第35話 捕食

 玄関に走る。背中越しに沼崎の汁気が混じった声が聴こえたが、気に留めない。気に留めている暇はない。

 重々しい金属のドアを体当たりするかのようにこじ開け、裸足で外に飛び出す。自分の部屋の前を通り、イズミの部屋のドアノブに手をかける。

 冷たい感触が手に触れ、不意に我に返った。開けるのか、このドアを。そもそも鍵がかかっているのかもしれない。開くことすら分からない。開いたとしてどうする。中にはイズミがいるだろう。それは分かっている。踏み込んで何もなかったらどうする。血だらけの男が不法侵入してきたことになる。警察沙汰だ。ただではすまないだろう。またイズミの罵声を聴くことになる。


 ——やめておけ、お前なんかには無理なんだよ。


 またあいつが現れた。ドアの塗装にぼやけて反射した自分の輪郭に、あいつが映りこむ。もうひとりの自分が。


 ——お前なんかに何ができる。誰も救えやしない。自分自身すら救えなかった奴に、できることなんてないんだよ。諦めろ。諦めるのは得意だろ?昔からそうだった。いつも自分の弱さを他人のせいにして逃げ出してきたんだ。あの時からずっとな。そんな奴の言葉に誰が耳を貸す?お前なんかもう死んでいるようなもんだ。死人に手を差し伸べる資格なんかない。


 視線が落ちる。ドアノブを握る手が震えている。一瞬が永い時となり、思考が光速で駆け巡る。

 踏み込めば後には引けない。踏み込んだとして、自分に一体何ができるかもわからない。ここが最後のラインだ。踏み込むのか、俺は。


 俺は———。

 ——お前が。

 俺が———。

 ——お前如きが。

 

 先ほどこじ開けた金属のドアがけたたましく閉まると同時に、もう一人の自分に向かって勢いよく額を打ちつけた。


「お前はっ——!俺だろうがっ!!!!!!」


 鋭い痛みが脳天から突き抜けると同時に、ドアノブを思いきり捻った。ドアノブはたやすく回転し、ガチリと音をたてる。

 お前も救ってやる——。決意し、身を反らして力いっぱい腕を弾いた。金属のドアが勢いよく開き、前髪が風を受けて揺れる。暗い部屋の中からあの日の匂いが立ちこめる。

 部屋の中へ過去を切り裂くように踏み出した。一歩、二歩、自身を研ぎ澄ますように足を前へと運ぶ。

「イズミさんっ!イズミさんっ!いるんですかっ!」

 暗闇へと声をぶつけるが、返事はなかった。廊下を抜け、リビングへと辿り着いたが、薄暗くてアルコールの匂いがするばかりで人影はない。いつしか入った時よりも、缶のゴミが溢れ、僅かに腐臭が漂っていた。裸足でいるせいか、床がベタついているのが分かる。

 不在なのだろうか。それならそれで良いのだが、胸のざわつきは治まらない。昨夜、この部屋に消えていくイズミは酷く弱々しかった。魂が抜けきり、今にも枯れてしまいそうな佇まいだった。自分がした体験と同じならば、あの鎌首は弱り切った人間をした後に襲うはずだ。先ほどの襲来も、恐らくは沼崎が精神的にも体力的にも弱っていたせいだったのだろう。

 心臓が逸り、辺りをぐるりと見渡す。朝早くから出掛けるような生活はしていないはずだ。どこかに———。

 ふと、ベッドの脇に立てかけられたアコースティックギターが目に付いた。あの時のギターだ。指先に弦の感触が蘇る。あれは壁に立てかけてあったはずだ。毒々しい見た目のエレキギターに隠れるように、ひっそりと埃を纏って。それが、部屋の中央に位置している。

 カーテンに遮られた窓から一筋の光が、アコースティックギターの表面を照らしていた。よく見ると、表面の埃を裂くように指の跡がついている。その部分だけ、艶やかに光を放っていた。まるでためらい傷のような、跡が。

 身体が跳ね、咄嗟に浴室へと走った。自分と同じ——。そうだ、自分と同じならば、浴室だ。水は、いわばあの鎌首の領域。浴室は格好の餌場だ。狩場といってもいい。現に自分は運よく逃れたものの、そこで襲われたのだから。

