第29話 振出し

 沼崎は図面を見つめたまま動かない。いつもの無表情ではなく、膨大な情報量を咀嚼している途中の様だった。

 緊張しながらも、それを見ていることしかできない。目の前に現れた答えはいまだ姿をくらましている。暴くことが出来るのは沼崎だけだ。

「どうなんですか、沼崎さん」

 耐えきれずに問いかけたが、沼崎は動かなかった。瞬きを一切せずに図面に食い入っている。

 長い長い沈黙の後、沼崎はゆっくりと口を開いた。

「そんなはずがない」

「えっ?」

 飛び出たのは予想外の言葉だった。

「どういうことですか」

 答えをせがむ。だが、沼崎は顔を上げた後、再び硬直してしまった。

「どうなっていたんですか。水道は。やっぱり井戸水に」

「違う」

 天を仰ぎながら沼崎が鋭く返した。

「井戸水じゃない。新築当初から上下水道だ」

 ようやく出た結論を受けて、川野は複雑な感情に呑まれた。

 つまり沼崎の仮説は外れていたのだ。自分の説の方が正しいということだ。

 いや、違う。そうはならない。一方が間違っていたとはいえ、もう一方が正しいわけではない。結局、糸口は見つからずに振出しに戻っただけなのだ。

「これって」

「あり得ない。信じろっていうのか。そんなオカルトじみたくだらない話を」

 川野の中でふつふつと静かに怒りが湧きあがった。否定したわけではないし、自分の説が正しいと思っているわけでもないというのに。

「僕は本当に見たんです。黒い粘液を。あれは幻覚なんかじゃない。あの時の気持ち悪い感覚を今でも覚えてるんです」

 思わず反論が口をついて出た。先ほどまで押さえつけていた感情が抑えきれずに漏れ出る。

「そんなもののせいで死人が出てるっていうのか。トカゲの化け物に人が襲われて。そんな馬鹿げたことが現実に起きてるっていうのか」

 表情が死んでいるが、瞳の中に戸惑いを感じる。目の前の現実を受け入れられない目だ。見覚えがある。かつて、自分も同じ目をしたことがあった。

「俺は信じない。そんなもの。俺は」

「でも」

「俺の母親もその化け物に殺されたっていうのか」

 沼崎の口調が初めて乱れた。表情が変わっていないが、明らかに怒りと沈痛に満ちている。唇が僅かに震えているのが分かる。

 重々しい沈黙が場に流れる中、川野はこの状況に既視感を覚えていた。いつしか自分の言葉が引き金となり、他者の魂の叫びを浴びせられたことがある。いつしか、いや、ごく最近の事だ。

 あの時と同じく、自分はまた隣人との交流を失うのだろうか。長い沈黙の中、後悔の念が脳にヒリヒリと焼き付く。社交性に乏しい自分が、ようやく僅かに育んだ友情らしきものも、ここであっけなく無くなるのだろうか。

「あのう、お茶の方は足りてますでしょうか」

 不意に開けていた扉から、沢谷婦人が顔を出した。沈黙の糸が切れ、場に無理矢理和やかな雰囲気が流し込まれる。

「ああ、はい。大丈夫です」

 咄嗟に川野は反応した。居心地の良い空間へと一刻も早く逃避したい。場に流れる空気を変えたい一心だった。

「すいませんねえ。あの人はわたしがこの部屋に入るのをよく思っていなかったものですから、何がどこにあるのかはさっぱりわからなくて。こんなにたくさん、大変でしょう。お探しの資料はありましたか?」

 品のある物腰柔らかな喋りに、一気に場の空気が変わる。横目に見た沼崎は微動だにしていない様子だったが。

「ええ、ありました。助かります。図面が残っていたとは思いもよらなくて。沢谷さんのおかげです」

 自分でも不思議なくらいに言葉がするすると出てきた。恐らくは今まで窓口として頼りにしていた沼崎が押し黙っている為、危機回避する本能のようなものが働いているのだろう。

「まあ。お役に立てたようで、安心しました。わざわざいらしてくださったのに、収穫なしじゃ申し訳が立ちませんから」

「いえいえ、十分すぎるくらいです。ありがとうございます」

 立ち上がって頭を下げる。その流れで沼崎も立ち上がった。

「すいません、ありがとうございました。目的の図面も見つかりましたので、もうそろそろ失礼します」

 無機質に言い放つと、沼崎はテーブルの上のファイルを抱え、棚へと戻し出した。慌てて川野も棚へとファイルを片付けていく。

 どうにかこの状況を切り抜けられそうだが、この後どうなってしまうのだろうか。そればかりが気になっていた。ファイルを持ち上げる手が重くなる。

「あら、これは・・・」

 振り返ると沢谷婦人がファイルを抱えて眺めていた。まずい、何かばれたのだろうか。不安に煽られていると、婦人は懐かしむように口を開いた。

「水源荘・・・。ここは・・・、ふふ」

「何かご存じなんですか?」

 婦人が言葉の最後に見せた小さな笑みが気になり、問いかけた。

「懐かしいですねえ・・。仕事のことを滅多に話さない主人が珍しくわたしに話してくれたことがあるんです。確かここのことでした。納得できない、こんなことはしたくはないって」

