びっち

 夏休み前の最後の土曜日。

 結局、チャンスを活かしきれずにときは無残にも過ぎていた。

 人間関係の構築は、改めて最初のきっかけが大切なのだと痛感した。早い者は一週間。一ヶ月もあればグループの輪を広げたり、何重にも重ねている者もいるようだ。

 ボクはそんな学生たち横目に、今日もかほりさんを遠くから眺める。

 これはもう、ストーカー呼ばわりされても仕方ない。そう自分でも思える。情けないけど、この不毛な学生生活を充実したものにするには、小さな楽しみを見つけて過ごしていくしかないのだ。開き直り――そう。でも、かほりさんに何一つ迷惑をかけていないのだから、問題はないはず。文芸部内では気をつかってボクに話しかけてくれる人もいるが、毎回上手く返答できずに申し訳ない気持ちになる。それが嫌で、最近は足を運び辛くなってしまった。こうして幽霊部員とは生まれるのだろう。

 毎週同じ時間に同じ定食を買うためか、食堂のおばちゃんに顔を覚えられてしまった。「バイトとしないのかい?」とか色々気をつかって話しかけてくれるのはなんだかんだいって嬉しい。でも陽キャラじゃないから、面白い返答はできない。軽く微笑んで、その場をやり過ごす。

 ボクもお金に困っていたら、人と関わりの少ないアルバイトを探してやっていただろう。しかし実家暮らしで、親から毎月ある程度のお小遣いをもらっている半分ニートに足を突っ込んでいるような生活水準のためか、アルバイトをしようという気持ちになれない。誰かにこの話をすれば羨ましがられるだろう。話す相手はいないのだが。


 マイポジションに座り、いつものようにかほりさんが現れるのを待つ。今日はどんな服装だろうか? ヘアスタイルは? マニキュアの色は? なんて彼女の変化を楽しむことがなによりも至福の時。近くで香りがかげないのが残念。それでもかほりさんの新しい部分を発見するだけでも、なんだが嬉しくなる。

 空腹を満たし終えた頃、いつものようにかほりさんは現れた。

 お、今日は全身ブラックスタイル。短めのスカートが白い肌とのコントラストを生み、流行りのモノトーンコーデといったところだろうか。かほりさんは時々眼鏡をかけているのだが、それもまた良い。今日は、黒いヒールに、レースの入った黒のワンピ。腰付近に細い白のベルトを巻いている。

 かほりさんの今日の昼食はナポリタン。毎週違ったものを注文している。これまで続けて同じメニューを注文したことはなく、数あるメニューの中でも二度注文したメニューもない。ただ、土曜日しか確認していないので、他の曜日に同じメニューを注文しているとは思うけれど。何かの法則があるのかもしれないと考えてはみたが、今はまだ何も考えついていない。毎週決まったメニューであれば、かほりさんの好みも知ることができるのに。


 さて、ここまで自分の中で消化して、相当気持ち悪いと自覚している。でも、心の声が漏れない限り、誰かに知られる心配は無い。想像は自由だし、眺めるだけなら何も問題はないだろう。


「問題よ」


 鋭くとがった氷のナイフの先端で、背中をチョンと突かれたような悪寒が走る。恐る恐る振り返ると、そこにはかほりさんが不気味に微笑みながら立っていた。


「ど、どどどどうしたんで、すか?」


 動揺が隠しきれず、口ごもるボクに対して、かおりさんは言う。


「ちょっと、いい?」


 否定も肯定も許さないような素早さで、かほりさんはボクの腕を掴んだ。力なく引っ張られる。食べ終えた食器やトレー、もちろん鞄などもそのままだ。しかしそんなことは気にならない。今、久しぶりに感じているかほりさんの香りに、ボクは高揚感を覚えていたからだ。

 かほりさんはボクを連れて食道出たかと思うと、まっすぐ女子トイレに向かう。本来ならここでかほりさんが掴む腕を振り解くべき。ボクは男なのだから。女子トイレは流石にマズイ。しかし反面、未知の領域に足を踏み入れるその冒険心もふつふつと湧いていた。

