おまけの番外編

後日談〈1〉神様の言うとおり

「なあ、トキってさあ……」


「あ?」


「──セシリアと、毎晩してるの?」


「ブッ!!」



 至極穏やかな、夜の食卓。しかしトキが静かに口を付けていたぬるい紅茶は、唐突なティオの発言によって勢いよく噴きこぼされた。


 ゴホッゴホッ! と噎せ返ったトキの姿に、今しがた爆弾発言を投下したティオは「お、おい! 汚ねーな、何してんだよ!」と頬を引き攣らせる。トキは濡れた口元に付着した紅茶を拭いながら、盛大に眉根を寄せて正面のティオを見据えた。



「……おっ……お前……っ、どこでそんな言葉覚えた……!?」


「え? どこでって……今朝、配達に来たリモネ兄ちゃんが言ってたんだよ。『セシリア姉が帰ってきたんなら、トキ兄、きっと毎晩セックス三昧だろうな!』って」


(あんっのマセガキがぁぁ!! 何とんでもねえ事ティオに吹き込んでんだぶっ殺すぞ!!)



 握り締めた拳をぶるぶると怒りに震わせ、今年で十七になった花の街アリアドニアのマセガキ──リモネの姿を思い浮かべる。すっかり垢抜けた彼は、日を追うごとに生意気さにも磨きがかかり、『トキ兄、聞いてよ。俺、また女の子に告白されちゃってさあ。モテるって罪だよね〜、懺悔しよ』などとのたまいながら教会に訪れるような青年に成長していたのだった。


 トキは盛大に眉根を寄せ、ヘラヘラと笑うリモネの姿を脳裏に思い浮かべる。



「可愛げのないガキになりやがって……クソが……!」


「ねえトキ〜、せっくすって何?」


「あーっ、お前にはまだ早い! 大人になったら勝手に分かるようになるんだよ! それまで待ってろ!」


「えーっ、なんで!? ずるい、俺にも教えてよ! 毎晩セシリアと一緒にしてるんだろ!?」


「バッ……! い、いいからお前はもう寝ろ! おいアデル、ステラ! コイツさっさと連れて行け!」



 トキは一瞬ぎくりと身を強張らせたが、すぐに鬼の形相でステラとアデルに指示を出した。するとステラは面倒くさそうに「プギプギ……」と鼻を鳴らし、ティオの首根っこを咥えてずるずると引きずり始める。



「うわ!? ちょ、ステラ! 待ってよ! まだ寝たくな……」


「ガウ……」


「わああん! もふもふの尻尾で包むのは卑怯だぞアデル! いーやーだーー!!」



 獣二匹に引きずられ、ティオは部屋から連れ出されて行った。騒がしい声がようやく遠ざかり、トキはやれやれと額を押さえる。



(あのクソガキ……勉強はろくにしねーくせに、妙な知識ばっか取り入れてきやがって……。何が『セシリアと毎晩セックスしてるんだろ』だ……)



 はあ、と無意識に深い溜息がこぼれ、トキはどこか遠い目で虚空を睨んだ。脳裏に思い描いたのは、愛らしい表情でこちらに微笑み掛ける──再会した恋人の姿。



「……まだ一回もしてねえよ……」


「──何がです?」



 思わずぽろりと口にしてしまった、刹那。頭を抱えていたトキの背後からはくだんのセシリアがひょっこりと顔を覗かせる。「うおぉッ!?」と彼がつい大きく肩を震わせて振り向くと、セシリアは一瞬驚いた表情を見せながらもすぐに申し訳なさそうに眉尻を下げた。



「あっ……、ご、ごめんなさい。ビックリさせちゃいました?」


「……っ……い、いや……」


「……あの、ティオくん、何かあったんですか? お風呂場まで叫び声が聞こえてましたけど……」



 心配そうに小首を傾げ、セシリアはトキの隣の椅子に腰掛ける。湯上がりのその体からは石鹸の香りが漂い、頬も紅潮していて、濡れた髪から首筋に伝う水滴までも妙に官能的に感じてしまって。


 トキは密やかに生唾を嚥下しつつ、彼女から目を逸らした。



「……な、なんでもねーよ。いつもみたいに『寝たくない』って駄々こねてただけだ」


「ふふっ、なーんだ。それならよかった」



 セシリアは微笑み、濡れた髪を耳にかける。そんな何気ない仕草ですらもトキの情欲を揺さぶってしまい、彼は煩悩を散らすように冷めきった紅茶を口に運んだ。


 ──セシリアがトキの元へ帰って来てから、早一ヶ月。


 ティオは彼女によく懐き、もうすっかり家族の一員としてセシリアの事を認めている。元よりティオは母を欲しがっていたのだから、彼らが打ち解けるまでに時間はかからなかった。

