たん、たん、たたんたんたんたん
ユキを背負って治療室を出る。
そのまま病院のロビーを歩いて、外へ。
医者が止めることはなかった。全員が、ユキをさらうオレから目を逸らしていた。
夜の帳が下りていた。しんしんと降る雨が、ユキから昇っていく水泡をすべてうちこわしていた。
「おまえと出会ったときも、ちょうどこんな天気だったな」
オレが笑うと、ユキが指先で肩を叩いた。
「傘、いるか?」
トン、トン、と。二回、ユキの指が動く。
「ああ。そうだな。必要ない」
横断歩道を渡り、側道へと入り、すこし歩いて、山の麓へ。
華やかな温泉街を通り過ぎた頃、ユキが頬を押してきた。
「しょうがないだろ、しばらく入ってないんだから。ヘドロに汗も加わって、さらに雨の匂いも足されるからな。覚悟しとけよ」
滅菌された液体と雨の匂いに混じって、微かにアクア系の匂いがする。
それは、ユキの匂いだった。
「おまえ、けっこういい匂いするよな」
ユキが背中を抓んでくる。照れ隠しのつもりらしい。
「さて。いくか」
オレたちは山道を登り始めた。
互いに口を開くことなく、しばらく。
ユキが巻くぜんまいの音だけがオレの耳に届いていた。
ぎーぎーと、願いを叶えるための音をききながら、オレは今日までのことを思い出す。
――はじめてユキをみつけたとき、まるで物語の中から出てきたようだと思った。
だけどちがった。ユキはあたりまえに人間で。ときどきくだらない冗談で心を隠そうとしたり、初めての家出に胸を躍らせたりする、ふつうの女の子だった。
大きなオルゴールを見て驚いたり。よくわからない理由で枕投げをしたり。
そんなユキを見ていると――ああ、きっとそのときからもうオレは、ユキのことを大切に思っていたんだ。
だから、だんだん衰弱していくユキを見ていられなくなった。
見ていられなくなって、ユキから手を離してしまった。
……今のオレは、あのときよりちょっとは強くなれているのだろうか?
「…………ユキ?」
ユキがオレの服を抓んでくる。
振り返ると、オレたちの過ごしたミュージアムがすぐそこにあった。
「戻りたいのか? あの場所に」
ユキはなにも言わない。
「オルゴール、ききたいか?」
そう尋ねると、彼女は小さく首を縦に振った。
「そうか」
オレはすこしの間立ち止まって、それからまた、山の頂へと向かって歩き出した。
「オルゴールなんて、いつでもどこでも、きかせてやるよ」
雨がだんだん勢いを失っていく。
分厚い雲が堆積していた夜空に微かな星が瞬いている。
その光のほうへ、オレたちはゆっくりと近づいていく。
「なあ、ユキ。そういえばおまえ、どうしてバイクで山登るの、拒んだんだ?」
ユキは不思議そうに首を傾げた。
どうやらそのときのことはもう覚えていないらしい。
「バイクで登ったんじゃ意味ないって言ってたぞ? どうやって見にいっても景色は一緒だろってオレは言ったんだけどな」
トン、と肩が一回叩かれる。
「いや、免許は持ってない。オレは見送るつもりだったんだ」
背後でユキがため息を吐いた。
「ああ、わかってるよ。ホントは」
後ろ手にユキの頭を撫でる。
「オレと一緒に登りたかったんだよな?」
茶化すように笑ってみると、ユキは「そのとおりだ」とでも言いたげな顔で見つめ返してきた。
冗談の勝負はいつになっても勝てそうにない。
「……なあ、ユキ。オレさ、さっきおまえの前でうたた寝してる間に夢を見たんだ」
オレはくだらない夢の話を語ってきかせる。
――ハーヴェストを回り、ヴィオリーナを撫で、ケンペナーの前でポーズを決めて。続いてケンペナーを鳴らそうとするオレをユキが引き止めて。オレの腕の中に、こっちをじっと見つめて言葉を待つユキがいて――。
「そこでさ、駄々をこねるオレに、おまえが言うんだよ。約束をしようって」
夢の中でオレはユキと約束をした。
かすかにきこえてくる「結婚行進曲」を背景にして。