 結局、ボクは女子トイレへと入ってしまう。

 うちの校舎のトイレは人感センサーが付いており、中に人がいなければ自然と灯りは消滅する。ボクらが入った時は真っ暗だったため恐らく誰も入っていない。そして、先を行くかほりさんが中に入った瞬間に灯りが付いた。

 初めて入った女子トイレ。中学生の時に廊下の外からチラッと覗いてしまった時の記憶とはだいぶ違っていた。個室は五箇所。当然、どこの扉も開いている。かほりさんは迷わず一番奥へと進み、ボクと一緒に入ると後ろ手で鍵を閉めた。


 突如背後に現れたかほりさんを見てからここまでの間は、ほんの数秒間。開放感のある食堂とは打って変わって、身動きが取れないほどの窮屈さに頭の整理が追いつかない。でも嫌じゃない。それも当然。目の前には、いつも遠くから眺めていたかほりさんがいるのだから。そしてようやく現状を理解して、ボクの鼓動はパニックを起こす。

 いやいやいや、ちょっと待って。この状況は、いったいどういうことなのか。説明を求めようとしても、声が出ない。かほりさんの顔が近い。香りを堪能するどころじゃなかった。


「ねえ、聞いてもいい?」


 生温い吐息がボクの顔を襲う。ほのかに焦げたケチャップの酸っぱい香りが混ざっている。よく見ると、かほりさんの口元に赤いものが付いていた。

 声の出ないボクは、ただ頷くことしかできない。

 すると、かほりさんは口角を少しだけ上げる。


「わたしのこと。好きなの?」


 しまった。バレていたのか。

 しかし、直接的な接触は避けていたはずなのに。視界に入らないように気をつけていたのに。どうしてバレてしまったのだろう。

 もう、言い訳は効かない。嘘をついて嫌われてしまうのも嫌だ。それなら正直に告白しよう。

 ボクは深く頷く。


「キスする?」

「へ?」


 思わず変な声が出た。

 ……きす?

 ここはトイレの個室。誰もいない。二人だけの世界。このR指定のアニメのような、海外ドラマのような展開は、望んでいない。いや、本当は望んでいたのかもしれない。ああ、自分の感情がわからなくなってきた。


「嫌なの?」


 反応がないボクに対して、かほりさんはゆっくりと距離を詰めてくる。

 かほりさんとの距離は半径一メートル内に収まっている状況。冷静になろうとすればするほど、混乱する。受け入れてしまいたい。でも、本当にそれで良いのか。受け入れてしまえば、かほりさんの噂が本当だったという現実を受け入れてしまうことにもなる。ずっと聞き流していた噂を。

 ――理想の彼女は、ずっと理想のままでいて欲しい。穢れなく、美しいままで。


「あの……かほりさん」


 絞り出した声のおかげで、かほりさんの動きが止まる。


「……なに?」

「ボクからも、聞いても良いですか」

「いいわよ」


 聞いても良いかと言ったはいいものの、何を聞くべきか考えていなかった。

 どうしよう。こんなチャンスは二度と訪れないかもしれない。この場の態度で、かほりさんに嫌われてしまうかもしれない。それだけは避けたい。「気持ち悪いから、二度とわたしのことを見ないで」と言われた日には、大学へ足を運ぶこともなくなってしまうだろう。

