第4話 ファック・オフ
名刺を見つけられなかったこと。
あいつに犯されそうになったこと。
お母さんに殴られたこと。
——ここまで育ててやった恩を仇で返すつもり?
ヒステリックに放たれた言葉と、鋭い視線。他の誰でもない、あたしに向けられたものだ。あたしの言い分を聞こうともせず、あいつの言葉を信じた。
そう思ったら、だんだん腹が立ってきた。
「育ててやった恩」だなんて。親らしいことなんか、何ひとつしてくれなかったくせに。
いつだってあたしのことを邪魔者扱いして、家から追い払ったくせに。
左頬が痛い。レイプされかけたことなんかよりも、ずっと。
悔しくて、情けなくて、景色が滲む。
泣くな。泣いたら余計、惨めになる。
ふと、立ち止まる。がりがりに痩せ細った野良猫が一匹、あたしを見てにゃあと鳴いた。
早く大人になりたかった。
誰かの世話にならなくたって、独りで生きていけるようになりたかった。
だけど今のあたしには、そんな力なんてどこにもなかった。
何人の男と寝ようとも、ひと晩で何万稼ごうとも、あたしはただの子供だった。
ただの子供が独りで放り出されて、どうやって生きていけばいいのだろう。
学校には行けない。帰る家だって失くしてしまった。泊めてくれる友達なんて、もちろんいない。
あたしの居場所は、この世界のどこにもなかった。
雁字搦めに縛られた、鏡に映ったあたしの姿。虚ろな目をして、もう少しも動けない。
ねぇあんた、生きてんの? 死んでんの?
そう自分に問いかける。
イメージの中のあたしは心底疲れた顔をして、こう答えた。
——もう、いいんじゃない? こんな人生、終わっちゃっても。
いつの間にか、猫はいなくなっていた。あたしは再び、ふらふらと歩き出した。
学校に戻ったのは、他に適当な場所を思い付かなかったからだ。
苦しまず一瞬で確実に死ぬなら飛び降りがいいだろうと考えたのと、どうせなら最後の最後で学校や親に大迷惑を掛けてやろうと思ったのだ。
まだ三時限目の授業中で、校舎は静かだった。昇降口にも廊下にも人の姿はなくて、あたしは誰にも気付かれずに屋上へと続く階段を上っていくことができた。
しんと静まり返った空気を切り裂くように、授業終了のチャイムが鳴り響く。ただでさえそわそわしていた心臓が、思い切り跳ね上がった。ひとつ息を吐いて、ドアノブに手を掛ける。
スチール製の扉を開けると、風が抜けてぶわりと髪を煽られた。視界の端で何かが動く。何気なくそちらに目をやって、どきりとした。
フェンスの向こうに、人が立っていたのだ。
小柄な体格。カラーリングしていない黒髪と長めのスカートが、風に
「……委員長?」
あたしが呟くと、委員長はびくりと振り返って、驚いたように目を見張った。
「さ、桜井さん?」
「何してんの、委員長……」
委員長は一瞬泣きそうな顔をした。その頬がかぁっと赤くなっていく。
突然のことに、あたしはその場に立ち尽くしていた。
よく見ると、委員長の脚はがくがく震えている。時おり強い風が吹き付けてきて、その細い身体は今にも飛ばされてしまいそうだ。
あたしはゆっくりとフェンスのほうへ近づいていく。
「あの、委員長さ……とりあえずこっち戻ってきなよ」
委員長が強張った顔でこくりと
どうにか上まで辿り着き、慎重にフェンスを跨いでこちら側に来た委員長は、少しほっとした表情になった。一歩一歩を確かめながらゆっくり降りてきて、やっとで地面に足を着けると、崩れ落ちるように
あたしはその側にしゃがみ込む。
「ねぇ、大丈夫?」
「だ……大丈夫」
そう言って、委員長はちょっとだけ身を起こす。その顔は真っ青だった。
「いったいどうしたの? いきなりあんなこと」
「うん……」
委員長は、口元を小さく歪めて、笑った。
「何かもう、嫌になっちゃって」
「……あいつらのこと?」
委員長は一瞬頷きかけて、だけど首を横に振った。重い黒髪がふるふると揺れる。
「私ずっと、独りになるのが怖くって……馬鹿にされてるの知ってたけど、独りになるのが怖くって」
