使聖環-虎の威を借る狐-

うんと昔、中国大陸に様々な国があり、互いに争っていた頃。楚という国での話である。

草が生い茂り、乾いた風の吹く平野の中心で、権次郎の命はまさに風前の灯であった。

首元は大きく獰猛な虎の爪に抑え込まれ、巨大なあぎとが今まさに自分を喰らわんと迫ってくる。

権次郎は、大陸に来た事を後悔しながらも、なんとかして自分が助かる方策を思案した。


権次郎は、この大陸に住んでいる訳ではなく、日本という島国の山奥でズル賢く生きている狐であった。

ある日海辺に下りて行った時に渡り鳥から大陸の話を聞き、人間の船に乗り込んで嵐に合いながらも大陸に辿り着いた。

しかし大陸は、権次郎が思っていたほど甘くはなかった。住んでいる生物が違うので狩りは上手くいかず、飲み慣れない水を飲んで腹を壊した。

そんな調子で3日も過ごし、空腹と疲労で這う這うの体で居た所を虎に見つかり、あっさりと捕えられてしまった。


虎は日本には居なかったが、黄色に黒の縞模様が入った獰猛な獣だと聞いていたので、権次郎は自分の命を奪おうとしているこの存在が虎だと言う事をすぐに悟った。見慣れない捕食者を恐れつつも、権次郎は意を決して言葉を発した。

「虎さんよ、俺を食べようってのかい?」

権次郎に迫っていた虎の牙がピタリと止まった。

動物の言語は人間の物よりも直観的なので、国境の壁も種族の壁もなく伝わる。それでも多少の不安はあったが、どうやら問題なく伝わったらしい。

獣は権次郎から少し顔を離した。そして今度は権次郎を喰う為ではなく、低くしわがれた声を出す為に口を開いた。

「当然だ。せっかく捕らえた獲物を逃す道理はないだろう。」

運の良い事に虎は権次郎の言葉に応じ、爪でしっかりと権次郎の首元を抑えながらも、顔をまた少し上げた。権次郎はしめしめと思った。まともに話すことの出来る相手ならばいくらでも交渉の余地がある。権次郎の交渉とは相手を騙し、自分に有利な結論を出すことである。

「俺を食うのはやめといた方がいいぜ。神様の怒りに触れることになっちまうよ。」

「何だと?それはどういう事だ。」

権次郎は、虎の顔が僅かに歪んだのを見た。

「お前さん、稲荷神社は分かるだろう?稲荷神社で祀られている神様は狐だよ。俺は近くの稲荷神社の神様の使いでね。そんな俺を食っちまうなんて罰当たりだとは思わないかい?」

「ほう…」

権次郎はまたもしめしめと思った。無論、権次郎は神の使いなどではない。しかも権次郎は大陸に来てまだ数日なので、近くに稲荷神社があるかどうかすらも全く知らない。しかし、権次郎の住んでいた地域には稲荷神社が多くあったし、どれだけ遠出をしても稲荷神社のない地域はなかった。ここでもそれは同じだろうと腹を括り堂々と言ってのけた。

虎の方も存外信じる様子を見せたので、きっと上手くいったのだろうと思った。

虎はしばらく考える素振りを見せてから、大きな牙を備えた口を開いた。

「しかしお前が神の使いなどという証拠はないだろう。それでは信じる事は出来んな。」

一瞬、権次郎は焦った。証拠。確かに証拠は必要だろう。虎にとって権次郎は、自分の命を繋ぐための糧である。そう簡単に手放す訳にはいかないだろう。そもそも、権次郎に限らず狐というのは狡猾な生き物である。虎が疑うのも当然の事だと言えた。そこで権次郎は一計を案じる事にした。

「それなら俺を他の獣が居るところに連れて行ってくれ。俺がそいつらの前を歩けば、神の使いである俺を恐れて逃げて行くはずさ。あんたは後ろから着いてきてその様子を確認すればいい。」

「ほう、しかしそう言って逃げるつもりじゃあないだろうな。」

「逃げたって、あんたなら簡単に捕まえられちまうだろう?」

「なるほど、それもそうだ。いいだろう、着いて来い。」

「着いて来いって言ったってこの爪を退けてくれなくっちゃあ動けないよ。」

「まあそうだろう。いいか、逃げようとは考えんことだ。お前よりも俺の方が脚が速い事を忘れるな。」

「逃げやしないさ。なんたって神様の使いなんだからな。」

「胡散臭い神の使いもいたものだな。」

そう言って虎が爪を持ち上げたので、権次郎は思い切り息を吸い込み、吐き出した。首元を押さえつけられ息が詰まっていたので、更に思い切り息を吸い込み、そして吐き出した。そうすることでやっと生きた心地がしてきた。

(こうなりゃ後は俺のもんだ。悪いが騙されてもらうぜ。)

そんな事を思いながら権次郎はゆっくりと、数歩前を歩く虎に着いて行った。


獰猛な虎を見れば大抵の動物は逃げて行くはずだ。権次郎は、虎と共に歩くことで、獣達が虎を恐れて逃げ出して行くのを、自分を見て逃げたのだと言うつもりであった。そうすれば虎は権次郎が神の使いであると思い、帰っていくだろう。





しばらく歩いて権次郎が虎に連れて来られたのは、他の虎や見たことも無い大型の肉食獣達が多く生息するところであった。

当然のことではあるが、肉食獣達の中に虎を恐れる者はいなかった。

おそるおそる後ろを振り返ると、虎は権次郎をニヤニヤしながら見下ろしている。

「どうやらお前は神の使いではなかったらしいな。そうなれば逃がす道理は無いだろう。」

そう言うと虎は、権次郎をペロリと食べてしまった。

















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気がつくと権次郎は虎の後ろを歩いていた。

(はて、俺は虎に食われたはずだが…)

