――オルゴールをキミに――

永遠に続く約束

 あったはずのものがない。

 そんな感覚になって目を覚ました。


「……」


 隣にユキがいなかった。

 繋がれていた手に、今はオルゴールが乗せられていた。


「目、覚めたか?」


 病室にはなぜか杉原だけがいた。


「ユキは?」

「おまえが眠ってる間に連れていかれてさ」


 オレは杉原と一緒にユキがいるという中央診療棟へ向かった。

 早足になっていた。杉原に何度か腕を掴まれた。


「クスリ飲んでなかったんだってな、渡来さん。そのせいもあるんだと」


 下りていくエレベーターがひどく遅く感じた。

 途中で乗り込んできた老人を無意識のうちに睨んでしまっていた。


「ホントは最初からそっちに入るはずだったらしいんだけど、本人が嫌がったらしくて」


 エレベーターを降りてすこし歩いたところで杉原は立ち止まった。

 杉原が指さしたのは「特別集中治療室」と書かれた一画だった。


「やあ、コウくん」


 治療室の前にユキの両親がいた。

 母親のほうは泣き崩れていた。


「ユキに、会ってやってほしい」

「はい」


 手と口の中を滅菌して、オレは分厚い扉で仕切られた治療室に入った。

 扉の先には二重のガラス窓で中を窺えるようになっている病室があって、面会はそのガラス窓を挟んで行ってほしいということだった。


 十室ある部屋の最奥にユキはいた。

 病室全体を大きなひとつの泡が包んでいた。その泡の中でユキから出たいくつもの水泡がこわれないまま浮かんでいた。

 貝殻みたいなベッドの上で足を畳んでいたユキは、オレを見つけるとうれしそうに手を振って笑った。

 オレも手を振り返して、通路と病室の間にある一枚目の扉を開けた。


『コウ』


 ユキは浮かんだ水泡を指で引っ張ると、それをかき混ぜるようにして空中にオレの名前を描く。


「すごいな。魔法使いみたいだ」

『でしょ』


 本当に。

 物語の中にユキが隔離されているみたいだった。

 彼女の身体には管の一本も繋がっていなくて。今すぐベッドから立ち上がってピクサー映画みたいに踊り出してしまえそうだと思ったけれど、彼女はずっとその場から動こうとしなかった。


