第36話 反撃

 あの時のおぞましい光景がフラッシュバックする。

 現実と虚構。交わることのない両者がギトリと混ざり合い、そこに存在していた。鎌首は表面を蠢かせながら、ゆっくりと体躯を形成し、鼻先を近付けるように川野に迫った。

 慌てて転がっていたシャワーヘッドを掴み直し、立ち上がって振りかぶった瞬間、手首に激痛が走った。あまりの痛みに振り返ると、手首に粘液が絡まるようにへばりついている。

「ぐぁあああっ!」

 掌は力なく開いたが、シャワーヘッドは離れなかった。手首と共に巻き込まれ、ギチギチと軋んでいる。よく見ると、シャワーヘッドの小さな噴出口から、粘液が糸を引くように這い出ていた。

 迂闊だった。この粘液は水の出る所ならばどこにでも出現するのか。いや、正しくは水を媒体にして、どこからでも出現できるのだろう。沼崎を襲った時も、粘液はコップから出現した。あれは水道水から作られた麦茶だったのだろう。

 痛みによって意識ははっきりと保たれ、冷静に状況を解釈したが、それどころではない。目前に鎌首が迫っている。

 あまりの痛みに膝が折れ、再び壁に背中をついたせいで、逃げ場はない。どうしようもなく、目の前の出来事を受け入れるしかないのだろうか。

 至近距離にして気付く。いつの間にか鎌首の表面は蠢くのをやめていた。水に濡れたゴムのような鈍く黒光る頭をもたげ、ぴたりと静止している。さらによく見ると、鎌首の両端に亀裂が入るように筋が走っていた。

 眼だ。

 そう確信した瞬間、亀裂がぎょろりと開いた。

 二つの眼がそこにあった。濁っているような、透き通っているような、怒りに満ちているような、憐れんでいるような、底無しの真っ黒な眼が川野を睨んでいた。

 先ほどの比ではない刺すような視線が真っ向から襲う。この世の理から這い出た存在を前に身体が硬直する。恐怖とも、畏怖ともとれぬ感情に囚われ、手が震えていた。唯一、右手だけが鈍痛に呻いて、縛り付けられたように動かない。

 やがて鎌首は、一度だけ瞬きをすると、グチャリと大口を開いた。上顎と下顎の間に糸が引き、口内には鮮血に濡れた深紅の舌がうずくまっていた。

 あの時と同じだ。目の前のこいつは、俺を呑み込もうとしている。

「があああああああっ!!!!!」

 自身を奮い立たせるように吠えた。喰われてなるものか。あの時と同じならば、あの時と同じように反撃してやる。怯むものか。構うものか。

 鈍痛に呻いていた右手を、粘液に囚われたシャワーヘッドごと振り回した。大口を開けた鎌首の横っ面に、腕を捨てる勢いで思いきり叩きつける。

 渾身の一撃の後、ベチャリという音がして鎌首は真横の壁によろめくようにぶつかった。粘液が弾けはしなかったものの、どうやら効いているようだ。手首から鈍痛は消えなかったが、縛り付けられていたような感覚が消えた。確認するまでもなく、シャワーヘッドが床にけたたましく転がる音を聴き、何が起こったかは理解する。

 瞬時に身を翻し、イズミを引きずって浴室から飛び出した。あちこちに身体をぶつけながら狭い脱衣場を抜け、リビングまで引きずったところで、右手首が悲鳴を上げた。力が抜け、手を離した拍子に姿勢を崩し、腐臭の漂う床に倒れこむ。

 ズキズキと痛む右手首を庇いつつ、立ち上がる。ここまでくれば大丈夫だろうか。少なくとも水場よりは安全だろう。そうだ、イズミの安否を確認しなければ。まさか死んではいないだろうか。

「イズミさんっ!!イズミさんっ!!大丈夫ですかっ!」

 抱き起こし、肩をゆすりながら呼びかけるが、返事はない。まずい、もう手遅れだったのだろうか。呼吸は。顔中に張り付いている髪を拭い、鼻先に指を近付ける。

「・・・・!!!」

 濡れた指先に微風を感じる。良かった。無事かどうかはともかく、死んではいないようだ。 

 急激に肩の力が抜けてへたり込むと、今更ながらイズミが一糸纏わぬ姿だったことに気付き、四方八方に視線が泳ぐ。ああ、まずい。この状況はまずい。だが、とにかくこの場を離れなければ。

