結婚しよう

 ユキは生きていた。


 その事実に、病院の人間も、ユキの両親も、杉原も、泣いてしまうくらいによろこんでいた。


 ユキだけが、浮かない顔をしていた。


 けれどよろこんでいるみんなを見るたび、ユキは目を瞑って笑っていた。

 笑いながら眠って、それから二日、目を覚まさなかった。

 そして、起きたとき、杉原のことを忘れた。


「…………なあ、コウ。俺さ、わからないんだよ」


 夜の温泉に浸かって、だれもいないミュージアムのほうを眺めながら、杉原は言った。


「渡来さんにとって今の状況って、幸せなのかな?」

「なんだよ? 忘れられたのが悲しいのか?」

「そりゃ悲しいさ。でも渡来さんがそれでいいなら俺はいい」

「おまえの生き方って、本当に自分の気持ちより他人の気持ちだよな」

「俺はいいんだけどさ。渡来さんはどうなんだろうって」

「そりゃ忘れたくはないだろ。だけど病気を治すためにはしかたない」


「もうひとつ、わからないこと」

「なんだ?」

「コウはどうしてずっとそんな平気な顔をしてるんだ?」

「オレはふつうにしてるだけだよ」

「だからなんでふつうにしてられるんだよ?」

「ユキと約束したんだ。オレはふつうにして、ユキがふつうになるのを待ってるんだ」


「……なあ、コウ。ホントは大丈夫じゃないだろ?」

「どこが? オレはいたってふつうだよ。あしたも友達とカラオケにいく約束してるんだ」

「友達ってだれさ?」

「だれって……」


 名前が出てこなかった。

 顔もよく思い出せない。

 でも、ちゃんと約束はしている。


「夏休みなんだ。ふつうに遊びたくもなるだろ。だからこうして温泉にもきてるんだ」

「自分が渡来さんに忘れられること、怖くないのか?」

「怖いし、いやだけど、それで病気が治るんならしかたないって思ってるよ」


「…………ああ、そっか」


 温泉からあがって、杉原は言った。


「俺、わかったよ」

「なにが?」

「コウ、やっぱりちゃんと休め」

「はあ? 休んでるって。ちゃんと寝てるし、ちゃんと食べてるし……」

「だから、ちゃんとすることを、休め」


 着替えを済ませて、バイクで夜の風を切りながら杉原は言う。


「ちゃんとしてるつもりでも、今のコウの目は現実から逸れてる」

「逸れてなんかない」

「自分の状況に気づくことすらできてないから、今のコウは危ういんだ。ミュージアムに立てこもる前と同じだ」

「オレはちゃんとやってる」

「俺や、早希ちゃんと同じだ」


 早希の名前を出された瞬間、頬を過ぎていく風や流れる時間が止まったような錯覚を覚えた。


「今のコウはちゃんと〝ふつう〟をやることに躍起になって、しっかり状況を見据えられてない。いいか。たしかに渡来さんは今日も生きてる。でも、明日生きてる保証なんてないんだぞ?」


「そんなのはいってしまえばオレもおまえも一緒じゃないか。今すぐこのバイクがガードレールに激突してオレたちは死んじまうかもしれない」


 杉原はバイクを停めた。

 いつの間にかオレの家に着いていた。


「……コウ。俺の言葉を、一旦なにも言い返したりせず、最後まできけよ」

「なんだよ?」


「渡来さんの病状は、べつになにも良くなってなんかないぞ」


 杉原がなにを言っているのかわからなくてオレは考えた。


 そうか。杉原はユキの余命の話をきかされていないのか。

 だからそんなまちがったことを言ってるんだ。


「たしかにクスリのおかげで話すことはできてるし、水泡もあまり出ないようになってる。でもその代わりに、どんどん意識を保っていられる時間が短くなっている。記憶の忘却も進んでいる。渡来さんは今、生きているために自分をすり減らしている状態なんだ。状況は回復も停滞もしてない。ずっと、進み続けてるんだよ」


