シセイカン

甘木 銭

死生観-始まりの話-

 母親が上げた甲高い悲鳴は僕の鼓膜に突き刺さり、一瞬首元の苦しさを忘れさせた。

 その声量は僕の耳が過敏になっていることを差し引いてもかなりの大音量で、母親がこんなに大きな声を出すのは僕の記憶にある限りでは初めての事だったと思う。

 まあ無理もないだろう。部屋に入ると一人息子が首を吊ってたんだから。

 ここまででなんとなく察してほしい所ではあるけど、あえて言わせてもらおう。


 僕は、首を吊った。


 -------


 狭い棺の中にエンジン音のようなお経が響いている。死者を弔うためのお経も、弔われる側からしたらうるさくて迷惑なだけだ。

 他人の葬式には何度か参列したことがあったけど、自分の葬式は初めてだ。当たり前だ。初めて死んだんだから。

 お経が低く響いている狭い棺の中に横たわり、動くことも出来ないので僕は暇を持て余していた。生前ならばこんな時は眠気が押し寄せて来たんだけど、どうやら死んだら眠ることも出来ないらしく目はギンギンに冴えている。といっても、瞼は閉じられて自力で開けることも出来ないんだけど。

 しかし棺の中は寒い。死んでいるくせに寒さだけは感じるんだから厄介だ。しかもお経に混じってたまに嗚咽が聞こえてきて余計に寒くなる。両親には申し訳ないことをしてしまったなと少し思った。

 しばらくすると、体が持ち上げられるような感覚があった。多分火葬場に行くために車に積まれるんだろう。棺がグラグラ揺れてなんだか酔いそうだ。多分酔わないけど。エンジン音のようなお経が本物のエンジン音に変わって、車が走り出した。



 そもそも僕はなんで首を吊ったんだっけ。ああ、そうだ、確か人間関係のもつれだ。自殺の原因なんかあまり思い出したくないんだけど、とにかく僕は絶望していた。まあ死んでから色々ありすぎてそんなことはどうでもよくなってしまったんだけど。

 そう、問題は死んでからだった。


 天井から垂らした縄で輪を作り、その中にするりと首を通すと僕は踏み台にしていた本の山を躊躇無く蹴飛ばした。首元に負荷がかかり息が出来なくなって徐々に体から力が抜けていく。息が詰まって顔が内側から圧迫されると、左の目玉が眼鏡を押しながら落ちた。メガネと一緒に落ちた目玉は、熟れた柿の様にグシャリと潰れた。それを見ながらやがて体が動かなくなると、ああ僕は死んだんだなという実感が湧いてくる。このまま楽になれると思った。しかし一向に楽になれる気配が無い。いや、それどころか視界もクリアだし部屋の外からの雑音は嫌に耳に響く。首元は縄と僕の体重で圧迫され続けているし、その苦しさも全く去る気配がない。それどころかどんどん苦しくなってくるし、視界は段々明るくハッキリとしてきた。僕は訳がわからず叫びそうになったが声を出すことは叶わなかった。僕はきちんと死んでいるのか不安になったけど、確認する術が無い。もしかすると死に方が甘かったんだろうか。もう少し縄をきつく締めればしっかり死ねるんだろうか。しかし体を動かすことは出来ない。ただ時間だけが過ぎて行った。


 しばらくすると状況に慣れてきたのか、僕は冷静な思考を取り戻し始めていた。首元は相変わらず苦しかったけど、慣れたせいかあまり気にならなくなっていた。僕は状況を整理してみることにした。まず、僕の体は死んでいる。これは多分間違いないだろう。だけど僕の意識は死んでいない。これも間違いない。それだけでもおかしなことなんだけど、さらに奇妙な事に、体は死んでいてもどうやら五感は生きている。それ所か生前よりも感覚が研ぎ澄まされている。左目はさっき落ちてしまったけど右目はハッキリと部屋の中の様子を捉えている。さっき落ちた眼鏡をかけていなければ僕は相当視力が低かったはずだけど、今は眼鏡をかけている時よりも視界がハッキリしている。まあ、目を動かせないので同じ所を凝視しているだけだけど。聴覚もかなり研ぎ澄まされている様で、外でお喋りをしている人達の声がハッキリと聞こえてくる。首元を締め付ける感覚が強くなり、部屋の埃っぽい臭いはいつもより鼻につく。

