」
ボクは照れ笑いをするしかなかった。
「今暇だから説明してあげよう」ホテルマンは説明を始めた。
「よくご覧。そして覚えるんだ。北壁の白は全てを清める白い雪で、北の空から降って来る。そして東の赤は、『明けの明星』を表わしている。明星は、太陽が昇る東からラコタ・スーに夜明けの知恵を与える。こちらの壁の黄色は南から吹く暖かい風だ。スーの大地に恵みを運んで来る。そして黒壁は雷神のシンボル。雷は西の空から大地に轟き渡り、スーに苦難に打ち勝つパワーを与えるんだ」
「白は清めのパワー。赤は知恵のパワー。黄色が大地の恵み。それに黒は苦難に打ち勝つパワーですか。成る程ね。ところで、このホテルの名は白人のようですが?」
「そうだよ。このホテルを建てたアレックス・ジョンソンというドイツ人だ。彼はシカゴの鉄道会社の幹部で、移民としてこの地にやって来た。先住民にとても関心があった。彼は資産を投じてこのホテルを建てようと思い立ったんだ。何故かと言うと、彼は先住民と親しくなって、色々と仕事でもお世話になった。そこで先住民との友情と交流の絆を形で残そうと、このホテルにスーのシンボルやイメージを取り入れたんだ。このホテルの外観はドイツの代表的な建築方法で建てられている。内部は地元ラコタ・スーの世界が収められている。言わば、ドイツの精神とスーの精神がブレンドされて成り立っているんだ。世界からやって来る宿泊者が、違う精神文化の融合の中で寛(くつろ)げるようにね」
ホテルマンのおじさんはホテルの前の一角にボクを連れて行ってくれた。
「ここがホテル建設の時、最初に土が掘られた場所だ。マウント・ラシュモアに合衆国大統領の顔彫りが始まった頃のことだ。君たちの聖地ブラック・ヒルズの一角が最初のダイナマイトで爆破された頃だね」
ボクはガッツォン・ボーグラムのことを思い出していた。ラコタ・スーの聖地の岩肌を削り、四人の大統領の顔を刻んだ男を。
同じ頃、アレックス・ジョンソンはラコタ・スーの遺産を引き継ごうと、ホテル建設を開始した。二人の白人男のあり方は本当に対照的だ。聖地を汚したボーグラムとその同じ聖地に創造的精神を発揮したジョンソン。
ロビーにある暖炉の上にジョンソンの肖像画が掛けられていた。スーの部族衣裳をまとっている。
一九三三年、ジョンソンは当時のスーの族長アイアン・ホースと名誉兄弟の杯を交わし、族長レッド・スターという名を授けられたという。
暖炉の上にアメリカン・バファローの頭部にそっくりな岩が置かれてあった。おじさんが「バファロー」という言葉の説明をしてくれた。
「バファローは水牛という意味だ。アメリカン・バファローは、野牛(バイソン)なので、種類が違う。フランス人探検家がこの地にやってきた時、バイソンを目の当りにして「バフ」と呼んだ。フランス語で牛という意味だ。後にフランスと対抗したイギリス人が、先着のフランス人の発音を聞いて『バファロー』と呼び始めたらしい」
「スーという名前はどこから来たのですか」
「昔スーと敵対したチッペアという部族がいた。スーのことを彼らの言葉で、ナドウェ・イスウィグ(ちっぽけな蛇)と呼んでいた。これを聞いた白人がイスウィグという言葉の中にある「スウ」をスーの呼び名にしたのが始まりらしい」
ボクは改めてジョンソンの肖像を眺めた。
白人にも色んな人間がいるんだ。金儲けのためにボクらの大地を踏みにじり、暮らしや命を奪ってきた白人。英雄クレージー・ホースをだまし討ちにした白人。でも、数は少ないかも知れないが、いい白人もいる。ジョンソンも、そしてカールも。
心を強く縛り続けて来た鎖が、少し緩んだような気がしていた。
ボクは父さんの知り合いと改めて挨拶を交わした。マイケル・ヘイマンさんと言い、クレージー・ホースと同じオグララ・スーの出身だった。ニューヨークで先住民のギフト・ショップを経営している。
「今度マンハッタンに、北米先住民のミュージアムがオープンするんだ。お父さんと一緒にミュージアムの見学に来たらどうかな」
ボクは嬉しくなり、父さんの顔を窺った。
「母さんも前から一度ニューヨークへ行ってみたいと言っている。折角の機会だから皆で出掛けよう」
「話は決まったようだね。日程が決まったら連絡してくれ」
ボクの心はもうニューヨークに飛んでいた。
その日から毎日ウンデッド・ニーに通い詰め、観光客相手に手作りギフトを売り込んだ。少しでも旅費の足しにしようと思ったのだ。家族四人の旅費は高い。弟のサザン・ロックは不安げな顔だった。ニューヨークは犯罪都市と言うのである。兄貴がついているから大丈夫だと説得した。その傍らで父さんは、本業のクラフト製作に精を出していた。
ウンデッド・ニーの帰り道、カールの山小屋に寄った。カールは独りで木彫りに精を出していた。
「やあ、どうしたんだ。お入り」
カールは木彫りの手を休めて、コーヒーを沸かした。
「家族とニューヨークに行くことになったんだ」
「へえ、それはいいねえ。俺も一緒に行きたいところだ。どういう風の吹き回しだい?」
ボクは事情を説明した。
「そうか。先住民のミュージアムが出来るのか。ようやく認知されて来たんだなあ」
カールが、先住民を同胞のように言ったのがおかしかった。
カールはキッチンに行き、コーヒーとアップルパイを持って来て、テーブルに置いた。
「おいしそうなパイだね。カールが焼いたの?」
「俺は独り者だから何でもやるんだ」
「奥さんいなかったの?」
「ブエノスアイレスに住んでいた話をしただろ。その頃に好きな女性が出来て結婚したことがある。娘が生まれたが、赤ん坊のまま産婦人科の部屋から何者かに連れ去られたんだ。そのショックでつれ合いは精神に異常を来たし、それがもとでとうとう亡くなった」
「悪いことを訊いてしまいました」
ボクは頭を垂れた。
「いいんだよ。どうせ俺の人生もそう長くはない。何を訊かれても平気だよ」
ボクは白いあごひげに手をやるカールの表情をぼんやり見つめていた。
「娘さんは何という名前ですか?」
「生まれてすぐ連れ去られたので、名無しさんだ。生きていれば、どんな人生を歩んでいるのか、娘だからやはり未だに気になるよ」
カールは物思いに耽(ひた)る表情を見せた。
「ニューヨークから戻ったら、お土産持ってまた来るからね」
ボクはカールを元気づけるように言った。
「余り気を使うな。ゆっくり大都会を楽しんでおいで」
ボクはアップルパイを頬張り、コーヒーで流し込んで、カールの山小屋を出た。
2
ついに出発の日がやって来た。ボクらは隣に住むおじさんに車で空港まで送ってもらい、空路コロラド州のデンバーまで飛んだ。デンバーからニューヨーク行きの飛行機に乗り換えたが、父さん以外飛行機での長旅は初めてで、機内の様子さえ珍しく、眼をきょろきょろさせていた。
何時間か経った頃、ミズーリ州上空通過の機内アナウンスが流れた。間もなくミシシッピ川の上空を通るという。
その昔、先住民はその大半が東部からミシシッピの西側に強制移住させられたと、父さんから聞いたことがある。
強制的に移動させられたチェロキー族は、厳しい冬の寒さの中でその大半が凍え死んだ。東部から強制移住先となったオクラホマの荒野に至るまで、部族の墓が道沿いに延々と続いたという。
その苦難の道のことをチェロキーはTrail of Tears(涙の踏み分け道)と呼び、語り継いでいる。
今ボクはその大河を逆に西から東に越えようとしている。ミシシッピの姿は雲の上からは見えないけれど、ボクの心には同胞の悲痛な叫びが聞こえて来るような気がした。
いつの間にかボクは眠り込んでいた。
眼を覚ますと、飛行機は次第に高度を下げていた。
雲の切れ目から地上の風景が見え隠れし始めた。
一直線のハイウェイを車が数台疾走していた。ハイウェイの網目はどんどん広がり、走る車の台数も加速度的に増えていった。機体はさらに高度を下げ、着陸のため大きく旋回を始めていた。その先に黒光りした巨大な高層ビル群が集中する島が見え始めた。
マンハッタンだ!
ミシシッピの同胞の叫びは、はるか遠くに消え去り、ボクは巨大都市の圧倒的な存在に、頭がふらつくような興奮を覚え始めていた。
飛行機は滑走路に無事タッチダウンし、機内で喚声が起こった。ボクらは空港前からタクシーに乗り、マンハッタンに向かった。
いつの間にか、通りの両側にレストランやブティックが軒をつらね、カラフルな衣服に身を包んだ人々が歩道を闊歩している。派手なストライプのネクタイ。白いワンピース。羽飾りのある帽子。Tシャツとジーンズ。
通りではラテン系のミュージシャンが、民族衣装を着て演奏に興じている。
「ここは何という通りなの?」
「五番街だよ。マンハッタンの中心を走る大通りだ。世界的に有名な百貨店やブティックが一杯あって、世界中から観光客がやって来る」
何度かニューヨークに来たことのある父さんが説明してくれた。
「五番街か・・・・・・」
ボクはこんな賑やかな大通りは生まれてこの方見たことがなかった。町と言えば、ラピッドシティしか思い浮かばない。でもエネルギーがまるで違う。まず人の数が全然違う。皆個性を振り回しながらすごく活発に動いている。自分こそが王様だと競い合っているような気がする。そうだとしたら、何故そんなに競い合う必要があるんだろう。数が多いと目立たないから?
