第3話:絶望と希望とカンタータ
6月。2日ほど前に梅雨入りを発表した気象庁を嘲笑するかのように、病室の窓からは眩い太陽光線が射し込んできた。
入院してから早1年。聴覚はほぼ失われ、定期的に身体を襲う激しい痛みが僕の精神すらも破壊しようとしていた。
倦怠感や虚無感に囚われ、あんなに好きだった音楽すらも今の僕には必要なかった。医師には「いつ死んでもおかしくない」と告げられ、完全に塞ぎ込んでしまった。
ふと、病室の扉が開いた。
そこには、久しい顔があった。
僕の床に近づいてくる彼は、何やら僕に話しかけてくれているみたいだが、あいにくほとんど聞き取れなかった。
「何しにきたんだよ」
口から出たのは自分が思ったよりもきつい言葉だった。だが、それがどんな風に響いたのか、それすらも今の僕には分かりようもないのだ。
どうしてこんなにも冷たく当たってしまうのだろう。何が僕をそうさせるのだろう。
彼は少し怪訝そうな顔で何か言っていたので、僕は机の上に置いたスケッチブックとペンを手渡した。
「もう、耳ほとんど聞こえないから。なんか用があるならこれで話して」
彼は早速ペンを走らせた。
『病状はどうだ?治りそうなのか?』
その文字を見た瞬間、僕の中で何かが溢れ出した。今まで一滴ずつグラスに注がれたあらゆる感情の雫が、とうとう溢れ出したのだ。
「久しぶりに来たと思ったら何だ、笑いに来たのか?音楽も、明るい未来も、なにもかも失った哀れな同級生を!」
喉から絞り出された感情の鉛玉が、西岡を貫いた。
果たしてそれが本当の僕の声だったのだろうか。心の底からの声だったのだろうか。
『ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど。今日は、帰るね』
普段の彼からは想像もできない淡白な文章だった。
太陽のような彼が、今日はまるで岩石のように無機質で真っ黒に見えた。
「待って」と言うあまりにもか細い声に振り向くこともせず、彼は病室を後にした。
外ではいつのまにか強い雨が降っていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼が居なくなった病室で、僕は唯々泣き続けた。どうしてあんなことしか言えなかったのだろう、と酷く打ちひしがれた。
去年の冬、受験を前にして切羽詰まった状況でも彼だけは笑顔を絶やさずに僕を励ましてくれた。普段はそれほど仲が良かった訳でもないのに、週に3回は病室に来てくれた。
先程も僕は彼を太陽だと形容したが、その時の僕にとっては太陽よりももっと暖かい大切な存在だった。
それなのに、今の僕と来たら。
志望校だった隣町の難関国公立に合格し、彼女も作って、まさに人生の絶頂を迎えた彼を僕は羨んでいた。いや、もしかするとそれは憎しみに近かったのかもしれない。
音楽の道を絶たれ、死という禍々しい一文字を目の当たりした僕は、いつしか太陽を憎んでしまうほどに塞ぎ込んでいたのかもしれない。
分からない。全くもって自分が分からない。誰が僕を救ってくれるのだろうか。僕にとっての蜘蛛の糸とは何なのだろうか...。
そんな時、脳裏に一人の女性が浮かんだ。儚く、今にも消えてしまいそうな美しい女性だ。
「レイさん...今何処に...」
震え上がった独り言が、雨音に晒された病室に消えた。
「ハルくん、無事かしらね...」
タクシーでの移動中、私は数ヶ月前に病室で出会った不思議な少年のことを想起した。
彼に出会ってから、絶えずこんな調子だ。
無理もない。彼だけはずっと私を知っているのだから。
「またそれですか、先生。気になるのも分かりますが、今は大切な時期です。そちらに集中してください」
助手席の
私の『24時間で忘れられる』という体質は、あくまでも忘れられてしまう、即ち記憶の奥底に眠ってしまうだけなのだ。
だから、1日のほとんどを共に過ごしている藤は、私を忘れてしまっても、顔や声、そして臭いなどからすぐに私を思い出すことができるのだ。
これまで何度も会ったことのある人は5分ほど会話すれば思い出してくれるようなケースもあった。
だけど彼は、
出会ったこともなかったし、私の音楽はほとんど聞いたことがないと言っていた。
それなのに私は彼の記憶の中にいた。それは紛れもなく、彼が私を忘れてなどいなかったことを物語っていた。
「先生、着きましたよ」
気がつくと、タクシーは目的地の『
今日はここで音楽祭がある。年に一度、6月の初旬に『兼季音楽祭』と銘打って名だたる有名音楽家たちが器楽、声楽、オーケストラと豪華なパフォーマンスを披露する場だ。
私は、ピアノ用のソナタなんかを作っている身だが、今日は声楽での出演だ。
そもそも舞台の上に出るのは初めてだ。知り合いのピアニストの熱い推薦によって特別出演が決まったという形なのだが、ポスターにやホームページには仰々しく『あの幻の音楽家が初出演!』とか『スペシャルゲストによる、超豪華カンタータ』などと書かれていて、私の緊張はマックスレベルに達していた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「やぁ、
待合室で私に声をかけたのは、私をこのイベントに誘った張本人、ピアニストの
「アンタが誘ったんじゃない」
「でも、ここに来たのはあなた自身だ」
相変わらず調子が狂う。私はこの人がどちらかというと嫌いだ。昔からよく仕事をしているが、何というか尖りすぎているのだ。
「それで、何で私に唄なんて歌わせようとしたの?」
オファーの際には上手くかわされてしまった質問を今一度投げかけた。
「そりゃあ、ピアノは僕が弾くんだからあなたは歌うしかないでしょう」
「あぁ...そうじゃなくて、私の体質を知ってて何でわざわざ舞台の上に立たせようとしたのかって話」
「あなたは『幻の音楽家』と言われて嬉しいのか?」
彼は怪しくにやっと笑みを浮かべた。
「あなたは確かに存在しているんだ。それは僕が保証する。それなのに世界はあなたではなく、あなたの音楽ばかりを評価する。無論、自身の認知度と音楽家の評価は比例しない。だけど、誰にも知られないままにしておくにはあまりにも勿体ない才能だと思うんだ。だから、あなたという存在を『声』を使って証明したかった。あなたを『幻』だなんて呼ぶ人々に、あなたという存在を刻みつけたかったんだ」
彼は手を広げて、いかにも自信ありげにかく語る。
私という存在...。
それは、自分自身でも忘れそうになっていた大切なことだった。
私は『幻』なんかじゃない。紡木レイは、確かにここにいるんだ。
不覚にも涙が零れた。まさか彼に泣かされるなんて。
「どうして泣いてるんだい?あなたに涙は似合わないよ」
「...アンタのせいよ。全く、余計なことしちゃって。今日の舞台、最高のものにしようね」
そう言って私は吾川に右手を差し出した。
「えぇ。もちろんです」
吾川は左手でそれを握り返した。
厚い雲が太陽を隠し、街中に強い雨をもたらす。私はそれを吹き飛ばしてやるくらいの歌声を届けようと意気込んだ。
それは、観客に、吾川に、自分自身に、そして、あの少年に届ける『希望』のカンタータだ。
星月夜のアリア 都石ヱル @Miyakoishi_L
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