「ユキの余命は一か月って言われてて、だけど現に――」

「コウ!」


 杉原がオレの肩を掴む。



「渡来ユキは、もうすぐ死ぬぞ?」



「…………!」


 面と向かってその事実を告げられた瞬間、オレの全身から力が抜け落ちた。

 ぐらりと、座席から転がり落ちていくオレの身体を杉原が支える。


「コウ……まえに言っただろ。今会っとかないと、渡来さんはおまえの知らないうちにいなくなっちまうかもしれないんだぞ。おまえのいないところで死んじまうかもしれないんだぞ! 早希ちゃんみたいに!」


 胸が締めつけられるように痛んだ。

 呼吸がうまくできなくなった。

 ひとりじゃ立っていることもできない。


「テキトーな友達作ったり、遊びに出かけたりするより、しなくちゃいけないことがあるだろ! 渡来さんのいる時間と、いない時間……大事なのはどっちだ⁉」


「…………ぁ、あぁ……」


 オレはまた、逃げていた。

 早希が死んでしまったときと同じように。

 いつかユキがいなくなってしまうという事実から、逃げていた。

 精いっぱいふつうに振る舞うことで変わらない日々を繋ぎとめようとしていた。

 時間はずっと進んでいるのに。

 ユキはまだ生きているのに。


「…………オレ、なにやってんだ……」


 オレがふつうに生きていられたら、ユキもふつうに元気になれると思っていた。いや、思ってなんかない。そんな空想に縋っていたんだ。そうしないと、自分が壊れてしまうから。ユキはまだまだ大丈夫だと、自分自身に信じ込ませていた。


「…………なにもかも……大丈夫じゃないじゃないか……!」


 目から涙が零れ落ちていく。

 それはオレがこの一か月溜め込んでいた涙だった。

 ユキがもうすぐ死んでしまうという悲しみと、まだ生きてくれているよろこびの涙だった。


 いつかと同じだ。

 あの日と同じだ。

 心が、今更現実に追いついてきた。


「ユキと一緒にいる時間以上に大切なものなんて、あるわけないのに……!」


 胃袋からあらゆるものに対する嫌悪感が昇ってくる。

 たまらず、オレはその場で吐いた。

 杉原はずっとオレの背中をさすってくれていた。

 明滅する蛍光灯には夏の虫が群がっていた。

 いつの間にか七月は八月になっていて、八月は九月になろうとしていた。


「…………ユキに、きいたことがあるんだ。『おまえ、いつか死ぬんだよな?』って」

「ああ」

「あいつ、『どう思う?』ってきいてきたくせにさ。オレが答えられないから、自分で言っちまったんだ。『いつか死ぬよ』って」

「ああ」

「なのに、早希の話をしたときは逆のことを言うんだよ。死んでも、生き続けるって。意味わかんないだろ。わかんないのに、思ったんだよ。ああ、そうだといいなって」

「ああ」

「……あいつだって、ちゃんと生きられるはずなんだ。一か月や二か月じゃなくて。十年でも、五十年でも、生きて……ッ!」


 そのとき、ポケットで着信音がした。

 オレは取り出したケータイの画面を覗く。

 非通知だった。

 オレが出ようとした瞬間に電話は切られた。

 オレはすぐにかけ直した。しかしすぐに切られた。

 何度も、何度もかけ直した。

 そして電話は繋がった。


「…………ユキか?」

『…………』

「どうした?」

『…………コ、ウ』


 オレの名前を呼ぶユキの声が苦しそうだった。

 一音を絞り出しているような話し方だった。


「どうした、ユキ⁉ 大丈夫か⁉」



『…………どう、思う?』



 そこで電話は切られた。


「……杉原!」

「掴まってろよ!」


 エンジン音を逆巻かせて、バイクが夜の街を疾走する。行先は言うまでもない。


 ユキがオレの名前を呼んだ。会いにいく理由なんて他になにもいらなかった。

 他になにもいらなかったんだ。


 ……ユキに会いたい。会って、ずっと一緒にいたい。


「杉原。オレ……間違ってた!」

「ああ」

「オレはユキとずっと一緒にいるべきだった! あいつがもうすぐ死ぬからでも、オレのことをいつか忘れてしまうからでもなくて……オレにとってあいつが必要なんだ! あいつがいないとオレはダメになるんだ!」