 嫌われたくない。でも、かほりさんの真実を知りたい。その二つの欲求を満たすために、ボクが考えついた言葉。ちっぽけな勇気を振り絞って聞いた。


「……かほりさん、ボクと寝てくれますか?」


 恥ずかしさを押し殺し、できる限り目線を合わせないようにかほりさんの胸元を見て言った。

 すると、ボクの視界が急に真っ暗になった。そしてかほりさんの香りに包まれた。

 ああ、そうか。今ボクは、かほりさんに抱きしめられている。

 柔らかな温もりが服の上からも伝わってくる。ボクとかほりさんの鼓動が共鳴しているのだ。

 ボクの両手が宙に浮いていたことに気づき、もうどうにでもなれと思いながらかほりさんの身体を迎え入れようとすると、すっと視界が明るくなった。


「わたしと、永遠を誓えるなら、ミチルくんと寝てもいいわよ」


 永遠を誓う。そんな大それた覚悟。ある訳がない。しかし、今はあるとかないとか関係ない。誓う。その選択肢しか選べないのはわかっていた。


「はい、誓います」


 なんだか結婚式のようだ。そう思っているのはボクだけだろうけど。

 ボクの言葉を聞いて、かほりさんは言う。


「じゃあ、キスする?」


 ファーストキスが女子トイレの中というのは、後世にもあまり語り継ぎたくはないものとなってしまいかねない。しかし、このチャンスを逃せば、ファーストキスは永遠に訪れないかもしれない。

 渦巻く葛藤の中、ボクは小さく頷き瞳を閉じた。

 自ら動くことはできない。もういつでもこい。という受け入れ体制に入る。

 瞳を閉じていてもわかった。かほりさんの気配がだんだんと近づいてくるのが。

 思わず、息を止める。

 大きく深呼吸をした訳じゃないから、息を止めていられる時間はわずか。

 かほりさんの気配を感じているのに、なかなか唇に感触が訪れない。

 苦しい。

 でも、この苦しさは息を止めているからじゃない。

 かほりさんの香りが嗅げないからだ。こんなにも側にいるのに。

 すると、ボクの苦しみを解放するかのようにかおりさんが囁いた。


「……ねえ、わたしの息。臭いでしょ」


 その言葉とともに、ボクの鼻を目がけて息を吐いてきた。

 確かに、ナポリタンが腐ったような臭いがする。

 でも、それを臭いとは言えない。むしろボクにとっては良い香りである。


「そ、そんなことないです」

「嘘。わたし嘘つきは嫌いよ」

「嘘です。ちょっとだけ臭います」


 かほりさんが小さく笑う。その笑みが伝染して、ボクもにやけてしまった。


「完璧な人間なんていないの。みんな、どこかおかしい。そうでしょう?」


 唐突に何を言い出すのか。

 しかし、それでも同意を求められれば、ボクは頷くしかない。


「わたしも。ミチルくんも。でもね、みんな完璧な人間に憧れるの」


 そういうものなのか。と思いつつも、ボクは頷いた。


「ミチルくんなら、わたしを完璧にしてくれるかも」


 それは、どういう意味なのか。頷くのは難しい。

 反応に困っていると、おもむろにかほりさんがボクから離れていく。トイレの扉の鍵を開け、かほりさん扉の外に出た。

 「待って」と声を出せれば、何か変わったのかもしれない。でも、今のボクには、ただただ離れていくかほりさんを見つめることしかできなかった。そして去り際にかほりさんは言った。


「わたし、きまぐれだから。また会えないかもね」

「……えっ」

「あ、それとわたしの名前は、花に折れるって書いて花折かおりよ」


 自分以外誰もいなくなったトイレは、水を打ったような静けさに包み込まれた。しばらくすると、音も無くトイレの灯りが消え闇に包まれる。

 ボクは生まれて初めて、闇の中の孤独を知った。すきま風が首筋を優しく撫でるだけで、全身に痛みが走る。ボクはその場から一歩も動けなかった。

 誰か――誰か助けてください!

 そう叫びたくても、声が出ない。臆病で、ヒトリボッチな人間の声など誰も聞いてはくれないのだ。ボクはこのまま闇に紛れ無色透明のまま死んでいく……。





「ねえ、ここ、女子トイレよ」





 かほりさんの香りは、ボクの鼻を簡単に折ってくれる。

 やっぱり好きだ。

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ボッチとびっち 文目みち @jumonji

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