至清汗-この海を綺麗に-

 「この海を綺麗にしたい。」


 最初にそう思ったのは、僕が小学一年生の頃だった。

 瀬戸内海の島で生まれ育った僕は、幼い頃から海のそばで暮らしていた。だから毎年夏は海に泳ぎに行っていた。島なので、学校の水泳の授業も海水浴場でやっていたのだが、それとは別に家の近くの浜辺で泳ぐのが好きだった。

 僕はこの海が大好きだった。特別運動が好きだった訳ではないし、なんなら海に来てもプカプカ浮いていることの方が多かったんだけれど、それでも泳ぐ事は大好きだった。まあ、それでも水泳の成績が特別良いという事はなかったけど。

 僕が7歳の誕生日と共に迎えた夏休み。プレゼントに、大好きなキャラクターの柄がプリントされた浮き輪と、シュノーケルを貰ってウキウキしながら海に向かった日。鼻まで覆える大きなゴーグルを付けて水中に潜った僕は、驚愕のあまり頭が真っ白になった...とまでは行かないけれど、そこそこに衝撃を受けた。

 「汚い」という言葉が、パッと頭に浮かんだ。上から見ると水色だった海は、内側から見ると暗い緑をしていた。そして、無数の細かい粒のようなものが漂っている。とても汚く濁っていて、緑茶の方がまだ透き通っている様にも感じた。

 一メートル先を見る事も難しく、伸ばした自分の手すら霞んで見える。

 これはまずい、この海を守らなければ。

 環境問題もよく分かっていない平凡な小学生が、海を綺麗にしようと決意した瞬間だった。


 その夏中、僕は昼寝の時間も惜しんで、ずっと海を綺麗にする方法を考えていた。今思えば、僕が毎日していたお昼寝をしなくなったのも、これがきっかけだった。扇風機の風に当たりながら、スイカをかじりながら、宿題をしながら、毎日どうやって海を綺麗にしてやろうか考えていた。そんな風にしてお盆も近づいたある日。妙案を思い付いた僕は、コーヒーフィルターを持って、サンダル履きの足で走って海に繰り出した。ワクワクが原動力になったのか、スニーカーで走るよりも早く走っていた。両親ともにコーヒーが好きな人だったので、家には常にコーヒーフィルターのストックがあった。その中から二枚を抜き取った僕は、コーヒーフィルターを両手に一枚ずつ持つと、海の中で振り回した。

 要するに、海水をろ過しようとした訳だ。今考えてみれば馬鹿みたいだけれど、子供の僕は本気だったし必死だった。

 結果として、しばらく振り回されたコーヒーフィルターの中には海中を漂っていた小さなゴミのような物が大量に捕まっていた。

 しかし、海中を漂う汚れはそれ以上に大量だった。

 絶対に上手くいくと思っていたのに。敵は思ったよりもずっと強大だった。

 私はショックの余り、その日は泳ぐことなく海から帰ってしまった。いつもは美味しいスイカも味がせず、しばらくしなくなっていた昼寝を夕方までしていた覚えがある。起きた時、顔に当たっていた扇風機の風がとてもぬるく、こそばゆかったのを覚えている。

 思えば、あれが僕の人生初挫折だった。

 これが小一のお盆前の話だから、この年はもう海に泳ぎに行かなかった。瀬戸内海はお盆を過ぎるとクラゲが増えるので毎年海水浴はお盆までなのだ。


 小学二年生の夏。一年ぶりに海に泳ぎに来た僕は、またしてもその汚さに衝撃を受けた。

 耐えられなくなった僕は、またしてもコーヒーフィルターを持ち出して海に繰り出し、見事に撃沈して一年ぶりに夕方まで昼寝をした。馬鹿みたいだけれど、本気だし必死だったのはわかってほしい。

 しかし、僕は一年前の僕ではなかった。僕は新しい方法を考え始めた。幸い、夏はまだ始まったばかりだ。


 一週間後、僕は家の倉庫で見つけた、水の浄化処理をする薬品を海に投げ込んだ。小学二年生にして科学の力を味方につけたのだ。何故そんな薬品が家にあったのか、その謎は未だに解けないが、僕は鬼の首でも取ったように得意になって海辺に佇んでいた。岩の上に水着姿で経つ僕の肌を、潮の香りの風が優しく撫でた。

