第39話 屋上
雨が降る様を比喩した言葉は多く存在するが、水源荘に降り注いだその雨は今までに聞いたどのような比喩表現も当てはまることが無いものだった。
土砂降り、バケツをひっくり返したような、滝のような、横殴りの。
そんな表現が手緩く思えるような雨だった。たかだか二十数年産の稚拙な脳で例えるのならば、まるで神が怒りに任せて天から振り落としたような、そんな激しく、強く、震えるような雨だった。
灰色の空から一直線に落ちる雨は、瞬く間に水源荘を濡らし、敷地を濡らし、植え込みを濡らし、通りを濡らし、視界に映る全ての世界を濡らした。
言葉が出ない。それは他の二人も同じようで、耳には雨の降り注ぐ音しか聴こえなかった。その場で、ただ呆然と目の前の絶望を眺めていた。
だが、その絶望の中でふと疑問が湧いた。いくら水といえど、これは雨。水道から出た水ではない。ならばこの水から奴が出現することはないのではないか?
疑念を明らかにする為に、外に向かって一歩踏み出そうとした時だった。水源荘の入り口、普段は気にも留めないようなその地面に、水たまりができていた。絶えず雨が降り注ぎ、波紋がまばらに広がるその水面から、何かがこちらを覗いていた。
何か。正体はわかりきっている。それは海を割って出でる怪物のようにゴボゴボと水面を盛り上げた。ちっぽけな海に、真っ黒な異質の顔が浮かんでいる。
「・・・!」
後ずさりすると、壁に背中が当たった。いつの間にか、沼崎が座り込んでぐったりともたれている。横目に、イズミが息を呑んでいるのが分かる。
どうする。どうすればいい。壁についた手に汗が滲む。また弾き飛ばせばいい。いや違う、いつまでそれが持つ?いずれ弱り切り、呑まれるだろう。逃げ出すか?瀕死の隣人を置いて、一目散に。弱っているとて、イズミならば逃げだせる力は残しているだろう。しかし、・・何を考えている。そんなことするくらいならば・・、するくらいならば・・。爪がガリガリとコンクリートの壁に食い込む。ここまで来て終わりなのか、ここまで来て・・。
——違う。まだ八方が塞がったわけではない。もうひとつ、道がある。道なのかどうかすら分からない。暗闇なのかもしれないが、ここに留まるよりかは踏み込む価値がある。
「・・沼崎さん、動けますか?」
ダメ元で聞いてみたが、返事はなかった。俯いたまま、微かに息をしている。しゃがみこんで表情を伺うが、虚ろな目で下唇から血を垂らすだけで、変化はない。
「・・・必ず戻ります」
立ち上がり、イズミの手を引いて階段の方へと駆け出す。
「えっ、ちょ、ちょっと、どこ行くのっ」
困惑しているイズミを、無言で連れていく。説明している暇はないし、したところでどうにもならない。だが、ここに留まるよりは僅かな可能性に賭けたい。
ピシャッ。
階段を駆け上がろうとして、振り返った。鎌首の形を成した黒い粘液が沼崎の顔先に迫っていた。腕を形成し、這うたびにそれが水音をたてている。
いつの間にか沼崎は顔を上げていた。虚ろだった目は力強い眼光こそないものの、何かを訴えるように川野に視線を向けていた。
「——!」
階段に向かって踏み出す。背後でイズミが置き去りにするのをためらうような事を口走っている気がするが、気に留めない。
沼崎の目は、”行け”、そう言っていた。先ほど粘液に覆われていた時に向けていた”助けてくれ”の眼差しではなかった。俺の事はいい、早く行け。あの目は力なく、だがはっきりと、そう言っていた。
息を切らしながら、がむしゃらに駆け上がる。置き去りにした沼崎が気になっていないわけではないが、耳を澄まそうとしても激しい雨の音にかき消されてしまうだろう。沼崎に悲鳴を上げられるほどの力が残っているかもわからない。とにかく立ち止まっている暇はない。
勢いよく、三階に辿り着く。一度も上がったことが無いが、全く同じ造りなので目新しさはない。見慣れた光景だ。しかし、一点だけ相違点がある。一番奥の突き当たり、壁に銀色の梯子が埋め込まれている。