確かにその様に思うのだが、現実に権次郎は確かな足取りを持って虎の後を歩いている。権次郎ははたと止まって周りを見渡してみる。そこには変わらぬ土と草の景色があった。この喉の乾きも、空腹も、足の疲れも、顔に当たる乾いた空気も、そして先程まで虎に抑えられていたせいで苦しい首元の感覚も、全て本物だと思えた。

(あれはきっと不安になった俺の妄想だったんだろう。)

権次郎はそう結論づけると、また虎の後について歩を進め出した。

すると、不意に虎が脚を止めた。

「どうしたんだい?ここに獣が居るようには見えないけど?」

「いやなに、お前に良い事を教えてやろうと思ってな。」

「良い事?そいつは一体なんだってんだい?」

トラはニヤニヤしながら次の言葉を発した。そのニヤニヤ笑いは、先程妄想の中で権次郎を食べる直前に虎が浮かべていた物と同じであった。

「大陸にはな、稲荷神社なんて物はないんだよ。お前は一体どこの神社の使いだって言うんだ?」

「…え?」

権次郎が間の抜けた声を出すと同時に虎の巨大なあぎとが迫り、言われた事を理解する間もなく意識が途切れた。

当然ながら、自分が虎に食われたことを理解する暇すら権次郎にはなかった。













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権次郎が目を開くと、そこはまた土と草の上であった。自分は虎のあとに続き、足を動かし続けている。虎は振り返りもせず、黙って歩き続けている。

権次郎は既にこれが妄想ではないことを理解していた。自分は確かに虎に食われたのだ。それも2回も。その確信があった。しかしまた、確かに自分はここにいる。そう考えるとどうも恐ろしくなり、足取りが重くなった。歩く速度は落ち、足元がおぼつかなくなったが、虎に気づかれてしまう事も恐ろしくて足を速めた。

しばらく歩いて、さっきよりも遠い所に来たが、虎はまだ黙って歩き続けている。権次郎は恐怖と疲労で歩くのもやっとであったが、それでもどうすることも出来ずに、ただただ虎の後に続いて4本の細い足を動かした。

と、不意に虎が足を止めた。権次郎はビクリとしつつも虎に合わせて歩みを止めた。虎はそのまま何も言わず、しばらく沈黙が続いたが、やがて虎はその巨体をゆっくりと権次郎の方へ向けた。その顔には、さっき浮かべていたニヤついた笑みはない。ただただ静かで、威厳すら感じさせる顔だった。元来、権次郎にとって虎のような大型の肉食獣は畏怖の対象であったが、この時感じた恐れは今まで抱いていたそれとは全く異質なものであった。権次郎はまるで神でも目の前に居るかの様な気分になった。

「おい、狐。」

虎が口を開く。そこには先程権次郎の骨を噛み砕いた大きな牙があった。

「狐とは酷いね。俺には権次郎って名前があるんだからさ。」

心の内では虎に怯えながらも、権次郎は目一杯の虚勢を張って見せた。

「ふむ、権次郎よ。さっき俺が言ったことを覚えているか?」

「さっきってのはどのさっきだい?」

なんでもないように話してはいるが、権次郎の言葉は震えていた。無意識に虚勢を張ってしまうのは、もしかしたら狐と言う生き物の性なのかもしれない。

「ここには稲荷神社が無いという話の事だ。」

この言葉で権次郎の確信は更に確固たる物となった。やはりあれは夢や妄想などではなかったのだ。紛れもない現実の物である。

しかしそうなると当然の疑問が浮かんでくる。何故虎に食われたはずの権次郎がここに居るのか。その答えは虎の言葉によってもたらされた。

「では誰がこの辺りの神をしていると思う?」

「え、まさか…」

「そう、我だ。」

なんという事だ。権次郎が自分は神の使いだと騙そうとした相手は本物の神だったのだ。

「知らなかったとはいえ神を騙そうとした罪は重かろう。よって、少し罰を与えてやったのよ。」

「それじゃあ、俺が何回も食われたのも…」

「そういう事よ。」

「しかし、しかし貴方が神ならば何故俺を捕らえたのです。何故俺を喰らおうとするのです。貴方が神であれば獣の肉など食らう必要は無いはず。」

権次郎がそう言った時、虎の目がかっと見開かれた。

「貴様は元いた島国でも評判の悪いいたずら狐であったろう。我が領土で悪さをしようとする輩に罰を与えるは神として当然の事。ここに来て狩りは上手くいかず、水を飲めば腹を壊したはずだ。それも全て我の思惑よ。貴様などに我が領土の尊き命を汚させる訳にはいかんからな。」

権次郎には既に、虎の口調が厳かなものに変わった事を気にかける余裕も、自分が大陸に上陸してからの不運の理由に納得する思考も無かった。

ただ、己の安易な嘘の愚かさを悔やむばかりであった。

顔の歪んだ権次郎にトドメを刺すかのように、虎の言葉が投げかけられた。

「繰り返しはもういいだろう。これが最後の罰だ。」

そう言うと、虎は大きな牙を覗かせるあぎとを開き、権次郎の骨を砕き、肉を引き裂いて喰らった。

繰り返された罰の環は途切れ、もう二度と権次郎が目を覚ますことは無かった。

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