――そして、九月の始まりにキミがはじける――

晴天を漂う水泡がひとつ

「だから、ヴァイオリーナじゃなくてヴィオリーナだっての!」

「だー! どっちでも変わらないだろ!」

「……ったく。しっかりしてくれよ、杉原せんぱい」

「だからせんぱいはやめろって!」


 ブカブカの執事服に着られた杉原がうっとうしそうにネクタイを緩める。

 夏の暑さが堪えるらしく、首のあたりにはポツポツと汗の粒が浮かんでいた。

 オレはポケットからハンカチを取り出して杉原に渡す。

「サンキュー」と受け取った杉原は、それをそのまま自分のポケットに押し込んだ。

 そして受付の机に置いてあるオルゴールを手に取り、おもむろにぜんまいを巻き始める。


「もう一年になるんだな」

「ああ」

「まだ、昨日のことみたいだ」

「思い出話なんか付き合わないぞ」


 軋む階段を上っていくオレに、杉原は言った。


「なあ、コウ。おまえはもう平気なのか?」

「なにが?」

「俺は正直、まだ完璧には振り切れてない気がするんだ」


 杉原は手元のオルゴールに視線を落とす。


「振り切っちまうと、もう、完全に過去のこととして消化しちまいそうで……」

「杉原。ぜんまいを巻く音って、おまえにはどうきこえる?」

「え?」


 訝しげに首をひねり、杉原は巻かれていくぜんまいの音に耳を澄ます。


「…………前に進むための音、かな。また回り出すために巻くわけだし」

「なんだよそれ」

「そんなの、いきなりきかれてもいい答えなんて浮かばねーよ」

「いや、いいんじゃないか、べつに」


 前に進むための音――それはそれでいい答えだと思う。

 正解があるような話でもない。もともと漠然とした言葉から生まれた問いかけだ。

 だから、それぞれに思う答えがあるのなら、それを大切にすればいいんだ。


「進んだら戻れないなんてことないんだから、ぜんまいみたいにときどき巻き戻せばいいじゃん」

「……それって……」

「あいつの言葉だ。どう受け取るかはおまえ次第だよ」


 オレは受付に杉原を残して二階のホールに戻る。


「ふう」


 吐いた息が高い天井に昇って反響する。

 立ち並んでいる展示品のひとつひとつを確認していると、下で鳴っているオルゴールの音がきこえてくる。

 流れているのはオレが調律した「結婚行進曲」。

 暗がりの部屋が、すこしだけ明るくなったような気がした。

 なんだか懐かしくなって、オレはすこしだけ昔の真似をしてみる。


「たん、たん、たたんたんたんたん」


 リズムに合わせてステップを踏む。

 革靴が床を叩いて小気味いい音を鳴らしていく。

 ハーヴェストを回り、ヴィオリーナを撫で、ケンペナーの前でポーズを決める。

 やがてオルゴールの音がやんで、演奏は終わった。

 オルゴールの間にだれかをみつけることはなかった。


「まあ、そりゃそうだ」


 オレはホールを出て向かいのレストランにいく。

 そこには、メイド服を着た女子が五人。

 いずれも杉原にフラれた連中らしい。

 とはいえ、今では全員べつのいいやつをみつけて、杉原とは「友達未満」としてうまくやっているそうだ。


「じゃあまあ、よろしく」


 精いっぱい愛想よく笑ってみせる。

 五人から声を揃えて「はい、オーナー」という返事をもらった。

 たぶん鼻の下はだるんだるんに伸びきっていたと思う。

 ボブカットの子とか、けっこうタイプだった。吊り目の子も、いい具合だ。


「うむ。しっかりと頼むね」


 ありもしないヒゲを触って、オレは上機嫌で三階へと向かった。


「向かって左手に見えますのは、当ミュージアムの第二展示室でございます」


 なんとなく、ひとりで説明の練習をしてみる。


「世界ではじめて作られた印章型のオルゴールを筆頭に、各時代を象徴するシリンダーオルゴールがいくつか飾られております」


 第二展示室を紹介したら、次は第三展示室だ。


「続いて右手に見えますのが第三展示室。音に合わせて動く小型のオートマタと、オルゴールの次世代機として注目された蓄音機が展示されております」


 あとはトイレと、スタッフルーム。


「よっと」


 ドアを開けて中へと入る。

 奥の窓から差し込む日差しが壁際に飾った二枚の写真を照らしていた。

 ひとつは、もう死んでしまったじいさんと幼い頃のオレに手を繋がれた妹の写真。

 そしてもうひとつは、眠っているオレの隣で笑っているユキの写真。


 こんなものを撮られていたなんてさっぱり気づかなかった。ユキの両親から現像されたものを渡されたときは恥ずかしいやらなんやらで表情がけっこうひきつった。

 だけど今では、オレとユキが一緒に写っている――世界でたった一枚の大切な写真だ。



