第46話 夜明けに捧ぐ鎮魂歌

 ヒルカニア北西部の小さな町は、長き冬を越え、足早に去る春を少しでも謳歌おうかしようとしていた。決して広くはない通りを昼間のうちに人々が笑顔で行き交う。彼らはすれ違うと挨拶を交わし、会話を弾ませる。外から装飾品を売りにきた商人が華やかな声を張り、たちまち人々が集まった。中には婦人の姿もある。


 にぎやかで、けれど決して粗野そやな雰囲気にはならない。おおらかな人々は、よそから来た者にも優しかった。装飾品を売る店から、二軒ほど露店を隔てた先で、少女が籠いっぱいに林檎スイーブを買っていった。店主のふくよかな男は一つおまけをつけてやった。それは下心から来るものではない。彼女の同居人がここ数か月、体を悪くしていると知っているがゆえの、親切心である。町の人々は彼の知識と武勇を頼りとし、人柄を好いていたので、彼の体調不良を知ってから、二人に何かと世話を焼いている。


 感謝の言葉を述べた少女に、男はついでに「今、町の外れのラーレ(チューリップ)が見ごろだよ」と教えてやった。少女はほほ笑んでうなずいたが、何も言わなかった。


 そして、夜。美しく咲き誇るラーレも闇に沈んだ頃。林檎スイーブを買いこんだ少女、フェライは、小さな家の隅でそのうちの一個をむいていた。

 家、といっても、小屋のようなものだ。調理のための設備はひととおり整えたし、草花模様をあしらった絨毯じゅうたんもひいてはあるが、どことなくがらんとしている。かといって、で住むには少し狭い。そういう家だったが、二人とも文句は言わない。


 今は、目を慰める色鮮やかな絨毯すらも、夜の闇に沈んでいる。行灯ランプの心もとない明かりだけが、闇の中で揺れている。あとは、静寂。そして、ときどき、林檎スイーブの皮をむく爽やかな音。


 その均衡が、揺らいだ。かたわらの寝台の中で、人の動く気配がある。フェライは慌てて、そちらに体を向けた。

「大丈夫、メルト? 苦しくない?」

「……ああ、平気だ。ありがとう」

 メルトは蒼紫色の瞳を彼女に向けて、ほほ笑んだ。しかし、顔は蒼白く、額には脂汗がにじんでいる。平気、なようには見えなかった。フェライは一瞬眉を曇らせたが、すぐに感情を押し隠して林檎スイーブをむく作業に戻った。


『夜の杖』を壊した後――メルトは一度、白い子どもの不吉な言葉が嘘のように、回復した。フェライと冒険に出かけられるくらい、元気なときもあった。しかし、じょじょに弱っていった。『夜の杖』のことと、監獄塔にいた頃の『実験』が影響したのだろう。今では家の外に出ることすらままならなくなっている。それでも彼は、フェライや人々に対して、気丈にふるまっていた。だから、フェライもできるだけ明るく接するようにしている。今夜も、それは変わらない。


「よし、できた!」

 フェライが短刀を置いて手を叩く。器に盛られた林檎スイーブを見て、メルトは「器用なものだな」と笑った。

 背中と頭の下に布を詰める形で、なんとかメルトの上半身を起こす。そうして、二人で夜な夜な林檎スイーブを食べる。ふしぎな光景だが、二人ともにとって、眠れぬ夜の習慣となっているのだ。


 しばらくは、果物片手にたわいもない話をしていた。だが、あるときその手を止めたメルトが、唐突にフェライに尋ねた。

「フェライには、なにかやりたいことはないのか?」

「やりたいこと? どうしたの、急に」

 フェライは首をひねった。メルトは、言いにくそうに顔をしかめる。掛布に影が落ちた。

「いや。聖都を出てからこっち、おまえを俺の事情に付き合せてしまったからな。おまえ自身が、心の底からやりたいこと、見たいものがあるのなら、これからはその望みをかなえてほしいと、思ったんだ」

 訥々とつとつと語る彼の顔は穏やかで。しかしその目は、すぐ前まで迫った終わりを見すえている。フェライは顔を歪めそうになって、慌てて唇を噛んだ。

 覚悟していたことだ。

 今さら動揺してはいけない。そんな姿をさらしてはいけない。


「……今は、あんまり思いつかないかな。いろんなところに出かけたり、いろんな人に会ったりしたし」

 フェライが参った、とばかりに笑って言うと、メルトも少し顔をほころばせる。


 それから、メルトが吟遊詩人のように、昔の話を語り聞かせてくれる。これもまた、日課だった。彼の語る古王国の光景は、フェライの想像以上に美しく、生き生きしている。一方で、彼がそうして昔語りをすることで、望郷の念をまぎらわしていることにも、気づいていた。