 ステラやアデルも嬉しそうにセシリアに引っ付きっぱなしで、セシリアもまた、彼らと共に毎日幸せそうに過ごしている。


 緩やかに流れる、平穏な日々。長く苦しい夜をいくつも越えて、ようやく手に入れた幸せな暮らし。──だからこそトキは、これ以上の幸せを望む事に言いようのない罪深さを感じてしまう。


 セシリアとの再会後、まだ一度もその体に触れる事が出来ずにいるのも──そんな罪の意識がトキの胸を覆っているせいだった。



(……昔は、簡単に手ェ出せてたんだがな……)



 苦い表情で自身の前髪をぐしゃりと乱しつつ、彼女の身体を何度抱いても抱き足りなかった五年前の事を思い出す。


 あの頃のセシリアは、この世界からいつ消えてしまってもおかしくない状況だった。明日、隣に居てくれる保証すらない──そんな彼女の中に、トキは少しでも己の証を刻み込もうと必死だったのだ。


 だが、今は違う。


 離れていた五年間、セシリアはトキの記憶と心の中にしか存在しない、唯一無二の絶対的な“神様”だった。

 そんな神々こうごうしい彼女が、こうして目の前に存在している、今。この手でその肌に触れる事を、どうしても躊躇してしまう。


 己の汚い欲望で、彼女を汚してしまってもいいのだろうか。そんな事をしたら、また目の前から消えてしまうのではないだろうかと──そんな不安に苛まれるのだ。


 そう考えてしまうと、彼女を抱く事などとてもじゃないが怖くて出来ない。五年前はあれほど毎日のように深く交わしていた口付けですらも、今では時折、軽く触れる程度にしか交わす事が出来なくなっていた。


 本当は今すぐにでも、彼女の全てが欲しいのに──。



「……トキさん?」



 ふと、セシリアが不思議そうに呼びかける。その声によって、神妙な顔付きで物思いに耽っていたトキは我に返った。



「……!」


「……大丈夫ですか? 眉間に物凄くシワが……」


「……あ……、い、いや……」


「……ふふっ。トキさんったら、いくつになっても分かりやすい人ですね。何か悩んでる事があるんでしょう? お見通しですよ」



 やがてセシリアは優しく目を細め、トキの眉間にそっと触れる。そこに刻まれたシワを伸ばして「ほら、怖い顔」と悪戯に笑うその表情ですらも、彼の視界にはあまりに眩しく映った。


 ただ傍に居るだけで、こんなにも心安らぐ存在は他に居ない。『永遠に失った』のだと、長らく思い込んでいたからだろうか。


 トキは愛おしげに目を細め、眉間に触れているセシリアの手にそっと自身の手を重ねる。“死の十字架”が消えた華奢な手を握れば、当たり前に細い指が絡んで握り返された。


 たったそれだけの事で、幸せだと感じる。

 こうして隣に居てくれる事が、ただ、愛おしい。



「……俺は、一生……アンタに適わないな」


「え?」


「……どうしようもないぐらい、アンタに惚れてる……」



 らしくもない言葉を呟いた、直後。トキは握っていたセシリアの手を強く引き寄せた。そのまま倒れ込んできた体を腕の中に閉じ込めて、湯上がりで火照った彼女の肩口に顔を埋める。


 セシリアは頬を赤く染め上げ、早鐘を刻み始めた胸の音に耳を傾けながら戸惑いがちに口を開いた。



「と、トキさん……」


「ん?」


「……い、椅子から、落ちちゃいます……」


「落ちたら俺が受け止めてやるよ」



 トキは冗談混じりに笑ったが、すぐに体勢が辛そうな彼女を軽く抱き上げると自身の膝の上へ導く。そのまま再びセシリアの肩口へと顔を埋めれば、どくどくと早鐘を刻む鼓動の音が耳に届いた。



