第42話 帰結
川野が意識を取り戻したのは、翌日の事だった。
目を覚ますと、微かに既視感のある真っ白い天井が広がっていた。それは過去に一度運び込まれていた、あの病院だった。
傍らにはイズミが居り、なにやら喚かれていた気がしたが、覚醒したての頭では到底理解できなかった。ひとしきり喚かれた後、おぼつかない口で沼崎の名前を口走ると、イズミは乱暴に隣のベッドのカーテンを開いた。そこに眠り、息をしている沼崎の姿を見るなり、再び意識は途切れて数時間後、ようやく川野は本格的に目覚めた。イズミは今度は喚かずに、粛々とその後どうしたかを語りだした。
あの後、川野を気にかけながらも、部屋に戻り救急車を呼んだこと。その後、一階に駆け下りて、虫の息の沼崎を介抱したこと。その際、集まってきた他の住人に一体どういう状況なのか説明を求められ、そんなの私が知りたいと怒鳴ったこと。到着した救急隊員にも説明を求められたが、同じように対応したこと。二人を診断し、治療した医師に怪訝な顔をされたこと。軽症の自分は帰されたが、水源荘に居る気にはなれず、病院で二人の意識が戻るのを待っていたこと。
「・・・一体あれは何なの?」
「・・・説明しても分かってくれるとは思えませんけど」
防戦一方だった川野はどうにか事の次第を説明したが、最初から最後までイズミが言葉を発することはなかった。川野自身も自ら説明している内に、時折言葉を失った。あれは幻覚だったのだろうか?だが、そんな疑念も肌に蘇る粘液の感触と、目に焼き付いた異喪裏の姿にかき消された。
困惑しながら、知り合いの家を頼るというイズミを見送った後、程なくして沼崎が意識を取り戻した。病室にやってきた医師との会話をカーテン越しに聴いていると、どうやら喉と口内、食道を裂かれたように内部から傷つけられているようで、何故そんな傷を負ったのか、首を傾げられていた。当の沼崎も怪我のせいで上手く発声できないのか、濁音に汚れた声で覚えていないと繰り返していた。恐らくは自分と同じように、説明したところで理解などされないと考えているのだろう。
イズミと同じく困惑したままの医師が病室を去っていった後、川野は沼崎の傍らに着いた。
「沼崎さん・・・」
「・・・・わがっでる」
一言、そう呟いた沼崎の目は、全てを理解しているようだったが、どこか悲しそうだった。
「・・・あれが今まで水源荘の人間を襲ってたっていうのか」
数日後、退院していたが見舞いとして再び病院へ来訪した川野に、沼崎は開口一番問いかけた。まともな発音になっているところを見るに、だいぶ傷の方は癒えているのだろう。
「・・・ええ、恐らくは。伝承は、御伽話だと思ってたあれは、本当だったんだと思います。杜の大井戸に宿っていた守り神、・・・異喪裏が生贄を求めて人を襲っていた。水源荘はその杜の大井戸を潰した跡地に建てられた。いわば、格好の餌場だったんでしょう」
「・・屋上で何があったんだ。お前とあの女は屋上に向かったんだろ。医者から聞いた。もっと色々聞きたかったが、こっちはこっちでしらばっくれるのに精一杯だったからな」
あの状況を考えれば無理もないだろう。早朝に血まみれ、パンツ丸出しの状態で入り口付近に倒れていたのだ。どう説明したらいいか、考えるだけで日が暮れてしまう。
「あの時、沢谷さんの家から預かっていた水源荘の図面に、妙な跡を見つけたんです」
「跡?」
「一階の正面入り口の奥、廊下の中央部から、屋上に向かって伸びる柱に、線を引いたような跡があったんですよ。消されてたけど、筆跡を鉛筆でこすると跡が浮かび上がることがあるでしょう。恐らく沢谷さんは構想していたんです」
「・・・構想?」
「井戸を潰すときに、供養としてパイプを突き立てて置く”息抜き”っていう風習があるんです。井戸の中にいる神が息ができるように。杜の大井戸は一階廊下の中央部に存在していた」
「すると、そこから屋上へ一直線にパイプを仕込んでいたっていうのか」
「沢谷さんの家を訪ねた時、奥さんから聞きました。沢谷さんは建設の工期に迫られて、井戸の供養が出来なかったことを不満に思っていた。そこで一計を案じたんでしょう。建物を貫く柱。その中に井戸に突き立てたパイプを延長して・・・」
ポケットから、再度屋上に登った時に拾ったものを取り出す。
「これは、屋上にあった貯水タンクの梯子の先に取り付けられていたキャップです。恐らく延長したパイプは梯子の縦桟に繋がれていた。それによって、人知れず杜の大井戸は供養されてきたんでしょう。ところが、いつからか井戸の神が息をしていた穴にこれが取り付けられて、塞がれてしまった」
「それで、あの・・・異喪裏は住人を祟るようになったのか。たったそれだけ。そんなちっぽけなキャップを取り付けただけで」
「確証は・・・、確証はないんです。でも、これを外した瞬間に、異喪裏は姿を消しました。水みたいに溶けて、消え失せてしまった」
手の中で塩ビ色のキャップが転がる。脳で沼崎の言葉が反響していた。こんなちっぽけなキャップのせいで、人が死んでいたのだろうか?こんなものが、神の呼吸を妨げていたのだろうか?
「・・・大方どこかの点検業者が親切心で取り付けたんだろう。まだそんなに古くなっていないところを見ると、恐らく数年前だ。水源荘で毎年のように人が死に始めたのは、確か六年ほど前からだった。時期的には一致してる」
沼崎が遠い目をしながら、ひとつため息をついた。
「・・・俺の母親もあいつに・・・」
沈黙が訪れた。何と声を掛けたらいいのか迷っていたが、喉元には自然に言葉が湧きあがっていた。
「真相は分かりません。・・・でも沼崎さんがいなければ、僕はこれに辿り着くことは出来なかったし、あの時浴室で死んでいたかもしれない」
キャップを手の中に握りこみ、頭を下げた。
「・・・ありがとうございました」
返事のないまま頭を上げるが、沼崎は相変わらず遠い目で窓の外を見つめていた。
「・・・あんた、俺の事を気の狂った変人と思ってただろう」
「・・え?」
急に何を言い出すんだ。この男は。
「・・・それは・・、まあ・・、そうですけど・・・」
不意に沼崎は鼻で笑った。
「ふん・・・、俺の事を信じる奴は今までほとんどいなかったが・・・、あんたは違った」
自嘲気味に笑うその顔は、どこか嬉しそうだった。
「あの時、あんたを助けて良かったな」
「・・・・・」
久しぶりに人に感謝されたが、なんとも歯切れが悪い。命を救いあった仲だというのに、交わす言葉はこんなものなのだろうか。だが、心の片隅では、小さく自分のことを誇らしく感じていた。
「ところで、あんたはどうするんだ?水源荘にまだ住む気でいるのか?」
「いえ、今はネカフェに居ますけど、もう引っ越し先を見つけてます。・・・あそこじゃもう暮らす気にはなりませんよ。色々とたくさんあり過ぎた。新生活をもう一度やり直します。・・・沼崎さんはどうするんですか?」
「俺もこの街を離れるよ。・・・そろそろ別の事に向き合いたい」
揃って窓の外を見た。街の上にはどんよりとした曇り空が広がっていたが、小さな雲の切れ目からは、白い光が柱のように差していた。
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