 語りの終わり。再び横になったメルトが、フェライの名を呼ぶ。弱くなった行灯ランプの明かり中で、彼女は青年の横顔を見つめた。

「フェライと出会ってから、毎日楽しかった。……本当に感謝している。おまえにも、関わってきた人々にも」

 フェライはなにも言わなかった。なにも言うべきではないと、思っていた。

「だからこそ。古王国のことや呪物じゅぶつには、できるだけ関わらずに生きてほしいと思うんだ。そういうものに関わるのは、これで最後にしてほしい」

 行灯ランプの火が、揺れる。チリ、と小さな音が爆ぜた。

「もちろん、道を決めるのはおまえだ。俺は強制しないし、したくない。でも――俺の願いは、今言ったとおりだ」

「……うん」

 フェライは、消えそうな声で答える。

 きっと、もう、メルトはすべて見通しているのだろう。彼はそういう人だ。そういう人だった。人の心を敏感に察して、けれど、それを表に出さない。

 この時でさえ。彼は荒い息を吐きながらも、何事もないように、悪戯っぽく笑ったのだ。

「湿っぽくなったな。すまない。――フェライも、少しは休んでくれ」

「大丈夫。私は平気よ。体は昔から丈夫だから」

 フェライも、悪童のように笑って言った。メルトは喉を鳴らした後、ゆっくりと手をのばし、彼女の髪に触れる。金色の髪はわずかな明かりの中でもよく見えると、いつか彼がこぼしたことがあった。

「フェライ」

 その髪を、細くなった指が撫ぜる。

「ありがとう」

 やわらかなささやきが、夜気にそっと染みこんだ。


 その夜、結局フェライは休まなかった。苦しげな青年のそばに付き添いつづけた。


 そして、翌朝。朝日が昇る少し前に、メルトは眠るように息を引きとった。



 フェライは、自分たちがほんの短い間暮らした家を、外から見ていた。丘の上に建つ小さな家で、庭すらない。しかし、まわりにほかの人の家はないので、丘全体がこの家の私有地みたいなものだった。


 家のすぐそば、フェライの前には、名前のない墓がある。静かにそれを見おろした少女は、自分のななめ後ろに立っている青年を顧みた。

「すみません。埋葬、手伝ってもらって。こんな朝早くに」

 青年は真意の読めない表情で、構わない、というようなことを言った。ふだん飄々としている彼も、さすがに今は真剣なまなざしでフェライを見ている。

 そのとき、青年の後ろにいた子どもが、フェライの隣に並んだ。リゼバードで知り合った、〈使者ソルーシュ〉の子どもだ。

「これから、どうするの」

 いささかも気にしていないような声で、彼は尋ねてくる。フェライは少し考えこんだあと、彼を見下ろした。

「確か、二人は……穢れた大地を浄化するための呪物を、探しているのよね」

「うん。新王国方面にありそうなんだけれど、まだよくわからない」

「その呪物探し、私にも手伝わせてほしい」

 子どもは、首を傾けた。その後すぐ、彼は一度青年の方を見て、また視線をフェライに戻す。

「君はいいの? 彼は確か」

「うん」

 子どもが、そして青年が言おうとしていることは、わかっていた。


 メルトは昨夜、言っていた。『古王国や呪物に関わるのは、これで最後にしてほしい』と。いうなれば、彼の最期の願いだ。しかし、フェライにはそれを受け入れることが、どうしてもできそうになかった。


「私、見てみたいんだ。きれいになった古王国の跡地」


 メルトが古王国の話をするたび、その残像に惹かれていった。同時に、彼の想いにも触れた。彼は本当は、古王国の地が穢れたままであることが、耐えられなかったのだと思う。

 あの場所を昔の姿にすることは不可能だ。それでも、再び生き物が住める土地にすることは、できる。その光景を見てみたいのだ。――彼のぶんまで。


「確かに、最初はメルト一人の願いだった。でも、今はそれが、私自身の願いでもある。だから……手伝わせてください。お願いします」

 子どもと青年は、しばらく考えこんでいた。しかし、やがては了承してくれた。思うところがないではないが、人手が増えるのはありがたい、というわけで。


 さっそく彼らから話を聞くことになった。しかし、フェライは少しだけ一人になる時間をもらった。なにも刻まれていない墓石を少し見つめ、丘の端に立つ。


 いよいよ世界は、夜明けを迎えようとしていた。彼の瞳と同じ色の空に、白い光がひとすじ、ふたすじ、差しこんでくる。


 フェライは空をながめながら、唇を震わせる。

 開かれた口から、旋律がこぼれ出た。

 物悲しくも力強い音と、優しくも荘厳な詩。

 神聖騎士団時代、いつかの儀式で歌った、死者の魂を慰める歌だった。


 苦しみの中で旅立った彼の魂が、少しでも安らかであるように。無事に『魂の庭園』へかえれるように。願いを込めて、祈りを込めて、彼女は歌う。


 夜明けの空に、歌声が響き渡る。

 丘に立つ少女は、風が髪をなぶっても、鳥の声が聞こえても、構わず旋律を紡ぎ続ける。


 やがて、空を見つめる翠の瞳から、一粒の光がこぼれ落ちた。



(『夜明けに捧ぐ鎮魂歌』・完)

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