流れ行く景色の中で帽子も服も黒でまとめ、ひげをたくわえたグループが目にとまった。
「父さん、あれは誰?」
「ジュー(ユダヤ人)だ。ニューヨークにはユダヤ人がたくさん住んでいる。ニューヨークはそれでジューヨークと呼ばれることもあるのさ。あの連中はハシディックというユダヤ人だ。マンハッタンのお隣、ブルックリンに多い」
「ハシディックって?」
「昔ユダヤ神秘主義というのがあった。カバラーという魔法を信奉していた。ユダヤ人は国を追われ、Diaspora(放浪)の民となり、世界各地に入り込んだ」
ボクはカールのことを思い出していた。ナチスの追跡を逃れて各国のユダヤ人社会を逃げ回っていたという幼い日のカールの姿を。
「そのうちポーランドにユダヤ神秘主義の拠点が出来て、狂ったように踊りまくることで神と合体し信仰をつなぎとめようとした一派があった。それがハシディックの起源らしい。もとは少数派だったが、今では保守派の多数派になった」
「踊り続けてビジョンを見るサン・ダンスとよく似たところがあるね」
「そうだな。キリスト教にはクウェイカー教徒という一派がある。彼らも体をQuake(揺らす)することで陶酔し、神と合体するらしい」
タクシーはいつの間にかヘイマンさんが住むソーホー地区に入っていた。運転手がトランクから荷物を降ろし、チップを受け取って去って行った。
ボクらはギャラリーがひしめき合う路上に立った。辺りは都心の喧騒が消え、芸術的な佇まいといった感じが漂っていた。
ボクはこの町が好きになるかもしれない予感がふとした。それはドイツ精神とスーの精神を融合して、ホテルとしての芸術的な意味を込めたホテル・アレックス・ジョンソンとこの町がつながっているような気がしたからだ。
あとでわかったが、このソーホー(SOHO)というところはハウストン・ストリートという東西に伸びるデッカイ通りの南に広がる地区で、ハウストンの南(SOUTH OF HOUSTON)の頭文字SOとHOを合わせて作られた名前という。ちなみに北側の地区はノーホー(NOHO)というらしい。
オランダ人が住み始めた頃のマンハッタン島は、今世界の金融・経済の中心になっているウオール・ストリートが人の住む北限で、北限を示す文字通りの壁(ウォール)があった。その後、オランダ商人がマンハッタン島の西を流れるハドソン川の水運を利用して北上し、イロコイなど先住民がもたらす毛皮を島の南にある港に運び、本国に送った。交易が盛んになると人口も増え、白人の居住地域もウォールを越えて、島の北へと広がって行った。ソーホーも居住地域の北上に伴い、開けたところだ。
「あそこに兄さんの好きそうな絵があるよ」
弟のサザンが指差す方向を見ると、騎兵隊と先住民の戦いが描かれた絵がギャラリーのショー・ウィンドウに掛かっていた。同胞の戦士が一丸となり、騎兵隊を攻撃している。その戦士らの先頭に立って、叫び声をあげている馬上のリーダーがいた。よく見ると、頭髪の巻き毛が波のように揺れている。
「クレージー・ホースだ!」
ボクは興奮して大きな声をあげた。そして、叫んでいた。
「ホカ・ヘイ! ホカ・ヘイ!」
父さんも、母さんも絵に見入っていた。
「マンハッタンでいきなりクレージー・ホースに出会えるとは思わなかったなあ」
父さんも感慨深げだった。背後に人の気はいがして、ボクは振り向いた。白人の若い女性と中年の男性が立っていた。
「あなたはネイティブ・アメリカンですか」
女性がボクに尋ねた。
「そうですが、何か・・・・・・」
「わたしスーザン・ポーターといいます。こちらはブルース。ブルース・コリン。わたしの知り合いです」
父さんが割って入った。
「失礼ですが、どんな御用でしょうか」
スーザンと名乗った女性は場の雰囲気を読んだ。
「急に声をかけてごめんなさい。こちらの少年が、ホカ・ヘイと叫んだので思わず立ち止まったのです。クレージー・ホースの雄叫びで有名なフレーズですよね。わたし、ネイティブ・アメリカンに関心があって、色々調べものをするんです」
事情が少しわかり、父さんもほっとした様子だった。
「そうでしたか。わたしはグレート・ロックです。こちらは妻のエリシア。息子のプリティ・ロックとサザン・ロックです。わたしたちのことをインディアンと言う人はたくさんいますが、ネイティブ・アメリカンと言う白人の方にお会いしたのはこれが初めてです」
父さんはそう言って、スーザンとブルースに微笑んだ。
「これからどちらに行かれるんですか?」
スーザンが訊ねた。
「マイケルズという先住民ギフト・ショップです。店の主人のマイケルとは同じ村の出身なので」
「あら、わたし達もちょうどその店に行くところなんです。マイケルとは親しくしてもらっています。一緒に参りましょうか」
マイケルズには目印になる大きな電飾の看板が上がっていた。スーザンが先に店に入り、声を掛けた。
「マイケル、マイケル。お友達の家族が来たわよ!」
店の奥からヘイマンさんが顔をのぞかせた。
「やあ、スーザン。ブルースも一緒だね。思ったよりも早く着いたね、ロック・ファミリーの皆さん。ウェルカム・トウ・ニューヨークだ。さあお入り」
ヘイマンさんはボクらを奥にある大部屋に案内してくれた。
「ここを自由に使ってくれ。四人ならゆったりだろ」
ボクらはとりあえず部屋に落ち着いた。ヘイマンさんの奥さんがコーヒーを持ってきてくれた。ポーラという名前で、ヘイマンさんと同じオグララ・スーの出身だ。
「ブルース、スーザン。君らもこちらに来てロック・ファミリーを歓迎しよう」
ヘイマンさんがギフトを見て回っている二人を部屋に招き入れた。スーザンがコーヒー片手にブルースについて話し始めた。
「ブルースは先住民の出身なの。カンサと言って、カンザス州の名の語源になった部族よ」
「と、いうことはブルースさんのことは同胞と言ってもいい訳ですね」
ボクが言うとブルースは微笑んだ。
「ブルースのおじいさんの兄弟はチャールズ・カーティスという人で、合衆国の国会議員を長く務めた政治家なの。カンザス選出のね」
「へえ、あなたはチャールズ・カーティスの親戚なのか。これは驚いた」
父さんが言った。
「父さん、その人知っているの?」ボクが尋ねた。
「先住民出身の有名な政治家だ。ニューヨークで出会った最初の人の親戚だとは、何と世間は狭いなあ」
「もっと驚くことがあるの。カーティスさんは合衆国副大統領だったのよ」
スーザンの自慢気な言い方がボクには気に入らなかった。
「ほう、それは知らなかった」
父さんと母さんが眼を合わせて驚いた。
「いつ頃のことですか、それは」
「一九二八年、フーバー大統領の時です」
ボクは思い出した。アレックス・ジョンソンがラピッドシティにホテルを創業した年だ。
「副大統領なら、もしも大統領に万一のことがあれば、大統領職を代行する立場にある。いずれにしてもカーティスさんは、同胞の中で合衆国政府の最高峰に上り詰めたことになる」
父さんが解説を入れた。ボクは、カーティスさんの話は初めて聞いたが、一番肝心なことは副大統領になったことではなく、どれだけ同胞の問題解決に取り組んだかどうかが問われるべきだと、反論したくなった。ボクは思い切って、ブルースに尋ねた。
「コリンさん。カーティスさんはどのように同胞が抱える問題に取り組まれたのでしょうか」
「ひとつあげるとすれば、彼自身が成立に取り組んだカーティス法という有名な法律があります。この法律はオクラホマに強制移住させられたチェロキーなど先住民の自治の道を開いたのです。たとえば、裁判所を連邦の手から先住民の管轄へと移しました。オクラホマに白人入植者を受け入れる委員会には、先住民の委員を受け入れました。この委員会は元々カーティスが作ったものです。それから・・・・・・」
ボクはブルースを遮って怒りをぶつけてしまった。
「オクラホマには強制移住させられた先住民がたくさんいたはずです。そこに白人を入植させる委員会を作るなんて、ひどい話じゃありませんか。少しも同胞のことを思っていないのじゃないですか」
ブルースは、むっとした表情を見せたが、静かに続けた。
「歴史を批判するのは簡単ですが、後世の人間がいくら頭の中で想像しても時代が変わってしまっているので、果たしてどれだけ客観的に歴史を見られるか疑問です。カーティスは今の人間からすれば、イメージするのも難しい時代状況の中でもがいた人間でしょう」
「ボクの質問に答えていません。カーティスさんは個人的に立派な人だったのかも知れませんが、先住民出身でありながら、白人側に加担して同胞の暮らしを更に踏みにじる結果を招いたのではないでしょうか」
部屋の中に重苦しい空気が流れていた。
「いい視点だ。そういうこともこれから大いに議論しよう。プリティ・ロック」
