第34話 対峙

 何が起こっているのか、理解できなかった。無機質な暗い色調の視界に突如として産み落とされた鮮やかな深紅の血は、ボトボトと止まることなく沼崎の口から滴り落ちている。

 何が起こったのか理解できなかったのはどうやら沼崎も同じようで、口元から滴る血を前に、時が止まったように硬直し、呆然としていた。

 卓上の血だまりが図面の端に滲んだ瞬間、ゴトリと音をたてて沼崎の手からコップが落ちた。透き通った薄茶色の麦茶が入っていたはずのガラスのコップは割れずに転がり、ベチャリと真っ黒な中身をぶちまけた。タールのようなテラテラとした液体が、いくつかの溶けかけた氷を巻き込んで卓上にじわじわと広がっていく。

 川野はいまだに状況が呑み込めていなかった。まるで幻想の中から這い出てきたような光景に目を奪われ、脳がうまく働かない。だが、真っ白になった脳裏にはいつしか浴室で目撃した真っ黒な———。

 ビタンッ!

 突如、卓上の粘液が爆ぜた。張り詰めていた緊張の糸が切れ、川野は小さくのけぞり、沼崎は初めて自身の口元に触れた。指先で真っ赤な鮮血をぬるりとこすり、出所が自身の口元だと再認識したかと思うと、死んでいた目をぎょろりと見開いた。

「・・・・は?」

 間の抜けた声に続いて、もう一度粘液が短く爆ぜた。川野は二度目にしてようやく、粘液が爆ぜたのではなくまるで意志を持っている様に動いた音だと理解した。広がった粘液が波打ち、テーブルを掻き毟るように蠢いている。粘液は何かを探し求めるようにビタビタとのたうちまわり、やがて鮮血の血だまりに辿り着くと喜んでいるかのように、ぶじゅるぶじゅると音をたてて混ざり合いだした。

「うわああああっ」

 ようやく脳が恐怖を感じ取り、川野は情けない声量の悲鳴をあげた。眼前に現れたのは紛れもなくあの異質、黒い粘液だった。

 悲鳴を契機としたのか、黒い粘液は跳ねたかと思うと、いまだ呆然としていた沼崎の口めがけて飛びついた。

「あ」

 びちゃっ。

「うぐぉがあああああっ!!」

 猿轡をかまされているかのように沼崎が吠える。口元を覆うようにのたうつ粘液はヒルのように形を変え、口の中へと侵入しようとビチビチと波打った。嗚咽音と共に、くぐもった声にならない声で吠える沼崎の口からは、新たな鮮血が飛沫を上げて飛び散った。

「うわああああっ!沼崎さんっ!」

 血飛沫を浴びながら駆け寄ったが、どうすればいいのか分からなかった。のたうつ黒いヒルを前に、肩が縮みあがって手が出ない。沼崎自身もヒルを引きはがそうともがいていたが、掴もうが、振り払おうが、暴れようが、口からとめどなく血飛沫があがるのみで、無駄な様子だった。

「ごばっ、ぶじゅ、がっ、げえっ」

 もがききった沼崎は、背後の壁に倒れこみ、喉元から汁気の混じった悲鳴をあげた。血飛沫のかかった下瞼に涙が滲み、助けてくれと悲愴に満ちた瞳で訴えている。

「・・・・っ!」

 川野は意を決して床に散乱していた本を掴むと、沼崎の口元をめがけて横向きに振り回した。

 バガンという鈍い音と共に、水面をはたいたような音がして沼崎は倒れこんだ。振り回した先の壁に血飛沫と墨汁を混ぜてぶちまけたような跡が残ったかと思うと、墨汁の跡だけが弧を描くように蠢きだした。小さなヒルの群衆はぬらぬらと中央に集まると、再び一匹の大きなヒルへと形を成した。

「う、ぐげえっ・・・かはっ・・」

 血を吐きながらうずくまる沼崎を庇うように、川野は壁に向かって立ちはだかった。震えながらも、表紙に爪が食い込むほどに本を握りしめる。

 壁に引っ付いたまま、大きなヒルは身震いをしたかとおもうと、ニチャリと手足を生やした。一筆書きの体躯が乱れ、一方は細く長く伸びきり、もう一方は鎌首をもたげて”頭”を上げた。

 息を呑む。確かに”眼”が合った。鎌首には眼など無い。粘液がギトギトと波打っているだけだ。だというのに、見られている。明らかにのだ。

 得も言われぬ気持ち悪さを感じる。まるで底の見えない虚穴の淵に立ち、覗き込んでいるような———。

 「コッ、コッ」

 舌を鳴らすような音を出したかと思うと、鎌首はぐぱりと”口”を開けた。口の中の粘液に鮮やかな深紅の血が混じっているのを見て、川野は反射的に握りしめていた本を鎌首めがけて投げつけた。

「うがああああああああああああ!!!!」

 空回りした恐怖が裏返り、めちゃくちゃに雄たけびを上げながら、そこら中に散らばる本を引っ掴んでは、次から次へと壁めがけて手当たり次第に投げつけた。鈍い音と紙がはためく音に混じり、ベチャベチャと粘液がはじける音が聴こえたが、それをかき消すように、ひたすら本を投げつけた。

