第1話:それぞれの朝、それぞれの音楽

 —誰も彼女を知らない。しかし、誰もが彼女の音楽を知っている。











「ピピピピピピピ....」


 軽快なファ♯の電子音が朝の訪れを告げる。

 私は、その音を止めて布団の抱擁を解く。身体は動きたくないと主張するが、私には今日のうちに終えなければならないことがあった。

 凝り固まった筋肉を強引に動かして、朝餐の待つリビングへと向かう。


「お早うございます、紡木つむぎ先生」


「あら、お早う。今日の朝食は何かしら?」


 寝ぼけ眼で執事に尋ねる。


「本日は...」


 執事は丁寧に献立を伝えた。だが、疲れのせいかそのほとんどが耳に入ってこなかった。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 食事を済ませた私は、早速自室へ向かった。

 昨晩書ききれなかった譜面の続きを書かねばならないからだ。

 それが、私の生きている意味だからだ。

 明日になれば、全ての人間は私を忘れる。そしてまた、私は私では無い誰かに成りかわる。


「紡木先生、残り4時間でございます。お急ぎください」


 先程から私にそう語りかけるのは、執事のフジだ。

 とても記憶力のいい彼は毎日私を忘れるが、毎日私を思い出してくれる。

 彼曰く、嗅覚は最も記憶と結びつくのだとか。


「分かってるわよ。しばらく用はないから庭の水やりでもしてなさい」


「かしこまりました」


 藤は相変わらずの無愛想で立ち去る。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ようやく一人だ。私は、脳内で旋律を描く—空気や匂い、机の木目、その全てが私にとっては音楽となった。

 安らかな妄想と幻影に抱かれて、五線譜を黒が縦横無尽に駆け巡る。

 それが一つになる度に、私は今まで感じたことのない永遠のような波に心を震わせるのだ。

 暖かい波、冷たい波、美しい波、醜い波。

 形や色は違えどそれは私の音楽なのだ。紛れもなく、音楽なのだ。












「よう、ハル!元気してるか?」


 病室へとお見舞いにやってきた太陽のように明るい彼はクラスメートの西岡にしおか。クラスでもその明るさで受験に追われてピリピリしている教室を和やかなムードに変えている。


「まぁ今のところ身体は全く異常ないかな。右耳がちょっと聞こえにくいけど」


「そっかぁ...お前も大変だよな」


「仕方ないよ。誰も悪くないんだし。いつかは誰かがなるはずだったんだから」


 そんな風にわざとネガティヴになってみた。


「ったく...お前は。元気出せよ!言ってたろ、世界一の音楽家になるんだって」


 彼はやはり凄い。病院の人間はおろか、親も、もしかすると自分自身すらも諦めかけていた夢をいとも簡単に笑って言葉にできるのだから。


「...そうだね。その時に耳が聞こえてたらね」


「だからそう悲観的になるなって!それにあれだろ?耳が聞こえなくたってベートーヴェンは曲書いてたんだろ?」


 僕はベートーヴェンじゃないし、この状況じゃ悲観的になってしまうだろ。

 でも、彼はそれでも笑い続けていた。

 だけど決して嫌ではなかった。むしろ嬉しかった。

 僕を誰よりも応援してくれている、そんな風に思えた。


「そんじゃ、塾行かないとだからそろそろ帰るな。明日も明後日も絶対くるからな!」


 彼が病室を出た後、僕は涙が止まらなかった。彼はあんなにも笑っていたのに、僕はどうして泣いているのだろう。

 そう考えれば考えるほど余計に自分という人間の不幸さを呪いたくなる。

 もし、耳が正常だったら。もし、彼みたいに笑えたなら。叶いもしない『たられば』が脳裏をびっしりと埋め尽くした。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ふと、耳元で何度も聞いた美しい歌声が流れ始めた。

 音源に目をやると、そこにはラジオがあった。眠っていた間に母が置いてくれたらしい。

 これは僕が最も好きなオペラ・魔笛の『夜の女王のアリア』だ。身体の隅々にまで浸透するソプラノの響きに、復讐に燃える夜の女王の力強い言葉が綴られる。

 初めて母親と観に行ったオペラで聴いたこの美しくも刺々しい音楽に一瞬にして心奪われたのである。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 それからしばらくラジオに聞き入っていた僕は、気がつけば再び眠りに就いていたようだ。

 次に目を覚ますと、そこにはやけに明るい天井があった。やはり見慣れない天井だ。

 病室は窮屈だから、早く抜け出してしまいたかった。

 だけど、僕の身体がそうはさせなかった。

 未だに病名も原因も分からない謎の災禍が、僕の知らないところで僕自身を蝕んでいた。

 聴覚は少しずつ失われ、ときたま身体中が裂けるように痛み、命の危険もあるのだとか。

 それでも僕は本物の僕のままでありたかった。音楽が好きで、勉強も部活もそこそここなして、女の子とも適度な距離を保てる今の自分がそれほど嫌いではなかった。

 だからこそ、僕は幸せだと胸を張れるようになりたかった。














 彼女と出逢ったのは、それから3ヶ月ほど後のことであった。

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