背後でヘイマンさんの声がした。スーザンは下を向き、コーヒーカップの中でスプーンを回していた。父さんは腕組をして眼をつぶっている。母さんはボクの方を見て、頷いていた。ヘイマンさんが言った。
「プリティが言うように、平和に暮らしてきた同胞の暮らしを破壊したのは白人だ。勝手に国を捨ててこの大陸にやって来た白人のための住処を作るために、先住民を強制移住させる法律まで作り、先に暮らしていた先住民を追い出すなんて、今から思えばよくそんなことが出来たものだと思う。同胞は大地に根ざして生きて来た。その根っこを大地から引き離すことほど先住民を弱らせるものはない。白人は先住民の一番大事な部分を切り取ったのだからな」
ボクの心には、カールや、アレックス・ジョンソンの顔が浮かんでいた。
「白人全てが悪人だとは思っていません。白人にもいい人はいます。ただ先住民の政治家がたとえアメリカ副大統領になったからと言って、それだけでスゴイと言い放つのは間違っているのではないでしょうか。大切なのは、その政治家が何をやったかという中味です。ボクが言いたいのはそれだけです」
ボクはそう言うと大部屋から出て行った。
3
いつの間にか夜が明けていた。ニューヨークに着いた興奮と議論のせいで、殆ど眠れず、眼は冴えていた。窓のカーテンの隙間から、まばゆい光が差し込んでいた。
向かいに並んだベッドには父さんと母さんが寝ている。サザンはソファで軽い寝息をたてていた。
カーテンを少し開くと、表通りがすぐ目の前にあった。光の中を人が行き交い始めている。イェロー・キャブが通り過ぎた。空港からの運転手は、頭にターバンを巻き、あご髭をたくわえたインド人だった。もう一度キャブに乗ってみたいと思った。今度は果たしてどこの国の人なのだろうか。
向かいのカフェから若い男が出て来た。手にコーヒーカップとサンドウィッチを持っている。すると、若い女が男を見つけて近付いて来た。女は笑顔で男に抱きついた。男は両手にカップとサンドウィッチを持ったまま女の体に腕を回し、女と唇を合わせた。ボクは思わずカーテンの陰に引っ込んだ。しばらくおいて、外をのぞくと男女はまだ抱き合ったままだ。通りを行き交う人は彼らを見ないし、男女も周りを全く気にかけず、唇をまさぐり合っている。
(白人は人前で何て大胆なことをするのだろう。サウス・ダコタの居留地では考えられないことだ)
「兄さん、何をしているの」
サザンの声がした。驚いて振り返ると、サザンが眼をこすりながらボクの方を見ていた。
「いや、何でもないよ。もう起きたのかい」
ボクは平静を装った。
「サザン、ちょっと散歩に出よう。兄さんはここが気に入りそうなんだ。どんなところなのか確かめてみたい」
「ニューヨークは犯罪都市だよ。どこで何があるかわからない。まだしばらく過ごすんだから、父さんらと一緒に出掛けるのがいいよ。それまで待ったら?」
ボクはサザンの心配性に付き合うつもりはなかった。
「こんな機会はめったにない。お前が来ないのなら、兄さんひとりで出掛けるぞ」
「ちょっと待ってよ。仕方ないなあ、ボクも行くからさ」
サザンは首を傾げながら、出かける準備を始めた。
窓から外を見ると、さっきの男女の姿はなかった。白い紙コップが歩道に転がっていた。
ボクは父さんと母さんにメモを残して、サザンと店を抜け出した。あてがある訳ではなかったが、とりあえず通りを歩き始めた。ギャラリーが並ぶ表通りから、裏通りに入っていった。周りの建物には、ドアノブに幾重もの鎖が巻かれ、その先端にU字型の大きな鍵がぶら下がっていた。ドアのそばには、汚れた鉄製のゴミ箱が鎖に繋がれていた。ゴミ箱を盗む奴がいるのか。大変なところだ。建物にはおびただしいスプレーの落書きがしてあった。建物によっては、入り口に板が打ち付けてあった。
「兄さん、こんな荒れ果てたところを歩くのはよそうよ。これなら居留地のバラックの方がまだましだよ。さあ帰ろう」
サザンは踵を返して戻り始めた。
「もう少しだけ付き合ってくれ。折角来たんだからちょっと探検してみようよ」
サザンを引っ張ってしばらく行くと公園らしいところがあった。見渡す限り人影はない。向かいに出入り口があったので、公園の中を横切ろうとした時だった。
「クウェークウェークククク!」
突然奇声が辺りの空気を破った。
サザンは驚いてボクに抱きついていた。辺りを見渡していると、物陰から黒人が数人飛び出してきた。手にヌンチャクを持ち、薄笑いを浮かべ、こちらを見ている。眼が異様に輝いている。
ボクらは恐怖を感じ、一目散に公園を突っ切って逃げた。心臓が飛び出しそうになるほど走りに走った。息が切れ、いやと言うほど二人一緒に歩道につんのめった。黒人は追いかけては来ていなかった。ただ脅かしてやろうと思ったのだろう。ボクらは目をきょろきょろさせながら、今の出来事を振り返り、思わず笑い転げた。
「一体何だったんだ。今のは」
「わからない。でも、昔父さんにいざという時にどう逃げるかを教えてもらったことが、マンハッタンで役立つとはね」
父さんはその時こう言ったのだった。
「必ず逃げ道を意識して、絶対に敵に周りを囲まれるな」
当たり前のことだが、実際にはとても難しい。カスター率いる第七騎兵隊が全滅したのも、スーとシャイアンの連合軍に完全に包囲され、退路を絶たれたのが主な原因とされている。
また歩き始めたが、先ほどの全力疾走はさすがにこたえていた。
「サザン。タクシーに乗ろうか」
「お金は大丈夫なの?」
「任せとけ。父さんからもらったお金があるさ」
表通りに出て、タクシーを捜した。イェロー・キャブが向かいの交差点を曲がり、こちらの車線に入って来た。ボクは手を大きく振った。運転手は白人の青年だった。金髪の長い髪を後頭部で束ね、度の強そうな眼鏡をかけている。筋骨隆々。何かのスポーツ選手のような体だ。でも鼻を赤くしたらピエロに変身出来そうな感じだ。
「へい、どちらまで」ピエロのハイトーンの声が響いた。
「タイムズ・スクウェアーまで行ってください」
「合点だ」
ピエロは思いっきりアクセルを踏んだ。ボクらは思わず後ろにつんのめりそうになった。
ピエロはしばらく黙っていたが、少しずつしゃべり始めた。
「お客さんは聖書を読んだことがあるかい?」
「いや、ありません」
「そうかい。俺の頭の中には聖書がバッチリ詰まっている。ひとつ披露して見せよう。まずはルカによる福音書六章二十七節から二十八節だ」
ピエロはハンドルを切りながら、暗誦を始めた。
「敵を愛し、憎む者のために祈りなさい。呪う者を祝福し、辱める者のために祈りなさい・・・・・・。さて次はヨハネか。ヨハネによる福音書の第十四章二十七節ときたもんだ。ええと、わたしは平安をあなたがたに残していこう。わたしの平安を与えましょう。わたしが与えるものは、世の中が与えるようなものとは、ちと違う・・・・・・」
ピエロは暗誦を続ける度に、次第に興奮していった。見ると、ハンドルのそばに聖書が木製の大きな洗濯バサミで両側からとめてあった。
「さあ今度は何にしようかな。ルカがいいかな。それともマタイかな。うん、やっぱりヨハネの福音書で行こう。さあ、これだ。イエス!」
ピエロは片腕をハンドルから離し、天井を拳(こぶし)で押さえつけた。眼は拳に注がれている。
「おじさん、危ないよ! 前をよく見ないと!」
「ヨハネ第十六章だよーん。さあ行くぞ。今まであなたがたーは、わたしーの名によーって求めたことーは無いぞー。求めてちょう、ちょうだいーな。そーすれーば、もらえーるよ。そしーて、あなたがたーの、喜びーが、満ち、満ち、満ちあふれーるであろーよ!」
両腕がハンドルから離れ、自己陶酔に陥っている感じだ。
「危ない!」
タクシーは信号無視で交差点に突っ込んでいた。途端に周りからクラクションが鳴り出した。
「あああああ!」
ピエロは急ブレーキを踏んだ。ボクらは座席から飛び出しそうになった。交通整理の警官が飛んで来た。
ボクらはようやくピエロのタクシーから降りて、別のタクシーに乗り換え、タイムズ・スクエアーに着いた。
「兄さん、あの男は気が狂っていたの? それとも酔っていた?」
「俺もさっぱりわからない。でも、ニューヨークには変な奴がたくさんいるなあ。あの黒人たちといい、運転手といい。一体どうなっているんだろう」
タイムズ・スクウェアーに降り立った。巨大なスクリーンが、ハンバーガーのコマーシャルを映し出していた。観光客が街の風景をカメラで撮りまくっている。ミュージカルの劇場が軒を連ねるブロードウェイを越え、九番街という通りに出た。背の低いビルが多い。摩天楼が並ぶ六番街あたりとは雰囲気がまるで違い、エスニック料理の店が目立つ。イタリア、ベトナム、ミャンマー、中国・・・。毎日一軒ずつ入ったとしても、二ヶ月以上はゆうにかかりそうだ。
お腹も空いてきたので、サザンと小さなデリカテッセンに入った。「ヘルズ・キッチン・デリ」とある。コーヒーとチリドッグを注文し、空いたテーブルに座った。店員は揃いのTシャツを着ている。胸に「ヘルズ・キッチン」という文字がプリントされていた。