「ああ」

「杉原!」

「なんだよ?」


「オレ、あいつのことが好きだ!」


 オレはようやく“それ”がなんであるかを理解した。

 理解したから、きっともう、言葉にしても本当のことからズレたりしない。


「知ってるよ、バーカ」


 ケラケラと杉原は笑っていた。

 過ぎ去っていく生温い夏の風が、オレとユキが二人で過ごした時間の隠喩みたいに思えた。


「……あの日、六月の雨が夏に追いついてきたみたいな日に出会ってからずっと、オレはあいつの口から『生きたい』って言葉をきいたことがないんだ」


 ユキはいつも肝心なところをオレに任せる。

 オレに言わせて、自分では言わない。

 まるで口にしてしまうことを恐れているみたいに。


「叶いそうもない願いを口にするには、たぶん幸福を原動力にしなくちゃいけないんだ」


 アクセルグリップを全開まで回して、いつかのだれかが語っていた言葉を思い返すみたいな口調で杉原は言った。


「本当の気持ちを伝えることさえ困難な人間が残した言葉はいつか、呪いに変わってしまうかもしれない。だから清算していくんだ。自分がいた痕跡を。水泡に帰していくように」


 語られた生き方にオレは覚えがあった。


 ある日、ユキがミュージアムの大掃除をしようと言い出した。

 最初は文句を言っていたものの、ミュージアムがきれいになっていくにつれてオレの心も洗われていくようで。雨が上がってからの自分にだんだん期待がもてるようになっていった。


 はじめてユキの病室に訪れた日、ちゃんと学校にいくように言われた。

 学校に行ったオレは間に合わせの友達なんかも作ったりして。家に帰って。眠って。だんだんと自分の居場所がユキのそばではなくなっていった。


 オレの中で、変わらず大切であり続けているはずのユキの存在が、薄らいでいった。


「だけどときどき、真逆のことを思う日もある。大切な相手に叶えられない約束をさせて、いつか募る後悔の中に住み着きたくなる。呪いそのものになって、その人の中で蠢いていたくなる」


 オレと一緒に山頂にいきたいとユキは言った。

 そんな体力がもう自分に残されていないことを、わかっていたはずなのに。


 わたしと結婚できるか、なんてことをユキはオレにきいてきた。

 そんな時間がもう自分に残されていないことを、ユキは知っていたのだろうか?


 まだだれにも知られていない――だれもわかっていないことを――ユキだけは知っていたから――わかっていたから――あの日ユキは山を登ったのだろうか。込み上げてくる諦観を振り切るために。


