第45話 転回する願い

 戦場が、死んだような静けさに包まれた。


 騎士たちの顔には恐怖の色がある。当然だ。「地上最強の狩猟民族」は女性といえど、大陸じゅうで畏怖の対象となっている。それがいきなり戦場に割り込んで、しかも実際に十人弱を倒したのだ。怖気づくなというのが無理な話だった。しかも彼女は、今しがた「我ら」と言った。つまり、まぎれこんだクルク族は一人ではない。それが誰かフェライには想像できたが、ほかの人たちには無理だろう。アリド氏族ジャーナが氏族を挙げて攻めてきた、と勘違いしている人もいそうだった。


 騎士たちの間に動揺が走り、動きが鈍る。その隙にフェライは、声高く名乗ったサンディの元へ駆けより、たくましい腕をつかんだ。

「サンディ! どうしてここに」

「やあフェライ。ずいぶんと楽しそうなことをやってるみたいだったから、混ざりにきたよ」

 男二人と一緒に、と言ってから、彼女は表情を改める。

「というのはまあ、冗談で。本当は、この近くの道を行ってるときに、あんたたちを探している騎士どもを見かけたんだ。アブとチャクがついてくって言い張るから、ついてったらここに来た。気味悪い物体の前に立つメルトさんが見えた直後に、あいつらがやってきたもんだから、ちょっと手助けしてやろうって決めたわけ」

 サンディは、騎士たちをざっとながめまわしたあと、フェライに向けて片目をつぶってみせた。

「本当は、よその戦場いくさばに割り込むのはご法度はっとなんだけど、今のあたしたちは氏族から離れてるからまあいいか、ってね。これも若い世代ならではだよ」

 サンディは楽しげにささやいた後、再び、敵となった騎士たちをひとにらみする。その表情は獲物を狙う狩人そのものであった。


 たまたま近くにいたチャウラが、動揺しきっている騎士数人を続けざまに気絶させてから、フェライのもとにやってくる。

「びっくりしたあ。まさか、フェーちゃんがクルク族の人と知り合ってるとは思わなかったよ」

「私も、彼女たちがここに来るとは思ってなかった。助けてくれるとも……」


『災いの子』はガルード氏族ジャーナにとって殺めるべき存在だ。サンディだけはアリド氏族ジャーナで、そんな決めごととは無縁だが、ガルードの旗を掲げる荷車と、ガルードの二人と共に旅をしていた。彼らはいつか敵になるのだろう、そんな予感があったのだ。


 イェルセリア人たちの戸惑いをよそに、サンディは完全に狩りの態勢に入っている。遠くからも悲鳴じみた声が聞こえるので、どこかにアブやチャクもいるのだろう。むしろ、張り切っているのは彼ら二人かもしれない。

「術使いは……あれか」

 黒に限りなく近い茶色の瞳が、遠くに佇む白衣の巫女をとらえる。再び術を使おうとしていた彼女らは、サンディの視線を感じたのか、ことばを唱える舌を途中で止めたらしい。どんな表情をしているかは知れないが、恐れている雰囲気が伝わってくる。

 この頃になると、騎士たちはようやっと動揺から立ち直りはじめていた。彼らが気合の声を張り上げると、サンディも臨戦態勢を整える。

 クルク族の女性と騎士たちが、再び戦場でぶつかった。フェライたちが前に出るまでもなく、瞬く間に四人の頭部や鳩尾を打って気絶させた彼女は、唖然としている少女二人を振り返った。