「すみません。それはどういう意味なんですか」
ボクはそばの店員に尋ねた。
「これかい? 直訳すれば、地獄の台所さ」
「地獄の台所?」
「ああ。昔ここらあたりは、客が今よりずっと多かった。台所はてんてこ舞いの忙しさだったらしい。『キッチンは地獄の忙しさ』という意味さ。それがこの地区に巣くったアイリッシュのマフィア野郎のせいで別の意味の地獄になり、客足が遠のいてしまったのさ」
「アイルランド出身のマフィアがいたんですか」
「ああ。残忍この上ない連中さ。シシリーからやって来た、あのおっかないイタリアン・マフィアと抗争したこともあるくらいだ」
サザンは顔をゆがめていた。
「マンハッタンには色んなところがあるんですね」
「君らはどこから来たんだ」
「サウス・ダコタです」
店員が口笛を鳴らした。
「まあ遠いところからご苦労さんだな。ひょっとして君らはインディアンなのか」
「スーです。インディアンなんて呼ばないで下さい」
ボクは頭から湯気を出した。
「こいつは失礼した。侵略者コロンブスが間違ってつけた名前だったな。この近くにコロンバス・サークルというところがある。広場の真ん中にコロンブスの像が立っているんだ。そこでこの前インディア・・・いや、先住民が侵略者を告発する集会を開いていたぞ」
「そうなんですか」
「どうだ、昼休みにメシでもおごろう。失礼のお返しだ」
店員はティム・ゴメスと名乗った。ティムは近くのアパートに住み、妹を養っているという。ボクらは好意に甘えることにした。ティムが連れて行ってくれたのは、同じ並びにある中華料理店だった。店の中は客で混雑していたが、ようやく奥の空いたテーブルを見つけた。
「ここは何でもうまい。好きなものを食え」
ボクらは麺類を、ティムは餃子とビールを注文した。
「サウス・ダコタから一体何しに来たんだ。わざわざこんな薄汚れた都会に」
ティムは餃子をぱくつきながら尋ねた。ボクが兄弟を代表して答えた。
「父の知り合いがいます。今度ニューヨークに先住民の博物館が出来るので、それを見に来たんです」
「ああ。あのグスタフ・ハイとかいう石油成金が集めた先住民のコレクションのことか。そのコレクションは、前はここからブロードウェイをずっと上がったところにあったんだ」
「よくご存知ですね」
「そら、情報だけはごまんとあるさ。都会だからね」
「ヘルズ・キッチンには色んな民族が住んでいるんでしょ?」
「ああ。民族のサラダ・ボウルってとこかな。少なくともスカイ・スクレーパー(摩天楼)のビル街に比べれば、ここは活気があるし、人情も枯れずにあるさ。違った文化を背負った色んな民族が、ひざとひざつき合わせて一緒に人生航路を渡っている。それが活気を生み出すのさ」
「おじさんは何処の出身ですか」
「ジャマイカだ。キューバの南にあるカリブ海に浮かぶ島国さ。行ったことがあるかい?」
「いや、ボクらは一度もサウス・ダコタを出たことがありません」
「そうか。俺は色んな国を旅しては、そこに住み、流れ流れてここにやって来た。ここはマンハッタンに乗っかった小さな地球さ。世界中の民族が暮らしているからな」
「マフィアの話で出たアイリッシュもそのひとつですね」
「その通り。連中の仕事はコップ(警官)が多い。ニューヨーク市警はアイルランドで持っているんだ。連中は毎年三月半ばに、アイルランドの聖人セント・パトリックを祝う大パレードをする。五番街はアイルランドのシンボル・カラーの緑一色になる。壮観だぞ」
「民族毎にパレードがあるって本当ですか」
「うん。年がら年中パレードがあると思って間違いない」
ボクらは麺類を食べ終わり、ジンジャー・エイルを注文した。ティムはチンタオ(青島)という中国のビールを飲んでいた。
「あさってからここでフード・フェスティバルがあるんだ。世界中の食べ物の店が出る。その時、出直して来ないか。妹を連れてくるよ」
「はい、そうします。有難う」
ボクらは仕事に戻るティムと別れ、更に西へと歩いた。
十二番街というところに出たら、川にぶち当たった。ハドソン川だった。昔オランダの商人が、先住民イロコイと交易するのに利用した川だ。運搬船が一艘(そう)、川上に向かっており、そのかき分ける波が岸に迫って来ている。
「そろそろ引き揚げようか、兄さん」
「そうだな。そうするか」
ボクらはイェロー・キャブを探し、ソーホーに戻った。
「一体何処に行ってたんだ。何処にもいないから母さんと心配してたんだぞ!」
父さんがしかめ面でボクらを睨みつけていた。
「朝の散歩だよ」
ボクはとぼけて言った。
4
フード・フェスティバルの日がやって来た。ボクは独りでヘルズ・キッチンに出掛けた。サザンは初日の散歩で嫌気がさしたのか、父さんらと過ごすとつむじを曲げた。イェロー・キャブには閉口していたので、行先を調べてから地下鉄で会場まで足を運んだ。集合場所のヘルズ・キッチン・デリをのぞくと、ティムがビールを飲んでいた。若そうな女性が背中を向けてティムに向き合って座っていた。
「やあ、来たか。何か飲むかい?」
ティムは隣のテーブルの椅子をひとつ借りて、自分の隣に席をつくった。
「紹介しよう。妹のマリアだ。アート・スクールに通っている」
愛嬌のあるつぶらな瞳がこちらを振り返った。可愛い! ボクは心のときめきを覚えた。
真ん中で分けた長いブラウンの髪。額の下にはくっきりした眉毛。ルージュが映える口元に笑みを浮べながら、マリアはボクを見つめていた。ボクは心の中を覗かれないようにとちょっぴり緊張しながら言葉を弾き出した。
「はじめまして。プリティ・ロックといいます。サウス・ダコタから来ました。ボクも絵が好きです。ゆっくりアートの話がしてみたいな」
意外にすらすらと言葉が出た。
「いいわね。是非お話ししたいわ。とにかく今日は楽しみましょうね」
ボクらは早速会場を歩いた。エスニック・フードの露店が通り沿いに軒を連ね、食べ物だけじゃなく食材も売られている。人だかりがしていたので覗いてみると、大きな白蛇を頑強な体に巻きつけた男が見えた。蛇が赤い舌をひょろひょろと出し、体を大きくくねらせる度にどよめきが起こった。マリアはティムの背中に回り、恐々顔を蛇に向けていた。
「気持ち悪いわ。早く行きましょうよ」
マリアはティムの腕を引っ張った。
羊の肉を売る店があった。色の浅黒い男が肉を焼いている。注文すると、男は焼きたての肉を手際よくパンにはさみ、野菜を添えた。
「お好みでマスタードかケチャップをつけてくれ」
代金を受け取りながら、男は屋台の前に並ぶチューブを指差して言った。ほおばると、肉汁が口いっぱいにひろがった。
「うまいな。サウス・ダコタでは羊をよく食べるんです。この肉は柔らかくてとってもおいしい」
「人がたくさん行き交う通りで立ち食いすると、格別おいしいのよね」
マリアは肉や野菜がこぼれそうになっているパンを両手で口に運んだ。
ティムが隣の店でジンジャー・エイルを三人分買ってきた。冷えたエイルが体に染み通っていった。
通りを歩いて行くと、警備にあたる警官がハンバーガーを食べていた。彼らも仕事をしながらフェスティバルを楽しんでいるようだった。
街角にインディアン対策局の出張所があった。アメリカ合衆国内務省インディアン対策局という正式名称が、看板に見てとれた。
「ちょっとここを覗いてもいいですか」
ボクは二人に声を掛けた。
「こんなところがあるなんて知らなかったわ。兄さん、入って見ましょうよ」
マリアも顔をほころばせた。
ボクらは扉を開いて中に入った。事務員がちらりと視線を向けたが、すぐに見ていた書類に眼を戻した。扉の傍らに小さな展示があった。「インディアン血液証明書」のサンプルが紹介されている。
この証明書は一九五七年五月十七日生まれのボビー・クライド・マーチンが、クリーク族の血統四分の一を持つことを証明する。一九七八年四月三日発行。
「クリークというのはオクラホマにいる部族です。彼らはチェロキーと同じように、オクラホマの荒地に強制移住させられました」
ボクが解説した。
「先住民は、辺鄙な居留地の外に出て暮らす人が今では全体の半分を越しているんです。居留地では仕事も少なく、暮らしていけない人が多いからです。都会に出て働くと、他の民族と結婚して子供をもうける機会が増えます。そうすると、当然先住民の子供の血がだんだんと薄くなるってことですね」
「こんな証明書があるということは、先住民は血統を大事にするってことなの?」
マリアがボクに尋ねた。
「血統を大事にすることは、その部族の持って生まれた文化や歴史を大切にしようとすることだと思う。それは部族の誇りにつながるんです」
ティムがボクらの会話に入った。
