第31話 邂逅

 川野が意識を覚醒させたのは日が傾きだした頃のことだった。

 きっかけは階下の方から父の気配がしたからである。何年もこの部屋で暮らしていたため、僅かに聴こえてくる玄関の扉を開ける音や、足音ではっきりと分かる。父が帰宅したのだ。

 おそらく仕事が早く終わったのだろう。今までもこんな早い時間に帰宅することは珍しくはなかった。

 ゆっくりと起き上がる。眠っていたわけではないが、ひたすら電池が切れた玩具のように動かずにいたため、身体が軋む。

 玄関の靴で帰省していることはすぐにわかるだろう。だからといって部屋まで上がってくることはない。父はそういう人間だ。

 ぼやけている、というよりは沈黙しているかのような意識のまま、立ち上がった。気力という気力が全て漏れ出て、感情が渇き切ったような感覚だった。

 静かにドアを開け、階段を降りる。両親の気配がする居間を通り過ぎると、玄関に向かった。靴箱を開け、履き古したサンダルを取り出すと、外へと出る。

 まだ夕方というには早い日の陰り方だった。少し伸びた影を引き連れ、一歩踏み出したはいいものの、どこへ逃げ出そうか迷う。

 どこでもいい。目的地はなくとも彷徨うだけでもいい。この状態のまま父と対面したくはない。

 川野は履き古したサンダルで足元の砂利を鳴らしながら、よろよろとあてもなく歩きだした。




 せわしなく流れる水の音を聴きながら、川べりに佇む。

 あてもなく彷徨うはずが、いつの間にか再び変わり果てた昔馴染みのところへと来てしまっていた。昼前に来た時と何も変わらない。相変わらずつまらない表情を浮かべている。

 それは分かりきっているはずなのに、どうしてここへと足が向いたのだろうか。考えても答えは出なかった。

 身体に力が入らず、膝が折れそうになった。どこかへと腰掛けたいが、コンクリートでまっさらに塗り固められた川べりは、座るところなど無い。

「キャハハハッ」

 不意に笑い声が聞こえた。声の方を向くと、近くの橋の上を中学生と思わしき集団が楽しそうに戯れながら駆けている。

 一切の穢れがない純真な光景を眺めているうちに、急に自分のことが酷く惨めになった。

 やめてくれ、そんな眩しさで俺を刺さないでくれ。

 隠れなければ。狼狽えるように辺りを見渡すと、川の中へと降りていけるような造りの階段が目に付いた。隠れられるわけではないが、突っ立っているよりは目立たなくなるだろう。

 迷わずに階段に逃げ込むと、下から二番目の段に腰を下ろした。固いコンクリートの階段は座り心地など考えて造られてはいない。無機質で居心地の悪い感触がズボン越しに伝わってきたが、構わなかった。身をかがめて俯いたまま、眩しさをやり過ごす。

 川が目の前にあるため、水流の音が激しく聴こえる。いまだにそれに混じって楽しそうに戯れる声が聴こえていたが、やがて小さくなり、水音にかき消されていった。

 短いため息が、這うように口から漏れ出る。どうしてこうなってしまったんだ。かつては俺だって———。

 枯れ果てたはずの感情が悲愴に濡れた瞬間だった。視界の端にひらりと鋭い影が映った。

 目をやると、川の淵に一匹の小魚が泳いでいた。いや、泳いでいる、という表現は正しくない。激しく押し寄せる水流の中、川の淵に転がる石によって僅かにできた澱みに逃げ込むようにして身を寄せている。

 こんな有り様になっても生き物はここに息づいているのか。一切の澱みが見当たらないこんな急流の中に。

 じっと見つめて、魚影を追う。まだ何の種類か判別できないほど小さい。必死にヒレを動かし、水流に逆らっている。

 時折激流の中に繰り出そうとしているのか、くるりと円を描いて泳ぐ。力及ばず、流されることを理解しているのか、ためらうように元の澱みに身を寄せる。その動きを何度も何度も繰り返している。

 顔を上げる。やはり川は、どこを見ても激しい水流と石ころばかりで、こんな小魚が生き延びられるような隙間など見当たらない。

 もう一度視線を下げた。小魚は懲りずに同じ動きを繰り返している。何故か水面に向かって手を伸ばした。冷たい水が手に触れる。懐かしさが手から蘇る。蛇口から出る水とは違う、息遣いを感じる温度だ。