「こいつら、何しにここへ来たんだ? 狙いはフェライかメルトさんか、どっち?」

「それが、よくわからないの」

 なんとか言葉を吐きだしたフェライは、騎士たちのおかしな動向について打ち明ける。すると、サンディは、くっきりとした眉をしかめた。

「ふうん……ともかく、この騎士たちに聖教の偉い祭司もくっついてきてるんだ。だとしたら、変だね」

「変?」

「術使いの数が少なすぎる。メルトさんをどうこうしたけりゃ、あの程度の女二人じゃ足りないだろう」

 語りながらもサンディは、二人を戦闘不能にしている。それについては考えないようにしつつ、フェライとチャウラは顔を見合わせた。

「……二人?」

「あの、巫覡シャマンが二人だけってことはないと思いますよー。ここに配置されているのが二人だけで、多分もっといます」

 首をひねるフェライの横で、チャウラがはっきりと言った。しかし、サンディは首を振る。

「いいや、あたしたちが上から観察したときは、あの二人しか見えなかったよ」


 今度は、三人で顔を見合わせた。

 次の瞬間、彼女たちは同じ考えにたどり着く。

 フェライは、血の気が引いてゆく音を聞いた気がした。


 剣がぶつかる音を聞き、我に返る。そして思い出した。ここは戦場、気を抜いているひまはない。ぼうっとしていたら捕らえられる。最悪の場合、殺される。フェライは再び剣を構えて、躍りかかってきた騎士を迎え撃った。かたわらで、チャウラも若い騎士と斬り結んでいた。ほどなくして、二人とも相手をくだす。チャウラが、暴れまわっているアリドの女性を顧みた。

「ま、まずくないですか」

「まずいかも。ったく、呆れるよ。男なら正々堂々来いってんだ」

 悪態をついてから、サンディは耳慣れない言葉を張り上げた。おそらくは、クルク族の言語。意味はわからなかったが、言葉の途中にアブの名が出てきたことにフェライは気づいていた。

「さあて、走るよフェライ」

「え?」

 サンディが右腕を回しながら意気揚々と言った。フェライは言葉の意味をはかりかねて、思わず訊き返したが、直後にだいたいの意図を察して表情をひきしめた。

「あちらにはチャク少年が行ってるけど、あの子だけじゃ、さすがに心もとないから」

 全身を緊張させるフェライとは対照的に、サンディは明るい声で呟いた。



 メルトと夜の杖のにらみ合いは、騎士たちの戦闘が始まってからも続いていた。メルトが自分の中で暴れ狂う痛みに耐えなければならなかったからである。


 誰から教えられたわけでもないが、メルトは自分の中で何が起きているのかわかっていた。『夜の杖』を壊そうとする『曙の杖』が、まず彼自身の中にある杖の力に反応している。なにもしていないのに、杖の先端が淡く光っているのは、そのせいだろう。このままでは、メルトの中にある『夜の杖』の一部を、『曙の杖』が勝手に壊してしまう。そうなればメルトは死ぬ。死そのものを今さら恐れはしないが、目的を果たせないまま落命するのだけは、嫌だった。


 さりとて、メルトは立っているのもやっとの状態だ。ほとんど動いていないのに、乱戦の後のように息が上がっている。胸が苦しい。あちこちが痛い。目に見えない紐で全身を締めあげられているかのようだった。


 腕も足も、いつになく鈍重だ。それでもメルトは気力を振りしぼる。こうしている間にも、フェライたちと騎士たちとの戦闘は、激しさを増している。早く終わらせなければ、彼女たちの負担が増えるばかりだ。


 うめきながら、全身を引きずるようにして、メルトは半歩前へ出る。杖を持った両腕を少しでも動かそうとすると、痛みが強まった。杖じたいはさほど重くない。それなのに、自分の体が動かないのがもどかしい。息を深く吸って、長く吐いてから、なんとか腕を持ち上げようとした。


 そのとき、彼は危険な気配を感じ取った。にごった空気の中、駆りたてられた精霊の怒りが、しびれとなって肉体を突き刺す。

 まずい、と思った。けれど、どうしようもなかった。


 全身から力が抜ける。吐き気がする。メルトはこらえきれずその場に膝をついた。しかし、『曙の杖』は立てたまま手放さない。材質不明の杖だけを支えにしている彼は、顔を右へ向ける。

 複数の人の気配と、布をひきずる音。誰何の声を上げるまでもない。彼が顔を向けた先には、無表情のげきが五人と――祭司の老人が立っていた。


「お久しゅうございます、殿下」


 老人は、祭司長カダルは、記憶にあるとおりの声でメルトを呼んだ。虫唾むしずが走る。しかしメルトは、無言を貫いた。

 口も表情も動かさぬ古王国の王太子を見やり、カダルはしわだらけの顔をさらに歪める。隠しきれない喜悦の色がにじんだ。怪しく光る眼が、『夜の杖』と、それを取り巻く『夜』を見つめる。