「混血は何も悪いことはない。人間同士の愛情から生まれる当然の結果だ。逆に権力がこんな証明書を作るのは、先住民を徹底的に管理しようとする策謀の一環だと俺は思う。どうかね、プリティ」
「そうですね。ただ証明書を持つことで部族の誇りを忘れないということはあると思います。それが、消されようとしている歴史を取り戻そうとすることにつながればいいと思うんですが・・・・・・」
「あの事務員も先住民じゃないかしら」
マリアが書類に目を通している事務員の顔を見つめていた。
「大体の場合、先住民同士は互いの気持ちがわかるという考え方で、対策局の出先の役人は先住民です。ちょっと尋ねてみましょうか」
ボクはカウンターに近付いて行った。
「すみません。ボクはスーのプリティ・ロックといいます。失礼ですが、あなたは先住民でしょうか」
事務員が書類から目を上げ、微笑んだ。
「あなた方がご覧になっていた血液証明書はわたしのです。来られた方の何かのお役に立つかと思い、公開しているのです。」
「ああ、ご本人のでしたか。それではクリークですね」
「そうです。わたしはクォーター(四分の一)ですが」
「やはり自分の部族には誇りをお持ちですか」ボクが尋ねた。
「そうですね。わたしの妻はヒスパニックで、子供はしたがって八分の一のクリークとなります。クリークは白人に『文明化された部族』と呼ばれました。白人文化を比較的素直に受け入れたからです。逆に言いますと、同化され易かったと言えます。だから私の場合は伝統的な文化や歴史を維持するという意味で、ある限りは血統を大事にしたいと思っています。だから自分の証明書を公開しているのです」
「こんなことを聞いて失礼かもしれませんが、インディアンだと言って差別をお受けになったことは?」
「わたしはたとえ偏見の眼で見られても、一向にかまいません。部族としての誇りを持っていますから。あなたもスーであることを誇りに思っているでしょう。きっと」
「その通りです。父や母からの影響です」
「いいことよね。自分の出身に誇りを持つことは」
マリアがボクを見つめて言った。
「マリア、君はジャマイカの出身だろう?」
「そうよ。ジャマイカはイギリスの支配を受けて来たの。だから今でもロンドンに留学する人が結構いるのよ。インド系の人と同じようにね。わたしは兄さんと同じくヒスパニック系だけど、小学校の頃まで住んだジャマイカに誇りを持っているわ。ねえ、兄さん」
「そうだ。ジャマイカという国に対してというよりは、ジャマイカに住む人間が持つ文化や歴史に対してね。レゲエという音楽も、カリブの生み出す自然とその中に暮らす人間の生き方もやはりいい。でも場所は何処でもいい。ここの生活も俺の誇りだ」
マリアが熱を帯びて話し始めた。民族問題にはとても関心があるらしい。
「わたしの知り合いにリムジンの運転手をしているアジア系の男の人がいるの。彼は夢を抱いてニューヨークにやって来た。でも現状を見て幻滅したのよ。カリフォルニアで白人の警官が黒人の容疑者にリンチを加えた事件があったでしょ。でも黒人の集団が何故か白人ではなく、アジアの人間に対して積もり積もった不満を爆発させたのよ。ここニューヨークにもその対立が飛び火して、アジア系のフラワーショップやデリの商店が黒人に襲われた。白人に手が出ないからといって、黒人は何の関係もないアジア系の人間に矛先を向けたのよ。アジアの人々を本当の差別を覆い隠す人間の楯にしたってわけね。事件についてわたしの知り合いはこう言ったわ。『毎日身を粉にして働かないと食ってゆけない。でも黒人の連中は働きもしないで勤勉なアジアの人間に暴力をふるう。こんな理不尽な民族差別が存在する以上、アジア系は団結して自らを防衛しなくちゃならない』ってね」
先住民の事務員が頷きながら続けた。
「民族差別の話をすればキリがありません。二億五千万人のこのアメリカ合衆国で、白人はおよそ一億九千万人という多数派です。黒人の人口はざっと三千万人で、少数派です。わたしの妻のようなヒスパニック人口が最近それを追い抜いた。それと比べてもアジア系の人間は多くて一千万ぐらいでしょう。先住民となれば、せいぜい二百万人くらいしかいません。多数派が少数派の権利を侵す恐れはいくらでもあります」
「リンチ事件では、結果的に少数派の黒人がはるかに少数派のアジア系に理不尽な差別の眼を向けたことになる。そうよねえ、兄さん」
「マリアの知り合いのように、皆自分の生活を守るのに精一杯なんだ。都会は物価が高いし、税金も高い。税金といえば、ソーホーの南にあるチャイナタウンは現金商売が多い。小切手(チェック)やクレジットカードを扱えば、記録が残り、売上が当局に筒抜けになってしまう。現金商売なら脱税しても簡単にはわからない。違法だけど、自分らの利益を確実に守ろうとする中国人の考えだ」
会場に戻ると人出が増えていた。一角にステージが設けられ、ペルーの出身者が南米らしい響きの楽器でメロディを奏でていた。
その傍らの壁に張ってあるポスターが目についた。「クレージー・ホース」という文字がある。何かと思い近付いてみたら、クレージー・ホースという名前のモルト・ウィスキーのことだった。文を読んでみた。
クレージー・ホースは我々の誇りとする商品のモルト・リカーですが、その名前を聞いて怒りだす人もおれば、飲んで楽しむ御仁(ごじん)もいる。また全く無視するお方もいる。
しかし、それがアメリカという存在なのじゃないでしょうか? 選択の自由という意味で。出来ましたらこれを選んでいただき、その芳醇な香りとテイストをお楽しみください。
ボクは「ホカ・ヘイ!」と叫んだ。マリアが驚いて尋ねた。
「プリティ、そのホカ何とかいうのは一体何なの」
「スーの偉大なる戦士クレージー・ホースの勝利の雄叫びさ」
「へえ、おもしろいわね」
「ニューヨークに着いてすぐに、クレージー・ホースが描かれた絵を見たんだ。米軍最強の第七騎兵隊を破った戦いのシーンだった。今日はウィスキーの名前で登場した。クレージー・ホースはボクの守護神であり、吉兆のしるしのような存在さ。このニューヨークでいいことが待っているのかも知れない」
「そうだといいわね。ところで兄さん、わたしプリティと絵の話がしたいんだけど」
「OK。それじゃ、俺はこの辺で引き揚げる。プリティ、また会おう」
ティムはそう言うと、ボクとマリアを残して人ごみの中に消えて行った。
「この近くに感じのいいコーヒー・ショップがあるの。そこで話しましょう」
コーヒーを飲みながら、マリアは話し始めた。
「わたし、アート・スクールに通って二年になる。故郷のジャマイカでも小学校に入った頃から絵の勉強をしていたの。カリブ海の色は真っ青で、空も抜けるように青い。浜辺で女性が頭の上にフルーツを乗っけて売り歩いている。椰子の木陰でそのフルーツを食べながら、よく海の風景を描いたの。南国の花も原色で、とても絵には映えるの」
「ジャマイカの何と言うところなの? 君の故郷は」
「モンティゴ・ベイという海辺の町よ。島の西の方にあるわ。レゲエというジャマイカが生んだ音楽があちらこちらで流れている。いい所よ」
「ボクの故郷には海がない。平原が続く大地さ。ブラック・ヒルズという聖なる丘があって、母親がボクを産んだのはその一角にある家だった。家の土間に偶々かわいい岩が転がっていたのを母親が見つけて、それがボクの名前になった。英語ではプリティ・ロックさ」
「いい名前ね。わたしの名前は平凡だけれど」
「君の名もすてきだよ」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ。あなた、兄弟は?」
「弟がひとりいる。サザンという名だ」
「この前は一緒だったと聞いたけど、今日は来なかったのね」
「サザンはこの街に偏見がある。犯罪都市で危険だと思い込んでいる」
「都会はね、どこでもそういう顔があるわ。緊張感と隣り合わせよ。いちいち気にしていても始まらないわ」
「マリアは危ない目にあったことあるの?」
「あるわよ。都会は、変な人間が多いから」
「ボクはこの街が気に入りそうだ」
「マンハッタンのこと? それともヘルズ・キッチン?」
「ヘルズ・キッチンさ」
「そう。よかった」
「さっき話に出たアジア系の男性は君の恋人かい?」
「違うわ。ヘルズ・キッチンの住人よ。単なる知り合い。あなたはどうなの、恋人いるの?」
「いや、いないよ」
「よかった」
「何故?」
「だって、わたしがプリティの恋人になれる可能性があるんだもの」
そう言って、マリアは微笑んだ。ボクは、心の中が熱くなるのを感じた。
「そろそろ失礼するわ。アート・スクールの時間なの。また会いましょう。電話してよ。これが番号」
「スクールはこの近くなの?」
「リトル・イタリーにあるの」
「一緒に地下鉄に乗ろうか。確か同じ方向だよね、ソーホーと」
「じゃあここで待ってて。わたし、荷物を取って来るから」
マリアはウィンクを残して、小走りに去っていった。