 水面から手を抜く。掌に付いた水滴が、いつの間にか落ちかけたオレンジ色の陽の光に照らされてキラリと小さく光った。

 お前はまだここにいたのか———。

 心の奥底に眠っていたものが微かに息を吹き返したような気がした。




「ただいま」

 居間の扉を開ける。母は台所で夕飯の支度をしていた。

「お帰り、どこ行ってたの。食べたいものあれば作ろうと思ったのに、電話にも出ないで」

 何かを包丁で刻みながら母が小言を言う。この言い方と漂う匂いからしてもう夕飯のリクエストは無理だろう。

「別に何でもいいよ」

 言い返して居間の方を向くと、父がいた。胡坐をかき、テーブルの上に新聞を広げてテレビの情報番組に見入っている。

 変わらないな、この男は。鼻で小さく笑うと、隣に座った。

「どうしたんだ、忘れ物か」

 テレビから目を離さないまま、ぶっきらぼうに父が言う。

「なんでもいいだろ、ちょっと用があったんだよ」

 同じようにぶっきらぼうに返すと、すぐに場が沈黙した。父とのやりとりはいつもこんな調子だ。今更どうこう思うことはない。

 後ろで母がにやけている気配を感じながら、テレビを眺める。見覚えのある情報番組は、なにやら特集を組んでいる様子だった。右上のテロップに”孤独死が急増”と掲げられている。

「親父」

 初めて父がこちらを振り向いた。固く結んだ一文字の口元に、深い皴がよっている。

「なんだ」

 父の表情は読めなかった。久しぶりに対面した上に、滅多にこちらから話しかけることはなかった為、多少は表情の変化があるかと期待していたが、やはり相変わらずの様子だ。

「楊貴妃メダカは増やせてないのか?」

 凝り固まった筋をほぐすように、何気ない質問を投げかける。

「ああ、あいつらは気品が高いからな。気難しくて中々打ち解けようとしない」

 口元が緩んだ。気難しいのはどこの誰だ。

「それより仕事はどうなんだ。上手くいってるのか」

 せっかく柔らかな話題で会話しようとしたのに、父はすぐさま話を変えた。

「・・ああ、どうにかやってるよ。・・言われた通りに」

 発した瞬間にしまった、と後悔した。今まで父に返し刀を振りかざしたことはなかった。それが今、小さな小さな切っ先を父に向けて構えてしまった。

 どうしたものか戸惑っていると、父は全く動じている様子もなく、テレビのリモコンをいじりながら答えた。

「お前はまだ分からんだろうが、どんな仕事にも役割がある。世の中そういう風に出来てるんだ。・・・いつか分かる日が来る」

 父の顔を見る。テレビの画面を見つめる目は、どこか悟りきっているように見えたが、悲哀にも満ちている気がした。

「ごはんよ、ちょっと、お皿取りに来て」

 母の声が、二人を食卓に呼んだ。




「今日、早かったわね。何かあったの?」

 三人で食卓を囲む。カレーが並んでいるところを見ると、母はなんだかんだと言いながら自分の好物を作ってくれたようだ。

「ああ、家の解体中に井戸が出てきてな。手出しできなくなった。現場も止まったから早く切り上げたんだ」

 父の言葉に、スプーンが止まる。

「井戸?」

 思わず口について出る。今の川野にとって、その単語には別の意味があった。

「床下に枯れ井戸が放置されたままだったんだ。供養しないと壊せもしない。いつものとこの神主に連絡したから来週にはまた工事が始まるだろう」

「まあ、ならまた家主さんに変なことがあったりしてるの?」

 母が慣れたような口調で言う。

「変な事って、何が」

 母に話を聞こうとすると、父が口を開いた。

「井戸には昔から神がいるって信じられてるんだ。神棚やかまどなんかもそうだが、ああいうもんには神聖なもんが宿ってるとされてる。だから取り壊す前や潰す前にお祓いをするんだ。そうしないと祟りがある」

 思うところがあり硬直していると、母がまるで子供を怖がらせるようなふざけた顔をした。

「ほら、川向こうのとこの溝田さんっていたでしょ。あそこもそんなことがあったのよね。神主さんを呼ばないで井戸を埋めたから、罰が当たったのよ。せっかくお家を建て増ししたのに離婚して、ご両親も倒れて、介護のあてもないからカツカツよ、あそこ」

 父が怪訝そうな顔をした。噂話が好きな母の事を疎ましく思っているのだろう。

「天罰かどうか知らんが、きちんと供養するべきなんだ。ああいうのは」

 そう吐き捨てると、父はスプーンを舐めてラッキョウの瓶を手繰り寄せた。

「ちょっと、お箸使って。脂が浮くでしょ」

 今度は母が怪訝な顔をする。それを見ながら、川野は麦茶を飲み干した後、スプーンを置いた。

 聞かなければいけない気がした。今この場で、この話題が出たことは、偶然とは思えなかった。

「親父、・・井戸について、もっと教えてくれないか」

 


 

 

 

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