第33話 到達

 川野が一つの結論を導き出したのは、もう夜が明けて日が昇りだした頃の事だった。

 失っていた意欲の熱を久方ぶりに再燃させたためか、眠気は一切襲ってこなかった。これほどまでにひたむきに何かに対して向き合ったのは、恐らく十代の頃以来だろう。

 額に手をついて、テーブルの上を眺める。図面には多数の皴がより、長らくカバンの中で日の目を見ていなかった蛍光ペンのインクがその上を走り回っている。

 知恵熱を排気するように大きく鼻息を吹くと、傍らに置いていたノートの上の消しカスがパラリと散らばった。

 結論は出せたが、結局仮説にもなりきれていないのは変わらないままだ。突拍子もない一説をいくつかの要素で補強しただけに過ぎない。だが、今の自分にはこの答えしか出すことが出来ない。

 時計を見る。時刻は七時半ばだった。

 まだ尋ねるには早すぎるだろう。仮説の真偽はともかくとして、沼崎に説明しなければならない。自分が動かねば、事態は停滞したままだ。

 朝食でも取って時間が過ぎるのを待とう。立ち上がった瞬間に、足がしびれているのを感じた。ずっと座り込んでいたせいだろう。よろよろとおぼつかない足で、冷蔵庫に向かう。

 扉を開くが、めぼしいものはほとんどなかった。しなびたネギや、残り一枚のベーコン、いつ購入したか覚えていないしぼんだバターロールパンなど、貧相な食料しか見当たらない。

 仕方なくバターロールパンにペラペラのベーコンを挟み、噛り付いた。冷たく、パサついていて水分が欲しくなったが、蛇口を捻る気にはなれなかった。

 冷えて生々しいベーコンの脂を噛み締めながら、時計を睨む。まだ早いだろうが、あの男なら起きていても不思議ではないな。

 考えを改めながら、川野は喉を鳴らして最後の一口を飲み込んだ。




 何度も何度も押し込んだボタンを再び押し込む。いつもなら、くぐもったチャイムの音の後、ドタドタと足音が聴こえるはずだが、今回はやけに静かな間の後、ドアが開いた。

「・・・・」

 沼崎はいつものように無表情で出迎えていたが、一言も言葉を発さなかった。ぎょろりと見開かれていた眼は死んだ魚のように曇り、どす黒いクマが浮いている。

「・・・沼崎さん。もう一度だけ僕の話を聞いてくれませんか?」

 目の色は変わらないままだったが、沼崎はしばしの沈黙を置いた後に部屋の中へとゆっくり消えていった。

 ギイと音をたてて閉まるドアを受け止めると、背中を追う。返事はないが、恐らく入っていいのだろう。

 初めてこの部屋に入った時、ここは異質の巣だと思い込んでいた。

 だがそれは間違っていた。ここは巣ではない。得体の知れない者の餌場の一室だ。今から説く仮説が合っていれば、それは真実となる。




 テーブルに着くと、沼崎は氷入りの麦茶を差し出してきた。飲む気にはなれなかったので、そのままにして話を切り出す。

「沼崎さん、井戸の———」

「俺にどうしろっていうんだ」

 沼崎の鈍く濁った声が川野の言葉を遮った。

「あんたが見たっていう黒い粘液のことを肯定しようが、否定しようが、俺にはどうしようもない」

 抑揚のない声色で虚しく吐いた沼崎の背後に違和感を感じ、部屋を見渡した。

 かつて来訪した時は不気味なほど片付いていた部屋は、そこかしこに細かいゴミが散らばり、綺麗に歪んでいた本棚は陳列が乱れて所々歯抜けのように無くなっていた。そこから抜き取られたであろう本たちは、部屋のあちこちに無造作に積まれている。