「これがまたあたりまえのことでさ。今更誓うまでもないだろって話なんだ。だからあらためて言うのもなんだか恥ずかしいんだけど、それでもユキはオレの名前を呼んで、笑いながら言うんだよ。コウ――」
「――――幸せに、なってね」
消えてしまいそうなくらいに小さく、か細い声で、背中のユキがそう言った。
オレは足を止めて振り返った。
満足そうな顔をしてユキが微笑んでいた。
「……なんだよそれ」
オレが話していたのは、オレが見た、オレにとって都合のいい、オレだけの夢の話だっていうのに。そんな、知ってたみたいなふうに笑いやがって。
「…………なあ、ユキ。おまえ、幸せだったのか?」
ユキはなにも答えなかった。
代わりに、そっとオレの頬に口づけをした。
上り坂は終わりへと近づき、次第に開けた景色が見えてくる。
「…………わかったよ」
そしてオレたちは山頂の地面を踏みしめた。
降っていた雨はいつの間にかやんでいた。
夏の暑さを忘れさせる冷えた空気が辺りに漂っていた。
「どうだ、ユキ?」
「…………」
夜の、山の、頂の景色。
晴れ渡った星空は澄んでいて。町の明かりは連なり夜を流れる光の川となっている。
「……考えたんだ。オレとユキを繋ぐものってなんなのか」
オレは山頂に置かれていた脚の長いイスにそっとユキを座らせる。
イスの周囲には雨よけの布を被せられたいくつものオルゴールが立ち並んでいた。
「すこしでもそういうものがあったなら、この景色は一層鮮明な思い出になると思ったんだけど……結局、これしか思いつかなくてさ」
オレは被せられた布を取り去っていく。
ハーヴェスト。ヴィオリーナ。デライカ。ルーシー。シンギングバードとサブライムハーモニーのシリンダーオルゴール。
巨大なケンペナーはさすがにムリだったけれど、ミュージアムにあるオルゴールはだいたいこの山の上にあった。
「いつかいこう」と約束した場所に、オレたちの今日までがすべて集められていた。
「ここはちゃんと、おまえがいきたかった場所になってるか?」
星と、光と、オルゴール。
それはいつかひとりで目にした山頂の景色より、いくらか温かく見えた。
オレと同じようにユキのことを大切に思う人たちの思いやりがそこにはあった。
「ユキ」
オレはユキの前で両手を広げてみせる。
「オレの向こうにある景色は、ちゃんとキレイか?」
ユキは喉を震わせながら頷いていた。何度も何度も、頷いていた。
「なら、よかった」
透過したユキの身体が夜空と町の光で輝いていた。
天へと昇っていく泡のひとつひとつがきらめいて見えた。
「ユキ」
雨は上がって、キレイな夜で、ここには今、オレたちしかいなかった。
だからどんなことだってできるし、どんなことだって素直に言えた。
「とりあえず、ここを二人のユキ星にしよう」
星空がとても近くて、町の明かりがひどく遠い。
まるでこの場所は、雑多な現実から乖離してできあがっている夢の世界みたいだった。
幸せばかりが滞留しているみたいだった。
「ここはオレたちが最初に発見した理想郷だ。ずっと一緒にいられる場所だ」
だから、オレはユキに言うんだ。
「ここで、結婚式を挙げよう」
ユキの青い瞳にオレの姿が映り込む。
オレは笑っていた。
そんなオレを見て、ユキも笑った。
オレはユキの手に手を重ねる。
そしてユキが大事に持っていたオルゴールのぜんまいを巻いていく。
ユキはそんなオレのことをずっと見つめていた。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。そう思った。
「ぜんまいを巻く音ってさ。なんかいいよな」
オレがそう呟くと、ユキは笑いながら静かに頷いた。
「オレにとってはやっぱり、願いを口にするための――誓いを立てるための音って感じがする」
ぜんまいを巻いて、曲を鳴らして、それが止まるのを待つ。
その一連の流れが、まるで儀式のようだと思う。
――なんて。ハッキリとした言葉にするとどうしても心からズレてしまうんだけど。