「なるほど、これが古王国を滅ぼしたもの、ですな。この目で見られる日がくるとは、思っておりませんでした」

 そう言いながらカダルは、不自然なほど緩慢な足取りで『夜』へと近づく。メルトはそこで、あえて大きく息を吸った。

「何を、するつもりだ。ロクサーナ聖教祭司長」

「知れたこと」

 カダルが、メルトに顔を向ける。その表情は、目は、いつになく冷たい。そして薄暗い欲望に彩られていた。もう繕う必要はない、ということだろう。

「忌々しき力を持つこれは、祭司の手で管理します。そのためには、この場所から運び出さねばならぬでしょう」

「それは、聖教としての決定か。聖女猊下のお許しは、得たのか?」

 メルトは、吐き気をこらえて立ちあがる。そのさなか、カダルの面に激しい感情がよぎるのを見た。彼はすぐさま反論の言葉をつむごうとしたが、メルトはそれをさえぎった。

「その杖は、時の聖女をして『危険だ』と言わしめた代物だ。それを、たかが祭司が、管理できるというのか。――冗談も、大概にしてもらいたいな」

 あえて、声を高める。胸の痛みも、こみあげるものも無視して。


 とうとう、カダルが怒りのためか、顔を赤くした。同時、覡たちが前へ進み出る。メルトがようやっと立ちあがったとき、覡たちは口を開いた。しかし、その口から音が発せられることはなかった。


 風が鋭く鳴る。覡のうち一人が、奇怪なうめき声を上げて倒れた。動揺する四人の背後に小さな人影が現れる。人影は目で追えないほど俊敏に体を操り、四人を次々と昏倒させた。

 異変に気づいたカダルが振り返ったとき、覡たちはものを言える状態ではなくなっていた。さすがに驚いたのか、老人は口を半開きにして固まる。

 他方、四人の男をあっという間に倒した人物は、まっこうから老人を見すえる。動きに合わせて銀の飾りが揺れて、涼やかな音を立てた。


「去れ、イェルセリア人。『災い』をとりのぞくのは、おれたちの役目だ」


 クルク族の少年チャクは、せいいっぱい胸を張って、老人をにらんでいた。黒茶の瞳に、怒りとも闘志ともつかぬ、強い光がはしる。

「まして、『災い』の力を独り占めしようなど、だ! これ以上なにかする気なら、手加減しないぞ!」


 朗々とした声は、荒野一帯に響き渡ったのではないかと思われた。カダルはしばらく、言葉も出ないという様子であったが、自我が戻ってくると感情が消えたような目で少年をにらみすえる。

「野蛮人の小僧め。我々の崇高な務めを妨害するというのだな」

「何がだ。おまえ、大きな力が欲しいだけだろう。それをみんなに見せつけて、えらくなった気になりたいだけだ。おれにはわかるぞ」

 舌鋒ぜっぽう鋭く、チャクが切り返す。カダルが獣のようなうなり声を上げた。狩猟民族の子どもに言い返された屈辱に、押しつぶされているようだった。


 カダルの意識がそちらへ向いている隙に、メルトは体勢を立て直す。覡たちが気絶してしまったので、術はすでに解けていた。再び立ちあがり、痛みと不快感の名残に顔をしかめながらも、彼は口を小さく動かす。

 チャクの声が聞こえた。

「おれは今まで、この世でいちばん汚いやつは『災いの子』だと思っていた。でも今日、『災いの子』よりうんと汚いやつに出会った」

 メルトは思わずほほ笑んでいた。――チャクは、まわりがよく見える子だ。


 カダルがなにかを叫んだ。イェルセリア語のはずだが、メルトの耳には内容が入ってこなかった。そのときすでに、彼は怒った精霊たちをなだめ、彼らと交渉を始めていたのだ。


 そして、一瞬ののち。

「でかした、チャク!」

 彼はあえて叫ぶ。カダルが振り返るより前に、巫覡シャマンにしかわかない言語を叩きつけた。――お返しだ。


 カダルが苦悶の声を上げる。それを聞き流し、メルトは再び己を叱咤していた。一歩、二歩、杖に近づく。『夜』に近づく。


 あの日、王宮で見たのと変わらない闇がそこにある。精霊の光すら届かない夜闇に、こちらがのみこまれそうだった。

 自分の中の『夜の杖』がざわめく。

 そしてまた、『曙の杖』の石が光った。

 相反する力が暴れ狂う。激痛にうずくまりそうになりながら、メルトはとうとう、両手で杖を掲げた。チャクは、祭司の老人を見おろしたまま動かない。メルトは心の中で、彼に感謝した。


