死世違感-暗黙の領界-
今日もまた、ビルから人が飛び降りた。
通学路を行き交うウナギがトラックに轢かれて蒲焼になると、そこに鳩がたかってつつく。
道端の室外機からは風船が次々と吐き出され、マンホールに吸い込まれていく。
そんないつも通りの風景の中を、学校に向かう学生の一人として僕は歩く。
天気は快晴。時々大仏。
街路樹がスーツを着込んでいるところを見て、冬の訪れを感じる。
当たり前の風景。日常の中のなんてことないひとコマなんだけど。
実は僕、なんとなく違和感があるんです。この世界に。
子供の頃から変な子だと言われてきた。
一方で「感性が鋭い」と言われることもあったけれど、まあこれはレアケース。
なんとなく道路の横に目を向けてみると、先程ビルから飛び降りたサラリーマンらしき男性が立ち上がり、愉快そうに小走りで去っていった。
みんなやってるし、結構ハマってる人も多いみたいだけど、僕はどうも興味が持てなくてやったことがない。
これも僕がズレているからなのか。
この世界が歪んでいるのか。
でも、人間はチョコやケーキをかじるだけで死んでしまうこともあるほど弱い生物だ。
それなのにあんな所から飛び降りて、血と肉片を撒き散らしているのにピンピンしているなんて、どうもおかしい気がする。
この前そのことを友達に言ったら、「何を当たり前のことを」と真顔で返された。
自分のおかしさを再認識した途端モヤッとした気持ちになって、その後はしばらくダランと垂れた友達の舌を見つめていた。
不意に、重力が消えた気がした。
その日は御飯がまずかったのを覚えている。
あっ、飛んだ。
と思った瞬間世界がスローモーションになる。
目の前にスーツの男が落ちてきて、大証の赤い粒を放射状にまき散らす。
しばらく見ていると、男は平然と立ち上がった。
汚れ一つないスーツの上には笑顔を浮かべている。
ゾッとするような、気味の悪い笑顔だ。
男はどこかスッキリしたように、笑顔のまま僕の横をすり抜けて去っていった。
飛び散った粒は次々と苺に変わり、通りがかりの主婦たちが嬉しそうに拾っていった。
その主婦の中の一人がとうとう浮かび上がり始めたので目で追いかけていると、空にぽっかりと浮いた太陽がこちらを見つめていた。
冬の日光に当たっていると体が冷えてくる。
肌寒さを感じたので近くのビルの中に入ることにした。
そのビルの一階は会社の受付だったらしい。
お坊さんがカウンターの中に座っている。
つらつらと建物の中を見回すと、階段が目に留まる。
何の気なしにそちらに吸い込まれていく。
階段の前に貼ってあった案内看板によると、地上は十階、地下は三階まであるようだ。
僕は下りの階段に足を向ける。
屋上へ行くには一番下まで降りてループした方が早く着くだろう。
それに、階段は降りる時の方がよっぽど楽だ。
ああ、こんなところに来てしまった。
別に僕はビルから飛び降りたいわけじゃないのに。
高いところも好きではないのに。
外が寒くてビルに入ったくせに、何故か屋上に来ている。
まるで最初からそう決まっていたかのように。
コンクリートの縁からアスファルトを見下ろすと、吸い込まれるような気がして、慌てて離れる。
なんでみんなこんなところから好き好んで飛び降りているんだろう。
やはり僕は上から見下ろすより、下から見上げる方がいい。性に合ってる。
空を見上げると、太陽はもうこっちを見ていなかった。
やはりあいつは冷たい奴だ。
空を見ていると、風船を飛ばしたくなってくる。
あの段々と遠くへ上がっていくのがいいのだ。
そんなことを考えているといつの間にか右手に何かを握っていた。
風船だ。
いや、正確にはちょろちょろと宙に浮く風船につながった細い糸。
ぺっ、と手を広げれば、当然のように空へと上がっていく。
これはいい。
なんとなく、安心してしまった。
「君も飛び降りに来たの?」
いきなり後ろから声をかけられる。
振り向くとそこには三十代くらいのアロハシャツを着たおじさんが立っていた。
「いえ、僕は……」
「そうかそうか、じゃあ先に失礼するね」
嬉しそうに端っこへと歩いていくアロハを見て、僕は何となく声をかけてみた。
「あの、いつも飛び降りているんですか?」
質問を受けたアロハは、振り向くと「何を当たり前のことを」とでも言いたげに不思議そうな顔を浮かべた。
「そうだね、週一くらいで」
「なんで、飛び降りるんですかね」
この質問は、アロハにというよりも、すべての日本人に向けた疑問だった。
「なんでって、なんでだろうなあ」
答えに困っているらしい。
何故、と聞かれても答えにくいことなのはわかる。
みんなやってるし、当たり前だし、一般的なことだから。
しばらく悩んで、ようやく答えを見つけたらしいアロハが、温厚そうな顔を緩めながら口を開いた。
「ほら、生きてるとさ、どうしようもなく辛いこととかいやなことがあるだろ。そういうものにつぶされないように、かなあ」
そんなものなのか。
果たして、そんなことで?