『わたし、今日も生きてる』

「ああ」


 分厚い壁を挟んで、オレはユキとくだらない話を続けた。


 ときどきユキの両親や杉原が入ってきて、すこし話をしては用事を作ってすぐに出ていった。

 三人とも、なんだかひどく優しい話し方をするなと思った。


『気、つかってるのかな?』

「たぶんそうなんだろうな。あいつ、杉原。自分ではそういうのしてないつもりなんだぜ、たぶん」

『コウの声も、きのうよりやさしい』

「ウソつけ。オレが昨日より優しくなるようなことはたぶん一生ないぞ」

『きのうって、やさしかったっけ?』

「優しかっただろ」

『ずいぶんひどいことをされたような……』

「いやだったか?」

『……ううん』


 ユキは小さく笑って、浮かんだ水泡のひとつを手のひらに乗せた。


『オルゴール』

「ん? ああ、部屋に置いてきた。ちょっと待ってろ。とってくる」


 オレは治療室を出た。

 ロビーに立っていたユキの父親がオレに言った。


「あそこでやっているのは、明日死ぬのを一週間先延ばしにするようなことらしい」

「ユキ、いろんなことを見透かしたように笑ってましたよ」

「ユキは……幸せだったのだろうか?」

「これから幸せになるんですよ」

「……なあ、コウくん。何度もきくようだけど、本当に大丈夫かい?」

「どう、思いますか?」


 オレの顔を見たユキの父親は、それ以上なにも言おうとしなかった。


「なあ、コウ」


 病室からオルゴールをとって戻ってきたオレに、杉原は言った。


「昨日はちゃんと話せたのか?」

「おかげさまで。そっちこそケーサツは撒けたのか?」

「しっかり捕まって、朝まで説教コースだよ」

「そりゃ大変だ。大人しい優等生が被った皮だったって学校の連中にバレちまうな」

「俺のことはいい。それよりコウ、こんな状況だってのに明るいな」

「そうか?」

「二人きりでなにしたんだよ? 昨日」

「さあな」

「さあなっておまえ……まあ、今のコウと一緒にいるのがたぶん渡来さんにとってはいちばんだと思う。気が晴れるっていうか」

「べつに杉原やユキの両親が気を遣うほどユキは落ち込んでない気がするけどな」

「どうして?」

「だってあいつは今日も生きてる」


 オレはオルゴールのぜんまいを巻いた。

 ぎーぎーと、願いを叶えるための音がする。


「……なあ、コウ。渡来さんは、たぶんもう……」

「杉原」


 ぜんまいが回り出して「結婚行進曲」が病院のロビーに流れる。


「踊ってみろよ」

「……は? それはコウの得意分野だろ」

「べつに得意じゃない。むしろ下手だ」

「なんで俺が……」

「いいから」


 杉原はぎこちない動きで手を上げ足を上げる。


「ははっ! うまいうまい!」

「うまいわけあるか。ダンスなんてやったことないんだ」

「まあでも、やっぱり人目は憚るべきだよな」


 院内の人間が杉原のことを見て笑っていた。

 杉原は急に大人しくなって小さくなった。

 そんな杉原を軽くあしらってオレはユキのところへ戻ろうとする。


「コウ。今はもう、大丈夫なんだよな?」

「どう思う?」


 杉原はなにも答えなかった。


 オレは治療室に戻った。

 ユキは眠っていた。

 医者の話だと、昨日までユキに投与されていたクスリは既に効力を失ってしまっているらしい。

 つまり記憶の忘却が生じる心配はもうないということだ。

 今のユキに施されているのは、症状を抑えるための治療ではないから。


「……」


 ユキの周りで浮かんでいた水泡が、やがて彼女を囲う大きな泡に飲み込まれていく。音もなく。ゆっくりと。


「…………」


 キレイな顔で眠っていて。赤い髪がベッドの上でプカプカと浮き上がって、揺れていて。

 まるで、海底に忘れられた人魚姫のようだった。


『コウ』

「ああ」


 ユキが目を覚ますと、オレたちはまたガラス越しに話をした。話すことがなくなるとオルゴールを鳴らして遊んだ。ユキが眠ると、次にユキが目を覚ましたとき話したいことを考えながらぜんまいを巻いた。


 朝も、昼も、夜も、そうしていた。


 それはなにもつらいことじゃなかった。

 むしろ幸福な時間だった。

 布団に包まって眠っているときよりも、間に合わせの友達とつるんでいるときよりも、ひとりでオルゴールを鳴らして踊っているときよりも、ユキといる時間はオレにとってずっとずっとたのしい時間だった。


『コウ』

「ああ」


 ユキの指先が僅かに透明になっていた。

 すこしずつ、彼女の身体が泡へと変わっていた。


『もうちょっと透けたらそっちにいけるかな?』

「どんどん魔法みたいな技や特殊能力を身につけていくな」

『こわい?』

「そうだな。なにされるかわかったもんじゃない」

『まずはね、コウと一緒に温泉に入る』

「混浴かよ。今時ないぞ」

『男湯に透明なわたしがいること、コウだけが知ってるの』

「なんだよそれ」

『ドキドキするでしょ?』

「……おまえ、そういうとこあるよな」

『そういうとこって?』

「このド腐れビッチめ」


 オレはオルゴールのぜんまいを巻いた。

 幸せそうに緩んだユキの口元を見ていると、オレも自然と笑ってしまえた。


『コウ』

「ああ」


 上体を起こしていられなくなったユキが、震える指を上げて文字を描く。


『ハネムーンにいきたいところ、あった』

「へえ。どこ?」

『ユキ星』

「それは、遠いな。国どころか宇宙に出ないといけない」

『宇宙にくらい出てよ、カイショーナシ』

「無茶言うよなー。まあでも、覚えとくよ。株で一発当てたら考えてやる」

『二人でいこうね』

「ああ。二人でいこう」


 オレはオルゴールのぜんまいを巻いた。

 ぎーぎーと、願いを叶えるための音がした。


「ユキ」


 ユキが指を動かせなくなった。

 だから文字ではなく表情で、ユキはオレの言葉に反応していた。

 オレはたくさん話をしたし、たくさんオルゴールのぜんまいを巻いた。

 ユキはずっと幸せそうに微笑んでいた。


 彼女の身体の色素や輪郭はどんどん薄らいでいって、存在そのものが半透明になっていた。

 ユキの命が、まるでなにかに吸い取られていっているみたいだった。


「…………ユキ」


 オレはオルゴールのぜんまいを巻いた。

 木板の上でぜんまいが回り、再生されていくのは「結婚行進曲」。

 何度もきいた曲が思い出の中でも鳴っている。



 ――――時間が、巻き戻されていくようだった。



『これ、好き』

『オレもだ』

『好き?』

『ああ。好きだよ』


 リズムに合わせてステップを踏む。

 四足のスニーカーが床を叩いて小気味いい音を鳴らしていく。


『だからオレは学校にいく。そこでユキのことを待ってる』

『えー。待ってなくていいよ。いつ戻れるかわからないし』

『きっとすぐに戻ってこれるさ』

『それよりも、コウと一緒に山頂にいきたい』

『ああ。それもまたいけばいい』

『コウは夜景なんか見てもやっぱり感動なんかしないんだけど、わたしはコウの向こうに見える景色をとってもキレイだって思うの』

『ああ』

『だけどホントはコウにも、ちょっとは感動してほしいかな』

『きっとすると思うよ』

『どうして?』

『おまえの向こうに景色があるから』


 ハーヴェストを回り、ヴィオリーナを撫で、オレたちはケンペナーの前でポーズを決める。

 続いてケンペナーを鳴らそうとするオレをユキが引き止める。

 オレの腕の中に、こっちをじっと見つめて言葉を待つユキがいる。


『答えを教えてよ、コウ』


 オレたちが出会ったときに流れていた「結婚行進曲」が終わっていく。

 遠ざけていた雨音がゆっくりと世界に戻ってくる。


『……』


 赤い髪。青い瞳。浮かぶ水泡。マーメイドシックにかかった女の子。

 それがなんだっていうんだ。

 ユキは繋いだ手の先にいる。

 オレがこの手を離さなければ、きっとずっとそれは変わらない。


 手を、離したとしても、変わることなんてない。

 オレたちはもうずっと一緒だ。離れることなんてない。


 だからオレは答えを出すんだ。

 ユキと出会ってからの日々に。

 オレの心と、ユキの気持ちに。


『なあ、ユキ。だけど本当は答えなんてずっとはぐらかしていたいんだ』

『どうして?』

『言わなくてもわかってるだろ?』

『うん。でも、ときどきはちゃんと言葉にするべきだよ』

『……答えを出したら、認めたことになっちまう気がするんだ。このことは、ここで一区切りなんだって』

『区切りたくないの?』

『あたりまえだろ』

『そっか。じゃあ、約束』

『約束?』

『永遠に続く約束』

『……なんだ?』

『コウは――――』



 ――――カチッ。



 ぜんまいの止まる音がして、目を覚ました。

「…………」

 いつの間にか眠っていたようだった。

 顔を上げると、ユキがオレのほうを見てやさしく微笑んでいた。


「…………わかったよ」


 大きな息を吐いて立ち上がる。

 それからしばらく目を瞑って。覚悟を決めた。


 病室へと続く扉のロックを外して、中へと入る。

 空間を包んでいる大きな水泡に手を伸ばす。


 ――パチン、と。


 彼女を隔離していた泡がはじけた。

 宙に浮かんでいたいくつもの水泡が、一斉に天井へと昇り始める。

 ぷくぷくと。泡の膜を失ったユキの全身が水泡へと変質していく。


 オレはユキと見つめ合う。

 ユキは、やはり笑っていた。

 オレは、どんな顔をしていたのだろう?


「ユキ」


 薄く透けた細い手がオレのほうに伸びてくる。

 オレはその手をたしかに掴み、ユキの身体を引き上げた。


「――――いこう。山頂に」


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