「そういう、相反する気持ちを抱えて生きていることは、まちがってると思うか? コウ」

「…………まちがってない。あいつはなにもまちがってない」

「だったらそう言ってやれよ。コウはそれを言ってやれる間柄なんだから」


 制限速度を振り切って、パトカーのサイレンに追われながら杉原はバイクを走らせる。

 やがて、ユキのいる病院が見えてくる。


「いってこい、コウ!」


 曲がり角で一瞬減速したバイクからオレは飛び降りた。

 杉原はそのまま二台のパトカーを引き連れて町のほうに走っていった。



「……ユキ!」



 オレはユキの病室へと走った。

 院内へと入り、明かりの落ちたロビーを抜けて、階段を駆け上がる。

 六階に、一室だけ扉の開いている部屋があった。

 そこからオルゴールの音が漏れきこえていた。


「ユキ!」


 扉の取手を掴んで立ち止まる。

 月明かりに照らされたベッドにユキの姿はなかった。

 オレがプレゼントしたオルゴールがサイドテーブルの上で鳴っていた。

 ユキは、その下で蹲ってたおれていた。


「おい、ユ――」


 手を伸ばそうとした瞬間、ユキが力いっぱいサイドテーブルを押した。

 ガタンとオルゴールが床に落ちて「結婚行進曲」が終わった。


「…………どうして、きたの……?」


 喉を抑えながら、絞り出した声でユキが言う。


「どうしてって、おまえが電話をかけてきたから」

「かえって」

「……いやだ」

「なんでも、ないから」


 オレはユキを抱き起こすために膝を折る。

 ベッドの下に、いくつものカプセル薬が散らばっているのが見えた。


「……おまえ……」


 それはユキが飲んでいるべき数日分のクスリだった。

 ユキの身体から際限なく水泡が昇り続けていた。


「…………なにか、話があったんじゃないのか?」

「……なにも、ない」

「そっか」


 オレはユキの身体をベッドに戻す。

 そしてその隣に腰かけた。


「話したいことがないならべつにいい」

「…………かえって。おねがい、だから」

「帰らない。今日は温泉にも入ってきたし、ヘドロの匂いなんて言わせないからな」

「……どうして、かえって、くれないの?」

「おまえとずっといたいから」

「わたしが、もうすぐ、死ぬから?」

「おまえのことが好きだから」


 理由なんてそれだけだ。



「…………思い、出せないの」



 やがて、ぽつりと、ユキが呟く。


「おとうさんと、おかあさんの、かお」

「ああ」

「……それを、かなしいとか、つらいとか、思えないの」

「ああ」

「わたしの心が、泡になって、消えていく、みたい」


 月光にきらめく水泡が天井にあたってはじけて消えていく。

 音もなく昇って、こわれて、ユキのなにかがなくなっていく。



「…………もう、ダメだ」



 ふっと、ユキはオレの肩に頭を預けてきた。


「こんな、弱音、漏らしたく、ないから、文字にすること、やめたのに」

「だからID交換するのいやがったのか」

「電話番号も、残すべきじゃ、なかった。すぐに、消そうと思った。何度も、そう、しようとした……でも……!」


 ユキの声が震える。


「これを、消したら、コウが、二度と、会いにきて、くれない気が、したから」

「そんなことない」

「コウのこと、忘れちゃう、気がしたから」


 ユキの両腕がオレの身体に回される。

 彼女の指先がわずかに重なって、すぐになにかを恐れるように離れていく。

「…………」

 オレはそっとユキの両手を握った。



「…………学校なんて、ホントは、いってほしく、なかった!」



 顔を上げず、ベッドシーツに向かってユキは、声を、思いを、絞り出す。


「病院になんて、入れられたく、なかった! ずっと、コウと一緒に、いたかった! 朝でも、夜でも、真夜中でも、わたしが、会いたいって、思った瞬間、会いにきて、ほしかった!」


「……ああ」


「目を覚まして、だれもいないとき、いつも、不安になる! どうして、わたしだけって、なる! 赤くなった髪も、黒くならない目も、止まらない水泡も! 全部、憎くて、悔しくて、たまらなくなる!」


「…………ああ」


「今の、わたしは、立って、歩くことも、できない。大切なことを、覚えていることも、できない。覚えていようとすれば、話すことも、できない。どんどん、どんどん、できないことが、ふえていく。まともな、人間の状態から、転がり落ちていく」