 ――あれから、たくさんのことがあった。

 ユキの両親も、杉原も、活力を取り戻すにはしばらくかかったらしいし、今でもまだ完全に“いつもどおり”とはいかないらしい。

 オレも、ときどきどうしようもなく悲しくなってしまうことがあった。

 そんなとき、オレは〝ここ〟にきてオルゴールを鳴らした。ぜんまいみたいにときどき時間を巻き戻した。

 そして、悲しみが胸の奥に染み渡って、温かさに変わったら、またいつもの日々へと戻った。


 サボっていたぶんの勉強をして。文化祭とか修学旅行とかにも積極的に参加して。だけど留年することは変わらなくて。同い年のやつらよりも一層バカに見える連中ともう一回、二年生。


 オレのいつもはそんな感じ。言ってしまえば、つまらない毎日だ。

 それでもまあ、締め出してしまうほど悪くはない――それくらいには思えるようになっていた。


「……一年経ったぞ、ユキ」


 あの日誓った言葉は今でもちゃんとオレの胸の中にある。

 あのとき満たされた気持ちを今でもハッキリと思い出すことができる。

 だから、オレたちが過ごした日々は間延びした日常に飲み込まれてなんかいない。

 十年経っても、五十年経っても、きっとそれは変わらないのだと思う。

 だって、ユキとの時間はオレの中でずっと続いているから。


「……ん?」


 開けておいた窓の向こうから、水泡がひとつ、部屋の中に入ってくる。

 その水泡はゆらゆらとオレのほうに近づいてきて――。


「……」


 やさしく唇に触れてから、そっと離れて、すこししたあと、パチンとはじけた。

 薄められたアルコールの味と、石鹸みたいなぬめりけが口の上で広がる。

 それはだれかが飛ばしたシャボン玉だった。


「……そういえば昔、早希と狂ったように飲んでたな、シャボン玉液。うまいんだこれが」


 とか言ったら、ユキなら本当に飲んでみようとしただろうか。なんて、くだらないことを考えてみる。

 外はなにやらけっこうにぎやかで。青い空に昇っていくシャボン玉がいくつも見えた。どうやら庭園でだれかが遊んでいるらしい。

 子供のじゃれ合う声と、大人の笑い合う声がきこえる。


「……さて。いってくるよ」


 うんと大きく伸びをしてから、オレは部屋を出た。


 足取りは軽かった。いつもより今日がすこしだけ特別な日だからかもしれないし、いつもよりあの曲が胸の中で伸びやかに鳴っていたからかもしれない。


「たん、たん、たたんたんたんたん」


 リズムに合わせてステップを踏みながら、ミュージアムに明かりをつけていく。

 照明が灯るたびにこの場所が蘇っていくようだった。


「みんな。準備はいいか?」


 玄関に集まった連中に目を配る。

 メイド服を着た五人は馴れ合いながら各々緊張をほぐしているみたいだった。

 杉原は持っていたオルゴールを受付の机に置いて息を吐き、それから凛とした顔で前を向いた。どうやらなにか、迷いに対する答えを見つけたらしかった。さっき話したときよりも執事服がよく似合っていた。


「よし。じゃあ、みんな。今日がいつか巻き戻したくなる日になるよう、精いっぱいやろう!」


 全員で合わせた手を高く掲げて誓いを立てる。

 そしてそれぞれの持ち場へとついていく。

 五人はレストラン。杉原は受付。オレはホールで二十分おきにコンサート。

 だけど、そのまえに。


「いろいろと、ありがとな。杉原」

「ああ。互いに」


 オレは玄関のドアを開ける。

 外には大勢の人が集まっていた。

 大人も、子供も、学校の連中も。

 その中に、ユキの両親もいた。オレの両親もいた。

 オレは大きく息を吸って、そこにいるたくさんの人たちに向かって、言った。



「ただいまより、当館――オルゴールミュージアムを開館いたします!」



 今はまだ、こうして特別な日にしか開くことができないけれど。

 いつかまた、ちゃんとミュージアムとして営業できるようになったらいいなと思う。

 オルゴールに詳しくなくても気軽にくることができて、現実に打ちのめされそうになっているだれかの居場所になれる――そんなミュージアムになればいいなと思う。


 オレとユキが、そうして出会ったように。



 晴天を漂う水泡がひとつ、オレの隣でパチンとはじけた。


                       ――――FIN――――

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水泡にキス 零真似 @romanizero

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