 狭苦しい脱衣場のドアをはねのける。浴室の灯りは点いていないが、扉の向こう側に水滴が付着している。早鐘のように脈打つ心臓が、警告音のようにも感じるが、もうためらうことは無かった。ユニットバスのチープな扉を弾き飛ばすように開いた。

「・・・・っ!!」

 川野の目に飛び込んできたのは、さながら悪夢に塗りたくられた浴室の様相だった。壁、床、天井のすべてにぶちまけたように黒い粘液がギトギトと這いまわり、そこかしこで糸を引いていた。天井からは雨垂れや氷柱のように粘液が垂れ、そのすべてが生きている様に脈打っていた。統率が取れているとでもいうのか、全体が刷毛でなぞった油絵具のようにじりじりとゆっくり蠢いている。

 あまりの異様さに言葉を失った。まるで安っぽい扉から、急に異界に迷い込んだような、奇妙であり、恐ろしい感覚が身体を支配した。大量の油絵具を握りこんで潰しているような、気持ちの悪いニチャッ、グチャッ、という音が耳にまとわりつく。足の裏側に、先ほどの床とは比にならないほどの粘性を感じる。

 舌の上。そんな言葉が脳裏をよぎり、頭を震わせて気を保った。イズミ。イズミはどこだ。視界を下に戻すと、真横の浴槽に影を見つけた。

 影。人の影ではない。浴槽いっぱいに溢れるほどに黒い粘液が波打っている。その水面に、いびつな体躯の大蛇のような一筆書きの粘液像が、アーチを描くように形を成していた。

 呼吸が止まる。。そうとしか言いようがないほど、粘液がグボグボと収縮するように動いている。ゆっくりと確実に、獲物を捉えた大蛇が口を目一杯に開き、呑み込むように。

「っああああああああ!!!」

 咄嗟にシャワーヘッドを掴み、大蛇の喉元めがけて振りかざした。汚泥に足を踏み入れたようなベチャリという音がして粘液が弾け、形を崩す。だが、殴打した箇所がえぐれただけで、大蛇は怯む様子もなく、じりじりと蠢くのを止めない。

「っ!!」

 歯を食いしばり、何度も何度もシャワーヘッドを打ちつける。振りかざす度、粘液が弾けて散っていく。力む度に喉から荒い息が血のように湧き出る。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。

 幾度目か、気が付くと粘液の大蛇は真っ二つに千切れるようにぐちゃりと力なく崩れ落ちた。浴槽の中へと収束するように、ぬらぬらと粘液が溶けていく。

「っ!!!イズミさんっ!!!」

 千切れた片方の大蛇の成れの果てに、粘液を纏うようにして埋もれるイズミを発見し、安堵と恐怖が同時に押し寄せる。慌てて肩を抱いて浴槽から引き揚げようとしたが、重油のような粘液はギトリとイズミの身体に纏わりつき、一筋縄ではいかなかった。肩から下が絡めとられ、一向に引き抜ける気配がない。

「イズミさんっ!イズミさんっ!」

 必死に声をかけるが、イズミは目を閉じたまま、死んだように動かなかった。濡れた髪が顔に張り付いていて表情は読めなかったが、手から体温が伝わってこないことを考えると、危険な状態なのは間違い。焦りと恐怖で口の中がカラカラに乾いていくのを感じながら、腕に力を込める。

「ああああっ!!」

 とうとう浴槽の淵に足をかけ、肩が軋むほどに引っ張った瞬間、イズミの身体は浴槽から這い出るようにズルリと抜けた。勢い余ってそのまま後ろに倒れこみ、壁にドンと頭を打つ。

 クラリと意識が遠のきそうになるのを、精神を張り詰めて、気を保つ。呆けている暇はない。ここは上下左右360度、油断がならない異質の舌の上だ。背後の壁にもあの粘液が———。

 ・・おかしい。今、確かに壁に背中をつけている。なのに粘着質の感触を感じなかった。咄嗟に振り返ると、壁は元の見慣れた、くすんだ白色に戻っていた。先ほどまでは真っ黒なペンキをぶちまけたようなギトギトした壁だったというのに。

 疑問に思う間もなく、今度は正面から視線を感じ、顔を戻す。いつの間にか壁中の粘液達は尾を引くように浴槽に集結し、その放射状に伸びるシルエットの中心に、鎌首が湧きあがっていた。

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