第38話 撃退
蛇に睨まれた蛙。喰う者と喰われる者。立場はすでに決まりきっていた。
動かなければ、逃げなければ。だが、今度は身体が反射的に動いてはくれなかった。いや、鎌首の方が速すぎたのかもしれない。
掌しか入らないような、僅かな郵便受けの隙間から急遽、黒い粘液が凄まじい勢いで噴出した。黒い血飛沫は放射状に飛び散り、ドアの前に立ちすくんでいた三人は、高威力のシャワーを浴びせられたように、一瞬にして黒い粘液にまみれた。
咄嗟に腕を構えたが、無駄な様子だった。全身にびちゃびちゃと粘液が張り付き、露出していた顔や腕に、ぬらぬらと気持ちの悪い感触が這いまわる。
悲鳴を上げようとして、口が開きそうになるのを必死にこらえた。今、身に浴びているのは恐らく———。
「うあああああっ」
沼崎の情けない悲鳴が耳につく。横を見ると、数えきれないほどの黒いヒル達が沼崎の身体中を這いまわっていた。
「・・・・っ!!」
悲鳴を押し殺す。こいつらは口の中から喰らう気だ。叫ぼうと口を開けば侵入を許し、鮮血を吹く事になる。
歯を食いしばって恐怖をこらえ、腕をめちゃくちゃに動かして、顔を、首を、肩を、腕を、腹を、脚を、狂ったように掻き毟った。だが、容易くぶじゅぶじゅと潰れていくものの、全身にくまなく蠢くヒル達は一向に減る気配がない。それどころか、潰せど潰せど足元からヒルが這いあがってくる。このままでは埒が明かない。
咄嗟にシャツを脱ぎ、足元に叩きつけた。ヒル達が勢いよく弾けて散らばる。そのまま振り回しながら下半身を削ぐように何度も叩きつけると、ようやく全身からヒル達が剥がれていった。
息を切らしながら隣を見る。イズミも歯を食いしばって、ヒル達を懸命に蹴散らしていた。踏みつけた先から黒い飛沫が飛び散っている。
加勢するように、イズミの足元めがけてシャツを叩きつけた。激しい水音と共に、黒い粘液が弾けていく。ヒル達は何度も取りすがろうと這い寄ってきたが、何度も叩きつけていくと、やがて諦めたようにゾワゾワと散っていった。
「——はあっ」
こらえていた息をようやく吐き出す。身体のそこかしこに残る幾匹かのヒルを擦り潰し、身の安全を確保していると、散っていた足元のヒル達がどこかを目指して一斉に這い出した。足を跳ねのけて引き下がると、ようやくヒル達が目指している場所が視界に入った。
まるで磁力に操られ、磁界を形成する砂鉄のようにゾワゾワと蠢くヒル達は、沼崎の全身を覆うようにひとつの粘液塊へと姿を成していた。
「沼崎さんっ!!!」
傷に痛む喉が空回りして、隣人の名前を叫ぶ。まるで黒い粘液に繭のように覆われて、身体は所々しか見えなかったが、かろうじて見える沼崎の目元は、また助けてくれと訴えていた。慌てて握りしめていたシャツを、思い切り叩きつける。
だが、一体化した粘液塊はヒルのように散らばってはくれなかった。弾けはするものの、えぐれた箇所はすぐさま粘液が蠢いて元に戻っていく。
「くそっ!くそっ!」
叩きつけながら、焦りが背筋を伝う。二度目の悲鳴が聴こえなかったのは、こういうことだったのか。口元を覆われては、叫びようもない。自分もそうだった。しかし、まだ、助けなければ、まだ間に合う、どうにかしなければ。
やけくそ気味に拳にシャツを巻き付けると、粘液塊めがけて思いきり叩き込んだ。ぐにょりと手首まで粘液に埋もれ、囚われたような感覚が伝わってくる。そのまま爪が食い込むほど拳を握りこみ、力任せに振り回した。
シャツによって一回り大きくなった拳に、粘液が取りすがるようにへばりついてくる。振りきれないまま、先ほどまでの鈍痛とは比にならないほどの激痛が、電撃のように手首に走る。
新たな捕食先を求めるかのように、粘液塊は表面を蠢かせながら、川野の拳に食らいつくように集まってきた。ギトギトと呑み込まれ、肘先まで粘液に埋もれていく。
今だ。腕にしっかりと粘液の群衆をとらえ、固めて思いきり振りかぶった。粘液塊はズルリと脱皮するように、尾を引いて沼崎から剥がれた。そのまま勢いに任せ、コンクリートの壁に拳を叩きこむ。