ボクらは地下鉄に乗った。駅を出てイタリア人街にあるスクールの前まで来ると、突然マリアはボクの頬にキスをした。
「それじゃ、またね」
マリアは手を振りながら、スクールの階段を元気に駆け上がっていった。
ボクはイタリアン・レストランが軒を連ねる街を歩いた。通りにテーブルが出て、大勢のイタリア人がサンドウィッチやパスタを食べながら、話し込んでいる。バンドが演奏しながら近付いて来た。トランペットの音色が辺りに鳴り響く。
近くのレストランを覗くと、壁に大きな木製のカジキマグロが掛かっていた。何処かで見たことのある男の肖像写真が道行く者に微笑んでいる。イタリアの映画俳優だろうか。ずいぶんとハンサムな男だ。ここはイタリア系の街だから、シシリーからこの大都会にやって来たマフィアも客筋にいるに違いない。彼らはこの街でヘルズ・キッチンのアイリッシュ・マフィアと対決したのだろうか。
しばらく行くと、街の雰囲気が変わった。チャイナタウンだ。モット・ストリートというアーケードがあった。確かチャイナタウンの中心街だ。店の軒先に豚の頭や足が幾つもぶら下がっている。大きな包丁を持った職人が豚肉をさばく音。食材を売る店からは、買い物客のざわめきが聞こえて来る。漂う蒸し饅頭の匂い。早口で飛び交う言葉。銀行の前の長い列。行き交う車のクラクション。新聞売りの声。
ボクは民族の匂いを嗅ぎながら、地下鉄の駅に向かった。
5
ボクが次にマリアに会ったのは、二日後のことだった。ヘイマンさんの家で家族とくつろいでテレビを観ていても、心にはマリアの愛らしい顔が浮かんでいる。マリアのことを思うと胸がキュンとしてくる。これが恋というものだろうか。故郷の居留地でも好きな女の子がいることはいたが、こんな切なさは初めてだ。ひとりでいるのがじれったい。そんな思いもマリアと出会うと満たされた。ボクらはマンハッタンを当てもなく歩いた。
「ハーレムに行ってみようか」
ボクが言った。マリアはハーレムと聞いて一瞬戸惑いの表情を見せたが、それを打ち消すように「いいわ。プリティと一緒なら」と応じてくれた。
「でも、注意しましょうね。あそこは油断できないところだから」
マリアの心配をよそに、ボクらは地下鉄に乗った。ハーレムの中心百二十五丁目で地下鉄を降り、地上に出ると、そこには黒人の街が広がっていた。
時折通りをさっと吹き抜ける風に紙屑が舞っている。アポロという劇場の前に人だかりがあった。マルコムXのドキュメンタリーの試写会が開かれようとしていた。
監督らしい人物がマスコミのインタビューを受けている。ボクはいつか写真集で見たマルコムの眼鏡の奥に潜む鋭い眼や、アジ演説で白人をこきおろす大きな口を思い浮かべていた。
隣の教会前では、黒人女性のグループがゴスペルの練習をしていた。アフリカの真っ黒な肌の黒人とはまた違うニューヨークの褐色の肌に真っ白な衣裳をまとった女性の発散する息と汗が魂の叫びとなって辺りに飛び散っているような気がした。
「アフリカ系アメリカ人の生命力が溢れているわね」
マリアが興奮気味に言った。
「彼らはアフリカン・アメリカンで、ボクはネイティブ・アメリカンか。アメリカ人と、とても一言でくくれないな。余りにも多様だ」
「そうね。わたしのようなヒスパニック系もいるし」
歩き出そうとすると、若い黒人女性がボクらに声を掛けた。
「お二人さん、マルコムXの試写を見ない? わたし急用ができて見られなくなっちゃったの。ティケットが無駄になるのであなた方にあげようと思って。一枚で二人入れるの。ゴスペルを興味深そうに聞いていたでしょ? だからマルコムにも興味があるのではと思ったから」
「ありがとう。マリア、折角だから見せてもらおうか」
「そうね。そうしましょう」
ボクらはティケットを受け取り、劇場の中に入った。客は圧倒的に黒人が多かった。試写が始まると会場は静まり返ったが、映画の中でマルコムが白人を打ち負かすと、拍手喝采の大騒ぎになった。
(父さんが話していたマルコムは、亡くなった今も絶大な支持を受けているんだ)
胸が熱くなったボクの肩に何かが触れた。隣に座っているマリアの頭だった。マリアはボクの腕に両腕を絡ませて来た。ボクはマリアの肩に腕を回した。
そのままでボクらは試写を見た。ブラック・ムスリム(黒いイスラーム)の組織の内紛で追い詰められたマルコムが、危険を感じて家族を安全な場所にかくまうシーン。部屋に鳴り響く脅迫電話を不安な顔で見つめるマルコム。演説会場で襲われ、何発もの銃弾を浴びて絶命する場面。エンディング・テーマが高らかに流れ始めた。観客は総立ちになり、拍手を送った。
会場を出ようとした時に、テレビ局のクルーがボクらにカメラを向けた。
「映画の感想を一言お願いします」
ボクは一瞬戸惑ったが、突きつけられたマイクに向かって言った。
「マルコムは、聖地メッカにあるモスク(神殿)を訪ねた時に、神の前では人間は全て平等だと悟りました。今までの白人に対する考えが根本的に変ったのです。そういう原点に戻った途端、暗殺されたのですよね。そういう意味で悲劇だと思います。ボクはマルコムにもっと長く生きて欲しかった。マルコムは黒人だけでなく、広い意味での人間のあり方を追究する途中で殉教してしまったのだと思います。ボクは彼の生命を奪った悪を憎みます」
「彼女もコメントをお願いできますか」
リポーターが、今度はマリアにマイクを向けた。
「特にないわ。プリティ、早く行きましょう」
マリアはボクの腕を引っ張り、カメラを振り切った。
その夜、気付いたらボクはマリアを抱いていた。いや、マリアに抱かれていたのかも知れない。マリアの胸の膨らみを見ただけで体が固まってしまった。どうすればいいのか、どうしてあげればいいのか。抱き合っている間中ひどくぎこちなさを感じていた。翌朝、差し込む日の光で目覚めたら、マリアの感触はボクの一部になっていた。
6
夜遅くボクはヘイマン家に戻った。ドアを開けたのは母さんだった。
「プリティ、ハーレムに行っていたのはわかっているけど、それから今まで何処で何をしてたの!」
母さんの顔は怒気に溢れていた。
(何故ボクがハーレムにいたことがわかったのだろう)
母さんはボクの不審そうな顔を睨みつけた。
「テレビに出ていたじゃない。ハーレムであったマルコムXの試写会のニュースで」
あっと驚いた。
(あのインタビューがテレビで放送されていたんだ)
「あの女の子は一体誰なの!」母さんの目がますます吊り上がっていた。
「女の子って?」
「しらばくれても駄目よ。腕を組んでいた女の子のことよ」
「友達だよ。この前知り合った・・・・・・」
「こんなに夜遅くまで一体何をしてたの。まさかあの女の子と・・・・・・」
「違う! あの子とはすぐに別れたんだ」
胸の動悸を必死で押さえようとした。
「こんな大都会は昼間でも危ないのよ。それにこんなに遅くなるなんて」
母さんの怒りは収まりそうにもなかった。
「母さん、もう眠たいから寝るよ。おやすみ」
ボクは振り払って部屋に入ろうとした。
「あの女の子に会わせて。母さんが直接確かめるまでダメよ!」
「何を確かめると言うのさ。何も悪いことはしていないよ」
「父さんも、サザンもみんなテレビで見たのよ。二人のことを」
「ボクはもう高校生なんだ。自分のことは自分でする。放っといてくれ!」
そう叫ぶとボクは寝室に駆け込んだ。見れば父さんもサザンも眠っていた。ボクと母さんはお互いに意識しながらベッドに横になった。
眠れない長い夜が続いた。
7
翌朝、ボクは家族に黙ってマリアに会いに出掛けた。母さんとは朝になっても一言も口をきかずじまいだった。家の中に一緒にいるだけで苦痛だった。地下鉄の中でも昨夜の母さんの怖い顔が浮かんだ。
ヘルズ・キッチン・デリに着いたら、ティムが顔を覗かせた。
「やあプリティ。どうしたんだ。顔色が悪いぞ」
「マリアは何処ですか」
「アパートだろう。電話してみたら?」
ボクは近くの電話ボックスに走った。コールが何回も行き、やっとマリアが出た。
「ボクだよ。昨日はごめんね」
「楽しかったわ。今何処なの」
「お兄さんの店さ。来ないか。一緒に食事をしよう」
「すぐ行くわ。待ってて」
ボクは店の前で待った。通りには仕事に出掛ける人の姿が増えていた。マリアは肩に掛けたバッグを押さえながら小走りでやって来た。ボクを見つけるとそばに寄り、甘えるようにキスをした。ボクの中に昨日の興奮が立ち上るのを感じていた。
「これからスクールに行くの。さあ何か食べましょ」
ボクらが腕を組んで店に入ろうとした時、そばに立っている女性が眼にとまった。
「母さん!」
マリアが驚いて叫んだ。「プリティ。今何て言ったの!」
母さんはマリアをしげしげと見つめていた。ボクはマリアの腕を振り払った。
「何するの。プリティ」
母さんはマリアに近付いて言った。
「プリティの母親です。息子を誘惑しないで!」
