第43話 終尾

「ああ、ちょっと色々あってさ、引っ越すことにしたんだよ」

「へー、何だよ。オバケでも出たのか?」

 ケラケラと笑う電話の向こうの池内に、川野は一息ついて返した。

「・・オバケって、そんな訳ねえだろ。ガキじゃねえんだから」

「はっはっは、新生活を始めた部屋は実は事故物件でした!、ってオチかと思ったよ」

 道端の石ころを蹴飛ばしながら、緩んだ空気に安堵する。

「それで、どうすんの?どこに引っ越すんだ?」

「ああ、隣の区だよ。職場もそっちの方が近くなるし、便利だと思って」

「なんだ、転職した訳じゃねえんだな。てっきり仕事辞めたから引っ越すのかと思ったぜ」

「馬鹿言うなよ。就職してまだ半年も経ってないんだぜ。俺だってそこまでヤワじゃねえよ」

「ははは、そうだな。でもよ、俺マジで考える時あるぜ。こんな職場辞めてえよってな。この前も人前で怒鳴られちまってさ。勘弁してほしいよ全く。その前もさ——」

 久しぶりの親友との会話に花が咲く。変わらぬ底抜けに明るい口ぶりににやけていると、おぼろげな記憶を頼りに目指していた目的地が目の前に現れた。

「あ、ちょっと待っててくれ」

 一旦携帯をポケットに突っ込むと、おもむろにバッグから封筒を取り出した。念入りに汚れていないか確認した後、丁寧にポストに投函する。

「おい、どうしたんだ」

 ポケットの中で電子音声の池内が小さく喚いている。

「ああ、何でもねえよ。ちょっと届け物があってさ。それよりもお前、いつ彼女紹介してくれるんだよ」

「はあ?」

「なんだよ、いつか電話で自慢しようとしたろ。どうなったんだよ」

「・・ああ、もう別れちまったよ」

「ええっ、もうかよ!早っ!」

「うるせえな!別にいいだろ!傷心中なんだからごちゃごちゃいうな!」

「はっはっは、分かったよ」

 たわいもない会話を続けながら、街を行く。この道を通ることはもう無いだろうな。そんな思いを噛み締めながら、いつもよりゆっくりと歩を進めた。






「ええ、図面は返しに行きました」

「そうか、でもあんなもの。返さない方が良かったんじゃないか?」

 沼崎の声色は相変わらずボヤボヤとしていたが、それも普段の調子が戻ったということだろう。

「さすがにそのままじゃないですよ。出来るだけ血を落として、白黒コピーで印刷し直しました」

「そうか、まあ元から返さなくてもいいと言われてたし、構わんだろう」

 人が誠心誠意の対応をしたというのに、いつもこの男は一言余計だ。

「それで、その恰好。もうこの街を出るのか?」 

「はい、これから引っ越し先に行くところです。隣の区へ。それで、最後に挨拶しようと思って」

 部屋を見渡す。沼崎もどうやら準備しているようで、あちこちに大きなダンボールが積まれている。恐らく中には大量の本が詰め込まれているのだろう。少ない荷物だった自分は格安の引っ越しプランで済んだが、これほどの荷物だと値が張るだろう。

「沼崎さんも、引っ越し先は見つかったんですか?」

 顔を戻すと、沼崎はなぜか手で顔を抑えていた。まさか、涙を流しているのだろうか。

「・・・ああ。もうずっと会っていなかったが、親父の地元の方に身を寄せる。逃げてばかりだったがいい加減、向き合う時だ」

 声色はほんの少しだけ震えていた。意外とこの男は、センチメンタルな心を持っているのだろうか?