ときどきはちゃんと言葉にするべきだと思うから、今は言うんだ。
「一歩踏み出すそのときを、待ってくれているみたいだ」
「……うん」
ユキがやさしく微笑みかけてくる。
その額にキスをして、オレはそっとユキから手を離す。
ぜんまいが回り始める。
オレとユキの「結婚行進曲」が流れ出す。
星空と、町の光と、たくさんのオルゴールを背景にして、オレは誓いを立てる。
オレを見守ってくれているユキと、ユキに見守られているオレ自身に対して。
「きっとこれからたくさんの困難があって、たくさんの挫折があって、たくさんの喪失があると思う。だけど精いっぱい生きていく。ひとつところに立てこもって、前に進むことを恐れたりなんかしない」
これから先も、オレは生きていく。
「ちゃんと学校にいくし、友達はちゃんと大事にする。留年しても腐ったりしないし、勉強だってもちろんがんばる。ないがしろにしてきたいろんなことをちゃんと清算してみせる」
ユキのぶんまで、生きていく。
「なりたいものも、やりたいことも、まだよくわからないけど、そうして一人前になったら、きっとちょっとは今より胸を張れる人間になってると思うから。だから――」
オレたちの「結婚行進曲」が終わっていく。伝えたいことをこれっぽっちも伝えきれないままに。
ユキの全身が水泡へと変わっていく。
まだ、言い足りないことだらけだった。
「……ッ!」
オレは咄嗟にルーシーのぜんまいを巻いた。
台の上に乗っているワンピース姿のからくり人形ルーシーが、オルゴールの音に合わせてダンスを踊る。
いつか二人で踊ったメロディの中で、互いの時間を繋ぎとめるように言葉を紡ぐ。
「まだ見たことない景色を見て。まだきいたことない音をきいて。まだ知らないことを知って。オレはオルゴール以外のことにも詳しくなっていって。そしたらおまえに、たくさん話をきかせてやる。宇宙の仕組み。恋と愛の違い。なんでもない日々の憂鬱。いろんなことを話しながら、将来とか、夢とか、そんなこともいつか語れるようになってやる。だから――」
ルーシーが止まるよりも早く、デライカのハンドルに手をかける。
流れ出したメロディがハンドルを回す速度によって早くなったり遅くなったりする。
まだいかないでくれと胸の内で叫びながら言葉を伝える。
「おまえを置いて、大人になったりしないから。おまえと一緒に、生きていくから。もしひとりで先に進んじまったとしても、孤独に浸ったりせず、すぐに戻って、おまえのことを抱きしめるから。おまえのこと、見失ったりしないから。だから――」
デライカのブックが落ちきってしまう前にヴィオリーナを駆動させる。
ピアノの鍵がひとりでに浮き沈みを繰り返し、ガタガタと揺れながら三挺のヴァイオリンが奏でるのはブラームスの「ハンガリー舞曲」。
足も腕も泡となり、星空へと昇っていってしまいそうなユキに、オレは叫ぼうとする。
「……だから……ッ!」
視界が滲んでいく。
幸福な一時に涙なんて必要ないのに。
泣かないと、決めていたのに。
「……だから……オレは、おまえを……っ!」
力いっぱいハーヴェストのハンドルを回して涙を飛ばそうとする。
言わなくちゃいけないことを言おうとする。
伝えなくちゃいけない想いを伝えようとする。
なのに、喉が震えて言葉にならない。
いつか二人で鳴らした「カッコウワルツ」が悲しい曲にきこえてしまう。
「――――コウ!」
そのとき、オレの名前を呼ぶユキの声が、たしかにきこえた。
「……!」
オレは目元を拭ってユキを見る。
その目にユキの姿を焼きつける。
「わたし、幸せだったよ! だから、これからも、きっと、幸せだよ!」
泡となって星空へと昇っていくユキが、最後に言葉を振り絞る。
「――――コウは?」
そしてユキはオレを見つめる。
ほんの一瞬、黒くなった髪と目で、ユキは幸せそうに微笑みながら立っていた。
その表情を見ていると、なぜだろう?