 夜になって僕を発見した時の母親の悲鳴は耳を叩くようでつらかったけれど、首の縄が解かれ体が降ろされた時はほっとした。

 首を吊っている状態だと、体中が重力に引っ張られるみたいでつらくて仕方がなかったから。


 今気づいたんだけど、どうも僕は自分の死に対して妙に達観している様な所がある。冷めているというか無関心というか、変に冷静だ。これは防衛本能的なものだろうか。無関心でいる事で辛い事から目をそらす様な、生きていく為の現実逃避。傷つくような事も、目に入らなければ最初から無いのと同じ様に。僕は今の自分の状況について分析してはいるけれど、本当は心の奥底ではどうでもいいと思っているのかもしれない。

 まあ本当の心の底の底なんて、死んでもわからないんだけど。


 そんな事を考えていると車が止まった。どうやら火葬場に着いたらしいけど、棺は蓋が閉まっているし、僕も目を閉ざされているので周りの様子を見ることは出来ない。それでも体は振動に敏感になっているし、棺の中でも音は聞こえてくるので周りの様子は手に取るようにわかる。車から降ろされる様な感覚があった所で、ふとある思いが頭をよぎった。火葬をされるということは体を焼かれるという事だ。今この状態で焼かれると僕はどうなってしまうんだろう。まず火傷では済まないだろう。当たり前だ、骨になるまで焼かれてしまう。体は死んでいるからこの際そんな事はどうでもいいんだけど、どうでもよくないこともある。

 きっと焼かれるのは熱いだろう。きっと首を吊るより何倍も何十倍もつらくて苦しいんだろう。しかも、今僕の感覚は痛覚を含めて研ぎ澄まされている。想像するとその恐ろしさで吐き気がしそうだったが、死んでいるので何も出て来ない。

 ああ、外から声が聞こえてくる。どうやら僕は今から焼かれるらしい。いくら逃げたいと思っても体が動かない。嫌だ、嫌だ、やめてくれ、頼む。


 そのうちに周囲の熱が上がって来た。その熱は徐々に僕の体を焼き出す。熱い。苦しい。つらい。痛い。この世のあらゆる苦悩が詰まった様な痛みが僕を襲う。焼いた鉄棒を押し当てられようと、ガス爆発に巻き込まれようと、こんな痛みと苦しみを味わうことは無いだろう。僕は痛みと熱さにのたうち回ることも出来ずにただただその身を焼かれ続けた。

 蛇のように体を這い上がって来る熱の塊に襲われながらふと、これは罰なのかと思った。これは自殺した僕への罰なのではないか。目の前の苦しみから逃げて楽になろうとした僕は今、逃れられない苦痛を味わっている。結局どうやっても苦しみから逃れることなんて出来なかったんだ。

 熱い。熱くて仕方がない。この世から消えてしまいたくなる。

 そうだ、もう消えてしまうんだ。何もかも燃えて僕がなくなってしまえばきっとこの苦しみも終わる。僕は解放される。焼ける熱さと苦しみの中に痛みが溶けていった。



 -------


 しばらく経って、僕は恐らく骨だけになった。目も耳も鼻も舌も肌も全て燃えてしまったので周りの事はわからない。

 ただ僕の意識だけがそこにある。どれくらい時間が経ったのかはわからないけど、きっと僕の骨はもう墓の中にあるんだろう。

 人間は生きている限り何かを感じる。見ていたり、聞いていたり、嗅いでたり味わってたりする。そういった外側からの刺激が一切遮断されて意識だけがある状態は、きっと生きている間には想像が及ばないほど恐ろしい。有るはずの物が無くて、無いはずの物が有って、ごちゃごちゃでぐちゃぐちゃでめちゃくちゃで。そこにあるのはただ絶対的な無だ。無の闇の中を僕の意識は漂い続けている。今度は逃げる事も出来ない。物理的な死も精神的な死もここにはない。いつまで続くかわからない。もしかしたら永遠にこのままかもしれない。

 改めて、これは僕への罰だったんだろうという思いが頭を巡る。まあ、もう頭はないんだけど。思考が同じ所をグルグルと回っている。いつまでも、いつまでも、いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも

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