断章
第47話 おとぎ話と夜の祈り
冷えびえとした夜だった。風の精霊のみならず、すべての精霊が沈黙しているのが、セリンにはわかった。みずからも沈黙の中に身を置いて、身のまわりの道具をひとつひとつ、確かめる。空気が澄んだ静寂は、人ならざるものの音を聞いてしまう彼女には貴重なものだ。
黙々と自分の仕事に励んでいたセリンはしかし、すすり泣く声を聞いて手を止めた。
「イゼット?」
この部屋の奥で眠っているはずの息子。その名を呼びつつ、彼のいる寝台の方へ行くと、母上、と声が返った。
まだ幼い彼女の息子は、
「どうしたの? 眠れないの?」
「ははうえ……」
しゃくりあげながら繰り返したイゼットは、なんとかして、言葉をつなごうとしていた。セリンが辛抱強く待っていると、彼はやがて、絞り出すように言った。
「光の
セリンは一瞬、目をみはった。
それからすぐに、
「まあ、大変。でも、大丈夫よ」
「だいじょうぶ?」
「ええ。私が光の蝶たちに――精霊たちに、言ってあげますから。『もう少し、小さな声でお話してください』って。だから、大丈夫」
セリンは息子にささやいた後、まったく別の
呪文が終わってからもイゼットは、「まださわいでいる蝶たちがいます」と落ちつかない様子である。セリンはそれを聞き、まずはイゼットをなだめることにした。精霊を感じる力を持つ人間があまり動揺していると、精霊にそのあせりが伝わることもあるからだ。
「まずは、イゼットが安心しないといけませんね。そうだわ、またお話をしてあげましょう」
ほほ笑んで、セリンがそう言うと、イゼットは目を輝かせた。セリンが語る物語を聞くのが、彼は大好きなのだ。
セリンは息子に寄りそうと、「なにかご要望がおありでしょうか」と澄まして尋ねた。寝物語に何を話すかは、たいていイゼットの要望で決まる。
※
大礼拝堂で毎日祈る祭司のもとに、ある日、一人の娘がやってきました。娘は西洋人のような金色の長い髪をもち、若葉のような色の美しい瞳をしていました。
娘は祭司に「聖女様に会わせてください」と言いました。祭司は「ならぬ。どこの者とも知れぬ女人を聖女様に会わせるわけにはゆかぬ」と答えました。娘は残念そうにしつつも、大礼拝堂を去ってゆきました。
翌日、同じ時間に、再び娘が大礼拝堂にやってきました。
「聖女様にお願いしたいことがございます。お会いできませんか」そう娘は言いますが、祭司はまた「ならぬ」と答えました。娘は少し悲しそうな顔をして、大礼拝堂を去ってゆきました。
娘はそれからというもの、毎日同じ時間にやってきて、同じようなことを言いました。聖女様に会わせてほしい、と何度も頼んできました。これに参った祭司はしかし、どうすることもできません。庶民を聖女様に直接会わせることは、もっともしてはならぬことでした。
「聖女様にお願いしたいことがございます。話だけでも伝えていただけませんか」
そう懇願する娘に、祭司はやはり「ならぬ」と言いました。
「これ以上同じことを繰り返すなら、
ふらふらと大礼拝堂を出ていった娘は、それきり大礼拝堂に姿を見せませんでした。……
※
「母上。このお話のさいし様はなぜ、かのじょのお願いをきいてあげなかったのでしょうか」
首をかしげる息子を見やり、セリンは困った顔で笑う。実際、どう説明したものかと悩んでいた。
彼女が生まれるずっと前に終結した抗争以後、聖教は聖女派と祭司長派に分かれ、水面下で争い続けている。勢力の分断と決裂は、組織を弱らせるものだ。聖教は『月の娘の話』の頃と比べてずいぶん勢いを落としていた。
この話は、聖教の衰退がはじまった頃の
「私にも詳しくはわからないけれど、祭司様なりに聖女様を守ろうとしたのかもしれないわ」
「でも、かのじょは悪いひとではないと思います」
「イゼットは、なぜそう思うのですか」
問いを投げ返すと、イゼットは少し首を傾けた。セリンそっくりな明るい色の瞳をいっぱいに見開いて、考えこんでいるようだ。たくさん考えこんだイゼットは、一生懸命にセリンを見上げてきた。
「もし、かのじょが聖女さまに悪いことをするひとだったら、なんどもおなじことをお願いしにはこないと思います。ほんとうにお願いしたいことがあったから、毎日、がんばったのだと思います」
「祭司様は、彼女のお願いをきくべきでしたかね」
「わたしはそう思います」
「では、もし、もしもこの娘が、いい人のふりをしていたらどうしましょう? 聖女様に悪いことをしようとしていたら?」
少し意地悪な質問をすると、イゼットは目を白黒させた。
「それは……そうかんがえると、さいし様の気持ちもわかります……。でも、でも……」
頭を抱える息子の姿に、セリンは思わずほほ笑んだ。イゼットは母の変化を見て、ふしぎそうに、けれど嬉しそうにする。
優しい子に育ってくれた。そう思うと、セリンは泣きそうになる。
この優しさはイゼットの強さになるだろう。だが、同時に弱点にもなりうる。特に、この場所では。
セリンはそっと、イゼットの髪をなでた。イゼットは、きょとんとした。
「母上は、怒らないのですか」
「怒りませんよ。どうしたの?」
「あの、父上は、わたしが迷うと怒るのです。けつだんりょくがたりない、と」
セリンは思わず嘆息した。みずからの夫の、岩壁のようにかたい表情がまなうらに浮かぶ。夫に限らずこの家の人間は、なにかとイゼットに対してつらく当たるのだ。
しかし、そこにイゼット自身の罪は一切ない。
だからこそ、セリンは、彼女だけは息子に向かってほほ笑み続けるのだ。
「迷うことは悪いことではありませんよ。迷って、悩んで、考えるのはとても大事なことです。あなたが今迷ったのは、月の娘と祭司様と聖女様、いろんな人を思いやった結果ですよね」
少年は力強くうなずいた。セリンはそっと、一人息子を抱きしめる。
「イゼット。その思いを忘れないようになさい。あなたのすてきな優しさを、どんなことがあっても、持ち続けられるように……母は願っています」
イゼットは、今度は小さくうなずいた。
ほどなくして、イゼットは眠りについた。精霊の騒ぎ声も気にならなくなったらしい。セリンは息子が寝た後も、そばで見守り続けている。いつ、何があるかわからないからだ。
「『光の蝶たちが騒いでいる』……」
セリンはじっと、虚空を見た。彼女の身にはまだ、そのような兆しは感じられない。しかし、イゼットだから感じられるものもあるのあろう。
ヒルカニア南西地方、古きはペルグ王国の領地であった平原でセリンは生まれ育った。長じてからも、故郷で精霊の声を聞き、天の相(気候、天候)を占って生計を立てていた。いわゆる
「あなたは将来、
優しく愛らしく、そしてたくましい子が自分の前からいなくなる。そう思うと寂しさもあったが、イゼットの将来を思えば、ロクサーナ聖教の
どんな道を歩むにしても、険しい道になるだろう。
ならば、せめて今だけは、安らかであってほしい。
セリンは不穏なさざめきから守るように、息子を両腕で包みこむ。
精霊たちよ、どうかこの子を守ってください。
沈黙の夜に、小さな祈りを捧げた。
夜明けに捧ぐ鎮魂歌 蒼井七海 @7310-428
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