喉の奥で詰まっていたはずの言葉が、気持ちが、想いが、すっと――口から出ていた。
「――――ああ。オレも、幸せだった」
ディスクオルゴールが動き出し、そしてまたオレたちの「結婚行進曲」が山頂に流れる。
「だから、ユキ。オレはもう大丈夫だ」
「うん」
それを、伝えておきたかった。
「一緒に幸せになろう」
「うん」
それを、誓っておきたかった。
「ありがとう、ユキ」
「ありがとう、コウ」
それが、心からの気持ちだった。
「今日がオレたちの、結婚記念日だ」
ユキのすべてが水泡へと変わり、星空へと昇っていく。
水泡は星のきらめきを乱反射して、幻想的な光を山頂に下ろしてくる。
「…………あぁ……!」
ユキの向こうに見える景色は、このうえなくキレイで。愛おしく思えて。
なのに。
「……ユキ……! ユキッ!」
降りしきる輝きに向かって手を伸ばさずにはいられない。
物語みたいな光景に向かって手を伸ばさずにはいられない。
「どこにもいくなッ! ずっと、オレのところにいてくれッ!」
ユキが、オレの手が届かない世界に吸い込まれていくような気がした。
誓ったはずの言葉が、長い時間に擦り切られてなかったことにされてしまうような気がした。
満たされたはずの気持ちが、日常にすこしずつ薄められて塗りつぶされてしまうような気がした。
オレたちの日々が全部、巨大で広大ななにかに押し負けてしまうような気がした。
「好きだったんだ! 愛していたんだ! 大切だったんだ‼ 好きがなにかも、愛がなにかも、大切にするってことがどういうことなのかもまだうまく言葉にできないけれど、証明できない気持ちばかりに突き動かされてしまうけれど、形にならない想いが、一ミリたりともズレることなくおまえに繋がってればいいなって、心の底からそう思うんだ! オレのすべてが、おまえになればいいのにって思うんだ! だから――だから、ユキ‼」
どんどん遠くなっていく水泡と、眩しすぎる天空に向かってその名前を叫ぶ。
「これからもずっと! オレと一緒に生きてくれッ! ユキ‼」
夜空に放った声が響いて、木霊して、それから遠くに消えていく。
やがてユキの泡も見えなくなって、鳴っていた「結婚行進曲」も止まった。
「…………」
あとには、ユキにプレゼントしたオルゴールだけが残されていた。
オレはそれを拾って、そっと胸に当てる。
ぜんまいを巻かずとも、ユキとの思い出がつぶさに胸の内で再現されていくようだった。
すくなくとも、まだ、その輝きは色褪せていない。
「…………ユキ」
しばらく目を閉じて、幸せな思い出に浸っていた。
だけど、ずっとそうしてはいられない。
ちゃんと前を向いて、生きていかないといけない。
それがユキとの約束だから。
「…………」
オレはゆっくりと目を開けた。
夜空の彼方へと昇っていってしまったと思っていた水泡がひとつ、目の前にあった。
その水泡はゆらゆらとオレのほうに近づいてきて――。
「――――!」
やさしく唇に触れてから、そっと離れて、すこししたあと、パチンとはじけた。
まるでだれかが照れながらはにかんでいるようだと思った。
たったそれだけのことで、瞬間的に押し寄せて心の隅に根を張ろうとしていた不安のすべてが、取り除かれていくようだった。
「…………心配しなくても、大丈夫だっての」
小さく笑って、それからオレは、しばらく山頂からの景色を眺めていた。
何度も目にしたことがある光景のはずなのに、その日は不思議と彩度も光度もすこしだけ増して見えて――。
――世界がすこし、特別になったみたいだった。
「……さて。帰るか」
やがて。うんと大きく伸びをしてから、オレは山頂を後にした。
足取りは軽かった。いつもより夜が明るかったからかもしれないし、いつもよりあの曲が胸の中で伸びやかに鳴っていたからかもしれない。
「たん、たん、たたんたんたんたん」
リズムに合わせてステップを踏む。
スニーカーが地面を叩いて小気味いい音を鳴らしていく。
「あしたもあさっても。十年後、五十年後だって。きっとおまえのおかげでたのしい日々さ」
オレはその日、ひさしぶりにミュージアムで眠ることにした。
そして夢の中で、やっぱり恥ずかしそうに笑うユキと出会うのだった。
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