あそこだ。駆け寄ると、真上に四角い扉付きの開口部が存在していた。上部にある桟に飛びついてよじ登ると、扉を叩く。長いこと封を解かれなかったのか、ビクともしなかったが、二度三度と叩くうちに縁からパラパラと屑が舞い、四度目でようやくグパリと音をたてて口が開きかけたが、完全には開かなかった。よく見ると、錆びついて原型を留めていない小さな錠が隅に付いている。
「くそっ!くそっ!」
手首の痛みを必死にこらえ、力を込めて叩き続ける。下の方からイズミが喚く声がするが、耳元ではざらついた錠の悲鳴しか聴こえない。錆びついていようと金属は金属なのか、中々錠は砕ける様子がない。
「ああああああっ!!」
とうとう肩を寄せて思いきり押し上げた。肩と背中が軋み、身体が芯から曲がっていくような感覚がした瞬間、バキンと音をたてて扉が開いた。
「うあっ!」
不意にバランスを崩し、真下に落下する。
「————————————」
痛い、と声を出した気がする。身体中が鈍く悲鳴を上げる。どこかに頭をぶつけたのか、耳鳴りがキンと響き、視界がぶれて焦点が合わない。
「・・・と・・・・んた・・」
近いようで遠い声が途切れ途切れに聴こえる。
「ちょ・・と・・・ん・・・」
この声はイズミだ。何かを喚いている。
「川野くんっ!!!」
名前を呼ばれ、沈みかけていた意識が覚醒する。
「・・ああああ、ああ」
反射的に立ち上がり、よろめきながら意味不明な声を漏らす。しっかりしろ、急がないと。強く目をこすり、視界を元に戻す。上に、屋上に、恐らくあるはずだ、あれが。
再び梯子に飛びつく。どうやら錠の方よりも留め金がこと切れたらしく、根元からぐにゃりとひん曲がっていた。再び身体を使って重い扉を押し上げると、真四角の狭い灰色の空から降り注ぐ雨粒がボタボタと顔を濡らした。怯むことなく、屋上へとよじ登る。
「イズミさんっ、早くっ」
手を差し伸べる。困惑しながらも、イズミは梯子を登ってきた。手を掴んで引き上げると、堰を切ったようにイズミがまくしたてる。
「ちょっと、急になんなの。ここに何があるのっ、雨が・・・」
「あれがあるはずなんですっ、屋上にっ、あれがっ」
屋上を見渡す。ボロボロにひび割れた地面に、塗装の剥がれた申し訳程度の低い柵。いつもよりも少し高く見える街の景色。中央には錆びついた貯水タンクがそびえ立っている。
雨に濡れながら、頭をフル回転させる。こっちが正面、入り口、即ち玄関側だ。そこから内側に数メートル。一階の廊下の中央部。その周囲の太いコンクリート柱は、どの階にも見受けられた。二階も三階も全く同じ構造。つまり柱は一直線に建物を貫き、一階の地面から屋上まで到達しているはず。
だとしたら、杜の大井戸の跡地、そこから伸びるあれは———。
視線の先は中央の貯水タンクに向いていた。あの付近に、あれがあるはずだ。
びしょ濡れになりながら、駆け寄る。あれは、どこだ。地面を見渡すが、それらしきものは見当たらない。
そんなはずはない、あの水源荘の図面の痕跡は、確かにあれを指しているはずだ。
「ねえっ、ここに何があるの。早く逃げないと、あれがっ」
————メキッ。
聴きなれない音に二人とも動きを止めた。
————メキメキッ、メコッ。
顔を上げる。いつの間にか、貯水タンクが道端に打ち捨てられた空き缶のように大きくへこんでいる。
————ベコベコベコッ!
思わず後ずさりする。中に何かいる。まさか——。
————————————ギギギ・・・。
僅かな沈黙の後、聴きなれない音が響いた。貯水タンクの真下、錆びついたバルブが、軋みながらゆっくりと回っている。
「にっ逃げ」
バキン!
一瞬の判断も虚しく、渇いた金属の音と共にバルブが爆ぜ、真っ黒い粘液の波が二人に向かって勢いよく押し寄せてきた。
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