不幸自慢
陽澄すずめ
第1話 モーニング・アフター
ねぇあんた、生きてんの? 死んでんの?
天井の鏡に映る自分に、そう問いかける。
制服姿で縛られて、ベッドに身を投げ出したあたし。これ、何て言うんだっけ? 亀甲縛り?
「い、痛くない?」
横からおどおどした声がかかる。
気が弱そうなサラリーマン風の痩せた男。根性のない髪が汗で広めの額に張り付いている。年齢はよく分からないけど、意外と若いのかもしれない。
「うん、まぁ痛くないけど」
そう答えると、男はほっとしたような顔をする。だけど分厚いメガネの奥の目は既に血走っていて、息も荒い。
制服の上から縛るなんて、ちょっとマニアックな感じだ。ちなみに事前の指示で、下着は先に外した。だから今は素肌の上に直接ブラウスを着ている状態だった。
なんとも気持ち悪いこだわりだ。追加料金三万円とは言え、緊縛プレイを許可したことを、あたしは少しだけ後悔していた。
「始める前に確認だけど……水とか掛けていいかな?」
「……どうぞ」
「しゃ、写真は撮っていい?」
「一万。動画は三万。プラスこっちも顔写真撮らせてもらいたいのと、名刺ももらう」
「……あ、あと、本当に生で挿れてもいいの?」
「それはまた別で二万。ゴム着けるんなら追加はいらないけど」
この辺りはお決まりのトークだ。相場がいくらか知らないけど、お客が妥協できるかどうかの微妙なラインで料金を決めた。
男はうんうんと頷いて、口元に気色の悪い笑みを浮かべる。
「す、すごいな……本当にお金出せば何でもやらせてくれるんだ」
「何でもってわけじゃないけど」
「じゃあとりあえず、写真と生ハメお願いします。ちょっと水持ってくるから待っててね」
男はさっそくユニットバスに向かっていった。あたしは小さく息をついて、目だけで辺りを見回す。
薄汚れた、ダサいピンク色の壁紙。水が出るだけの、最低限の流し台。小さなガラステーブル。コトを済ますためだけの、いかにも安っぽい部屋だ。
建て付けの悪いユニットバスの扉がキィっと音を立てて開いたので、あたしは視線を天井に戻す。
男が水を張った洗面器を手にして戻ってきた。
「それじゃあ行くよ」
言うなり、水が掛けられる。
「やっ……冷たっ……!」
思わず身を仰け反らせたけど、縛られているおかげでろくに身動きが取れない。濡れたブラウスが肌にぺっとり張り付く。反応で硬くなった乳首が布地を押しているのが、自分でも分かる。
あたしのリアクションに、男はひひ、と不気味な笑い声を漏らした。
「そ、そうだ、カメラカメラ……」
男が鞄を探っている間、あたしは真上に映る自分の姿をぼんやり眺めていた。
濡れたせいか、さっきよりも縄が身体に食い込んでいるように見える。髪を乱したあたしは、すっかり諦めた目をしていた。
ねぇあんた、生きてんの? 死んでんの?
もう一度、そう問いかける。
――どうだっていいよ、そんなの。
鏡の中のあたしは投げやりにそう答えて、そっと瞼を閉じた。
■
二日ぶりに来る学校は、相変わらずいろんな香水の匂いが充満していた。さすが、県内最低ランクの女子高というだけのことはある。
脳みそごとガンガン揺さぶられるようなひどい頭痛と、胃からむかむか込み上げてくる吐き気をどうにか堪えながら、あたしは自分の教室へ向かっていく。
この体調不良は、モーニングアフターピルの副作用だ。商売柄、生でされた時のために通販で買い置きしている。お値段はちょっと張るけど、ネットはこんなものも手に入るから便利だ。
ちなみに売りの相手も、いつも専用のSNSで適当に見繕っている。
あたしが教室に入っていくと、それまで動物園のサルみたいに騒いでいた派手な集団が唐突に静かになったのが分かった。そいつらの視線をなんとなく背中に感じつつ、窓際にある自分の席へと移動する。
授業が始まるまでにはまだちょっと時間がある。さっきの集団がこちらをチラ見しながらひそひそ言葉を交わしている。そして次の瞬間には狂ったように笑い声を上げる。
三年になってから、前にも増してまともに授業を受けることが減っていた。出席日数が足りないから来たけど、やっぱり今日もサボれば良かったかもしれない。
頭痛と吐き気、匂いと音とが混ぜこぜになって、ぐるぐる景色を回転させる。
