第2話:心に旋律を
私は私が嫌いだった。でも、私の嫌いな私は私を嫌いになれなかった。
あの日出会った、一人の少年を除いては。
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昼下がりの春光が優しく窓辺を暖める。時は4月、出会いと別れの季節。
桜並木を颯爽と過ぎる、新しい制服の数々。
私は窓を開けて、心地よい春風に身を委ねる。そして、塞ぎ込んだ自室の空気を入れ替えながら、甘く新鮮な酸素を思い切り吸い込んだ。
安らかな肺の伸縮を感じ、心なしか嬉しくなった。
「先生、さてはお昼寝を?」
しかし、喜びもつかの間。背後から藤が鋭く指摘した。先程から視線を無視し続けていたが、どうやらそう上手くはいかないようだった。
「無言は肯定とみなしますよ」
そう、私は昼寝をしていた。〆切間近の譜面の上に突っ伏して(涎の後がついてしまったことは黙ってあるが)。
私を叱責した藤は、やれやれと言わんばかりに溜息を吐く。
「し、仕方ないでしょ。叱るなら私じゃなくて春の陽気の方よ」
「確かに、ついこの前までの寒さが嘘のようですね」
今年は2月頃までこの辺りの気温は例年よりもかなり低かった。朝は零下5度ほどまで下がり、私が布団から出るのを阻んでいたのは記憶に新しい。
「まぁ、以後は気をつけるわ」
「えぇ。何せ先生には『時間』がありませんからね」
『時間がない』。その言葉の意味は誰よりも分かっていたつもりであった。もう全て受け止めたつもりであった。
しかし、いざ目の前に突きつけられたそれは、幾千もの鋭利な刃物のように思えた。
目を逸らすことすら憚られる悲痛な現実に、私は身動き一つ取ることができないのだ。
「分かってるわ...。だから、もう二度と...」
言い切らないうちに身体中の力が抜け、私はその場に倒れこんだ。
ここ数日の疲労と抗えない恐怖の板挟みが、知らない間に私の心身を引き裂いていたことにこの時初めて気がついたのであった。
やはり病室は窮屈だ。牢獄だとまでは思わないが、3ヶ月も同じ寝台にいると、気が狂ってしまいそうな瞬間が少なからずあった。
時は4月。本来なら高校を卒業して、音大生デビューをしているはずであった。
しかし、未だに原因不明の謎の病が僕の身体をやけに清潔なこのベッドに縛り付けていた。
窓の外は河川敷の桜で一杯だった。今の僕には眩しすぎる美しさだ。
「お花見なら特等席なのに」
哀れな独り言が余計に僕の心を沈ませる。言わなければ良かった。
「やっぱり窓際の景色は綺麗なんだ。私も窓際が良かったなぁ」
ふと、隣のベッドから女性の声がした。
そういえば、昨日この部屋に誰か運ばれてきていたことを思い出した。その頃には薬のせいでほぼ眠っていたので、名前も顔も性別すらも知らなかった。
「あ、ごめん。初めましてだったよね。私は、紡木レイ。君は?」
補聴器があっても聞き逃してしまいそうなほど儚く、細く、透き通った声で彼女が訊いた。
「...
「ハルくんかぁ。いい名前ね、よろしく。ねぇ、ハルくん。音楽好きだよね?」
毎晩、子守唄にしている『夜の女王のアリア』が聴こえていたのだろうか。
ただ肝心のその質問に対しては、今はなんと答えていい分からなかった。確かに音楽は好きだ。でも、今はそれを前向きに考えられそうにもなかった。
「分かりません」
「分からない?どうして?」
「答えたくありません」
「...そう」
「あの、間違っていたら失礼なんですけど、もしかしてレイさんってあの音楽家の紡木レイさんですか?」
先程、名前を知った時から気になっていたことを尋ねてみた。
メディアにもコンサート会場にも一切現れない幻の天才女流音楽家、紡木レイ。一部では架空の人物説まで浮上している。
しかし、彼女の作る旋律は本当に美しく、世界中で多くの人の心を魅了している。
「...」
しかし、彼女からの返事はなかった。同姓同名の別人であったのだろうか。
「...少し話があるわ」
噛みしめるように絞り出された声は、何故か震えていた。
何か不味いことを聞いてしまったのだろうか。
「分かりました。ただし、僕は聴覚異常なので筆談でも構いませんか」
「聴覚異常だったんだ。デリカシーがなかったわね。ごめんなさい。そういうわけなら、筆談でいいわ」
そう言って彼女は、紙とペンを持って僕のベッドにやってきた。
綺麗な栗色の髪、白く澄んだ肌、黒く大きな瞳。まるで彼女の音楽のように、全てを包み込むような美しさだった。
「なんてこわい顔してるのよ。大丈夫、食べないから。肩の力を抜いて」
優しく香る声が身体中に染み渡る。
彼女なら分かってくれるかも知れない。
僕を救い出してくれるかも知れない。
仄かな期待感に胸の高鳴りを感じた。
・4/21(木) 天気:晴
私は気絶した後、近くの病院に運ばれていた。病名は『過労』。数日の検査入院ですぐに退院できるらしい。
そこで、幸か不幸か偶々同じ部屋に入院していた結城ハルという少年に出会った。
彼の枕元のラジオから『夜の女王のアリア』が聴こえてきたから、きっと彼は音楽が好きなんだろうと思った。
次の日に彼に尋ねると、彼は「分からない」と答えた。
「どうして?」と聞くと、「答えたくない」と答えた。
しかし、驚くべきことに彼は私のことを知っていた。私を忘れていなかった。
それから私は彼と話をした。彼は原因不明の病で、聴覚が弱ってきているらしいので、筆談だった。
私は彼に自分の体質や彼自身が『私を忘れない特別な人』だということ、それから好きな音楽の話をした。
彼は不思議そうにしながらも、なんとか受け止めてくれた。
彼も私に病気のことや、悩んでいること、それから好きなオペラの話をしてくれた。
短い時間だったが、私は少し彼を幸せにしてあげたいと思った。
彼の塞ぎ込んだ心に、ささやかな旋律を送りたいと思った。
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