第41話 呼吸
一歩、二歩。踏み出す度に足元で粘液が跳ねる。目の前に梯子が迫り、跳びつこうとした瞬間に、視界が深紅に染まった。一瞬の跳躍の後、身体は上方からグチャリと大口を開けて襲い掛かった異喪裏へ呑み込まれた。全身に打たれたような衝撃が走り、まるで腐りきったヘドロ水を頭から被ったように、腐臭と気持ちの悪い感触が全身に纏わりつく。
目を開けていられず、咄嗟に閉じた。歯を食いしばって息を止め、口をきつく結ぶ。
喰われた。呑み込まれたのだろう。恐らくあの化け物の体内に自分はいる。覚悟はしていた。もしかしたら呑み込まれた瞬間に死ぬのではないか?そう考えていた。だが。
まだ俺は生きている。
足の裏に地面の感触がある。少なくとも地に足は着けているのだ。
力いっぱい足を踏み出した。身体に重く纏わりつく粘液が邪魔をするが、足は命令に従ってゆっくり前へと動いた。
———————俺を止めてみろ!
重油のような粘液の海中を、泳ぐようにかき分けて前へ前へと進む。目を閉じたままなので、視界には瞼の裏の暗闇しか映らない。まるで深海の底を歩いているような感覚だった。
もがけどもがけど、手には何も触れない。視界が閉じるまでは、梯子は目の前にあったはずだ。どこだ。必ず前方にあるはずだ。探せ、もがけ。身体を動かせ。
手を精一杯の力で前へと突き出した。掴もうと掌を開き、手首をあちこちに捻って探したが、気持ちの悪い感触が伝わるだけで何も掴めない。
———————!
全身に、今まで経験したことのない感覚が伝う。
命を握られている。
殺気、とでもいうのだろうか。殺人鬼に身体を触れられているような、巨人の大きな手に一握りにされる直前のような、ありとあらゆる方向から刃物を向けられているような、形容しがたい感覚が全身を撫ぜていた。
恐怖に硬直した身体がゆっくりと前のめりに沈んでいくのを感じながら、はたと気が付いた。
ここは、胃袋の中も同然だ。
その言葉が脳裏をかすめた瞬間、全身が握りつぶされたように圧迫された。
あまりの痛みに、口が開いた。粘液海の中にいるせいで叫ぶことは出来なかったが、恐らく外界にいたところで叫べなかっただろう。皮膚が締め付けられ、肉が絞られ、骨という骨が軋んだ。肺が潰され、喉元に胃液が滲み、頭蓋骨がキリキリと悲鳴を上げる。いつの間にか開いていた目の表面に、蠢く粘液を感じた。粘液が舌に触れ、腐り水のような味が広がる。意識が遠のき、後頭部に冷たい痛みが走る。
感覚が徐々に鈍くなっていった。足が地面から離れたのか、漂うように身体が堕ちていく。
意識が遠のく。いや、もうとっくに意識を失っているのだろうか。目の前の暗闇が粘液によるものなのか、沈んだ意識の果ての景色なのか、判断が付かなかった。最早どちらが前で、どちらが上下左右なのかも分からない。天地が逆転しているのだろうか。地面はどこにあるのだろう。死後の世界とはこういうものなのだろうか。
————————どこだ—————登れ———————梯子は—————掴め。
弛緩していく意識の中で、微かに力なく腕を伸ばした。だが、掌は虚しく黒い空間を漂うばかりで、なにも触れることはなかった。身体から熱が消えていき、指先から冷たくなっていく。
—————この暗闇が、行きついた先なのだろうか。
ビリー。
手に何かが触れているような気がした。小指の先に固いものが当たっている。残っていた僅かな力で手繰り寄せるようにそれを掴んだ。
梯子だ。
押しつぶされ、呼吸の止まっていた身体中に、血が駆け巡った。力強く握りしめて、全身を手繰り寄せると、頬にザラリとした感触があった。地面だ。漂っていると思っていたが、身体は底に沈んでいたらしい。
まだだ。まだ、ここじゃない。
掴んだ方の手を起点にして、身を起こす。身体が痛みに震えているが、無理矢理いうことをきかせる。どうにか頭を持ち上げると、ゴンと固いものにぶつかった。梯子の桟だ。すかさずもう片方の手を伸ばし、縋りつくように掴んだ。眩んでいた頭が、位置関係がはっきりしたことで覚醒しだした。
粘液海が感づいたのか、鉛が降りかかるように身体が再度押しつぶされそうになった。頭を垂れろ。そう言われているような気がしたが、掴んだ梯子は手放さなかった。
登れ。まだだ、ここから、登れ。
鉛のような粘液海の底から這いあがる。桟を掴み、無理矢理引きずるように身体を持ち上げる。一段、一段、手探りで桟を見つけては、上を目指した。何段あるのかなど、覚えてはいない。この手に掴む桟の感覚が本物なのかどうかすら、今は分からない。
それでも、今は進め。上を目指せ。
呼吸を止めていた身体が限界を迎えそうなのか、胸の奥に縛られるような痛みがこみ上げる。心臓から身体の隅々に伸びる血管に乗って、脱力感がじわじわと染みていく。それでも、がむしゃらに上を目指して腕を伸ばした。
何段登っただろうか。やがて桟を掴んでいた手が宙をもがいた。
————!
登り切った。頂上だ。ということは。
腕を振り回すと、指先に冷たい感触がかすめた。慌ててありかを探り当てると、掌が幾度か宙を切り、ようやく梯子の縦桟を掴んだ。
これだ!