マリアの顔色が変った。
「誘惑ですって? 一体何をおっしゃるの!」
「あなた、お名前は?」
「マリアですけど」
「きのうの夜、うちの息子に何をしたの。正直におっしゃい!」
マリアは困惑しながら、ボクの顔色を窺った。
「母さん、後をつけて来たんだね。卑怯なことはしないでよ!」
「何が卑怯なの! 黙って出掛けたくせに」
マリアはボクの背中に身を隠した。母さんは逃すまいと、マリアに向かって声を荒げた。
「何も知らない息子をたぶらかす都会の雌猫(めすねこ)のような真似はやめなさい。プリティ、さあ一緒に帰りましょう」
今度はマリアが母さんに食ってかかった。
「何て失礼なことをおっしゃるんですか。わたしが一体何をしたというの。わたしはプリティに全てを捧げたわ。好きだから。プリティは、もうわたしの体の隅々まで知っているわ。だから、わたしのものよ!」
「まあ何と言う下品な娘! 息子は絶対に渡しません。さあプリティ、帰りましょう」
ボクは同時に二人から腕を引っ張られた。
「痛い! 放してよ!」
マリアは眼に涙をためて唇を噛みしめ、ボクの腕を離して走り去って行った。バッグが路上に転がっていた。ボクは後を追った。母さんは路上に立ちつくしていた。
マリアを見失い、ボクは虚脱感に襲われていた。デリの前に戻ると、母さんの姿はなかった。バッグを拾い上げ、デリに入って行った。ティムを呼び出して、近くにあるベンチで一部始終を話した。ティムは黙って聞いていたが、ボクが話し終えると口を開いた。
「マリアは俺のたったひとりの大事な妹だ。君は本当に妹が好きなのか? 若さに任せて妹を性のはけ口にしたのではあるまいな。どうなんだ」
「・・・・・・」
「どうかと聞いているんだ!」
「ボクはマリアが好きです。会うと胸がキュンとなります。信じて下さい」
ティムが睨みつけていた。ボクは思いつめて言った。
「マリアと結婚させて下さい。お願いします」
「バカなことを言うな。まだ働きもしていないお前がどうして妹を養うことができると言うんだ!」
ボクは何をどのように理解してゆけばいいのか、起こってしまったことの目まぐるしさに、どっと疲労を感じていた。
「とにかく今日は帰れ。妹のことが心配だ」
そう言い残して、ティムは店に戻って行った。
それからどうやってソーホーに戻ったのかわからない。気が付くと、ヘイマンさんの店の前にいた。母さんはもう戻っているのだろうか。ボクは中に入る勇気がなかった。引き返して、通りを当てもなく歩いた。マリアは一体今どうしているのだろうか。もう会えないのだろうか。ボクはもう一度ヘルズ・キッチンに向かった。少しでもマリアの近くに居たかったのだ。
夜の帳(とばり)が下りた。マリアのアパートに明かりが灯ったが、部屋は暗かった。帰宅したアパートの住人がボクの顔を不審そうに見ながらエレベータに乗り込んで行った。帰ろうかと思った時、マリアが戻って来た。ボクはマリアに近付いた。
「来ないで!」
「お願いだ。今日のことは謝る。ボクの言うことを聞いてくれ」
マリアは歩道をアパートの反対方向に早足で歩き始めた。
「待ってくれ!」
手を掴もうとしたが、すぐに振り払われた。
「母さんが来るとは思いもしなかった。母さんはボクらのことを誤解しているんだ。それだけだよ」
マリアは立ち止まって振り向いた。
「わたしのことをどうしてくれるの。女の子の一番大切なものをあげたのよ。あなた、それで責任とれるの?」
「・・・・・・」
「煮え切らないわね。はっきりしない男はきらいよ!」
「一緒になろう」ボクはそれだけ言うのが精一杯だった。
「あなたはここの住人じゃないわ。もうじきサウス・ダコタに帰るんでしょ。家族を捨ててわたしをとるっていうの? そんなことあなたに出来るわけがないでしょ!」
「いやボクは残る。君と暮らすんだ、ここで」
マリアはボクの顔を見つめていた。ボクがどれだけ本気なのかどうかを確かめているようだった。
「とにかく帰って。わたし本当に疲れたの。あなたのお母さんにもひどいことを言われたし。都会の雌猫って言われたのよ。聞いてたでしょ?」
「代わりに謝る。ごめんなさい」
マリアは何も言わずにアパートの方へ歩いて行った。
ボクはタクシーを拾い、国連ビルがある一番街に出た。当てがあったわけじゃない。ヘイマン家に帰る気がしなかっただけだ。静まり返った歩道を当てもなく歩いていると、スナックの明かりが目にとまった。看板に「クラブ・ダンサ」と書かれていた。体の芯に疲労が纏わりついていた。とにかく何処かで休みたかった。思い切ってベルを押すと、黒い蝶ネクタイをしたボーイがドアを開けた。
「入ってもいいでしょうか」
ボクは気後れしながら尋ねた。ボーイは頭のてっぺんから足の先まで眺めながら言った。
「ここは子供の来るところじゃないよ。お帰り」
ボーイがゆっくりと重そうなドアを閉め始めた。
「ちょいとお待ち!」
ボーイの背後から女の人の声がした。現れたのはその店の主人らしいおばさんだった。明るい色のドレスを着てアジア系の顔立ちをしているが、丸顔のつぶらな瞳で化粧が濃い。まるで騎兵隊との戦場に赴く戦士の色塗りの顔だ。おばさんが尋ねた。
「あなた、お金は持っているの? ここは少々お高いわよ」
「クレジットカードがあります」
ボクは父さんから万一の時にと預かったカードを思い出していた。
「こんな時間に若い男の子が一人でこんな場所を歩いているなんて、きっと理由(わけ)ありね。とにかくお入り」
おばさんはボクを招き入れた。中には客の姿は無く、ソファには派手なドレスを着た若い女性が数人座っていた。ボクはその女性らの真ん中に案内された。
「何を飲む?」
若い女性がボクに尋ねた。
「未成年だからお酒はだめよ。ジンジャー・エイルでも出してあげて」
おばさんが言った。若い女性は皆出身の民族が違うようだった。顔の彫りが深く、肌の浅黒い女性が尋ねた。
「あなたは何処から来たの?」
「サウス・ダコタです」
「まあ遠い所から。わたしはモロッコの出身よ」
ボーイがジンジャー・エイルを持って来た。周りの女性はウィスキーボトルから水割りを作っていた。女性が席を譲り、おばさんがボクの前に座った。
「サウス・ダコタなんて行ったことがないわ。いい所?」
おばさんが尋ねた。
「ボクはスーの出身で、その聖地があります。ブラック・ヒルズという」
「スーって?」
「サウス・ダコタの先住民の名前です」
「アメリカン・インディアンのこと?」
「ママ、インディアンという言葉は使っちゃだめ。あのコロンブス野郎が間違えたのよ。今はネイティブ・アメリカンと言うのよ。ねえ?」
鮮やかなグリーンのドレスを着たヒスパニック系らしい女性が言った。
「あら、よく知ってるわね。ジョディ、何処で勉強したの?」
「アート・スクールよ。アラスカのエスキモーもこの頃はイヌイットって言うのよ。本にも皆そう書いてあるわ」
「ボクの彼女もアート・スクールに通ってる。彼女はジャマイカ出身さ」
グリーン・ドレスが応えた。
「わたしの親友にジャマイカ出身の人がいるわ。マリア・ゴメスというの」
「マリア・ゴメス? まさか・・・・・・」
ボクは目をパチクリさせた。
「え? あなた、マリアを知っているの? あなたの彼女は何処のアート・スクールなの?」
「確かアルバート・アート・スクールだったかな。リトル・イタリーの入り口にあるんだ」
「それわたしが通っているスクールよ。じゃ、マリアが恋してるプリティ・ロックというのはあなたのことなの? 驚いた!」
「マリアはボクのことを君に話してたんだ」
「ええ、初恋の男に似てるってさ」
ママが会話に割って入った。
「プリティもなかなか角に置けないわね。少しくらいならお酒もいっか。水割りを一杯、薄いのを作ってあげて」
さっきから店の壁に掛かっているアートが気になっていた。板金製の豪華な象のレリーフだ。騎馬の先住民のように象に人が乗っかっている。兵隊のようだ。
「おばさん、あれすてきですね」ボクはアート作品を指差した。
「おばさんなんて言ったらだめよ。世慣れしてないわね、プリティ。ミズ・サンダと呼びなさい」
ジョディがボクの腕を軽く拳骨でたたく真似をした。
「すみません」
ボクはママに謝った。
「いいのよ。あれはわたしの祖国ビルマの軍隊が象に乗って行進してる図よ。アートに関心があるようね」
「ええ、そうなんです。ママはビルマの方でしたか」
「わたしの親戚がついこの先にある国連のビルマ代表部に勤めていて、わたしも最初親戚を頼ってマンハッタンに来たの。そしてこのお店を開いたのよ」
「ここは色んな国の女性がいますね。さすがマンハッタンだなあ」
ボクはまだ話をしていない女性陣の顔を見渡した。
「みんな、自己紹介してあげて」ママが微笑んだ。
「わたしはスニョン。韓国の出身よ」
「ミシェルよ。生まれも育ちもマンハッタン。生粋のニューヨーカーよ」