「・・じゃあ、これが最後になりそうですね」

 発した後、自分もほんの少し声が震えていることに気が付いた。咳をひとつ小さくして誤魔化すと、立ち上がってバッグを背負う。

「色々とありがとうございました。なんていうかその・・・、助けられてしまって」

 上手く言葉に出来なかったが、それは間違いなく本心から絞り出したものだった。

「ああ」

 謙遜のかけらもない短い一言だったが、今となってはその裏に滲む本心が透けて見える。もう何もごちゃごちゃと言う必要は無いだろう。

「それじゃあ」

 心の中でほくそ笑みながら、部屋を出ていこうとドアノブに手を掛けて、はたと思い出した。ポケットに手を突っ込みながら、引き返す。

「沼崎さん」

「ん?」

「これ、持っていてください」

 ポケットから、塩ビ色のキャップを取り出し、差し出した。

「なんだってそんなもの、俺によこすんだ」

「別にいいじゃないですか。なんとなくです」

「・・ふん。余計なものを押し付けやがって」

 渋々と、だが、どこか嬉しそうに受け取る沼崎を見て、川野はようやく跡が濁らないように水源荘を出ていけるような気がした。







 沼崎に別れを告げた後、水源荘を出てバス停を目指して歩いていると、何の変哲もない見慣れた街並みが何故か名残惜しくなった。

 何故そんなことを思うのか、答えはすぐに分かった。この街には何も名所や観光地がないからだ。恐らく、今後の人生でこの街に立ち寄ることはないだろう。交通面でも、わざわざこの街を通る必要もない。

 つまり、この街に二度と戻ってくることはない。

 たいして愛着もないと思っていたが、半年も過ごせばどうやら情が湧くらしい。もうこの道も、ここから見える景色も、二度と体感することはないと思うと、どこか寂しく感じた。

 物哀しさを紛らわそうとして、抱えていたボストンバッグから2リットルのペットボトルを取り出した。中には濡らした水草に混じって、旧友がいつものとぼけた顔をしている。

「お前はやっぱり、だから喰われなかったのか?」

 尋ねてみるが、急に馬鹿馬鹿しくなり、顔を背けた。道端でペットボトルに話しかけるなんて、変に思われてしまう。

「川野君っ」

 急に名前を呼ばれ、身体がビクついた。振り返ると、大きな荷物を背負った若い女性がこちらに駆け寄ってくる。

「・・・イズミさん?」

 一目ではイズミだと分からなかった。げっそりとしていた顔は血色を取り戻し、きついピンク色のメッシュが入っていたパサパサの黒髪は、明るい艶のある茶色に染められていた。服装も毒々しいカラーリングではなく、シンプルなブラウンの革ジャンを着こなしている。背負っていたギターケースによって、かろうじて判別できたほどに、イズミの容姿は変貌していた。

「何、分からなかったの?」

「い、いえ。そういうわけじゃ」

「はは、まあしょうがないか。だいぶイメチェンしたし」

 イズミはケロリと笑った後、怪訝な顔をしながら尋ねた。

「それ、何なの?」

 視線の先には抱えていたペットボトルがあった。

「あっ、えっとこれは、・・ペットのイモリです」

「・・・まさか、それって」

「ち、違いますよ。前から飼ってたんです」

 イズミの顔は怪訝な表情のままだったが、やがて柔らかくはにかんだ。

「はは、もう、紛らわしすぎるでしょ」

 釣られて表情が緩む。妙に思われなくて良かったと安堵していると、イズミも手に大きな荷物を抱えていることに気付く。

「イズミさんも、この街を離れるんですか?」

「うん、その・・、色々とやり直そうと思って」

 そういえば、あの毒々しいエレキギターはイズミ自身の手によって派手に叩き壊されたのだった。すると、今背負っているギターケースには、あのアコースティックギターが収められているのだろうか。

「・・自分もです。ここじゃ、色々とあり過ぎて。やり直すって、バンド、続けるんですか?」

 イズミは小さく笑った後、ギターケースをしみじみと眺めた。

「うん、みんないなくなったけど、そっちの方が良かったのかも。もう一回だけ、今度は自分の好きなようにやってみる。・・どうなるかは分かんないけどね」

 いつかと同じように、自嘲気味な笑みを浮かべていたが、イズミの瞳には凛とした決意が宿っているように見えた。

「自分も、って事は、川野君も出ていくの?」

「ええ、隣の区に引っ越すんです。沼崎さんも、もうじき出ていくって言ってました。あんなことがあったら、さすがに・・」

「そっか、・・じゃあね」

 急いでいるのか、イズミはギターケースを背負い直すと、小さく手を振って歩いて行った。今まで燻っていた名残惜しさが急にぶり返し、子供のような目で去り行く背中を見つめていると、不意にイズミが振り返った。

「ねえ、川野君」

 いつしか、感じた儚さが再び漂う。

「・・・ありがとね」

 イズミの顔はどこか飢えており、それでいて満足そうだった。それだけ言うと、また前に向き直り、イズミは街へと向かって歩いて行った。

 その場に残され、立ち尽くした川野は、イズミの姿が街の雑踏に消えるまで、希望を込めながら見送った。とうとう姿が消え去り、夕方の騒がしい街の喧騒に辺りが包まれると、空を見上げた。イズミの消えていった街並みに、やや早い夕暮れのオレンジが透き通るように溶けていた。

 ふう、と短く息を吐いた。ため息だろうか?その割には、疲れや寂しさ、孤独を感じない。

 向き直り、足を踏み出した。バス停という目的地を目指し、街を行く。何度も通った住宅街を突っ切れば、もう見えてくる頃だ。

 歩を進めるにつれて、街の喧騒が遠くなっていく。噛み締めるように耳を澄ませていると、急に喧騒を切り裂いて、甲高い音声が遠くで響いた。

 これは、救急車のサイレンだ。何か遠くであったのだろうか。気にするまでもない。気にするまでも・・・。

 ・・・?

 なぜか胸騒ぎがした。なぜだ?こんなにも、晴れがましい気分になったは今までなかったというのに、なぜ胸騒ぎがする?

 もうこの街には、何もない。思い残すことなど。そう心に決めて、水源荘を発ったのだ。水源荘。もうあそこで人が死ぬことはない。この世のものならぬものと対峙し、鎮めたのだから。かつて、杜の大井戸に宿っていた、古の水神を。

 ・・杜の大井戸。そう、その跡地にできた水源荘。水源の跡地に建ったからこそ、水源荘と銘打たれたのだろう。


 水源?


 —————井戸水じゃない。新築当初から上下水道だ。


 突如、沼崎の言葉がフラッシュバックする。

 上下水道。そうだ、水道管を伝って出る水道水。井戸の底に伏していた異喪裏は、どうやって蛇口から出でることが出来た?水道水・・。仕組みは同じだ。河川から取水して、それを濾過処理した後に、各地の配水管へと送られ、蛇口から水道水が出る。つまり、上下水道だろうが、水源は同じだ。




「ケヘへッ、ケヘへへへへッ」



 どこかで聞いた嘲笑うような声が、風のように通り過ぎた。振り返ると、見覚えのある大型のバンが猛スピードで街へと向かっていた。

 息を呑む。まさか・・・、事態は何も解決していなかったのか?自分も沼崎も、勝手に解決した気になって、悦に浸っていただけだったというのか?

 大型のバンが走り去っていった方を見る。やはり遠くで、サイレンの音は響いていた。

 そんなはずは———。

 前へ向き直るが、歩が進まずに立ち止まった。そんなはずはない、そんなはずはないのだ。断じて。

 ふと、抱えていたペットボトルを顔の前へ掲げた。先ほどと変わらず、中の旧友はとぼけた顔をしていた。濡れた体躯でうずくまり、きょろりと二対の眼で虚空を見つめ、鎌首をもたげている。


 だが、幾度となく見つめようとも、やはりその表情は読むことが出来なかった。


 諦めてペットボトルをボストンバッグに押し込むと、顔を上げた。いつの間にか夕暮れ模様は消え去り、空一面が雲に汚れていた。見渡す限り灰色で、今にも雨が降り出しそうな、晴れ間が見えそうな、どちらともとれない、そんな空模様だった。


「・・・構うもんかよ」


 他の誰でもない自分自身に一縷の望みを託し、一歩踏み出した。空模様など、俺が決めてやる。

 そう、灰色の空に向かって吠えるように誓うと、川野は長い影を引き連れて、街を後にした。

 

 

 

 




 

 

 

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異喪裏-イモリ- 椎葉伊作 @siibaisaku6902

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