第32話 臨戦

 土曜日の夜にしては、やけに静かな夜の街を歩きながら、川野は拳を握り締めていた。

 実家で夕食を取った後、一息ついてからすぐにこの街に戻ってきたのには、理由があった。確かめなければならない。向き合わなければならない。

 そうでないと———。

 歩く速度が速くなった。昼間、雨が降っていたのか、水たまりがアスファルトに広がっている。普段なら避けて通るところを、あえて踏みつけた。

 スニーカーに水が滲む前に脚を出し、振り払う。ズボンの裾が水滴に塗れていくが、気に留めない。

 いつかのように逃げているわけではない。いや、先ほどまでは逃避していた。何もかもが嫌になり、惨めに敗走していた。世界にお前の居場所など、どこにもないと言われているようだった。

 だが昔馴染みは違った。無理を強いられ、社会に呑み込まれた後でも、必死に息を続けていた。

 ならば自分も挫けているわけにはいかない。どんなに辛くとも、呼吸を止めるわけにはいかない。

 息が乱れないように、大きく息を吸う。初夏の湿り気を帯びた空気を吐き捨てながら、濡れた路面を駆け、自分のもうひとつの住処を目指した。




 水源荘を見上げる。外壁がじっとりと濡れている。日常にはめ込まれてはいるが、隠しきれない異質が滲んでいる。階段への入り口がぽっかりと口を開けた怪物のようにも見て取れる。

 食ってみろ。

 そう吐き捨て、入り口に向かって踏み出す。ここは安息の要塞などではない。異質な存在の舌の上だ。気を抜くとすぐに呑み込まれる。

 拳を握りこみ、階段を踏みにじりながら上っていく。棘を纏うように精神を張り詰める。

 もう散々、くよくよと悩んだ。決意しては怯み、打ちのめされもした。それも、もう終わりだ。

 あのおぞましい黒い粘液は確かに実在する。そう信じ、行動を起こすしかない。

 決意を固め、階段を上り終えた時だった。廊下に人影がうずくまっていた。

 薄暗い為、シルエットだけがぼんやりと浮いているが、人影はしゃがみこんでいるように見えた。

「イズミさん・・?」

 近寄って声をかけるが、イズミは反応しなかった。コンクリートの壁に顔を伏せ、頭をこすりつけるようにしてもたれている。

「イズミさんっ、イズミさんっ、大丈夫ですかっ」

 最悪の想像をしてしまい、慌てて肩をゆすった。服越しに、今にも消えてしまいそうなほどの弱々しい感触が伝わる。身体が冷え切っているのか、体温が感じられない。

「・・・うるさい」

 ぼそりとイズミの口から言葉が落ちた。聴いた瞬間に安堵したが、まだ不安は収まらない。

「どうしたんですっ、大丈夫なんですか」

「・・・うるさいっつってんだろっ!」

 肩に置いていた手を乱暴に振り払われた。しゃがんだまま腕を振り回したからか、イズミは崩れるように前方によろめき、地面に手をついた。

「うえっ、・・うええっ・・」

 口から嗚咽が漏れたかと思うと、イズミは無色に近い吐瀉物を吐き出した。アルコールと胃液の混じった匂いが鼻につく。

「イズミさんっ」

「・・・・ほっとけよ」

 そう弱々しく、どこか悲しげに呟くと、イズミは唾を吐いてよろりと立ち上がった。壁伝いにもたれながら、重そうに金属製のドアを開け、暗い部屋の中へと消えていってしまった。

 取り残された川野はアルコールと胃液の匂いにまかれながら、バタンと重苦しく閉まったドアを数秒見つめた後、目を閉じた。

 お前如きが。お前如きが。お前如きが。お前如きが。

 もう一人の自分が喚きだしたが、目を開けた瞬間にそれは止んだ。

 自分の部屋へと向かい、ドアを開ける。真っ黒に塗りこめられた空間を切り裂くように足を踏み出した。

 もう恐れるな、挫けるな。そう自分に言い聞かせる。

 部屋の明かりをつけ、テーブルにつき、隅に置いていた水源荘の図面を手繰り寄せた。

 解読できないと投げ出していたが、どうということはない。読み方を調べればいいだけだ。

 スマートフォンを片手に、沼崎が穴が開くほど見ていたページを開く。検索バーに”水道 図面 読み方”と打ち込み、解読を始めた。

 もう一つの仮説。仮説というには少し心もとないが、それを立証する必要がある。その為にはどうにかこの図面からその糸口を見つけなければならない。

 図面に掌を乗せ、読み解こうとした時だった。図面が指の形に滲んでいるのに気が付いた。

 嫌な予感がしてとっさに手を図面から離す。背筋に緊張が走り、思わず周囲を見渡した。

 何もいない。いや、この部屋そのものが異質の———。

 水槽の方を向いた。いつもは影にいるビリーがガラスの面にぴったりと身をくねらせて張り付いていた。毒々しい真っ赤な腹を見せつけたまま、ピクリとも動かない。

 向き直り、掌を見る。汗など掻いていない。だというのに、このジトリとした感触は。

 再び拳を握りこんだ。湿り気を殺すように、自分の息を吐きかける。

 時計はもう零時を回り、日付が変わった事を示していた。日曜日が静かに始まっている。

 時計の針以外、一切の音がしない部屋で、川野は図面と画面に向き合い、静かに世界に対して真っ直ぐに構えた。

 

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