飛行機人間

安良巻祐介

ヒコウキニンゲン

「じゃあ、見たんだ?」

「うん。青い翼をこう、カッコよく広げて、真っ白いプロペラで風を切ってさ」

 放課後の校舎の廊下で、砕けたガラス片を踏みながら、僕と友人とは、そんな話をしていた。

 防空カバーの張り巡らされた窓の外の校庭では、沼に呑まれた樹が、傾いだ歪な影をこちらへ投げかけていて、あらかた溶けて錆び切った鉄棒や雲梯のたぐいが、うろこ状になった醜い姿を空に向けて晒している。

 ボーン…ボーン…と、遠くで、正午を告げるチャイムが弱々しく鳴った。

 汚染侵食の進み切ったこの地域でも、昼は来るし、僕たちは学校へ通うのだ。

「翼には、火の丸も書いてあっただろ?」

「真っ赤なのがね。かっこよかったなあ」

「かっこいいよなあ」

 僕たちが話しているのは、ここのところ、屋上で見られるという、「飛行機男」についてだった。

 それは、非正規の飛行機械に体を任せ、この街の汚染された空をまるで恐れずに飛び回っている不思議な人物で、最初はただの都市伝説かと思われていた。

 しかし、やがて目撃者が多く出て、どうやら本当に、そんな無謀で酔狂な男がいるらしい、と、或いは呆れられ、或いは憧憬の目で見られるようになっていった。

 特に、僕たち学生の間では、彼はヒーローだった。

 汚染と腐敗侵食に晒され続ける日々の泥濘のような諦めと怠惰の中にあって、雲が晴れてさえムラサキ色の毒々しい色になってしまったあの空を、己が翼で切り裂いて飛んで行く飛行機男の姿は、たとえ命を縮める行為だとしても、いや、或いはそれだからこそ、ある種の神話的人物のように感ぜられたのだ。

 今では、禁止時間にひそかに抜け出して、定期的な彼の観察を行うグループもあるほどだった。

「俺、見たときは手を振ったよ。上からじゃ見えてなんかいないだろうけど、それでもさ」

 興奮して喋る友人を見ながら、僕は、やっぱり今日やろう、と決めた。

 右手を入れたポケットの中には、ゴトリと硬い重みがある。父の書斎跡で見つけた、今では値打ちものの、旧時代の双眼スコープだ。もし持って来ているのが見つかったら、盗まれるか奪われるかは確実だ。或いは、教師にでも見咎められれば、一週間の懲罰認定を受けた上で没収されるだろう。

 そういう危険を冒しても、僕はこれで、飛行機男の姿を見ようと思った。前に見た時には、その姿は、あくまで小さな鳥のようにしか見えなかったからだ。

 勇者の姿に、もっと近づいてみたい。そんな思いがあった。

 放課後、帰宅するという友人を見送ってから、僕は、あらかじめ観察しておいた教室や廊下に居残っている学生たちの動向に間違いがないかを確認してから、経年劣化でほぼザルになっている単眼ドロイドの監視員の目を盗んで、屋上でなく、通信塔のある棟への扉に入りこんだ。

 埃や塵だらけの薄暗い階段を上りながら、重たいスコープのベルトを掴む。

 時刻は間違いないはずだ。屋上には今も、何人かの学生たちが上がって、飛行機男を待っているに違いない。

 しかし、他の目がある場所でスコープを使うわけにはいかない。

 そこで目をつけたのが、汚染によって故障、腐蝕してから使われなくなり放置された「通信塔」のあるスペースだ。

 そこもまた、屋上に次ぐ高さと見晴らしのよさを誇っているが、何分手狭なのと、残留した汚染素が濃いこと等から、忌避されて人は寄りつかなかった。

 僕はもう片方の懐に入れた漂泊濾過マスクを掴みだし、薄闇の中で顔に巻いた。これは物資室から盗み出したものだ。あまり長いこと付けていると呼吸困難になるが、少しの間なら大丈夫だ。それに、顔を隠すこともできる。

 スコープを片手に、出口の扉を開く。

 酸っぱいような、苦いような空気がむっと鼻、口を突く。埃の味もする。マスクが息苦しい。

 それでも、頭の上には、空が広がっていた。

 瓦礫が散らばっているのを強引に押しのけ、崩れた通信塔の側に立つ。足元を、畸形化した虫らしい小さな影が素早く逃げていく。

 防空カバーに阻まれていない、腐ったうす墨を流したような空を見上げていると、右手の屋上のほうから、抑えた歓声が聞こえてきた。

 来た。

 顔を上げると同時に、それは、ムラサキの空間に、小さな機影を見せた。

 かつての空の色のような、二対の鋼の翼。

 澱んだ空を切り裂く、真っ白なプロペラの回転。

 そして、その真ん中にいて、両手を大きく広げている、銀色の男の姿。

 天を横切ってゆくその姿に、僕はしばらく、息苦しさも忘れたまま、見惚れてしまっていた。

 しかし、手に持ったものの重みに、はっと当初の目的を思い出し、慌ててそれを取り上げる。ここを逃してはいけない。僕は、彼の顔を目に焼きつけるのだ。

 スコープの筒を、マスクの両目にあたる硝子遮蔽幕に押しつけ、ツメで固定してから、目盛りを一杯まで回す。

 そして、空へと、レンズを向けた。

 視界一杯に、空の色が入りこんでくる。

 赤と青の粒子が泡のように毒々しく弾けあい、混じり合って、あの腐った色を作り出しているのが分かる。それはまるで、脳に爛れを作るような、視覚に嘔吐感を催させるような、遺伝子レベルでの、忌避の色だ。

 僕は、目を刺すようなその色彩の中で、救いを求めるように、必死に、男の姿を捜した。

 その時、振り回すスコープの端に、青い翼が一瞬掠め通った。

 僕は、角度補正と追跡カーソルを最大にしながら、それに追いすがる。

 ――捉えた。

 スコープを上向けたまま、僕は、「飛行機男」の姿を、初めてはっきりと、真正面から見た。

 拡大された青い翼は、思っていたほど綺麗な色ではなかった。くすんだ蒼灰色で、ところどころ継ぎ接ぎになっており、そこに書かれているのは、火の丸ではなく、血を吸った虫が渦を巻いたような紋様だった。

 プロペラは形が奇妙に歪んでおり、単回転ではなく、それは実際のところ、推進には何の役も果たしていないらしい。

 そして、真ん中の男を見た時、僕はマスクの中で、くぐもった悲鳴をあげた。

 男には、顔がなかった。

 白いかたまりに真っ黒い虫食い穴がぶつぶつと散らばった、大福のような、目鼻口のない頭がだらしなく垂れていて、その下、銀色に塗りたくられた身体が、機体に括りつけられ――大きく広げられた両手は、半分ほど溶け、翼と一体化している。

 ――人間じゃない。

 磔にされた人型の芋虫のようなそれは、僕の夢見ていた勇者の正体は、細かく蠢きながら、やがて、まだら模様の幾つかから、空と同じ色の、腐った液を垂らして、下へ、僕たちの学校へと、ぼたぼたと巻き散らかした。

 視界が、吐き気と激烈な頭痛と共に、ぐるりと裏返った。

 知らぬ間に歯を食いしばっていたせいで、マスクの濾過装置を噛み砕いてしまったらしい。

 汚染大気が流れ込んできて、のけぞった視界が、あっという間に血の色に染まる。

 向こうで、感極まった学生たちの歓声が大きくなるのが、ひどく遠く、反響して聞こえていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

飛行機人間 安良巻祐介 @aramaki88

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