 投げつけて、投げつけて、最後に投げつけたオカルト雑誌が壁にぶつかって落ちた後、部屋には川野が肩で荒く息をする音以外には、沼崎のうめき声しか聴こえなくなっていた。壁には血飛沫の跡しか残っておらず、黒い粘液は消え失せていた。

 力が抜けてその場にへたり込んだ。ぐちゃぐちゃになった本の山を前に、しばし呆然とする。あれは、幻想などではなかった。夜通し考えた仮説も正しかった。あれは、あの黒い粘液はこの世の理で測れる者ではない。この地に、この水源荘の真下にかつて存在した杜の大井戸の———。

「ゔぉ、ゔぉい」

 振り向くと、沼崎が口からだらだらと血を吐きながら身を起こしていた。顔中に血がこびりついていて、酷い形相になっている。毛玉だらけのスウェットも、赤黒いシミが大量にこびりつき、まるでめった刺しにされたような姿になっていた。

「ぬっ、沼崎さんっ、あれっ」

 震えた声で呼びかけると、沼崎は首を何度も縦に振った。恐らくは仮説を信じたのだろう。言葉にせずとも、目がそう言っていた。無理もない。目の前に現れ、実際にその化け物に襲われたのだから。十分すぎるほどの説得力だ。

「・・・信じてくれましたよね?」

 取り巻く状況からしたら酷く素っ頓狂な言葉だったが、それを聞いた沼崎は口元を拭った後、床に唾を吐くように血を吐き捨てて、弱々しく答えた。

「・・・ああ」

 目の前から黒い粘液が消え失せ、場の空気が僅かに緩み、どうにか落ち着きを取り戻した。部屋を見渡す。血飛沫が飛び散り、本が散乱し、スウェット姿の中年男が血まみれで満身創痍である。自身も身体中に血飛沫を浴びている。まるで肩で荒く息をする自分が殺戮を繰り広げたかのように思えた。意味不明な状況に、恐怖と興奮が入り混じった奇妙な感情が湧き、渇いた笑みが浮ぶ。 

 口の端を曲げたせいで、顔にかかっていた血が頬を伝い、我に返った。今はともかく沼崎を助けなければならない。尋常ではない量の血を吐いているのだ。このままではこときれてしまうだろう。スマートフォンを求めてポケットを探ったが、卓上に置いていたことを思い出し、目をやる。血に滲み切ってしまった図面の横に、飛沫のかかったスマートフォンを見つけ、手を伸ばした。

 

 ————ガサッ。


 手を止める。再び空気が張り詰める。

 確かに聴こえた。紙がこすれた音だ。なんてことない音だがこの状況では違う。

 本の山に目をやる。静寂を作り、耳を澄ます。だが、異変に感づいたのは研ぎ澄ました聴覚ではなく、視覚の方だった。

 視界の端に蠢く黒い影。身が強張り、息を呑む。ヒタヒタと黒い粘液が壁を這いまわっていた。

「うぐっ、げええっ」

 沼崎が咳き込み、びちゃりと何かを吐き出した。振り返ると、床の血だまりに一匹の黒い小さなヒルが蠢いている。ヒルは血の中でビチビチとうねったかと思うと、急にすさまじい速さで床の上を這い、吸い込まれるように壁の黒い粘液へと交わった。

「コッ、コッ」

 黒い粘液は再び奇怪な音を出した。いつの間にか姿形はまた鎌首へと変わり、頭をもたげている。

 息を止め、辺りを見るが、先ほど手当たり次第に投げつけたせいで本が見当たらない。得体の知れない異質を前にして、見ていることしかできないという恐怖で身体が強張る。無意識に後ずさりをしていたようで壁に背中が当たり、その振動を察知したのか、鎌首は再びヒタヒタと壁を這いまわり、流し台の方へと向かった。

 べちゃりと音をたて、シンクへと落下した鎌首は視界から消え失せる。脅威が見えなくなったという安心感と、見えなくなったという恐怖が同時に襲う。

 咄嗟に本棚から手頃な厚さの本を取りだし、ゆっくりと近付く。安っぽく、水カビの付いたシンクから鎌首が飛び出すのを想像し、顔から血の気が引くが、必死に自分を鼓舞してじりじりと前に進む。やるしかない。顔の前に本を構え、振りかぶった姿勢で覗き込んだ。

「・・・・・・っ!」

 だが、肝心の鎌首は消え失せていた。代わりにナメクジが這ったような跡が排水溝へと続いている。

 何が起きたのかは理解できた。浴室の時もあの鎌首は排水溝へと消え失せたのだ。恐らくは逃げたのだろう。

 潰れるほど握りしめていた本を放した。手に汗が滲んでいたせいか、表紙が指の形に濡れている。

 ・・・・・?

 既視感と同時に、言いようのない不安が脳裏をよぎる。手の感触から、蘇るものがある。そうだ、昨夜、図面に向かった瞬間に。あの時にも手が濡れていて図面が滲んだ。

 ・・・・手が濡れて?あの時は汗など掻いていなかった。汗など・・・。濡れたものに触ってなど・・・。

 ——うるさいっつってんだろっ!——

 肩に置いていた手を———。

 排水溝から逃げた先は?

 最悪の想像が浮かび、心臓が早鐘のように脈打った。

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