第3話 ドロップ・アウト
それから三週間くらい経ったある日のこと。
その日はまた二日ぶりの登校で、相変わらず校舎じゅうに漂う香水の匂いにうんざりしながら、あたしは自分のクラスへと向かっていった。
教室に入る前から、なんとなく違和感はあった。
なぜなら、妙に静かだったからだ。普段はバカ騒ぎしているあの集団の声すら聞こえなかった。
がらりとドアを開けると、あたしが登校してきたことに気付いたクラスメイトたちが、はっとしたように息を飲んだのが分かった。そしてみんな、ちらちらとこちらを気にしている。
なんだか感じが悪い。
もやもやしつつも、素知らぬふりで自分の席へと移動する。椅子に腰を下ろして、鞄を机の横に掛ける。
そして顔を上げた、その瞬間。
信じられないものが視界に飛び込んできた。
黒板に貼られた、一枚の写真。
A4サイズでプリントされたそれには、亀甲縛りされた女子高生の姿が写っていた。
顔はぼかされているけど、間違いなくうちの高校の制服だ。
顔はぼかされているけど――間違いなく、あたしだ。
驚いて、思わず立ち上がる。椅子の脚が床を引きずって、がたんと大きな音がした。
改めて教室じゅうを眺め渡す。
この場にいる全員が、あたしに注目している。あたしの反応を、窺っている。
その中には委員長もいた。委員長はあたしと目が合うと、気まずそうに顔を背けた。
かぁっと頬が赤くなったのが自分でもわかった。心臓がきゅっと縮まって、冷や汗が吹き出す。
いったいどうして、あの写真が?
むせ返る香水の匂い、凍り付いたような静けさ、クラスメイトたちの容赦ない視線。それら全部があたしを取り囲んで、じわりじわりと責めてくる。
居ても立ってもいられなかった。
気付けばあたしは、鞄を引っ掴んで教室から逃げ出していた。
階段を駆け下り、素早く靴を履き替える。昇降口を出て、校門を抜ける。角を曲がって校舎が見えなくなったところで、ようやく足を止めた。
呼吸が苦しい。伸ばした膝に手をついて、荒く肩で息をする。
あの写真。
顔にぼかし加工がしてあったから、たぶん誰かがネットから拾ってきたものだろう。
三週間前にあたしを買った、あのサラリーマン風の男。スマホのフォトフォルダには顔写真がばっちり残してあった。
あんなマニアックなプレイを要求してくるような変態だったから、ネットに写真を載せたのかもしれない。
あいつとやりとりしたのは、いつものSNSだった。だけどそのログからでは、どこにあたしの写真がアップされているのか手掛かりはない。当てずっぽうで検索したところで、それらしきページに行き着くはずもなかった。
気ばかりが焦って、苛立ちが募る。あたしはスマホを鞄に仕舞って、大きく息を吐いた。
そうだ。あの時、名刺をもらっていたのだ。
素性が分かったところでどうすべきなのか、何か考えがあったわけではない。だけどあたしは、何でもいいからどうにかしなければと、パニックになっていた。
男たちの名刺は全て家に置いてあった。とにかく早く、家に戻らなきゃ。あたしは再び走り出した。
朝のラッシュが終わって空いている車内。席に座る気にもなれなくて、ドアの前にそわそわしながら立っていた。
のろのろ走る電車が地元の駅に着くや、あたしはドアから飛び出してダッシュした。
改札をさっと通り、階段を一段抜かしで下っていく。駐輪場に停めてあった自転車のハンドルに鞄がぶつかって何台かがドミノ倒しになったけど、気にしてなんかいられない。
見慣れた街並みの中を脇目も振らずに走り抜けて、あたしはボロアパートに辿り着いた。
カンカンと激しく足音を響かせて階段を駆け上がりながら、鞄から鍵を取り出す。
玄関は施錠されていなかった。だけどあたしはそのことに注意を払う暇もなく、勢いよくドアを開けた。
三和土には、薄汚れたスニーカーが一足。
それだけだった。
「何だ、理華か?」
あの男が奥から顔を見せる。
「てっきり直美が早々に負けて帰ってきたのかと思ったぜ」
どうやらお母さんは朝からパチ屋にでも行っているらしい。それで、どうしてこいつがうちで留守番しているのか。
何にしても、今、家の中にはこの男しかいないということだ。まずいタイミングで帰ってきてしまった。でも、もうどうしようもない。
あたしは無言のまま、靴を脱いで家に上がった。男の横を素通りして、奥の部屋へ進む。
確か、鏡台の物入れに仕舞い込んでいたはずだ。滑りの悪い引き出しを開けて中を探っていると、男がまた声をかけてきた。
「お前、学校は? 何か忘れもんか?」
無視。引き出しの中はごちゃごちゃしていて、目的のものはなかなか見つからない。
「おい、理華?」
無視。
「なぁ、聞いてんのか?」
大きな手が、肩に触れる。その瞬間に背筋がぞっとして、あたしは咄嗟にその手を振り払った。