「…………」


「今の、わたしは……ひとりじゃ、なにもできない!」


 ユキの爪がオレの手首に食い込む。

 赤い血がベッドシーツに滴り落ちていく。

 それでも繋がったままの手に、温かいものが流れ落ちてきた。


「…………ユキ……」


 ユキが、泣いていた。

 それはユキがずっと溜め込んでいた涙だった。


「……こんなこと、言いたく、なかった。コウとは、ずっと、たのしい話だけ、していたかった。だから、会いたいときに、会いにきてほしくなんか、なかった!」


 あの日と、逆だった。

 オレがわけもわからず泣いてしまった日、ユキがくれた言葉にオレは救われた。

 だから、今度はオレの番だった。


「いいよ、素直な気持ちを話してくれれば」

「いやだ」

「繕わなくていいんだよ」

「いやだ!」

「おまえになにを言われても、オレはいなくなったりしないから」


 ゆっくりと顔を上げたユキに、オレは言う。



「結婚しよう、ユキ」



 言わされたみたいになっていた言葉を、しっかりと自分の意志でユキに伝える。

 ユキに伝わるまで、何度でも。


「オレは、世界中のなによりも、だれよりも、おまえのことが好きだ」


 ユキの両目が見開かれる。

 ほんの一瞬、それが黒く変わった。

 赤い髪が月光に映える。

 彼女を取り巻く水泡が夜と星明かりのコントラストで淡く光り輝く。


「…………ダメだよ」


 ユキが視線を逸らして俯く。


「……それじゃ、わたしが、死んだあと、コウの中に、空白が、残っちゃう」


「おまえは死なない。死なせない」


 自分の胸にユキの頭を抱き寄せる。


「……わかるよな、ユキ。おまえが教えてくれたことだ」

「…………」


 もしかしたらユキはあのとき、そうであればいいと願っていることを口にしただけなのかもしれない。オレに言ったことを、そのまま本気で信じていたわけじゃないのかもしれない。

 なら、その願いみたいな言葉を、オレが真実に変えてやればいいだけだ。


「……それで、いいの? わたしが、コウのところから、いなくなっても、コウは、わたしを……」


「忘れない」


 忘れず、抱えたまま生きていってみせる。ユキがそれを望むなら。それがユキの願いなら。


「宇宙飛行士やミュージシャンにはなれないかもしれないけど、どこにも立てこもることなく、ふつうに学校にいって、ふつうの大人になって、それで、ふつうでいることに飽きたら、あのミュージアムでオルゴールを鳴らして踊ってやる」


 だから――。


「だから、ユキ」


 ――もし。


「もしそんな日々に付き合ってくれる気があるのなら」


 それを、幸せなことだと思ってくれるのなら。



「…………生きたいと、言ってくれ」



 自分が死んでしまうことを嘆くんじゃなくて。

 死んだあとの話をするんじゃなくて。



「……オレと一緒に、生きてくれ……ッ!」



 気がつくと、オレまで泣いてしまっていた。

 ずっと言えなかったことを口にしているのはオレも同じだった。


「…………ひどいよ、コウ。未来のない、人間に、未来の話を、するなんて」


「……ユキ……」


「こんな距離で、そんなこと、言われたら……叶いそうもない、願いを、口にしたく、なっちゃう」


 オレの腕の中でユキが顔を上げる。

 その頬は微かに赤く染まっていた。



「幸福に、突き動かされちゃいそう」



 ユキは床に転がったオルゴールを掬い上げる。

 そして、ゆっくりとぜんまいを巻いていった。

 互いの胸の間で、ぎーぎーと音がする。


「ぜんまいを、巻く音って、願いを、叶えるための音って、感じがする」

「……オレには、願いをちゃんと口にするための音にきこえる」

「同じことだよ、わたしにとっては。すごく、勇気のいる、ことなんだ」


 二人きりの病室に「結婚行進曲」が流れ始める。


「……一度しか、言わないから、よく、きいててね」


 途切れる言葉を紡いで。結んで。繋ぎ合わせて。

 ユキは、まっすぐオレの目を見つめて、言った。



「わたしは、コウと、生きたい」



 ユキの想いが胸のいちばん深いところまで行き届く。


「この先……何年でも、何十年でも、コウと一緒に、生きていきたい」


 ユキの赤い髪が、青い瞳が、ユキから昇っていく水泡のひとつひとつが――このうえなく愛おしく思えた。


「……だから、コウ……わたしと――」


 いつの間にか、オレはユキの唇にキスをしていた。

 唇を離すと、ユキはオレとの間に丸めた手をもってきて視線を外した。

 それからもう一度オレのほうを見て、泳ぎそうになる目を向けて、言った。



「わたしと、結婚してほしいな」

「ああ」



 そこに、言葉はもういらなかった。


 この病室には今、オレとユキしかいなくて、二人の「結婚行進曲」が流れていたから。


 だから。その日あったことは全部二人だけの秘密にして、言葉よりもたしかな想いの中でたくさんの誓いを立てたあと、オレたちは互いに手を繋いだまま朝まで眠った。

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