「うん……」
教室での委員長の様子を思い出す。どう見たって気の合わない連中の輪に入って、無理して笑顔を作っていた委員長を。
「私、桜井さんに謝らなきゃいけないことがあるの……」
「何?」
「……あの写真」
ちらりと、遠慮がちな視線があたしに向けられる。
「あそこに貼ったの、私なの」
「え?」
「貼れって言われて、逆らえなくって……ごめんなさい」
委員長が頭を下げる。
「それでもう……嫌になっちゃって」
そして俯いた姿勢のまま、さめざめと泣き始めた。
今朝、委員長が気まずそうに目を逸らしたのは、そういうことだったのだ。胸の中に、どうにもやりきれないもやもやしたものが渦巻き始める。
元はと言えば、あの写真が教室に貼り出されていたからこそ、名刺を探しに家に戻ったのだ。それさえなければ、あたしはいつも通り適当に授業を受けて、またあの家に帰れたに違いなかった。
あいつに襲われて、お母さんに勘当されて、こんな風にどこにも居場所がなくなるなんてこともなかっただろう。
だけど委員長も好きでやったわけじゃないし、それでなくても別の誰かがやったかもしれない。
それに、今にも飛び降りようとしていた姿を見た後では、とてもじゃないけど委員長を責めることはできなかった。
委員長は首をもたげたまま、「ごめんなさい、ごめんなさい」と小さな声で何度も呟いている。
あたしは溜め息をついた。
「あのさ、もういいよ、そのことは」
委員長が少し顔を上げ、上目遣いにじっと見てくる。その瞳からは、大粒の涙がぽろぽろと零れている。あたしはなんとなく視線をずらした。
「それよりもさ、もうあいつらとつるむのやめなよ。委員長、辛いだけでしょ?」
「うん……」
休み時間のざわめきが風に乗って聞こえてくる。あの騒がしい教室が、なんだか遠い世界のように思えた。
委員長が、すん、と洟をすする。
「なんか、ごめんね。桜井さんの前で、こんなこと……」
そして、たっぷり涙に濡れた目であたしのことを見つめながら、こう言った。
「私なんかより桜井さんのほうが、もっとずっと辛くて可哀そうなのにね」
その時、予鈴が鳴った。屋上で聞くチャイムの音は、やけに間延びしている。
委員長はごしごし目元をこすると、おもむろに立ち上がった。
「私、そろそろ行かなくっちゃ」
長いスカートのひだを整えて、あたしに向き直る。
「ごめんね、桜井さん。いろいろありがとう」
淡い微笑を残して、委員長は去っていった。軽い足音が遠ざかっていく。背後でスチールの扉が、ばたんと閉まる。
あたしはその場に凍り付き、しばらく呆然と座り込んでいた。
ひゅるりと風が吹き抜けていく。
「はは……」
独りでに、乾いた笑いが漏れた。
母子家庭で育って、母親は娘より男が大事。
友達もおらず、教室でもいつも独りきり。
しょっちゅう学校をサボっては身体を売って、金さえ積まれりゃ何でもする。
誰だって、あたしのようにはなりたくないだろう。
それは自分でも分かっている。
だけど――
恐る恐る差し出されたノート。
みんながあたしに注目する中、そっと逸らされた視線。
ぽろぽろ零れた涙と、去り際に残された清々しさすら感じる微笑。
ねぇ、あたしはそんなに可哀そうか?
「ははは……」
さぞかし慰めになったことだろう。
「ははははは!」
狂ったような笑い声が、誰もいない屋上に響き渡る。
あぁ、可笑しくて堪らない。
本鈴が鳴る。呆れるほど間の抜けたチャイムだった。
あたしはすぅっと笑みを消す。
仰ぎ見た空は、わざとらしいほどすっきりと晴れ渡っている。
ふざけるなよ。
コンクリートに強く手をついて、あたしは勢いよく立ち上がった。
あたしはその馬鹿みたいに透き通った青色を目一杯睨み付けながら、吐き捨てるように言った。
「クソッタレ」
―了―
不幸自慢 陽澄すずめ @cool_apple_moon
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