第37話 抗戦

 迂闊だった。部屋に入った時に照明を点けてさえいれば、影が差して気付くことができたかもしれない。

 そんな一瞬の後悔も束の間、巨大な鎌首は大口を開けて重力に抗うことなく、どろりと川野に降りかかった。

「うあああっ」

 咄嗟に構えた両腕に鎌首が喰らいつく。ミシミシと骨が軋み、痛みに耐えかねて悲鳴が漏れる。視界いっぱいに深紅の口内が広がり、ヘドロと血が混ざり合った腐臭が鼻を刺した。吐いたばかりだというのに、再び喉が嗚咽に疼く。

 鎌首には歯など無いようだったが、ギチギチと凄まじい力で締め上げるように喰らいつかれては、ひとたまりもなかった。じわじわと上から迫る鎌首に組み伏せられるように、膝が折れて床に付く。足元が先ほどの吐きだまりだったようで、気持ちの悪い感触が染みてズボン越しに伝わる。

 反撃しようにも、万力に腕を挟まれているようで術がない。足掻こうにも、強大な力で圧し掛かる鎌首に見る見るうちに押しつぶされていく。

 とうとう背中が軋みだした時だった。鎌首がぐぱりと身体ごと覆うように噛みついた。必死に構えていた腕は呑み込まれ、胸のあたりまで顎が迫る。自分の血か、沼崎の血か、定かではないが、だらだらと腕伝いに口内の鮮血が垂れ、顔に滴った。

「うぐああああああ!!!!!」

 必死に抗って雄叫びをあげるが、無情にも鎌首は迫りくるのをやめない。身体中が悲鳴を上げて軋み、視界はより一層深紅に染まっていく。

 逃れようと顔を背けると、パーカーを肩に羽織ったイズミが床にへたり込んで失禁していた。あまりの異様な光景に恐怖しているのか、それとも感情の糸が弾け飛んだのか、涙を流して震えている。

「イズミさんっ!!!!」

 最後の力を振り絞って声を荒げる。その一言全てに願いを込めたが、虚しくも反応はなかった。とうとう軋んでいた腰が砕け、頭が呑み込まれる。真っ赤な舌が顔に触れ、呑み込もうと蠢く。深紅だった視界が真っ黒に染まり、冷たい絶望が心に広がった。


 俺はこんなところで死ぬのか、こんなところで———。


「あああああああああああっ!!!!!」


 聴きなれない叫び声と同時に、バキッという凄まじい音が耳元で響いた。地鳴りのような振動に振り回されるように世界が揺れ、倒れこむ。

 痛みに呻き、床の吐瀉物に塗れながら、よろよろと顔を上げると、鎌首が壁に叩きつけられたように弾けていた。粘液の体躯が崩れ去り、何百匹というヒルがゾワゾワとそこらじゅうに散らばっている。

 衝撃にぐらつく頭で振り返ると、イズミが肩で息をしていた。右肩に引っ掛かったパーカーが、その度にゆらりと揺れている。その手には、あの毒々しい見た目のエレキギターが握られていた。

「はあっ、はあっ、はあっ」

 イズミの目は怯えながらも、どこか爛々と滾っていた。

「ああああああっ!!!!!」

 イズミが再び叫び、エレキギターを振りかぶった。壁にいまだこびりついている鎌首の断片に、勢いよく振り下ろす。

 ブジャリという音と共に衝撃が部屋を揺るがし、先ほどの初撃ですでに満身創痍だったエレキギターは、断末魔を上げて粉々に砕け散った。

 黒とピンクの破片を浴びながら、世界がスローモーションのように映る。あのエレキギターは、壁際にあったはず。手に取るのなら、ベッドの脇にあったアコースティックギターの方が近かったはずだが———。

 刹那、スイングした弦が耳元をかすめ、世界の速度が戻った。断末魔の衝撃で意識が冴える。

 倒れている暇はない。鎌首が復活するのは時間の問題だ。一刻も早くここから逃げ出さなければ。

「イズミさっ」

 踏み出した瞬間、吐瀉物で滑って派手に転んだ。前のめりに倒れて身体を強打する。ゲロ塗れになりながら、気恥ずかしさを押し殺して顔を上げると、イズミが手を差し伸べていた。