 メルトは、杖を持ったまま、しばし佇む。杖の先に、より強い光が満ちるまで、待たねばならないからだ。

 純白の子どもは、杖の扱い方を教えてはくれなかった。しかし、メルトが迷うことはなかった。まるで、はじめから扱い方を知っていたかのような感覚がある。


 杖の先端に灯る光は、刻々と強さを増す。そのうちに、太陽もかくやという明るさになった。暗い空をものともせぬ明かりを見上げ、メルトは時が来たことを悟る。

 痛みのおかげか、すでに手足の感覚がない。それでも彼は、杖の先端を闇と、対の杖へ向けた。

 横で人の動く気配がある。カダルがにごった目でこちらをにらみ、節くれだった指を幽鬼のようにのばしてきた。その姿を視界の端にとらえたメルトは、しかし『夜の杖』の方を向いたままだった。


 老人の指が、メルトの上衣の裾をつかもうとしたとき。三人分の女の声と、二人分の若い男の声がする。

 土を蹴りあげてチャクが飛びだし、祭司の衣の裾をつかんで引き倒す。そこへ駆け寄ったフェライたちが、老人を取り押さえにかかった。


 それらの光景をひとつも確かめぬまま、メルトは『曙の杖』を振る。耳を覆った咆哮ほうこうが自分の発したものだとは、最後まで気づかなかった。


『曙の杖』の先端に満ちていた光が、ようやく行き場を見つけたとばかりに、渦巻く闇の方へ一直線に伸びた。光は放射状に広がって、深い闇を切り裂く。その勢いは衰えず、ついに光は『夜の杖』をものみこんだ。

 硝子が砕けるような音が、荒原じゅうに響き渡る。光はあふれてあたりを照らし、虹色の幻影をそこかしこで生み出した。


 メルトは杖を持ったまま、両腕で顔を覆う。すぐ後に、全身を焼かれるような感覚をおぼえて、その場に倒れこんだ。


 瞼を突き破って光が入ってくる。

 目が痛い。息ができない。頭があつい。


 生まれてはじめて、たすけて、と叫びそうになった。そのとき、ヒルカニア語の歌が聞こえて、子どもの手が頬に触れた気がした。



 記憶はとぎれていない。ただ、視界はずっと暗かった。嵐のような苦しみが過ぎ去って、それでも鈍い苦痛は残る。その苦痛を抱えたまま、彼は目を開けた。


 空は青く、西の端が薄い橙色に染まっていた。綿わたをちぎったような雲が、ゆっくりと天海を泳いでいる。日光の熱さが鋭く肌を焼いてきて、砂混じりの風が吹きつけた。


 ここがどこだか、わからなかった。自分が存在するのかさえ、さだかではなかった。せめて、それだけでも確かめたい。メルトは声を上げた。上がった声は、弱々しかった。結局メルトは、自分の声ではなく他人の反応で「自分」を自覚することになった。

「メルト!」

「殿下!」

 馴染みのある呼び声が、すぐ近くで響く。少し顔を動かすと、少女の顔が見えた。月の輝きの名を持つ少女。白い肌は砂ぼこりにまみれ、目は赤くなっていて、いつも美しい金髪も今はぐしゃぐしゃだ。それでも彼女は、これでもかといわんばかりの笑顔を見せている。

「――ああ、フェライ」

「そう! 私! フェライです!」

「なんで丁寧語なんだ」

 メルトはかすれた笑声を上げる。すると、この場に集った人々が、一斉に喜びの声を上げた。端の方で、唇をとがらせるチャクがアブに頭をなでまわされている。


 メルトは彼らに、短く感謝の言葉をかける。本当は起きて挨拶したかったが、体に力が入らない。メルトの表情からそれを察したのか、一番近くにいたフェライとルステムが、体を支えて起こしてくれた。


 目に映る故郷は、灰色の荒野のままだ。しかし、空に渦巻く雲は去り、重苦しい空気もかすかなものとなっている。西へ向かってゆく太陽が、遠くに見えた。

「……なんとか、終わったか」

「うん。やったよ」

 メルトのささやきに、フェライが満面の笑みで答える。そのかたわらに、『曙の杖』が転がっていた。メルトはそれをながめながら、気になっていたことを問う。

「騎士と――カダルたちはどうなった?」

「たった今、撤退を始めたところですよ。聖女様の鶴の一声で」

 チャウラが、笑いをこらえるような表情で言う。メルトが目をみはると、「びっくりですよねえ」と、間延びした声で言った。それに同意したのは、メルトではなく、クルク族の三人である。