 安堵しつつ右往左往していると、項垂れていたイズミが後方に倒れ、床にゴツンと頭を打った。

「・・・いったぁ・・・・」

 か細い声でイズミが呻く。意識を取り戻したのか、身をよじって頭を起こす。

「・・・・え?」

 目が合う。脳内にけたたましく警告音が鳴り響く。焦りと困惑、恐怖と使命感で散らかっていた感情が、一気に釈明という言葉に流されていった。

「え、ええと、イズミさんっ」

「・・・あんた、なんで・・・」

 イズミの顔が強張ると同時に視線が落ちた。どうやら自身がどういう状況なのかを理解したらしく、困惑した表情で川野を見る。

「イっイズミさんっ、とにかく服をっ・・」

 気まずい空気をどうにかしようと、自分の着ていたパーカーを投げてよこした。

「あっ、あんたまさか・・・」

「ちっ、違っ」

 釈明しようとした瞬間、何かが川野の口をふさいだ。何が起きたのか理解する間もなく、すさまじい勢いで斜め後ろの壁に叩きつけられた。首と背中を強打したせいで、喉から痛みの混じった声にならない声が漏れる。霞む視界が晴れると、口中に真っ黒い粘液が張り付いているのが分かった。

「!!!!!」

 悲鳴を上げようにも、粘液に纏わりつかれているせいで声にすらならない。一体なぜだ、どうして。ここは水は無いはず。

 よろめきながら粘液を目で追うと、部屋の隅に置かれた何かが割れた後から、尾を引くように飛び出しているのが分かった。いや、今そんなことはどうでもいい。このままでは———。

 粘液を引きはがそうと爪を立てるが、まるで古タイヤに組み付いている様でびくともしない。その間にも、粘液はビチビチとうねり、口の中に侵入しようとしてくる。

「うぐぉおおお!!!!」

 息ができない。鼻にも粘液が纏わりついているのが分かる。怒声を上げても無駄なようで、何匹ものヒルが無理矢理こじ開けるように口と鼻から侵入してきた。嗚咽が嘔吐に変わり、胃から酸っぱいものが湧きあがる。それと同時に、口いっぱいにヘドロと血の味が充満する。

 こいつら、内側から喰らう気か。

「がああっ!!」

 刹那、大きく口を開くと、思いきりヒル達を噛みつぶした。同時に粘液をブチブチと食いちぎるように引きはがし、纏わりつく粘液を部屋の隅に叩きつけた。

 ブチャッと、腐ったトマトを踏み潰すような音がして粘液が弾ける。真っ黒な粘液の飛沫は飛散した後、ただの水のシミに成り果てて消え失せた。口の中に違和感を感じ、床に唾を吐き捨てると、二匹のヒルが血だまりの中で力なく這った後、溶けるように消えた。

「はあっ、はあっ、はあっ、・・・おええっ」

 息を大きく吸うが、口の中の腐り水のような匂いと血の味は消えない。吐き気を催し、盛大にゲロをぶちまけた。血の混じった吐瀉物がびちゃびちゃと床に広がる。ひとしきり吐ききった後に、震えているイズミと目が合った。

「・・・・・・・」

 言葉を発さなくとも、何が起きているのかは理解しているようだった。いや、理解できなくとも、まずい状況ということは悟ったのだろう。怯えながらも、おぼつかない手つきでパーカーを羽織りだした。

 肩で息をしながら、部屋の隅を見る。割れているのはどうやら加湿器の様だった。奴は中に溜まっていた水を媒体にしたのだろう。油断がならない。こうなれば水場でなくとも襲われる可能性がある。

 辺りを見渡す。空き缶が散乱しているが、まさかこの中から現れることはないだろう。恐れるべきは併設されたキッチンだ。前を通らねば外へと出ることは叶わないが、あまりにも危険だ。

 イズミを庇うように立つ。少なくとも叩いて散らせば奴を消せる。どうにかこの状況を切り抜けなければならない。いつでも振り回せるように、腕に力を込めて構える。

 ——ぴちゃっ。

 首筋に水気を感じ、悪寒が走る。咄嗟に上を向くと、天井にびっしりと黒い粘液が張り付き、その中心に、鎌首がどろりと垂れていた。

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