 目が合う。もう語らずとも良い様だった。瞳の中に、困惑しながらも、決意が見て取れる。

 それに呼応するように、力強く手を掴んだ。掌からゲロの飛沫が弾ける。体重を預け、よろつきながらも、しっかりと立ち上がる。

「イズミさんっ」

「いいからっ、早く逃げるよっ」

 壁を見ると、鎌首がのた打ち回っている。まだ完全に体躯を形成していないのか、いびつなシルエットにヒルがうじゃうじゃと這い寄っていた。

 掴んだままの手を引き、玄関へと駆け出す。逃げるしかない。理が通じない者に対して、為す術などないのだ。恐らくは。

 廊下を突っ切り、外へ出ようと玄関のドアノブに手をかけた瞬間、何故かドアがひとりでに開いた。

「うああっ」

 勢いを止められず、間の抜けた声を上げて倒れこむ。背後にいたイズミを巻き込んで突っ伏していると、胸の下あたりで沼崎が呻いていた。慌てて跳ねのき、声をかける。

「すっ、すいません。沼崎さんっ」

「い、いっだいどうじたっでいうんだ」

 喉と口内をやられてままならないのか、濁音だらけの声で沼崎が答える。部屋の中で起こった出来事を説明しようものなら、いったいどれほどの時間を要するだろうか。考えている暇も、それを口にする暇もない。

「沼崎さんっ、早くここから逃げないとっ」

 手を差し伸べるが、何故か沼崎は急に顔を伏せて狼狽えだした。振り返ると、イズミがパーカーの裾を伸ばして下半身を隠そうと必死になっていた。思わず自分も顔を背ける。

「おっ、おばえら、いっだい・・・」

 慌てて弁明しようとした時、泳いでいた沼崎の視線が部屋の中に向けられたことに気付いた。洞穴のような廊下へ目をやると、暗闇の中で影が不規則に蠢いていた。先ほどまで耳にへばりついていた粘着質の音が近づいてくる。

 咄嗟に重たい金属のドアを叩きつけるように閉めた。しまった。ここはイズミの部屋だ。鍵など持っていないだろう。無論かけたとしても、無意味なのかもしれないが。

 一瞬の内に思考が駆け巡る。ドアを押さえつけるよりも、すぐさま逃げた方が良かっただろうか。だが、行動に移すよりも先に、凄まじい轟音と衝撃がドア越しに伝わった。ドアノブを握っていた手がビリビリと震える。

 ドアをぶち破ろうとしているのか、あの鎌首は。その予想は的中していたようで、間髪入れずにドアが地響きのような音をたてる。何度も、何度も、重たい衝撃が金属のドアを伝った。

 まずい。このままでは。肩を寄せて突き当てるが、とうとうドアが幾分か開くほどに、衝撃は強さを増していく。

「うがああああっ!!!」

 吠えながら抵抗するが、衝撃は威力を増すばかりだった。肩に鈍痛が響き、頭蓋が揺れる。凄まじい衝撃に押され、挫けそうになっていると、いつの間にかイズミがドアに肩を寄せていた。死に物狂いといった形相で、共に衝撃を受け止めている。気が付くと、その反対側では沼崎もドアに両手をつき、僅かながらに衝撃に抵抗していた。

 恐怖に気圧されながらも、奇妙な高揚感が脳裏を巡る。

 狂ったように暴れるドアを、共に狂ったように押さえつける。このまま狂っていたっていい。鈍重で隷属した瞬間を繰り返すよりは———。

 そう思い描いた途端、突然ドアの衝撃がぴたりと止んだ。

 途端に下腹部から血の気が引き、咄嗟に身を跳ねのけた。なぜ身を引いたのかは頭で理解していなかった。強いて言えば本能が身を動かしたのだろう。他の二人も、川野に倣って慌ててドアから退いていた。

 まだ朝方だ。街の喧騒は僅かにしか聴こえない。聴力を研ぎ澄まし、ドアに向ける。

 粘着質の音は聴こえないが、姿が視えないままでは不安は拭えない。ドアに鍵はかかっていないのだ。こちらが抑えていない今、扉を開いて出てくることは容易いだろう。

 やはり逃げるしかない。どうしようもない。それしか方法がない。

「とっ、とにかく逃げ」

 

 ———カタン。


 二人を先導しようと声をあげた瞬間、ドアに備え付けられている郵便受けが開き、僅かな隙間から異質の眼がぎょろりとこちらを睨みつけていた。


 

 

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