 その後、僕は普通に海水浴を楽しんだが、何日立っても海水が浄化される気配は無かった。あまりに何もなさすぎたので、僕は薬品を海に投げ入れたことすら忘れてしまった。


 その後も、毎年僕と海の戦いは続いた。最早何と戦っているのかも分からなかったが、僕は奮闘し続けた。

 海面を雑巾で拭いてみた。

 アルコール消毒してみた。

 水素水を入れてみた。

 掃除機を海に持って行こうとした事もあったが、それはさすがに親に止められた。今考えてみれば浜辺にコンセントは無かったし、これは止められて正解だった。

 一度鍋に海水を入れて煮沸消毒をしてみたこともあったが、火にかけ過ぎて全て塩になってしまった。

 当然、両親には白い目で見られた。

 この悪癖以外は至って普通のいい子でいたので余計に。しかし、僕は毎年夏になると海を綺麗にする事に異様な情熱を注ぐ様になっていた。

 扇風機の隣でスイカを食べながら、どうやって海を綺麗にするかを考える。勉強よりも恋愛よりも、進路を考える時よりも真剣に悩んでいた。

 自分でも何がここまで僕を突き動かすのか全く分からなかった。ただ、海を綺麗にすることばかりを考えていた。


 高校を卒業した僕は今、実家を出て近くの地方都市で一人暮らしをしている。海からは遠い街だが、そこで僕はそこそこ頭の良い大学に通っている。環境科学について学べる学科がある所だ。

 大学3年生になった僕は今、ボランティア活動に励む傍らバイトでお金を貯めている。

 海にはもう五年ほど行っていない。高校生からずっとバイト三昧で、散歩程度で浜辺を歩くことはあっても泳いだりはしなかった。その後、大学に上がって海から離れてからは、海の近くにもほとんど行けていない。


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「なるほど、お前が昔から変態だった事は分かった。」

 大学のラウンジ、大きな窓から刺す西日に照らされてオレンジになった顔で僕の人格を否定したのは、高校以来の友人である東川だった。

「それとこれとは話が別だって。ひどいなぁ。」

 少し眩しかったので、日が当たりにくい所に移動しながら反論する。東川も軽くそれについてくる。

「いやぁ、まさか海フェチなんて性癖がお前にあったとはな。」

「性癖とは言わないと思うんだけどねぇ。」

「で?なんでさっきの話から俺がお前のバイトに付き合わなきゃいけないんだ?」

 こいつの悪い所は質問をする癖に人の話を聞かないところだと思う。

 さっきの話もどこまでちゃんと聞いていたのか怪しい所だ。しかし、この質問に答えないと話が進まないので、構わず質問に答えることにする。

「いいか、僕は一刻も早く金を稼ぎたいんだ。そして今のバイト先は新人を連れてくると報酬が出る。」

「ほう?」

 どうやら今度はちゃんと話を聞いてくれるつもりらしい。

「更に、指導者報酬というものがあってな。新人に仕事を教える係になっていると時給が上がる。そして僕は希望すればその希望者の立場に付けるくらいには今のバイトを続けている。」

「異議あり。なら他の新人の指導者になれよ。新人が全く来ない訳じゃないだろ?大体、4月なんだからほっといても新人が入ってくる時期だろうし...」

 耳が働くようになったと思ったら今度は頭が働かないらしい。

「僕が全く面識の無い人を相手にマンツーマンで仕事を教えられると思うのか?」

「...なるほど。」

 納得されるのも少し悲しい。

「ちゅーか、お前そんなに金貯めて何したいんだよ?てか、さっきの海の話との関係は?」

 質問が多いやつだなぁ。

「僕はな、船を買おうと思ってるんだ。」

「船?」

「そう、船。それに操縦の為には免許がいるから免許も取らないと。」

「待て待て、確かに海には繋がったけど、船で何をするつもりなんだ?まさか船で日本一周するつもりじゃないだろ?」

「そんな訳ないじゃないだろ。」

 やはり頭が回っていない様だ。

「いいか、僕は色々考えた結果、原点回帰する事にしたんだ。」

「原点回帰?いや、もう何言ってるのか分からないんだけど。」

 鈍いなぁ。しかしそれも仕方ない。僕が14年間戦い続けた末に考え出した事なんだから。教えてやった時の東川が驚いた顔が目に浮かぶ様だ。



「その船で大きな網を引っ張って海のゴミをかっさらうんだよ。」

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