もし生まれ変わるならば――という芥川龍之介の短文を読んでいたら、自分は馬や牛を手始めに、生まれ変わるたび、どんどん悪いことをして罪を重ね、より下等なものへの転生を繰り返され、バクテリヤを経て最後には何にされるものか、一つ試してみたい……などと書いてあった。
バクテリヤより極小の、より純粋でより単純なものの、さらにまたその先にあるもの、それを考えることもかなりの怖さだけれど、僕がはっとしたのは、転生とか流転とかの行く先を決定付けるものについての、「神だか仏だか知らないけれども、兎に角、さう云ふもの……」という、はぐらかすようなくだりだった。
この濁された言葉の中にある、直視してはならないもの、生き物というよりも一個の自然であり、機構であって、現象である、そのような超越者の、原形的な恐怖。
それに神さまやら仏さまやらの顔かたちや蠢く手足を与えて、何かしら、かりそめの輪郭で以て認識しているだけで、実際にそれそのものを見ようとすると、不気味なまでに無意味なものにぶつかるのだろうと思う。永遠に誰も立ち入れぬ洞穴の奥で、滴る雫が岩に人の顔を穿つような、そんなものに。
そう考えると、いつまでもしみじみと、染み入るように恐ろしくなってくる気がする。