第2話 イージー・ゴー
珍しいことに、その次の日もあたしは学校に行った。
さすがにネタが尽きたのか、クラスメイトの視線や話し声は昨日ほど気にならなかった。むせ返る香水の匂いやざわめきの中に、あたしもうまく紛れ込めているような感じがした。
休み時間になんとなく教室の様子を眺めていたら、あの派手な集団の中に委員長がいるのが目に入った。
机の上に座りながら馬鹿みたいな大声で喋っては面白くもない話題で爆笑するあいつらに交じって、委員長は引きつった顔で相槌を打ったり笑い声を合わせたりしている。
見ているこちらが辛くなってくるぐらいだ。ノートのお礼を言う隙はなさそうだった。
鐘が鳴り、先生が教室に入ってきて、おしゃべりしていたクラスメイトたちが自分の席に着く。委員長が解放されたので、あたしもなぜかほっとした気分になって前を向いた。
授業が始まる。教科書も何もないけど、昨日もらったノートを広げてみる。もちろん内容はあまり理解できないけど、少しだけまともな高校生に戻れた気がした。
その日のお昼休み、トイレの個室に入っている時だった。
「ねぇ、珍しくね? 桜井のやつ」
「あー確かに。二日連続でいるとか、今まであんまりなかったもんね」
個室の外から響く声。突然名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
どうやらあの集団のうちの二人が、あたしがここにいることを知らずに喋っているようだ。
「昨日のあいつ、ちょっとヤバい感じだったよね? 目つきとか」
「なんかヤバいもんやってんじゃね? クスリ的なやつとかさ」
「や、違うって。桜井はさー」
「売りっしょ? それってガチなわけ?」
人知れず、ぎくりとする。
「マジって話だよー。おっさんとラブホ入るとこ、誰か見たって言ってなかったっけ」
「おっさんは引くわ。ガチの公衆トイレなんだ」
「母子家庭なんでしょ? 桜井んちって」
「母親は夜の仕事らしいじゃん」
「親子で身売りとかエグいな」
そんなこと、あんたらに関係ないだろ。さすがに腹が立ってきた。今ここから出ていってやろうか。
「そう言や、昨日の委員長の」
「あー、ノートね」
思わず、ドアノブに掛けた手を止めた。
「委員長ヤバいよね。『桜井学校来てないからノートとか取ってやったら?』っつったら、ほんとに二人分取ってんの」
「ねぇ、桜井が今日も学校来てんの、委員長にノートもらったからとかだったりしたら相当ウケるよね」
「ヤバい。超ウケる」
トイレの中に爆笑が響く。
くぐもった音で予鈴が鳴った。二人の喚き声がだんだん遠ざかっていく。
胸の奥が、すぅっと冷えた気がした。
ドアノブから手を離して、小さく息を吐く。
なんだ、そういうことだったんだ。あのノートは、委員長が親切でやってくれたことじゃなかったんだ。
別に期待していたつもりもなかったのに、想像以上にがっかりしている自分にびっくりした。あのノートを広げて、まともな高校生みたいに授業を受けていたことが馬鹿みたいに思えてくる。
急にまた、何もかもがどうでもいいような気分になった。
あたしはトイレを出て教室に戻り、自分の席から鞄を取って、そのまま学校を後にした。
適当にぶらついて時間を潰し、それにも飽きたので家に帰ることにした。
帰りの電車に揺られながら、おしゃべりに夢中になっている同世代の女の子たちをそれとなく眺める。
どこにでもいる普通の女子高生たち。だけどあたしは、そんな当たり前の『普通』にすらなれない。
どうしたって周りから浮いてしまうから、初めからそんなものは諦めていたはずだと改めて思い直す。
これでいい。これがあたしだ。一人の方が気楽なのだ。
電車を降りて、寂れた景色の中を歩いていく。ボロアパートが見えてきて、また少し足取りが重くなった。
崩れそうな階段を上がり、そうっと玄関を開ける。
いつも
みぞおちの辺りから嫌なもやもやが溢れてくる。今日はお母さんが休みの日だったらしい。
気付かれないうちにそのまま出ていこうとしたら、野太い声に呼び止められた。
「おう、何だ、
そう言って顔を出したのは、年甲斐もなく脱色した金髪に浅黒い肌をした、ガテン系の大柄な男だった。咥え煙草をして、おなじみの趣味の悪い金ネックレスにTシャツ、下はトランクス一枚という姿だ。
呼び捨てされたことにカチンと来て、あたしはそいつを軽く睨んだ。
奥の部屋からお母さんの声がする。
「なぁにー? 理華ぁ? あんた、学校はどうしたの」
間延びしたような言い方は、ちょっとイラついているみたいだった。
「……体調悪いから早退した」
ぽつりとそう返すと、男が煙草を外して深く長く煙を吐いた。そしてあたしの身体を舐め回すように眺めながら、口を開く。
「何だよ、どっか悪いんか? ん?」
ねっとりした声、キツいヤニの臭い、絡み付くような視線。
虫唾が走る。
「早退って、あんた昨日も早く帰ってきてたでしょ? 授業料払ってんだから、ちゃんと高校くらい出てくんないと困るんだけど」
トゲのある言葉。半開きになったふすまの隙間から、スリップ一枚で布団から身を起こしたお母さんが見えた。
どうやらあたしは、二人がこれからおっ始めようとしていたところに、タイミング悪く帰ってきてしまったらしい。
「体調悪いんなら、その辺に横んなっとけよ」
男はそう言って、もう一度煙草を咥えた。
お母さんが鋭い目であたしを睨んでいる。
「……いい。また出掛けるから」
それ以上何か言われる前に、あたしはさっさと家を出た。
こういうことは、今までにもしょっちゅうあった。あたしが小さい頃からずっと。
男が変わっても、お母さんが相手を家に連れ込んであたしを邪魔者扱いするのは変わらない。
今回の男とは、いつまで保つだろうか。あたしのことを見る目つきが嫌らしいし、あの家で我が物顔をしているのも気に食わない。
だいたい、どうしてあたしが出ていかなきゃいけないのか。あそこはあたしの家なのに。
イライラしたまま、さっき歩いてきた道を逆戻りしていく。
今日はあいつが泊まっていくかもしれないから、駅前のネットカフェかどこかでひと晩やり過ごそう。シャワーもあるし、下着なんかは買えばいい。幸いなことに、おととい稼いだばかりだから、金にはまだ余裕がある。
そう思ったら、ちょっとだけ気分が落ち着いた。
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