「・・・こんなこと?」

「ええ、確かこの水源荘が建つ前の土地には、立派な古井戸があったんです。でも、新築するにあたって、井戸のお祓いをできなかったらしいんですよ。工期がないからって、元請けの会社に迫られて」

「それって・・・」

「それで主人が珍しくわたしに愚痴をこぼしたんです。こんなこと、やりたくないって。こんなことしたら、今に罰があたるって言いながら怒ってましたっけ」

 婦人の目は懐かしむような優しい眼差しだったが、どこか寂しそうでもあった。

「後にも先にも、主人がわたしに仕事の話をしたのはこれっきりでした」

「あのう、ご主人さんって・・」

「ええ、二年前に亡くなりました」

 何故か川野は言いようのない喪失感に襲われていた。心のどこかで誰かと誰かが重なる。

「仕事一筋の人でしたから、最後まで仕事のことを気にかけていましてねえ。まったく、本当に根っからの職人気質で・・・。あら、すいません。お客さんが来るとついついお喋りが多くなってしまって」

 にこやかに笑いかけた婦人はファイルをぱたんと畳むと、川野に差し出した。

「それでは、我々はこれで失礼させていただきます。どうもありがとうございました」

 不意に背後から沼崎の声が飛んだ。振り返るとすっかりテーブルは片付き、棚が元通りになっている。婦人と話している間に黙々と後片付けをしていたようだ。頭を下げていた沼崎に倣い、川野も頭を下げた。

「いえいえ、お役に立てたようで安心しました」

 婦人は部屋を見渡しながら、微笑んだ。その笑みは、どこか誇らしそうだった。




「それじゃ、お仕事頑張ってくださいね。ああ、その図面は返していただかなくても結構ですから。ここにあるよりは然るべきところにあった方がよいでしょう?」

 玄関先でにこやかに婦人が笑いかける。 

「いえ、コピーを取ったら、いずれお返ししますので。どうも、長居してすみませんでした。ありがとうございました」

 二人そろって頭を下げる。出ていく沼崎の後ろで、川野は婦人に何度も会釈をしながら扉を閉めた。

 しずしずと門の外へ向かう。その流れのまま、門を出た後も同じ道を一言のやりとりも交わさず、歩いて行った。

 どんなタイミングで話を切り出せばいいのか分からなかった。どういった言葉を発すればいいのかもわからない。もう二十何年も生きているというのに。不甲斐なさが背中にのしかかる。

 二人そろって同じ道を歩き、同じ角を曲がる。当たり前だ。隣人なのだから。帰路は全く同じなのだ。つまり水源荘に辿り着き、部屋に入るまでこの沈黙は続く。

 ああ、どうすればいい。このまま何もかも振出しに戻ってしまうのだろうか。理解者を得られず、再び孤独に怯えることしかできなくなってしまうのだろうか。

 一歩一歩踏み占める度に恐怖は大きくなっていったが、とうとう水源荘に辿り着き、階段を上っていたところで、川野はたまらずに切り出した。

「沼崎さんっ」

 ようやく絞り出した声に、沼崎は立ち止まり、僅かに身を反らして振り返った。

「あの・・すいませんでした。さっきは」

 続けて喉から這い出たのは謝罪の言葉だった。それ以外に言葉が見つからない。いや、それ以外の言葉をどう言えばいいのか、分からなかった。

 沼崎は沈黙している。横顔に曇り空の影が差していた。

「・・・俺はな。今でも後悔してるんだ。お袋の話に取り合わなかったことをな」

 ゆっくりと口を開いた沼崎は続けた。

「今更どうにもならないことは分かってる。それでも俺は理由を探したいんだ。お袋が死んだ理由を。俺は逃げてきた。何もかもから。お袋の言葉からも逃げてきた」

 顔はよく見えなかったが、声色で分かる。これは魂の叫びだ。

「俺はまた逃げてるのかもしれないな。死んだ理由を探して、それのせいにしようとしてる」

 イズミの時のように目の前で実際に叫ばれているわけではないのに、まるであの時と同じように空気が張り詰めた。

「俺を笑うか?何もかもから逃げてきた、いい年こいた独身中年が、必死に母親が死んだ理由を探すのは滑稽か?」

 返す刀が見つからなかった。また沈黙が続く。

「・・・俺みたいになるなよ」

 力ない警告を吐いた後、沼崎は階段を上がっていき、目の前から消え失せた。やがて聞きなれた金属のドアが閉まる音がして、場に真の静寂が訪れた。

 階段の踊り場に立ち尽くしたまま、喧騒を求めて遠くを眺めながら、ファイルの背表紙を握りしめた。街はいつもと変わらない湿気た日常の表情に戻っている。腑抜けた街の片隅に自分が存在しているかと思うと、随分と惨めな気持ちになった。

 全てが振出しに戻った。僅かに育んだ友情らしきものも、追い求めた非日常も、全て霧のように消えて霞んでしまった。心の奥で孤独だけが手招きをしながら待ち構えている。

 肩を落として俯くと、足元にあった雨水の排水溝が目に入った。鈍く赤く錆びついた排水溝は、カラカラに乾ききっていた。

 

 

 

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