最後の力を振り絞り、縦桟の鉄柱を削ぐように、握りこんだ逆手の拳を振り上げた。
「さっきも言ったように、井戸ってのは神聖なものとされてる。水の神が井戸の底に住まわれている、なんて話は昔からよく聞かされたもんだ。特に建築業じゃこの話は常識だ。家の建て替えやら土地の造成やらで井戸を潰すときは、馴染みのとこに頼んで神主を呼ぶんだ。信じられんかもしれんが、何もせずに井戸を潰した家には災厄が降りかかると言われてる。実際、今までにそういうのをいくつか見てきたことがある」
「そういうのって・・・」
「さっき母さんが言ってたような話だ。大なり小なり不幸がある。家主が病気をしたり、土地が崩れて住めなくなったりな。神主が言うには、何世代にも渡って呪われた家系もあるらしい。本当かどうかは知らないが」
「・・・・なあ、その呪いって、どうやって解くんだ?」
「・・・さあな。お祓いでもして、息抜きをするしかないんじゃないか」
「息抜き?」
「井戸を潰す時に、中にパイプを突き立てて置くんだ。昔は竹を使ってたらしいが、今は塩ビのパイプか鉄パイプを使う。そうしておくと、井戸の中の水神様が息ができるとか、伝って外に出ていけるとか、そういう意味合いがあるらしい。どこの建築業者も、この慣習に倣って息抜きをする」
「それでどうにかなるのか?後からでも」
「・・・そんなこと知ってどうする」
「・・・知り合いに、そういうことが起きてるんだ。どうにかならないかって思って」
「あんまり他人様の事情に首を突っ込むもんじゃない。第一お前にどうこう出来ることじゃないだろう」
「・・・なあ、親父」
「・・なんだ」
「俺にだって何か出来るかもしれないだろ。・・・決めつけるなよ」
突き上げた逆手の拳に、何かが当たった感触があった。それは削ぎ上げた梯子の縦桟の先端から勢いに負けて外れ、拳の中に握りこまれた。
振り絞った最後の力が尽き、限界を迎えた肺がしおれていくのを感じながら、身体が後方にゆっくりと傾いていく。感覚が薄れていき、目の前の暗闇が鮮明になっていく。
意識が堕ちたのか、もうすでに堕ちていたのかは分からないが、沈黙しかけていた脳にひとつの思考が緩やかに湧いた。
————————俺にも何か出来ただろうか。
脳裏にその言葉が溶けていった瞬間だった。突如、視界が白く、明るく開けた。目の表面に水を感じる。暗闇は消え失せ、白い光が視界を支配している。粘液の深海が、清流へと姿を変えたようだった。
「————————はあっ」
顔が空中にさらされ、鋭く息を吸った。肺に新鮮な空気が満ちる。感覚が戻り、身体中に血が巡るのを感じながら、自身の置かれている状況を理解した。
————落下している。
「———————ぁっ」
喉から声になり損ねた空気が漏れ、首元に風が吹く。白い空に水しぶきが舞っている。いつの間にか背中で勢いよく水が弾けていた。川に飛び込んだような、懐かしい感触が肌に蘇る。
数瞬の沈黙の後、背中に鈍痛が走り、我に返った。痛みをこらえながら身を起こし、濡れた顔を拭う。目の前には貯水タンクがあり、ひび割れだらけの屋上の地面は川の浅瀬のように水が揺蕩っていた。降りしきる雨粒が、その表面に波紋を産んでいる。
顔を上げる。貯水タンクの頂には、異喪裏が座していた。二対の眼は閉じられ、大口は僅かに開き、中の深紅が覗いていた。先ほどまであの中に呑み込まれていたのだろうか。
やがて、雨に打たれながら沈黙していた異喪裏は、不意に天を仰ぐように頭をもたげた。それに呼応するように、激しい雨が止む。白い空から注ぐ透明な光に、霧のように成り果てた雨が溶けていった。
異喪裏はその体躯をのけぞらせながら、深紅の喉を大きく膨らませた。深く、深く、まるでその刻を永らく待ち詫びていたかのように、息をしているようだった。いつの間にか、鼻を刺していたヘドロのような腐臭が消えている。
ゆっくりと頭を戻した異喪裏と眼が合う。やはり表情は読めなかった。その眼の奥に何を思っているのか、人間には到底理解できないのだろうか。
どれくらいの間そうしていたのか、やがて異喪裏はゆっくりと眼を閉じた。それを機としたのか、黒い体躯が火にさらされた氷のように溶けていった。貯水タンクの頂から、水がさらりと流れ落ちていく。原型を亡くし、姿形が消え失せた後、屋上に満ちていた水が、緊張の糸が切れたように広がった。あちこちの排水溝にゴボゴボと水が吸い込まれていき、半身が水の支配から逃れて空気にさらされる。
「川野くんっ!」
後ろでイズミの声がした。振り返ろうとして、意識が遠のく。異界から脱したはいいが、身体はどうやら限界を迎えていたようだった。支えていた上半身が、重力に逆らえずに沈んでいく。
コロリ、と軽く、乾いた音が聴こえた。倒れこみ、力なく地面に転がった頭に、鈍い痛みが走る。イズミの声が遠ざかっていき、視界がシャットダウンする直前、コロコロと目の前に何かが転がった。
それは間違いなく、先ほどまで手に握られていた、貯水タンクの梯子の先端に取り付けられていた塩ビ色のカバーキャップだった。
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