手首から何かが砕けたような感覚が衝撃と共に伝わる。それと引き換えに、粘液はブチャリと音をたてて墨汁をぶちまけたような跡に成り果てた。黒い血飛沫はそのまま溶けるように水のシミへと変わっていく。
「・・・・つっ!!」
手首が未経験の激痛に震える。力を込めて握りこんでいた拳はだらりと開き、言う事を聞かなくなった。巻きつけていたシャツが落ち、ベチャリと音をたてる。
手首を抑えながら沼崎の方を見る。引きはがした時に倒れていたのか、壁に背中をもたれていた。よれよれのスウェットがぐっしょりと赤黒く濡れている。粘液塊に呑まれた時に再び喰われかけたのか、口元からは岩清水のように血が湧いている。
「ちょ、ちょっと、大丈夫なのっ!?ねえっ!!」
イズミが沼崎を揺さぶる。
「沼崎さんっ!!」
駆け寄って頬をはたくが、返事はない。まさか、こときれてしまったのだろうか。そんな、まさか。
「沼崎さんっ!沼崎さんっ!」
ようやく、ようやくまともに交流できた隣人の一人を、共に謎を追い求めた同志を、こんな、こんな———。
「起きろよっ!!!沼崎ぃ!!!」
傷ついた喉が裂けたのか、口元から血が垂れたのが分かった。鉄の味が口内に広がる。
「うう・・・・」
沼崎の口元から弱々しく、返事になりきれない声が血と共に漏れた。
「・・・・!!・・・あああ・・」
急に安心したせいか、間抜けな声が出る。無事かどうかはともかく、まだこときれてはいないようだ。急いで助けを呼ばなければ。
「イズミさんっ、この人を頼みますっ」
救急車を呼ぼうとして、携帯が手元に無いことに気付く。なぜだ、いつも肌身離さず持っているのに。・・・!、そうだ、携帯は、沼崎の部屋の卓上に置いたままだ。あの時、部屋を飛び出して・・・。
ドアを見る。この向こうに行くのは危険すぎる。ようやく異質の舌の上から脱出したのだ。またのこのこと乗り込みでもすれば、今度こそ喰われてしまう。
振り返り、二人の隣人を見る。一人は満身創痍。もう一人はとても表を歩けるような恰好ではない。もちろん自分も半裸の状態だが、それとこれとでは訳が違う。だがしかし、ここでうかうかとしている暇もない。
仕方がない。三人でここを抜け出すしかないだろう。他の住人の事も気にかかるが、今はとにかくここから離れなければならない。
意を決すると、沼崎の着ていたスウェットの下をするすると脱がした。
「ちょ、ちょっと、あんた、なにしてるのっ」
「三人でここを出るんですっ。その恰好じゃ外を出歩けないでしょう。これを着てっ」
血だらけのスウェットを手渡す。中年男の着ていたよれよれのスウェットなど着たくもないだろうが、状況が状況だ。
イズミは一瞬顔をしかめたが、すぐにスウェットを履いた。どうこう言っていられないことは分かっているのだろう。
痛めた手首を庇いながら、沼崎の肩を抱えて立ち上がる。痩せぎすの男で助かった。どうにか抱えて歩けそうだ。よろよろと階段を目指す。一歩一歩踏み出すが、やはり一人の大人を抱えて歩くのは、思うようには進まない。どうにか階段まで辿り着いたが、ここを降りていくには骨が折れるだろう。だが、どうにか、やるしかない。
そんな決意も虚しく、一つ目の段に踏み出した瞬間にぐらりとよろめいた。沼崎が肩から落ちそうになるところを、すんでのところでイズミが支える。目で合図し、協力しながらゆっくりと階段を降りていくと、訳の分からないこの状況に、笑いが漏れそうになった。半裸の状態でパンツ丸出しの中年男を、自分のパーカーとその中年男のスウェットに身を包んだ異性と共に抱えて連行している。なぜこんなことになったのだろう。
手首の痛みにより、我に返る。にやけている暇はない。笑えるような状況であっても、事態は深刻なのだ。
ようやく階段を降りきり、一階の廊下に出たところで一息つく。もう周囲に水場など無い。ここまでくれば襲いようもないだろう。ひとまずどこか、連絡手段のある場所に向かわなければ。
沼崎の肩を抱え直し、よろよろと薄暗い廊下を抜けて、水源荘の入り口に辿り着いた時だった。
灰色の薄暗い朝空から、滝のような雨がけたたましく降り注いだ。
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