 今までの事を思えば、様子がおかしいのは明らかだった。いや、以前からすでにおかしかったのかもしれないが。

「今度は僕の仮説を聞いてください」

 再度、静かに切り出すと同時に、握りしめていた図面を卓上に広げた。

「これはあの時もらった水源荘の図面です。沼崎さんの言っていた通り、水道の供給元は上下水道でした」

 図面の皴を伸ばしながら、川野は続ける。

「僕はこの水源荘で起きていることが、鉱毒によるものだとは思いません。万が一の可能性はあるとは思いますが、どうにも考えにくい。でもこういう考え方はできる」

 一呼吸おいて、肺に力を込める。

「超常現象的な存在、それがこの水源荘に住み着いていて、一年に一度、生贄を求めるように人を襲っている」

 神妙な顔の川野に対し、沼崎は死んだ目のまま鼻先でフンとあしらった。

「そうかい、トカゲの化け物が蛇口から出てきて人を殺してるっていうのか。それを信じろっていうのか」

 傍観を漂わせながら無気力に沼崎が言う。川野は表情を変えないまま続けた。

「突拍子もない話でしょうけど、とりあえず聞いてください。事の始まりは杜の大井戸からだった」

 スマートフォンを取り出し、画像アルバムのアプリを開くと、撮り溜めておいたスクリーンショットを画面いっぱいに表示させた。

「古来より井戸は信仰の対象になっていた。井戸神、古井神、水神。神が宿ると信じられていたんです。杜の大井戸も例に漏れず、そうだった。異喪裏伝承が真実かどうかはともかく、水神がいると信じられていたのは確かです。人々は杜の大井戸を崇めていた」

 画面をスライドし、いつしか閲覧した古いサイトの記事に移す。”証拠”を同時に見せることにより、どうにか説得力を持たせようと考えた結果のやり方だった。

「井戸にはこんな話があります。井戸を粗末に扱うと祟られる。井戸には禁忌とされることがあった。井戸を覗き込んで声を上げる、刃物などの金属を投げ込む。そして、井戸を潰す際には、供養、お祓いをする」

 再び画面をスライドし、実際に井戸を祓っている写真を表示する。

「沢谷さんの家に出向いたあの時、奥さんからこんな話を聞きました。沢谷さんは水源荘の建立の際にためらっていた。元請けの会社に迫られて、供養もなく井戸を潰すことを。こんなことしたくないと漏らしつつも、結局は井戸供養は行われないままだったんでしょう。そのまま杜の大井戸の上には水源荘が建てられてしまった」

 画面を切り替える。杜の大井戸が潰される直前のものであろう写真を表示し、一カ所を拡大表示して見せる。

「ここの植え込みを見てください。恐らく駐輪場の傍にある植え込みです。この植え込みは杜の大井戸が現存していた当時から存在したんでしょう。そして位置関係から察するに、杜の大井戸があった位置はここです」

 図面を指差す。水源荘の正面入り口の奥。廊下の中央部に赤ペンで丸を記してある。

「ここにかつての杜の大井戸があった。見る影もなく埋め立てられてしまったんです」

 一息ついて沼崎の方を見る。相変わらず死んだ目のままだったが、もの言いたげな口元をしていた。

「井戸の供養をしないとどうなるか。オカルトじみた話ですけど、実際に記録に残っているものもある。日本の様々な地方に井戸に関する伝承があるんです。ほとんどが井戸の供養を怠ったために、祟りのように悪いことが起きた、という内容でした。異喪裏伝承のように大昔のものでなく、最近のものまであります。それだけじゃない。真実かどうかはともかく、インターネット上にもその手の話はごまんと転がっている。つまり——」

「水源荘がトカゲの化け物に祟られてるってことか?」

 ようやく口を開いたが、沼崎の言葉は嘲笑にまみれていた。

「・・・僕は自分が見たものを肯定しようとは思ってません。でも、化け物の存在はどうであれ、祟りが存在するのはあり得る話だと思いませんか?沼崎さんだって追い求めていたんでしょう。この水源荘で何故、毎年人が血を吐いて死ぬのか。その理由を探していた。でもこの説の他に理由らしきものは見当たらない」

「・・・確かに俺は鉱毒の仮説を立てた時には突拍子もない話だと考えてた。だが、それ以上にそんな祟りを信じる気にならなかった。俺は目に見えないものは信用しない。だからこそ鉱毒の仮説を信じたんだ。なにより——」