「皆さん、昼間はジョディのように学校に通っているんですか」
「そうね。スニョン以外はみんな学生さんだわ。スニョンは企業のオフィスに勤めているの」
ママが答えた。
「オフィスはあの摩天楼にあるんですか?」
「ええ、ロックフェラーセンターの真ん中よ」
「ヘルズ・キッチンというところ知ってます?」ボクが尋ねた。
「ええ、彼が住んでいるわ」
「スニョンの彼はマリアの元カレなの。ソンイルと言って」
マリアの元カレと聞いて、ボクはマリアが話していた運転手の男のことを思い出していた。その男は恋人じゃなく、単なる知り合いと言っていたが、ひょっとすると、ソンイルというのはマリアの元カレなのかもしれない。マリアについてボクはまだ何にも知らないという気がして情けなくなった。
店のベルが鳴り、ボーイがのぞき穴から外を確かめて扉を開いた。背広を着込んだアジア系の男が三人入って来た。
「あら、ヤスイさん。お久しぶりね。さあどうぞ」
ママが席を立って男らを向かいのソファに案内した。女性陣も次々に席を離れて行った。席にはジョディが残った。
「マリアとはうまく行っているの?」
「いや、トラブルがあって気まずくなっているんだ」
「どんなトラブルか聞いてもいいかしら」
ボクは概略を話した。でもセックスのことは黙っていた。
「それは大変ね。あの子はプライドがすっごく高いから大変よ。それにお母さんもよほどあなたのことが心配なのね」
「ソンイルという人はマリアと長くつきあっていたの?」
「そうね、二年くらいかしら。ソンイルはセックス大好き人間で、マリアも一時フラフラになってたわ。あら、ごめんなさい。今カレの前で」
ボクは初体験だったけど、マリアは経験豊富だったんだ。そう思うと、がっかりした。
「何故二人は別れたの?」
「ソンイルの浮気よ。マリアひとりでは満足できなかったんでしょ。一日中リムジンの運転で走り回っているのに、お強いこと!」
思いがけなくマリアの素顔を知ったことがボディブロウのように効き始めていた。
「ボクはそろそろ帰る。もう随分と遅いから」
「あら、両親や弟さんと顔を合わせたくないと言ってたじゃない。よければ、わたしのアパートに泊まってもいいわよ」
ボクは目をすぼめてジョディの顔をじろりと見た。
「何もしないわよ。いやあね」
「じゃあ泊めてもらう。本当にいいんだね」
「よし決まった。ただし店の仕事が終わるまでここに居るのよ。新しい客が来るまでは、ここに居てあげるからね」
店ではピアノ演奏が始まった。白髪頭で鼻の下にチョビ髭をはやしたアジア系の男が弾くピアノに合わせて、ヤスイという背広族の男が頭にネクタイを巻いて歌い始めた。ボクは先住民の頭飾りを連想した。周りからは喚声と拍手が飛んだ。
「あの人は常連さん?」
ボクはジョディに尋ねた。
「ああ、ヤスイさんね。日本の放送局の支局長さんよ。いつもあんなにして頭にネクタイを巻いて歌ったり、踊ったりするのよ。変な奴」
ヤスイというおじさんの顔を見つめているうちに、ボクはおじさんを何処かで見かけたような気がしていた。
「あの歌はニホンのエンカというのね。彼の好きな歌よ」
曲が終わり、ヤスイという男が席に戻った。ネクタイをきちんと首に巻き直している。ヤスイはこちらを見て、おばさんに何かを尋ねている。おばさんが耳元で何かを囁(ささや)いた。ヤスイは立ち上がり、ボクの席にやって来た。
「君はスーだそうだね」
「はい、そうですが・・・・・・」
「俺はヤスイ。君は?」
「プリティ。プリティ・ロックです」
「この間嫁さんとウンデッド・ニーに行って来た。そこで君によく似たスーの少年に会ったのだが、ひょっとしたらその時君に新聞記事をあげたかい?」
ボクはウンデッド・ニーの日本人夫婦を思い出していた。
「ええ、スーの新聞記事をいただきました。あの時のおじさんですか。何処かでお会いしたような気がしていたんです」
「いや、ビックリしたよ。マンハッタンの、しかもこんなところで君と出会うなんて奇跡だよ」
ヤスイはボクに握手を求めた。ボクは手をしっかりと握り締めた。
「えらいところを見られちゃったなあ。ビッグ・フットに申し訳ない」
「おじさんがネクタイを頭に巻いて歌い踊る姿を見ていると、スーのダンスを思い出しました」
ヤスイは頭を掻きながら、照れ臭そうに笑った。
「よくここに来て、エンカを歌うそうですね。言葉はわからないけど、メロディはどこか懐かしい感じがします」
「君らスーも俺たち日本人も、元を糾(ただ)せば北東アジア出身のモンゴロイドさ。歌も似ていて当然だよ。それにしても、何故ひとりでこんな場所にいるんだ」
「話せば長いことになります」
「何か深い事情がありそうだな。よし、聞くまい。また手紙でも出すから、君の住所を教えてくれ」
ヤスイは紙とペンをボクに渡した。ボクは一応サウス・ダコタの住所を書いて渡した。一応というのは、ニューヨークに残ることになるかも知れないという思いが心の何処かにあったからだ。ヤスイは名刺をくれた。オフィスはマンハッタンの住所だった。
「プリティ、また会えて嬉しいよ。今度はオクラホマに行こうと思っている。最後のアパッチ戦士ジェロニモの墓参りさ。それでは元気でな。また何処かで会おう」
ヤスイは他の男らと店を出て行った。
店の閉まる時間になり、女性らは帰る身支度を始めた。ボクはジョディを待った。ママがウィンクしてボクにさよならした。
「さあ、行きましょう」
ジョディが支度部屋から出て来た。店の前にリムジン会社のセダンが待っていた。
「立派なクルマで帰るんだね」
ボクが言った。
「イェロー・キャブより安全なのよ。特に深夜はね。ママがスニョンを通して、ソンイルの会社に頼んでいるの」
ジョディがライターで煙草に火をつけた。ライターの油と煙草の臭いが鼻先を刺激した。
十分ほどしてセダンはアパートの前に着いた。ジョディが機械で暗証番号を押すと、入り口のロックがはずれ、ドアが開いた。エレベータに乗り、七階で降りた。部屋に入ると、ジョディはドアの内側に三箇所ある鍵を全てロックした。
「厳重なんだね」
「マンハッタンは危険だから。さあどうぞ」
ジョディはボクをリビング・ルームに案内した。
「広いね。すてきな部屋だ」
「お酒飲む?」
「いや、ボクはいい。さっき店で飲んだウィスキーがまだ残ってる感じだ」
「そう。じゃわたしもやめとこう。シャワーを浴びたいなら、お先にどうぞ」
「もう眠いから横にならせてくれ」
「ソファでいいかしら」
「うん。充分だ」
ボクは早速ソファに寝転んだ。ジョディはシャワーを浴びにバス・ルームに入って行った。ボクは酔いが回った感じで、眠気が襲って来た。しばらく寝込んだらしい。眼が醒めるとジョディがバスタオルを体に巻いて、ボクの隣に座っていた。
「どうしたの。まだ寝ないの?」
ジョディの濡れた髪がボクの顔をくすぐった。ジョディはバスタオルで包んでいた上半身を脱いだ。乳房が露(あらわ)になった。
「どう? マリアのより大きいでしょ?」
ジョディは立ち上がり、バスタオルを床に落として誇らしげに裸体を見せつけた。ボクはマリアとのことを思い出し、上気した。ジョディは屈みこみ、ボクのズボンのベルトをはずし始めた。
夜が白々と明け始めていた。眠り込んでいるジョディを起こしてドアの鍵を閉めさせ、ボクは外に出た。黒い服装に身を固めたハシディック系ユダヤ人のグループが通りを歩いていた。シナゴーグ(教会)にでも行くのだろう。今日こそは家族の元に帰らなければ、と思った。朝焼けの街をソーホーに向かって歩いた。家族はまだ眠っているだろう。どこかで時間をつぶさねば。ボクは近くにあったコーヒー・ショップに入り、熱いコーヒーを飲んだ。
ヘイマン家に戻ると店が開いていた。ボクはぎこちない気分で、店の中に入って行った。ヘイマンさんがボクを見つけて飛んで来た。
「プリティ。長いこと何処へ行ってたんだ。皆心配してたんだぞ」
「ご迷惑をおかけしました。ごめんなさい」
ボクは下を向いたままヘイマンさんに付き添われて、家族のいる部屋に入った。父さんも母さんも黙ってボクを見つめていた。サザンが口を開いた。
「兄さん、随分心配したよ」
ボクは涙が込み上げ、床にへたり込んで泣いた。母さんが震えるボクの肩を抱いた。
「よく帰ってきたね」
父さんも黙って頷いていた。
ボクは安心したせいか、ベッドで眠り続けた。目覚めたのはその日の夜遅くだった。起きると頭痛がした。家族の談笑する声が壁の向こうから聞こえて来る。ハーレムに行ってから、とてつもなく長い時間が過ぎ去ったような気がする。あれからマリアはどうしているのだろう。ティムはどう思っているのか。ヘルズ・キッチンに足を運ぼうという気は失せていた。煩わしさだけがつきまとっていた。
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