第40話 異喪裏
鉄砲水をくらったように身体が弾き飛ばされる。首元で風が吹き、直感で死を覚悟した。視界がゆっくりと速度を緩め、感覚が弛緩しながらも、鋭く冷静になっていく。
ああ、このままの体勢では、間違いなく頭を打って死ぬだろう。これから走馬灯が目の前を駆け巡るのだろうか。イズミは大丈夫だろうか。受け身を取らないと。沼崎の元へ戻らなければ。早く腕を伸ばせ。死ぬ前に一度でいいから。即死だろうか。そういえば、上には何も着ていない。家に帰らないと————。
「きゃあっ」
イズミの悲鳴で、現実に引き戻される。気が付くと、二人とも貯水タンクからやや離れた場所で尻もちをついていた。不思議と痛みはない。咄嗟に身を起こそうとしたが、手元と下半身がズシリと囚われたように動かない。同時に沼に浸かっているような気持ちの悪い感触を感じ、ようやく痛みがなかった理由を理解した。
屋上は見渡す限り黒い粘液の海に成り果てていた。まるで黒い雨がギトギトと降りしきったような、異様な光景だった。古ぼけたアパートの屋上が、この世に這いだした異界の領域に染まっていた。
「ちょっ、きゃああああっ!」
「イズミさんっ!」
真横でイズミがみるみるうちに粘液に囚われていく。粘液の海からいくつも小さな鎌首が出でて、喰らいつくように身体を覆っていった。
咄嗟に立ち上がろうともがく。全身が今までの負傷に喘ぐが、どうこう言ってはいられない。気を入れて身体中を黙らせ、四肢を無理矢理動かす。
「っあああっ!!!」
立ち上がるのを諦め、膝立ちのままイズミを襲う鎌首たちを散らした。手当たり次第に組み付いて、何度も何度も引きちぎっていくと、観念したのか鎌首たちは粘液海の藻屑と化していった。
「はあっ、はあっ」
息を切らしながら、イズミを救い出す。放心状態だが、どうやら血は流していないようだ。安心しながらも、本来の目的を思い出す。
あれを探さなければ。あれを探し当てれば、きっとこの状況を切り抜けられる。探せ、一刻も早く。
雨に濡れた顔を上げる。目の前の貯水タンク。恐らくこの辺りだ。あれは地面から突き出ているはず。確証はないが、あるはずだ。黒い粘液海を、這うようにかき分けて進む。沢谷さんが遺した、あの水源荘の図面。かつての杜の大井戸から、この屋上まで伸びる一本の線。あれは。
「——————!」
視線。視線を感じる。身体が強張り、手足が震えて呼吸が止まる。額を伝う冷汗が強い雨に溶けて消えていく。これは、この感覚は、あの。垂れていた頭をゆっくりとあげる。
貯水タンクに、黒いとぐろが巻きついていた。辺り一面の黒い粘液海からいくつも柱が出でて、それに集約されている。柱の一本一本がまるで動脈のように波打ち、その度に幾匹かのヒルが零れ落ちていく。
その渦巻くとぐろの先。貯水タンクの頂に、鎌首がもたげていた。イズミに喰らいついていたような小さいものではない。大蛇と形容できるほどのものでもない。
あれは、
この世の理に反する、異質な存在。かつて杜の大井戸に宿っていた、水の守り神。いや、その成れの果てだろうか。
ヘドロを纏ったその姿は、水神と呼ぶには相応しくない。穢れに塗れた体躯には、ギトギトと憎悪が満ちている様に見えた。それを表すかのように、無数のヒルが蠢いている。喉元から腹にかけて滲んでいるのは、今までに喰らった者達の血なのだろうか。鮮血のような深紅が、虚穴のような黒い体躯に映えていた。
背中を悪寒が這いまわる。濁っているような、透き通っているような、怒りに満ちているような、憐れんでいるような。二対の底無しの真っ黒な眼は、やはり表情が読めなかった。
「——————————————」
畏怖の静寂が場を支配する。激しい雨音が遠くなっていく。
睨み合い、ではなかった。異質の存在に、一方的に見られているだけだ。跪いているからか、まるで神に許しを乞うているような気がした。絶望に濡れながら、呑み込まれるのを待つしかないのだろうか。
・・・・?
恐怖に眩んでいた視界の中に、一点の違和感を見つけた。貯水タンクに据え付けられている鉄製の梯子。ただの梯子だ。ボロボロで錆びついている。ただそれだけの。二対の脚が地面に刺さっている。・・・地面に刺さっている。
——————!
梯子の先端に目をやる。先端には赤茶けた錆色に似つかわしくない塩ビ色のカバーらしきものが設けられていた。
脳の中でくすぶっていたひとつの可能性が、ジリジリと火花を上げる。やはり、我ながら突拍子もない発想だ。あまりにも出来過ぎている。信じるには、あまりにも脆すぎる。
—————それでも、信じてみる価値はある。
異喪裏の眼に視線を戻す。かつての大井戸の守り神は、先ほどまでとは違って何かを待っているように見えた。大口を一文字に綴じ、頂にしがみつくように座したまま、ゆらりと尾を揺らしている。
「・・・・・・・」
粘液海から、ゆっくりと立ち上がる。身体は満身創痍と呼ぶに相応しいほど痛み切っている。ただでさえ重い身体が、そこら中に纏わりつく粘液によってさらに重い。足が震えている。痛みに痙攣しているのか、恐怖に震えているのかは自分にも分からない。両方なのかもしれない。
何度も握りこんだ拳を、再び握りこむ。酷使した手首が鋭く痛み、腕から脳天まで駆け巡った。奥歯をギリリと鳴らし、目を閉じる。
瞼の裏の暗闇に、性懲りもなくもう一人の自分が現れた。今まで、にやついた面で散々罵ってきた自分は、無表情でこちらを見つめている。
「・・・もう何も言わなくてもいいだろ?・・・もう俺は・・・お前なんだから」
目を開けた。異喪裏はいつの間にか大口を開いていた。深紅の口内に、鮮血の糸が引いている。二対の底無しの眼が、愚かしい存在を見下すように、自分に向いていた。
息を止めて、神を睨む。
「——————っ」
大きく一歩踏み出し、貯水タンクに向かって駆け出す。
それを見計らったように、異喪裏は頂から川野に向かって襲い掛かった。
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