「ほんと、びっくりだ」

「どうやって追いかけてきたんだろうね。聖女様にもなると、瞬間移動できるのかな」

「いや、それはないと思う」

 彼らはペルグ語で好き勝手に言い、笑いあう。騎士たちも怒ることはせず、苦笑いを浮かべていた。

 しかし、騎士団が撤退するとなると、ルステムとチャウラもそこに加わった方がいいはずだ。そう言うと、彼らは「ひととおり余韻に浸ったら追いかけます」と、口を揃えた。


 考えなければならないことは、まだあった。『曙の杖』のこと、フェライのこと、メルトの今後のこと。ここにいる誰も、それは口に出さない。しかし、最初の問題は、思いのほか早く解決しそうだった。


「お疲れ様」


 なんの前触れも、気配さえもなく、平たんな声が響く。全員が顔をひきつらせて、右を見た。人々の輪から少し離れたところに、白い髪、白い肌、白い衣の子どもが立っている。彼はやはり、にこりともしなかったが、労いの後に「ありがとう」と続けた。二歩前に出ると、右手を高く掲げる。すると、フェライのかたわらに転がっていた『曙の杖』が浮き上がって、子どもの手に吸いついた。杖をにぎった子どもは、メルトとフェライの方に視線をやる。

「『夜の杖』は無事、破壊された。本体も、欠片も。役目を終えた『曙の杖』はこちらで処分する」

 彼の中に感情は見いだせない。そのはずだが、メルトには彼が安堵しているように見えていた。

 色のない瞳が、灰色の荒野を見渡す。

「後は、けがれのたまったこの地を浄化するだけだ」

「え、まだ終わりじゃないの?」

 フェライがひっくり返った声を上げる。疲れきっていたメルトはなにも言わなかったが、心境は同じだった。子どもは、無表情のままうなずく。


「この地はすっかり穢れてしまった。別の呪物で浄化しないと、生命は戻らない。ただ、現在その呪物の行方がわからなくなっている。僕たちの方で探している最中だ。大丈夫、君たちがやることはもうないよ」


 つまり、メルトの故郷は当分の間、不毛の荒野のままということだ。無情な現実を突きつけられ、むなしさが青年の胸を覆う。もともとよくな場所ではなかったが、それとこれとは話が別だ。


 居合わせた人々も、苦々しさを隠しきれないのか、顔を見合わせた。しかし、顔を見合わせたところで、妙案が思いつくわけでもない。浄化とやらは、子どもに任せるしかなさそうだった。


 メルトは空を見上げ、息を吸う。

 夕焼けの鮮やかな色が、視界いっぱいに広がった。空が、世界が、明るい。今は、この明るさを取り戻せただけでも、よしとしよう。そう思えた。


 だが、いつか、きっと――。



     ※



 それから間もなく、一同は古王国跡地から「撤退」した。来た道を戻り、ひと気がないことを確かめたのち、ルステムとチャウラの二人がメルトたちに別れを告げる。二人は急ぎ足で、騎士団の隊列に追いつくために去っていった。フェライは、二人と一緒には行かなかった。メルトは一応「いいのか」と尋ねたが、彼女の答えが変わることはなかった。


 ひとまず、二人はクルク族の荷車に乗せてもらうことになった。メルトが動けないからだ。白い子どもによると、体を休めれば歩けるようにはなるらしいので、今しばらくの辛抱である。


 二人の馬を迎えにいってから、クルク族は出発の準備を始めた。メルトとフェライは、荷車の隅で身を寄せ合う形になる。お互いの間に言葉はない。今は、それが心地よかった。

 荷車の下から、アブのやわらかい声がする。

「さて、お二人とも。とりあえずどこへ向かおうか」

 どこへ向かうか。答えは、すぐには出なかった。返答にきゅうしたことが荷車の下に伝わったのか、男女の押し殺した笑い声が聞こえる。

「まあ、これから考えればいいよ。どうせ、近くによそ者が隠れられる村や町はないからね」

「ありがとう。そうするわ」

 フェライが答える。メルトは無言だった。瞼が落ちかかっている彼の肩に、少女の細い腕が回される。


 張り切った少年が、出発の合図を出した。行く先のない二人を乗せた荷車は、がらがらと音を立てながらも、緩やかに出発する。神鳥の旗が、ゆっくりと落日の色に染まっていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る