「……ふっ……心臓の音、速すぎだろ。何緊張してんだよ」


「だ、だって……」


「何?」


「……す、好きな人に、抱き締められたら……ドキドキするに決まってるじゃないですか……」



 セシリアは消え去りそうな声でトキの耳元に唇を寄せる。“好きな人”──ただそれだけの一言にここまで胸が踊るのだから、本当にどうしようもない。

 熱を帯びる頬と忙しない胸の高鳴りですらも心地よく感じてしまいながら、トキは肩口に埋めていた顔をもたげて至近距離にある彼女の瞳を見つめた。



「……顔、耳まで真っ赤」


「だ、だって……」


「可愛い」



 優しく微笑み、トキは不意にセシリアの唇を塞ぐ。彼女は驚いたように一瞬身を強張らせたが、すぐに緊張を解いて彼の口付けを受け入れた。


 しかしやはり、トキは自分の欲をセシリアに押し付ける事を酷くおそれていて。彼女の唇の表面だけを軽く啄んだ後、すぐに顔を離してしまう。



「……!」


「……もう、寝ようか。セシリア」



 やがてそう呟いたトキは、腕の中からセシリアを解放しようとした。──だが、その刹那。


 不意に伸ばされた白い腕が、彼の体をがしりと捕まえてしがみつく。



「……っ、!?」



 ぎゅう、と強くしがみつく彼女に、トキは大きく目を見開いた。程なくして「な、何だ? どうした……?」と彼が問いかければ、その声を遮るようにセシリアは「嫌です……」と言葉を被せる。



「は……?」


「まだ、離れちゃ嫌……」


「……!」


「……ねえ、トキさん……どうして?」



 ぽつりとこぼれ落ちる、彼女の言葉。セシリアは瞳を潤ませ、困惑するトキの顔を見上げた。



「どうして、ずっと……、私に触ってくれないの……?」



 不安げに紡がれた言葉と共に、セシリアの瞳がぐらりと揺らぐ。トキは背筋を冷やし、思わず声を詰まらせた。



「……私……、今、すごく……幸せです。だけど……」


「……っ」


「もっと、ちゃんと……トキさんに、触れて欲しいの……」



 欲深いでしょうか……? と問い掛けるセシリアの瞳は、やはり今にもこぼれ落ちそうな程にぐらぐらと揺らいでいる。トキは息を呑み、一瞬下唇を噛んだ。暫くして「違う……」と呟いた彼は、小さな声量でぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。



「……欲深いのは、俺だ……」


「……え?」


「アンタは、この五年間……俺の信じる、唯一の“神様”だったんだ。一度失ってから……どんなに一瞬でもいいから、アンタにまた会いたいって……、ただ会えれば、それだけで良いって……ずっと、そう思ってた……」


「……」


「それで、ようやく今……こうして“神様”に会えてる。……なのに、これ以上の幸せを望むなんて……そんなの、あんまりにも傲慢で、烏滸おこがましいだろ……?」


「……トキさん……」


「……っ……、でも……っ、それでも、俺は……!」



 トキは表情を歪め、セシリアの目を見つめる。額同士がこつりと合わさり、鼻先が触れ合う中、トキは掠れた声で続けた。



「──アンタが、全部欲しい……」


「……!」


「セシリアに触りたいって、そればっかり考える……。でも、あれだけ『一瞬会えればいい』って願っておいて……いざ手に入れたら、もっと強欲に、アンタの全てを望んで……俺の欲を押し付けるなんて……」



 そんなものは、神への冒涜ぼうとくだ──と。そう紡ぎかけたトキの唇は、突如セシリアのそれに奪い取られた。



「……っ!?」



 突然の事態に、トキは思わず目を見開いて硬直する。そのまま固まってしまった彼が反応出来ずにいる隙に、薄く開いていた唇から捩じ込まれた舌が拙い動きで彼の歯列をなぞり始めた。


 そこでトキはようやく我に返り、ぎこちない動きで舌を絡めてこようとするセシリアの体を強引に引き剥がす。「お、おい!」と焦ったように声を発したトキだったが──凛と澄んだ翡翠の瞳に見つめられ、彼は息を呑んだ。



「……トキさん。私はね、神様じゃないよ」


「……っ」


「私はもう、。そして、あなたの恋人です」



 セシリアは優しく告げ、トキの手を握る。そのまま彼の手を自身の頬へといざない、柔らかなその場所にそっと骨張った手を触れさせた。



「触っていいんだよ。あなたが望むなら、いくらでも」


「……っ、セシリア……」


「私の身も、心も、これから生きていく長い人生トキですらも──もう、全てあなたのものです。欲深いだなんて思いません。だって、と触れ合いたいと思う事は……自然な事でしょう?」



 セシリアはそう言って、またトキの唇に自身のそれを重ねる。一瞬触れて離れた熱が、あまりに名残惜しくて。トキは切なげに表情を歪めた。

 未だ罪の意識が拭いきれない彼の背中に、セシリアはただ優しく、導くように手を添える。



「──私は、あなたに触れられたいです。トキさん」



 ややあって、彼女の唇が紡ぎ出した言葉。その優しい声と笑顔が、トキの胸を強く締め付けて。


 気が付けば彼は、セシリアの身体を横抱きに抱え上げ──近くのソファーの上へと、華奢な背中を強引に押し付けていた。セシリアは一瞬身を強張らせたが、揺らぐ薄紫色の瞳と視線が交わって、すぐにその緊張感が解ける。


 彼女は愛おしげに目を細め、トキの後頭部へと伸ばした手で、彼の柔らかな黒髪を撫ぜた。



「……大丈夫。ちゃんと、ここに居るから」


「……っ……、もし……、もしも、俺が、このまま……っ、アンタの全部を、求めても……」


「うん」


「……消えないで、いてくれるか……?」


「……うん。消えないよ。約束します」



 ──ずっと、あなたの傍に居る。


 セシリアがそう言って頷いた瞬間、トキは即座に彼女の唇を塞いだ。僅かに開いた唇の隙間から舌を捩じ込み、荒々しく彼女のそれを絡め取る。セシリアもまた、辿々しいながらも懸命に、彼から与えられる激しい口付けを受け入れた。


 熱を帯びた吐息が互いの唇から漏れる狭間で、トキはセシリアのワンピースの中へと手を滑らせる。素肌の上を伝う彼の手の感触に、彼女はぴくりと肌を粟立たせた。



「……っ」


「……セシリア」


「っ……、は、はい……」


「……悪い……正直……、優しくしてやれる自信がない……」



 トキは飢えた情欲のけぶる獣のような眼でセシリアを見下ろし、たくし上げたワンピースを剥ぎ取りながら告げる。やがて下着までも取り去られた彼女は恥ずかしそうに身をよじったが、頬を真っ赤に染めながらも小さく頷いた。



「……うん。大丈夫。……トキさんの、好きなようにしてください」


「……っ」


「平気ですよ。だってトキさんは、私に酷い事なんてしないもの。少しぐらい乱暴でも、きっと……心から優しくしてくれます」



 ね? と微笑む彼女に、トキは自身の唇を強く噛み締める。


 心底胸が痛むが、トキはその言葉に頷いてやれるほどの器量を持ち合わせていない。五年分の空白を一刻も早く埋めたくて、欲は自身の腹の中に今も黒くくすぶり続けているのだ。加減など出来ようものか。


 トキは苦い表情で黒いインナーを脱ぎ捨て、セシリアの白い素肌を見下ろす。このまま滅茶苦茶に抱き潰してしまいたい衝動に寸前で蓋をして、彼はセシリアの華奢な身体を強く抱き締めた。


 互いのへそが密着し、持て余すほどの熱が伝わる。その温度を感じて──つい、目頭が熱くなった。



 ──ああ、君が生きている。



「……セシリア」


「なあに?」



 長い空白の夜を越え、ずっと彼女を求めていた。

 その手の温もりに触れたくて。もう一度、抱き寄せたくて。


 ただ傍にいるだけで良い。これ以上を望むのは、己の欲を押し付けるのは罪なのだと──そう思っていたけれど。


 彼女が『触れていいよ』と言うのなら。

 その両手で、醜い欲ごと自分の全てを受け入れてくれると言うのなら。


 この持て余した渇きの全ては、きっと、“神様きみ”の言うとおり──罪などでは、ない。



「……セシリア……」


「はい」




「──愛してる……」




 情けなく掠れた声で、心からの愛を紡いで。彼はようやく、その白い肌に触れる。


 幸せそうにはにかんだセシリアは、ただ優しく目尻を緩めてそれを受け入れ──二人の間でぽっかりと空いたままだった五年分の空白は、重なる体の熱によって、少しずつ埋まっていったのであった。




 * * *




 ──それから、数ヶ月後。



「……なあ、トキってさあ……」


「あ?」


「いつ、コウノトリさんにお願い事したの?」


「……は? 何が?」


「え、知らないの? ──セシリア、お腹に赤ちゃんいるらしいよ?」


「ブッ!!」



 ティオから発せられたとんでもない爆弾発言によって、再びトキがぬるい紅茶をその口から噴き散らかす事になったのは──また、別のお話。




 .


〈番外編/神様の言うとおり …… 完〉

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ラクリマの恋人 umekob.(梅野小吹) @po_n_zuuu

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