第30話 逃避
ここに来るのはいつぶりだろうか。あれから再び週末を迎えた川野は、故郷の川べりに佇んでいた。
何故ここに来たのか、と問われることがあれば、そうするしかなかったからだ、と答えるだろう。昔から、自分の居場所を見失った時にはここに来ていた。ここはいつどんな時も自分を受け入れてくれた。
だが故郷の昔馴染みは随分と表情を変えていた。かつて草が生い茂り、柳の葉が揺れていた豊かな陸地は跡形もなくコンクリートで塗りつぶされ、水草を携えて揺蕩っていた広大な水面は、石ころだらけの中をせわしなく流れる水流になっている。
十七歳の時に護岸工事が始まって以来、ここに立ち寄ることは避けていた。面影を失ってしまったであろう昔馴染みを直視したくなかったからである。それは恐怖に近い感情だった。
変わってしまったこの場所は、また自分を受け入れてくれるのだろうか。そう考えると、言いようのない不安に襲われて足を運ぶのをためらっていた。無論、ここは家から近い場所のため、生活していれば否が応にも遠巻きに視界には入っていたが、川べりに立つほど近寄ったのは今日が初めてのことだった。
もちろん落胆したのは言うまでもない。かつてここに息づいていたものは全て消え失せている。いつも座っていた特等席の石、必ず魚が隠れている水草の繁み、柳の根元に咲いていたツツジ、みんなで登った大きな岩とそこから飛び込んだ深場。
思い出の中にしか、逃避する場所はないのだろうか。安らぎを求めて目を閉じたが、ノスタルジーはせわしなく流れる水の音に虚しくかき消された。
「もう、帰ってくるのなら一言いいなさいよ。なにかしら用意したのに」
久しぶりに会った母親は台所で忙しそうにしながら、懐かしい悪態をついた。
「別にいいだろ。すぐ帰るんだから」
麦茶を飲み干した後に悪態をつき返す。顔の筋肉は強張っていなかったが、長らく凝り固まっていた表情が幾分か和らいだ気がした。これほど安堵した空間に包まれているのは何日ぶりだろうか。
実家は全く変わらずに川野を出迎えていた。とはいってもここを発ってからまだ半年も経っていない。変わり映えしないのは当然のことである。
「すぐにって、もう今日の内に帰るの?夕飯は?」
「・・夕飯くらいは食って帰るよ。金ないし」
情けなさを噛み締める。金に余裕はなかったが、少々財布に無理をしてでも帰省したのには理由がある
「全く、ならちゃんと言いなさいよね。ごはん炊かなきゃいけないじゃないの」
冷蔵庫の中を覗き込みながら小言をいう母に安心感を覚えた後、川野は居間から庭先を見渡した。こちらも変わった様子はない。相変わらず母はプランターでミニトマトを育てているようだ。小学一年生の時にアサガオを育てていたチープなプラスチック製の青色の鉢にアロエが植わったままになっているところを見るに、ミニサボテンを植えるのは断念したのだろう。
庭用のサンダルを履いて外に出ると、父が管理している水瓶を覗き込んだ。色とりどりのメダカが無数に泳ぎ回っている。ヒメダカに黒メダカ、白メダカ。楊貴妃メダカの繁殖はまだ成功させていないのだろう。まだ数が他の種に比べて少ない。
水瓶のそばに無造作に置いてあった餌の瓶のキャップを開けると、パラパラと振りまいた。メダカ達はこぞって群がり、水面をつつく。
「ちょっと、何にもないから素麺でいい?お昼」
母が窓から顔を出す。
「・・ああ、いいよ、何でも」
情けなさと安心感を同量に感じながら、川野は自分の居場所を再確認するかのように胸を撫で下ろした。
「親父は?」
素麺を食べ終えて一息ついた後に尋ねると、母は食器を片付けながら返した。
「お父さんなら仕事よ。何?何か用でもあるの?」
「・・いや、別に」
これといって話すことなど無い。むしろまともに顔を合わせたくないのが本音だった。
「夕方には帰ってくるから顔ぐらい見せなさいよ。あんたが家にいなくなって、内心寂しがってるんだから」
にやけながら母が言う。そんなわけないだろ、と心の中で毒づく。
父とは高校生の頃に進路で揉めて以来、あまり会話をしていない。父はなにかにつけて自分のやりたいことを否定し、現実を見ろと言い放つような人間だった。厳格で現実主義者で、他人が夢を語ろうとするとしゃしゃり出てきて否定する。
そんな父に嫌気がさして会話をすることをやめた。意地を張っているからなのか、言われた通りに現実を見たからなのか、父からも滅多に話しかけてくることはなくなった。
「それより、あのトカゲちゃん、元気?」
「ビリー?ああ、元気だよ」
そういえば母にビリーを持ってきてもらったのだった。”ビリーは”今でも健在だ。あの時に譲り受けた父のメダカ達は消え失せてしまったが。
「そう、なら良かった。それで、あんたは元気なの?」
突然の問いに川野は戸惑った。まるで嘘を見抜かれた子供のように目が泳いだ。
「・・ああ、何とかやってるよ」
「そう、そんな風には見えないけど」
母はそれだけ言うと、食器を重ねて流し台へと向かった。
「なにかあったんでしょう。別に話さなくたっていいけど、ゆっくり休んでいきなさいな」
皿を洗いながら、何の気なしといった口調で母は言った。川野はまぶたが熱くなるのを感じ、立ち上がった。これ以上情けない姿を見せるわけにはいかない。居間を出ると、階段を上がり、かつての自分の部屋へと向かった。
ドアを開ける。やはり何も変わっていない。日焼けした本棚の漫画、水槽を置いていた机、よれよれのカーテン、安っぽいアルミ製のベッド。引っ越した際に置き去りにした物は、まだ埃すらかぶっていなかった。母が掃除しているのだろうか。
早く帰り過ぎた。その言葉がジワリと背中に圧し掛かった。こんなにも早くここに帰ってくるとは思わなかった。ここを出た時、たいして期待せずとも内心は外界に羽ばたくことにわずかな希望を持っていた。
それがどうだ。早々に新天地から叩きだされたように敗走し、古巣に帰ってきてしまった。挙句の果てに母親に慰められては、涙をこらえる始末だ。
自分が嫌になる。現実を見た仕打ちがこれなのか。夢を諦めた結果がこれなのか。現実を見た。現実も悪くはないと思えた。そうやって自分を慰めてきた。慎ましく人生に向き合った。
その結果何も得られなかった。やりたくもないことをやり、叱責され、誰かに振り向いてももらえず、唯一得られた隣人達との交流は、立て続けに失った。
ベッドに倒れこんだ。固いマットレスの懐かしい感触に沈みながら目を閉じる。かろうじて粒になりきれない涙がまぶたの隙間に滲む。
ずっとこのままこうしていたい。世界に置き去りのまま、何の起伏もなく、風に当たらず、動かないでいたい。
いつもなら睡魔が襲ってきそうなものだったが、一向に眠りに落ちることはなかった。昼間の明るみの中、ただひたすら時間だけがゆっくりと過ぎていった。
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