 沼崎の目の色が僅かに変わる。

「俺は母親がそんな祟りのせいで死んだなんて信じない」

 言い終えた後、沼崎の目は再び光を失った。

「・・・分かってます。気が触れているような話かもしれません。でも、それ以外にもう理由は見当たらない。図面もちゃんと解読してみました。全階の水道管はすべて上下水道に繋がっているし、市の水道水の水質に問題があった、なんて記録は見つかりませんでした。僕の調べた限りでは」

 図面上に無数に走る蛍光ペンのラインをなぞるように指差す。スマートフォンを片手に図面と格闘し、解読した水道管のラインである。二部屋ごとに地下から一直線に伸びた水道管はメーターを通過してそれぞれの部屋に伸びている。風呂、キッチンの水道、洗面台。排水も同様である。それらは全て地下の大元の水道管に集約されている。大樹の枝葉は交わることもなく、その根元も枝分かれはしていない。

「僕だって祟りなんて信じたくはありません。今でもそんなもの無いと思っています。でも、もうこれしか考えられるものがない。全くの偶然とは思えないんです」

「俺がその珍妙な説を信じたところでどうなる。母親がその化け物の餌食になった。死んだのは俺のせいじゃない。だから俺は母親の死を悔やむ必要はないと?」

「・・・そう言いたいわけじゃ——」

「俺にはもう何もないんだ。ようやく気が付いた。何がどうなろうと母親が死んだ事実は変わらない。その理由を今更こじつけたって意味がない。たとえトカゲの化け物に殺されていようが、突然の病で死のうが、俺が母親を大切にしなかった事実に変わりはないんだ」

 落ちっぱなしだった沼崎の視線が川野の目を捉えた。

「俺は逃げてきたんだ。その末路がこれだ。・・・お前は違う。もう俺なんかにかまうな。俺を相手にしたって無意味なんだ。分かっただろ、空っぽのやつに何を言ったって無駄なんだ。その図面を返してこい、そしてもう何も詮索するな。ここにいたくないんなら出ていけばいい」

 拭いようのない傍観を纏った沼崎に、川野は喪失感を覚えた。無論、この仮説が信用を得たとしても、どうすれば解決できるのかは分からない。だが、それでも同じ疑問を追いかけた同志として、信じて欲しかった。例え事態が進まなくとも、共に異質の正体を暴こうとあがいて欲しかった。

 図面に手を置く。これは埃を被っていた手掛かりとなる地図だ。しかしもう日の目を浴びることもないだろうか。

 畳もうと両端を掴んだ瞬間、ふと違和感を感じて手を止めた。

 ・・・・・?

 無数に図面上を走る蛍光ペンのインクがとある箇所で跳ねたようにぶれている。当然のことか。フリーハンドで書き込んでいたので、跳ねることもあるだろう。しかし、こうも同じ個所で跳ねが続くだろうか。その上を走るインクのラインも全く同じ個所で跳ね、溝が産まれている。これはまるで———。

「沼崎さん、鉛筆ってあります?」

「・・・はあ?」

 何かが脳の中で前傾している。はやる気持ちを抑えようとして、手が震えだす。

 沼崎が困惑しながら部屋のどこかから持ってきた鉛筆を奪い取ると、芯を寝かせるようにしてサラサラと押し当てて滑らせた。黒く淡い炭が図面上に広がっていく。その中に一本の白い筋が現れた。

「・・おい、どうしたんだ」

 沼崎の返答には答えなかった。一刻も早くこの筋道のありかを暴かなければならない。これは、まさか、もしかしたら———。

 どうやら呆れられたらしく、沼崎が麦茶をすする音が聴こえるが、構わずに鉛筆をひたすら滑らせていった。暗闇の中に浮かび上がる白いラインを追う。片方のラインはちょうど杜の大井戸の跡地である水源荘の正面入り口の奥、廊下の中央部に辿り着いた。すぐさまもう片方のラインのゴールを目指す。階を駆けあがり、建物を一直線に貫き———。

「おいっ、なにがあっ」

 沼崎の声に答えようと、顔を上げた瞬間だった。沼崎の口から真っ赤な鮮血がボトボトと滴った。



 

 


 

 

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