「……触んないで」
ぼそりとそう言って、名刺探しを続ける。早く、早く。
「なぁ、理華お前……」
また、しつこく声がかかる。
「知ってんぞ。学校サボって、エンコーしてんだろ?」
びくりとして、振り返る。すると男が腕組みをして立っていた。
嫌らしい視線が、あたしの身体を舐め回している。
「は? 何言ってんの? そんなわけないじゃん」
あたしはそう吐き捨てて、無理やり笑顔を作る。脇の下を冷たい汗が伝っていく。
男はにやりと口元を歪めて、鼻を鳴らした。
「小遣い足んねぇなら、俺がやろうか?」
「……あたし、もう行かなきゃ。急いでるから」
名刺はまだ見つかっていないけど、今すぐここから立ち去ったほうがいい。頭の中で激しく警鐘が鳴っていた。
男を避けて、一歩を踏み出す。だけどその時、強く腕を掴まれてしまった。
「待てよ」
「イヤ!」
振り解こうとしたけど、逃がれられない。あたしは反対側の手に持った鞄を、目一杯の力で相手にぶつけた。
「痛って……何しやがる!」
あたしは突き飛ばされて、壁に背中を打ち付けた。
咳込みながらどうにか身を起こすと、男があたしを見下ろして立ちはだかっていた。その顔からは、にやにやした笑みが消えている。
「前から思ってたけどよ、お前ちょっと生意気だよな。いつも馬鹿にしたような目で俺のこと見やがって」
低く、ドスのきいた声。見開かれた目は血走っている。
――怖い。
「お前みたいなガキにゃ、一回思い知らせてやる必要があるな」
言うなり、男があたしに圧し掛かってくる。逃げる間もなく、大きな身体の下に組み敷かれてしまった。
両腕を捻り上げられ、頭の上で拘束される。暴れようとしても、男の力は圧倒的に強い。腰のあたりに乗られているので、もう全く身動きが取れない。
「や、やめて……」
大声で叫びたかった。思い切り罵りたかった。だけど代わりに出たのは、か細い懇願の声だった。
男が、口元を歪めて笑う。
次の瞬間、ブラウスのボタンが引き千切られていた。
にわかに自由になった手で男の身体を押し退けようと必死に
――ちくしょう。ちくしょう……!
下着を捲り上げられ、ごつごつした手で素肌を撫で回される。乱暴に胸を揉みしだかれて、思わず呻き声が漏れた。
「何だよ、けっこう育ってるじゃねぇか」
煙草臭い息が顔に掛かる。荒れた唇のすき間から、ヤニで黄ばんだ歯が覗く。上半身を押し潰すように覆い被さられて、呼吸が止まりそうになった。
男の手があたしの太ももを這い上がり、ショーツの中に太い指が入ってくる。めちゃくちゃに蹴り上げた脚は、虚しく宙を切った。
――嫌だ、嫌だ、助けて……お母さん!
その時だった。
「ちょっと、何やってんのよあんたたち!」
お母さんの声。男の動きがぴたりと止まる。
その隙に相手の身体の下から抜け出して距離を取り、ボタンの飛んだブラウスを掻き合わせた。
「直美……何だよ、早かったな」
「何だじゃないわよ。当たりが悪かったからさっさと帰ってきてみれば」
お母さんが、あたしと男を交互に睨みつける。
「お母さ――」
「いや、違うんだよ直美。こいつがさ、小遣いくれとか言ってきやがってさ」
男の言葉に、あたしは思わず目を見開く。
「こんな制服姿ですり寄ってくるから……参ったぜ」
へへ、と男が笑う。
お母さんの鋭い視線があたしに突き刺さった。厚化粧の顔が怒りに歪み、見る見るうちに赤く染まっていく。
「ち、ちが――」
「理華ぁ……!」
真っ赤なネイルをした手が、高く振り上げられる。
その直後、耳元でばちんという音が鳴った。左頬に激しい痛みが走る。あたしはその衝撃で床に崩れ落ちた。
「あんたって子はぁ……ここまで育ててやった恩を仇で返すつもり? この、薄汚い
お母さんが唇を震わせながら、あたしを見下ろしている。
あたしは倒れ込んだ姿勢のまま、動くことも言い返すこともできずに、その鬼のような形相をただ茫然と眺めていた。
「あんたなんか、あたしの娘じゃないよ! この恥知らずが! とっととこの家から出てけ!」
髪を掴まれ、玄関の方へと引きずられていく。乱暴に三和土へ放り落とされ、背中に蹴りまで食らった。
「消えな! 二度とあたしの前に顔を見せるんじゃないよ!」
最後に思い切り鞄を投げ付けられて、あたしは家から追い出された。
その後もしばらく、ぼうっとしたまま家の前に
扉の向こうからは二人の言い争う声が聞こえてくる。だけどそれはやがて、甘い嬌声に変わっていった。
あたしはようやく身を起こし、いつもは開けっ放しにしているブレザーの前を留めた。ぐしゃぐしゃに乱れた髪も手で梳いて整え、よろよろと立ち上がる。そしてゆっくりと、錆び付いた階段を下っていった。
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