あぁ、気持ち悪い。
「あの、桜井さん……」
突然声をかけられて、あたしははっと顔を上げた。
すると目の前に、小柄で地味な雰囲気の同級生が立っていた。
思わず睨むように見据えてしまったあたしに、その子は怯えたような表情をする。そしておどおどしながら一冊のノートをこちらに差し出してきた。
「桜井さん、いつも休みがちだよね? これ、授業のノート、取っといたから……」
あたしはぽかんとして、その子とノートを見比べた。
名前も知らないクラスメイト。もちろん、喋ったこともないはずだ。
何の前触れもない唐突な親切。これはいったいどういうことなのかと困惑していると、さっきの派手な集団から声が飛んできた。
「ちょっとぉ、委員長!」
委員長と呼ばれたその子が、びくりと身を震わせる。
「委員長ぉ、早く今日の課題見してよー。うちら委員長だけが頼りなんだからさぁ」
ねっとり媚びるような声色に、その取り巻きたちのくすくす笑いが続く。
「は、はいっ」
彼女はあたしの机にノートを置き、慌ててあいつらのほうへ駆けていく。
それでようやく思い出した。
委員長。
今やあだ名になっているその役割を、四月の初めに出席番号が一番だからと無理やり押し付けられて、文句の一つも言えずに俯いていたあの子だ。
その後も体調は最悪で、結局あたしは二時限目の授業が終わったところで勝手に早退した。
さすがに今日は寄り道する元気もなくて、がら空きの電車に揺られながらまっすぐ家へと向かった。
最寄駅からの道をだらだら歩く。やたらと空き地の多い寂れた地区。昼間から一杯ひっかけたおっさんが野良猫たちにエサをやっているのを横目に通り過ぎる。
小さな踏切を渡って、錆びたトタンの壁のボロアパートが見えてくると、あたしの足取りは自然と重くなった。
どうか、来ていませんように。
今にも崩れそうな鉄の階段を上って、できるだけ音がしないようにゆっくりと玄関の鍵を回す。
そうっと扉を押し開くと、コンビニ弁当の殻やラーメンのカップが詰まったゴミ袋に紛れて、ヒールの高いパンプスがばらばらに脱ぎ捨てられているのが見えた。
良かった、今日はあいつ、いないみたいだ。
ゴミを避けながら家に上がる。奥の部屋では、お母さんが毛布に包まって眠っていた。生ゴミと香水と煙草の混ざった臭いが、辺りに漂っている。
お母さんもまだ帰ってきたばかりなのだろう。お勤めから帰ったら一服してすぐに寝るのが、昔からのパターンなのだ。
あたしはほっと息を吐いて、肩に掛けた鞄を適当に投げ置いた。
身体がひどく重い。どうにか制服を脱いで、床に散らばっていたスウェットに着替える。そしてのろのろと奥の部屋へ行き、お母さんの隣の布団に潜り込んだ。
目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。お母さんの姿もない。今、何時なんだろう。
あたしは身体を起こし、腕を伸ばして電気の紐を引いた。数秒経ってやっと蛍光灯が点き、あたしは眩しさに顔をしかめた。
壁の時計は六時半を指している。吐き気はだいぶ良くなったけど、やたらと喉が渇いている。
そういえば、鞄にお茶のペットボトルが入っていたっけ。
あたしはようやく布団から這い出て、鞄の中を探った。
するとペットボトルよりも先に、見慣れない表紙のノートが目に留まる。
今日委員長がくれた、授業のノートだ。
あたしはペットボトルに口を付けながら、表紙をめくってみた。
最初のページには「○月×日 1限 数学」とあって、丁寧な文字でいくつかの公式が書かれている。その何ページか後には日本史、さらにその後には生物。日ごと、授業ごとに分けて、きれいにノートが取ってあった。
あたしが真面目に授業に出ていたのは四月の最初のほうだけだったから、これを見ても何がどこまで進んでいるのかさっぱり分からなかった。そもそも、教科書も行方不明だ。
でも、あれだけクラスの連中に振り回されながらも、委員長はわざわざあたしの分までノートを取ってくれたのだ。あの時は何も反応できなかったけど、お礼の一つでも言えば良かった。
そのノートを、あたしは鞄の中にきちんと仕舞った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます