第46話 夜明けに捧ぐ鎮魂歌
ヒルカニア北西部の小さな町は、長き冬を越え、足早に去る春を少しでも
にぎやかで、けれど決して
感謝の言葉を述べた少女に、男はついでに「今、町の外れのラーレ(チューリップ)が見ごろだよ」と教えてやった。少女はほほ笑んでうなずいたが、何も言わなかった。
そして、夜。美しく咲き誇るラーレも闇に沈んだ頃。
家、といっても、小屋のようなものだ。調理のための設備はひととおり整えたし、草花模様をあしらった
今は、目を慰める色鮮やかな絨毯すらも、夜の闇に沈んでいる。
その均衡が、揺らいだ。かたわらの寝台の中で、人の動く気配がある。フェライは慌てて、そちらに体を向けた。
「大丈夫、メルト? 苦しくない?」
「……ああ、平気だ。ありがとう」
メルトは蒼紫色の瞳を彼女に向けて、ほほ笑んだ。しかし、顔は蒼白く、額には脂汗がにじんでいる。平気、なようには見えなかった。フェライは一瞬眉を曇らせたが、すぐに感情を押し隠して
『夜の杖』を壊した後――メルトは一度、白い子どもの不吉な言葉が嘘のように、回復した。フェライと冒険に出かけられるくらい、元気なときもあった。しかし、じょじょに弱っていった。『夜の杖』のことと、監獄塔にいた頃の『実験』が影響したのだろう。今では家の外に出ることすらままならなくなっている。それでも彼は、フェライや人々に対して、気丈にふるまっていた。だから、フェライもできるだけ明るく接するようにしている。今夜も、それは変わらない。
「よし、できた!」
フェライが短刀を置いて手を叩く。器に盛られた
背中と頭の下に布を詰める形で、なんとかメルトの上半身を起こす。そうして、二人で夜な夜な
しばらくは、果物片手にたわいもない話をしていた。だが、あるときその手を止めたメルトが、唐突にフェライに尋ねた。
「フェライには、なにかやりたいことはないのか?」
「やりたいこと? どうしたの、急に」
フェライは首をひねった。メルトは、言いにくそうに顔をしかめる。掛布に影が落ちた。
「いや。聖都を出てからこっち、おまえを俺の事情に付き合せてしまったからな。おまえ自身が、心の底からやりたいこと、見たいものがあるのなら、これからはその望みをかなえてほしいと、思ったんだ」
覚悟していたことだ。
今さら動揺してはいけない。そんな姿をさらしてはいけない。
「……今は、あんまり思いつかないかな。いろんなところに出かけたり、いろんな人に会ったりしたし」
フェライが参った、とばかりに笑って言うと、メルトも少し顔をほころばせる。
それから、メルトが吟遊詩人のように、昔の話を語り聞かせてくれる。これもまた、日課だった。彼の語る古王国の光景は、フェライの想像以上に美しく、生き生きしている。一方で、彼がそうして昔語りをすることで、望郷の念をまぎらわしていることにも、気づいていた。
語りの終わり。再び横になったメルトが、フェライの名を呼ぶ。弱くなった
「フェライと出会ってから、毎日楽しかった。……本当に感謝している。おまえにも、関わってきた人々にも」
フェライはなにも言わなかった。なにも言うべきではないと、思っていた。
「だからこそ。古王国のことや
「もちろん、道を決めるのはおまえだ。俺は強制しないし、したくない。でも――俺の願いは、今言ったとおりだ」
「……うん」
フェライは、消えそうな声で答える。
きっと、もう、メルトはすべて見通しているのだろう。彼はそういう人だ。そういう人だった。人の心を敏感に察して、けれど、それを表に出さない。
この時でさえ。彼は荒い息を吐きながらも、何事もないように、悪戯っぽく笑ったのだ。
「湿っぽくなったな。すまない。――フェライも、少しは休んでくれ」
「大丈夫。私は平気よ。体は昔から丈夫だから」
フェライも、悪童のように笑って言った。メルトは喉を鳴らした後、ゆっくりと手をのばし、彼女の髪に触れる。金色の髪はわずかな明かりの中でもよく見えると、いつか彼がこぼしたことがあった。
「フェライ」
その髪を、細くなった指が撫ぜる。
「ありがとう」
やわらかなささやきが、夜気にそっと染みこんだ。
その夜、結局フェライは休まなかった。苦しげな青年のそばに付き添いつづけた。
そして、翌朝。朝日が昇る少し前に、メルトは眠るように息を引きとった。
フェライは、自分たちがほんの短い間暮らした家を、外から見ていた。丘の上に建つ小さな家で、庭すらない。しかし、まわりにほかの人の家はないので、丘全体がこの家の私有地みたいなものだった。
家のすぐそば、フェライの前には、名前のない墓がある。静かにそれを見おろした少女は、自分のななめ後ろに立っている青年を顧みた。
「すみません。埋葬、手伝ってもらって。こんな朝早くに」
青年は真意の読めない表情で、構わない、というようなことを言った。ふだん飄々としている彼も、さすがに今は真剣なまなざしでフェライを見ている。
そのとき、青年の後ろにいた子どもが、フェライの隣に並んだ。リゼバードで知り合った、〈
「これから、どうするの」
いささかも気にしていないような声で、彼は尋ねてくる。フェライは少し考えこんだあと、彼を見下ろした。
「確か、二人は……穢れた大地を浄化するための呪物を、探しているのよね」
「うん。新王国方面にありそうなんだけれど、まだよくわからない」
「その呪物探し、私にも手伝わせてほしい」
子どもは、首を傾けた。その後すぐ、彼は一度青年の方を見て、また視線をフェライに戻す。
「君はいいの? 彼は確か」
「うん」
子どもが、そして青年が言おうとしていることは、わかっていた。
メルトは昨夜、言っていた。『古王国や呪物に関わるのは、これで最後にしてほしい』と。いうなれば、彼の最期の願いだ。しかし、フェライにはそれを受け入れることが、どうしてもできそうになかった。
「私、見てみたいんだ。きれいになった古王国の跡地」
メルトが古王国の話をするたび、その残像に惹かれていった。同時に、彼の想いにも触れた。彼は本当は、古王国の地が穢れたままであることが、耐えられなかったのだと思う。
あの場所を昔の姿にすることは不可能だ。それでも、再び生き物が住める土地にすることは、できる。その光景を見てみたいのだ。――彼のぶんまで。
「確かに、最初はメルト一人の願いだった。でも、今はそれが、私自身の願いでもある。だから……手伝わせてください。お願いします」
子どもと青年は、しばらく考えこんでいた。しかし、やがては了承してくれた。思うところがないではないが、人手が増えるのはありがたい、というわけで。
さっそく彼らから話を聞くことになった。しかし、フェライは少しだけ一人になる時間をもらった。なにも刻まれていない墓石を少し見つめ、丘の端に立つ。
いよいよ世界は、夜明けを迎えようとしていた。彼の瞳と同じ色の空に、白い光がひとすじ、ふたすじ、差しこんでくる。
フェライは空をながめながら、唇を震わせる。
開かれた口から、旋律がこぼれ出た。
物悲しくも力強い音と、優しくも荘厳な詩。
神聖騎士団時代、いつかの儀式で歌った、死者の魂を慰める歌だった。
苦しみの中で旅立った彼の魂が、少しでも安らかであるように。無事に『魂の庭園』へ
夜明けの空に、歌声が響き渡る。
丘に立つ少女は、風が髪をなぶっても、鳥の声が聞こえても、構わず旋律を紡ぎ続ける。
やがて、空を見つめる翠の瞳から、一粒の光がこぼれ落ちた。
(『夜明けに捧ぐ鎮魂歌』・完)
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