「たまにね、どうしようもなくて死んじゃいそうになるんだ。君も無い?そういうこと」
質問を返されてしまった。
「辛いことはありますけど、死ぬほどではないですね」
「死ぬほどではないか、そうか……」
何やら興味深そうに笑っている。
緩んだ顔をさらに顔を緩めながら考えを巡らせているようだ。
「死ぬほどでも無いんなら、君は生きてないのかもしれないねえ」
少し、ドキリとした。
なんとなく、もやっとしたものが心に引っかかる。
「でもみんなそうじゃないですか。みんな首吊りながら生きてる」
「君が思ってるほどでも無いよ」
なんだろう。この人が一体僕の何を知っているというんだろう。
心の中を見透かされているようで、気分が悪い。
「君は、飛び降りたことがないの?」
「はい」
正直に答える。
嘘をついても無駄だと思ったから。
「ちょっと、飛んでみたら?」
にこやかに誘いを受ける。
「いや、いいです」
なんとなく、目を合わせているのが嫌になってそっぽを向く。
「やったことがないことをやってみるのって、大事なことだと思うんだけどなあ。特に若いうちは」
そんな緩い顔して言われたって、なにも響かない。
「まあ、きっと君もそのうち、飛び降りないとやってられなくなるよ。なんせこの世界では絶対なんてありえないし、人を一つの要素でしか判断できない奴はクズだからな」
曖昧な言い方をされると、意識まで曖昧になってくる。
しかしその言葉は、曖昧なりに僕の思っていたことを表している気がした。
そうか、この世界に違和感を感じているのは僕だけじゃない。
みんな、何かしらの違和感を感じていて。
でもそんな感情のはけ口がどこにもないから。
ああして、飛び降りているんだ。
なぜ今まで気が付かなかったのか。
それとも気が付いていたのか。
高いところに来て視野が広くなったのかも。
意識がぼんやりとして、次に気が付いた時には僕の体は宙に浮いていた。
あ、落ちる。と思った瞬間。
「もう戻って来るなよ」
アロハが、そう言って笑っていた。
視界が真っ暗になった。
不思議と、落下の感覚は無かった。
目を開くと、白い天井が目に入った。
白いカーテン、シーツ。
清潔な壁。
ここは……
「病院?」
どうやらベッドの上に寝ころんでいたらしい。
体を起こすと、首元に痛みが走る。
触ってみると、首元を半周する形で晴れているらしいことが分かった。
ああ、そうか。
そうだった。僕は……
ベッドを降りて窓の方へ向かう。
窓からの景色を見るとここは二階のようだ。
遠くには公園で遊ぶ子供たちが見える。
そうか、戻って来たんだ。
誰も飛び降りることのない世界に。
窓からの日光は暖かく、街路樹は裸だ。
あの違和感だらけの世界はすっかり消えてしまった。
僕の心の中に、違和感だけを残して。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます